第1045回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(3)

 

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京都の南、宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台で、平安時代、貴族の別荘が営まれていた。宇治平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる源融の別荘だったものが宇多天皇に渡り、その後、紫式部が仕えた藤原道長の別荘「宇治殿」となった後、道長の子の藤原頼通が、宇治殿を寺院に改めた。開山は小野道風の孫、明尊である。

 第一回目の記事で、橘嘉智子や隼人と梅宮大社のことに触れながら、”もののあはれ源流”についての私の洞察を書いたけれど、その続きとして、『源氏物語』の著者である紫式部にくわえ、”小野氏”との関係についても考えたみたい。

 紫式部は、大津の石山寺において、『源氏物語』の執筆を、「須磨」と「明石」の帖から書き始めたと、長い間、伝えられてきた。近年になって、そうではなかったのではないかと異論を唱える研究者も出てきたようだが、その真偽の証拠探しはともかく、長いあいだ、そう伝えられきたことに意味があると思う。

 石山寺は、琵琶湖から大阪湾へと流れる、瀬田川宇治川、淀川(場所によって名が異なる)の出入り口に位置し、巨大な磐座の上に寺院が建造されており、仏教伝来以前からの聖地だった。そして、このあたりは、かつて海人(隼人)の居住地だった。

 そして、源氏物語の中でも描かれている須磨や明石も、海人の活躍する場所だった。

 源氏物語の主人公、光源氏は、住吉の神に救われるが、住吉三神は、現在も、航海安全の神として信仰を集めている。

 源氏物語と、海人の関係を、無視することはできない。

  話は少し脇にそれるが、紫式部の墓が、京都の西陣堀川通沿いに小野篁の墓と並んでいる。

 この2人は、生きた時代が150年ほどずれているのに、なぜ墓が並んでいるのか、明確な理由はわかっていない。男女の秘め事を書いた紫式部が死んで地獄に落ちないように、閻魔大王に仕えていた伝説のある小野篁に守ってもらうためという俗説があるが、彼女が生きたのは恋愛にオープンな時代であり、そんな陳腐な理由でないことは明らかだ。

 小野氏というのは、ルーツが和邇氏であり、海人の末裔だ。そして、古墳時代から、生と死のあいだの祭祀を司ってきた。

 古代、大王が亡くなった時、土師氏(菅原道眞の氏族)が古墳を作り、多治比氏(菅原道眞の祟りを言い出し北野天満宮に祀られている多治比文子の氏族)が石棺を作り、祭礼を取り仕切ったのが小野氏だとされる。さらに平安時代の文献から、小野氏は、その領地内に猿女氏を取り込んでおり、小野氏から猿女を出していたという記録もある。

 猿女というのは、 アメノウズメを始祖とし、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。古事記の作者、稗田阿礼もその一族だ。

 さらに、天皇に関する歌や、挽歌で知られる飛鳥時代歌人柿本人麻呂も、和邇氏の末裔で小野氏と同族である。

 古事記』を読めばすぐにわかるが、天皇以外で登場するのは、圧倒的に和邇氏が多い。天皇と恋愛する女性の情感溢れる物語は、ほとんどが和邇氏の娘である。しかも、河川の近くが舞台になっていることが多い。

 和邇氏の娘が天皇に嫁ぐということは、和邇氏が、次に生まれる天皇の実家ということになる。天皇の系譜として表には出ていなくても、天皇のなかには、和邇氏の血が流れ込んでいる。

 話を『源氏物語』に戻すと、源氏物語の主人公は、もちろん光源氏であるが、54帖もある長編の源氏物語の読破した人は、日本人でも少なく、光源氏が、第41帖の『雲隠』で、物語から姿を消してしまうということを知らない人は多い。

 光源氏が姿を消してからの主人公こそ、明石一族であり、光源氏の栄華は、明石一族の栄華を描くための布石となっている。

 住吉神を崇敬する明石入道は、神の導きによって光源氏と出会い、娘を光源氏に嫁がせる。そして、光源氏とのあいだにできた明石の姫が皇后となり、大勢の子供達を産む。その後の天皇に明石一族の血がつながっていくことになるが、この展開は、和邇氏(小野氏)の史実と重なってくる。

 さらにいくつか、紫式部と小野氏がつながる事実がある。

 京都は風水で守られた都だが、その四つの門、鬼門(東北)、風門(東南)、人門(西南)、天門(北西)において、鬼門、天門、風門のところが、小野氏の拠点の小野郷となっている。

 北東は比叡山の麓の八瀬の小野郷。ここは天皇が亡くなった時に棺を運んでいた八瀬童子で有名だが、八瀬の崇道神社に小野妹子の息子の小野蝦夷の墓がある。南東が、醍醐寺のそば、随心院のある小野郷で、小野町子や小野篁が生まれ育った場所。そして、西北が、京北と神護寺のあいだの小野郷で、源氏物語の中で、光源氏の息子である夕霧にしつこく婚姻を迫られる落葉の姫が隠棲するところだ。

