第1038回 広河隆一氏の性暴力について ⑵

 年末に週間文春の記事が出て時に文章を書いたが、今日、彼に対するあらたな告発の記事が、文春に掲載された。

 今日発売の週間文春において、広河隆一氏の、前回の記事よりもさらに悪質な性暴力の記事。前回の記事を読んで、それまで自分の中だけに抱え込んで苦しんでいた女性が、この問題を自分の外に露わにすることで、自分に対する罪の意識から少しは解放されたと。もちろん、あれだけ酷いことがあり、その傷が完全に癒されることはないが、それでも、犠牲者は自分だけでなかった、自分が悪いわけでなかったのだと再認識することで、自分で自分を責め続けるという地獄からは、少しは抜け出すことができるのかもしれない。その告発の勇気は、誰にでも持てるものではないけれど、こういう勇気ある告発があったことで、1人で抱え込んでいた他の女性で、少しは救われた人がいるかもしれない。
 それにしても、広河氏の性暴力は、異様すぎる。これまで私たちが知っていた性暴力は、組織内の力関係を利用したものが多かったので、その範囲も限られていた。しかし、今日の文春の記事だと、広河氏は、ジャーナリスト志望の女性や、人権をテーマにしたイベントや講演会に集まってくる人を罠にかけていたわけで、そういう人たちを自分の懐に巻き込んで操る方法論を作り上げていた。その犠牲者は、学生とか、まだ社会人生活の浅い、純粋で無垢な若い女性たちだった。
 人権派ジャーナリストとしてどうかとか、もはやそういうレベルで議論する問題ではなくなっていて、モンスターになってしまっている。
 純粋な気持ちでイベントなどに参加したりボランティアを行って、こうした被害を受けて苦しみを負わされているという状況を知ると、彼個人の悪質さが際立ちすぎて、理解がついていかず、胸が苦しくなる。
 行為だけでなく、「きみはもうセックス相手をしては替え時だ」とか、「(セックス相手として)他の男たちに貸す」といった、女性の尊厳を徹底的に傷つける言葉による暴力もすごかった。
 15年くらい前の彼のことはよく知っていたが、親しい間柄にはなれないと思うところはあったものの、ここまでとはわからなかった。
 彼の人間性の問題だと片付けることは簡単だし、もちろん、それが大きいのだが、人は最初からモンスターだったわけではなく、人をモンスターにしてしまう何かがあるのではないか。
 「自分と付き合うと、報道の世界で都合がいいよ」という台詞は、彼の誇大妄想か、ペテンか、それとも実際にそういうことが成り立っていたのか。(ジャーナリズムに関する賞の審査員などをつとめて、人の進路に影響を与えることができる)
 また、事務所にベッドが設置されていて、それをそういう目的のために使っていることを薄々察知しているにもかかわらず、周りの人が何もできなかったという金縛り状態、だからますます悪質さが増長してしまうという悪循環。
 なぜそういうことが起こってしまうのか。戦争などにしても、後から振り返ると、なんであんなバカなことを、というのがたくさんあるが、その時、その渦中にいた人たちは、思考停止、感覚麻痺に陥っている。企業の不祥事も、本来は真面目な人たちなのに、なぜあんなことを、ということがある。あたかも催眠術にかけられていたように。
 DAYS JAPANは、次の最終号で、この広河問題を特集するのだという。その気持ちはわからないでもないが、それでも、あまりにも極端ではないかという気持ちがしないでもない。私は、 DAYSの創刊の時に少し関わったが、雑誌の編み方が極端すぎるのではないかと懸念を覚え、さらにその後、広河氏と仕事はできないと感じることがあって彼から離れていたが、 DAYSの最後が、そういう壮絶な自己否定の形になるというのは、創刊の時に感じた”極端さ”とも、重なり合う。白か黒か、正義か悪か、敵か味方か、なぜ、そんなに極端になってしまうのか。DAYSの文化には、中庸とか、間合いとか、余白とか、余韻が、まったくなかった。
 人権の旗を掲げながら人権を蹂躙することは、革命の前後などを通して、人類史でいくつものケースを我々は見てきた。
 極端な主張、極端な行動の背後にあるのは、実は、その人の空虚ではないかと、ずっと思ってきた。
 広河氏の正義の旗を掲げた行動は、真に誰かのことを思ってのことではなく、空虚に蝕まれていた結果として、自分にとっての攻撃の対象が必要で、それが、国家とか体制といわれるものだったのではないか。
 今回の文春の記事の中にあるアルバイト女性に対する破廉恥行為などは、セックスの強要とは別の次元の、空虚に蝕まれた人間の変態行為としか思えない。
 あの広河氏と同一人物なのかと夢を見ているように思う人もいるだろうが、これが同一であることの根っこを、私たちは、深く洞察する必要があるかもしれない。