 そして残りの一つ、西南の人門は、紫式部氏神である大原野神社がある。ここは、小野郷ではなく、春日という地。春日というのは、奈良の若草山のあたりの地名で、和邇氏の拠点がこのあたりだった。また春日氏というのは、小野氏や柿本氏と同じ和邇氏の末裔である。

 このように見ていくと、京都の四隅の門を、和邇氏の血が守っているということになり、その一角が、紫式部が大切にしていた大原野なのだ。

 さらに、紫式部と小野氏の関係を示すもう一つの事実。それは、紫式部のルーツが、京都の風門(東南)の”小野郷”にあること。

 紫式部の父親である藤原為時の母親は、藤原定方の娘である。藤原定方の墓は、京都東南の小野郷、山科川の近くにある。

 藤原定方は、この地の豪族、宮道弥益(みやじいやます)の娘、宮道列子藤原高藤のあいだに生まれた。つまり、紫式部のルーツは、山科の”小野郷”の豪族、宮道氏である。

 現在、宮道氏の館跡に宮道神社があるが、小野町子が住んでいたとされる随心院と、山科川をはさんで存在している。宮道氏が、小野氏と、どういう関係だったかはわからない。宮道氏はヤマトタケルの末裔と称しているが、ヤマトタケルゆかりの地は製鉄と関係が深い。もしかしたら、小野氏のもとで活躍していた製鉄関係者だったかもしれない。

 宮道氏の館の敷地の大半は、現在、勧修寺になっている。観修寺の創建者は第60代醍醐天皇であり、醍醐天皇の墓は、山科川対岸の小野郷にある。醍醐天皇の墓の東に、小野寺という小野氏氏寺の遺蹟が見つかっており、醍醐天皇と小野氏の関係が気になる。

 さらに、なぜ醍醐天皇が宮道氏の館を観修寺にしたかというと、醍醐天皇もまた、宮道氏の血縁者だからだ。紫式部のルーツにあたる藤原定方を産んだ宮道列子は、藤原高藤とのあいだに藤原 胤子(たねこ)という娘も産んだ。この 胤子が、その当時、臣籍降下して源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて産まれたのが醍醐天皇だった。醍醐天皇は、源氏の身分で産まれて天皇になった唯一の天皇である。

 つまり、紫式部と第60代醍醐天皇は、宮道列子宮道弥益という共通の祖先を持つ。

 宮道氏の館のすぐそばの山科川は、宇治川と合流しているので、琵琶湖、大阪湾への海上交通の要所でもあった。

 紫式部は、光源氏の父親、桐壺帝を、理想的帝王として描写しているが、それは、聖代とされる醍醐天皇の時代がモデルとされる。

 紫式部は、子供の頃から行動をともにしていた父親の祖父の甥が醍醐天皇であることは、当然、知っていただろう。しかも、醍醐天皇が、源氏の身分で産まれながら天皇になり、天皇親政を実現し、後の時代に理想とされる治世を築いたことを。

 理想の天皇の子として産まれながら源氏の身分に臣籍降下した光源氏を華やかに描き、光源氏と、明石入道という海人と関わりがありそうな氏族の娘とのあいだに明石の姫が生まれ、その血を受け継ぐ天皇の時代の到来を示して、『源氏物語』は終わる。

 その展開は、日本という国の権威構造の作られ方が、暗示されているように思える。

実力者の権力で国を統一し、管理するのではなく、権力者が入れ替わろうとも、永久に人々に崇め続けられる権威的な仕組み。その仕組みは、一つの氏族によって伝えられるのではなく、異なる氏族が複雑に組み合わさって形成される。

 醍醐天皇の時代が理想とされたのは、その前後に時代は、藤原氏によって政治が牛耳られ、それに不満を持つ貴族が多かったからだ。たしかに、醍醐天皇の時代は、菅原道眞のように実力で出世する人物もいたが、9世紀後半から10世紀というのは、遣唐使の廃止や律令制の行き詰まりなど、大きな変化があり、大きな改革が必要があった時代でもあった。

 この変化は、当然ながら、醍醐天皇の時代に急激に起こったわけではない。

 醍醐天皇の祖父にあたる第58代光孝天皇は、第54代仁明天皇の第三子であったために、天皇になることを想定せずに、官職をつとめながら学問と和歌・和琴諸芸に励んでいたが、884年、55歳になって、急遽、天皇に即位させられた。

 そういう展開のなかで、自分の子孫に皇位を伝えない意向を表明し、息子の宇多天皇を含む全員を、源氏の身分に臣籍降下させたのだ。

 しかし、即位して3年で病に臥せり、次代の天皇が候補者が確定していなかったために、宇多天皇が、急遽、源氏の身分から親王に復し、立太子し、その日に光孝天皇崩御して宇多天皇が第59代天皇として即位(在位887〜897)するという、慌ただしい3年間があった。

 この3年に何があったのか?

 実は、光孝天皇が幼少の頃から寵愛を受けていたのが、(1)の記事で書いた橘嘉智子だった。橘氏というのは、県犬養氏のことで、もともとは、木津川や吉野川を拠点にしていた海人(隼人)だと思われる。

 そして、光孝天皇の息子、宇多天皇とのあいだに醍醐天皇を産み、皇太后となる藤原胤子は、宮道氏という山科川沿いの豪族の血をひく。

 さらに、宇多天皇を猶子(ゆうし)=養子のようなもの、として、天皇即位の強力な後ろ盾となったのが藤原淑子で、彼女の母は、難波氏だった。難波氏は、現在は大阪の地名であるが、もともとは、鉄の産地、備前に拠点をもっていた氏族(おそらく渡来系)だった。

 さらに宇多天皇の母親の班子女王(はんしじょおう)の母方は当宗氏であり、渡来系の東漢坂上の一族である。

 そして、宇多天皇は、即位してすぐ阿衡事件(あこうじけん)で、自分の参謀であった橘氏県犬養氏)の橘広相が、藤原基経によって失脚させられ、それを嘆き悲しみ、この事件の最中、光孝天皇の遺志を継ぐ形で、888年、仁和寺を創建した。

 仁和寺は、蚕ノ社と双ヶ岡という秦氏と関係のある聖域の真北に位置し、さらに北に位置する鴨川源流の雲ヶ畑(ここも秦氏の姓が多い)と一本のラインでつながっている。

 第58代光孝天皇から第60代醍醐天皇に至る時代、850年頃から950年頃の変化と改革の時代に背後に、難波氏、宮道氏、橘氏秦氏、当宗氏、小野氏といった海人や渡来系の人々の影響が見え隠れする。

 紫式部のルーツにあたる山科の小野郷、宮道氏の館があった場所の目の前に吉利倶八幡宮がある。

 伏見城の鬼門にあたることから豊臣秀吉に大切にされたらしいが、創建は、853年とされる。

 853年は、ちょうど、この地に生まれ育った小野篁が死んだ時だ。宮道弥益の生まれ年はわからないが、882年に従五位上となった記録があるので、彼もまた、ほぼ同じ時期を生きていた。

 先日、吉利倶八幡宮を訪れたが、八幡山(亀甲山)の中腹にあり、境内に、金山彦神という製鉄の神が、過去に祀られていた形跡があることに気づいた。

 この紫式部のルーツとなる宮道氏の拠点は、紫式部源氏物語を書き始めたとされる大津の石山寺と、紫式部氏神である大原野神社と、東西につながる一本のライン上にある。さらに、宮道氏の館の真南が、源氏物語「宇治10帖」の舞台で、真北が、平安京の鬼門(東北)の小野郷の八瀬。

 平安京大極殿、その鬼門の八瀬と、人門の大原野神社のラインと、石山寺と宇治は平行だから、宇治にとって石山寺は鬼門の位置である。

 そして、平安京大極殿の鬼門のラインをさらにのばすと、琵琶湖の西岸にある和邇の地であり、そこに小野篁など小野氏を祀る小野神社がある。

 宇治と、石山寺のラインの延長上(鬼門のライン)にあるのは、琵琶湖の東岸の近江富士と言われる三上山であり、この山に降臨した天御影神の末裔の息長水依存比売(おきながみずよりひめ)が、和邇氏(小野氏)の血を受け継ぐ彦座王(ひこいますおう)と結ばれ、その末裔が、第12代景行天皇ヤマトタケルである。

 琵琶湖の東と西の和邇氏ゆかりの地が、平安京大極殿と、石山寺や宇治の鬼門になっているのだ。

 ラインの謎はさらにあり、紫式部のルーツ、京都西南の小野郷と、かつて巨椋池のあった石清水八幡(宇治川、木津川、桂川の合流点)も、鬼門のライン上にあり、そのライン上に、豊臣秀吉伏見城を築いた。だから、紫式部のルーツの小野郷にある八幡神社を、秀吉は大事にした。そして、石清水八幡の真北が、(1)で言及した梅宮大社で、石清水の対岸にある離宮八幡(橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇離宮跡)の真北が、嵯峨野の天龍寺橘嘉智子が築いた檀林寺)となる。

 もともとの石清水八幡とされる離宮八幡と宇治平等院という、隼人(海人)や小野氏と関係があるところも、東西のライン上にある。

 偶然とはとても思えない歴史上の刻印は、あまりにもミステリアスだ。

 

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第1044回 日本の古層 〜相反するものを調和させる歴史文化〜(2)

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古代からの聖地、ヤマトの三輪山の麓にある巨大な前方後円墳箸墓古墳古墳時代初期、3世紀末から4世紀初頭)

 第125代天皇の譲位の日が近づいている。

 地上の権力者が誰になろうが関係なく、古代から連綿と続いてきた天皇制という日本特有の権威システムの不可思議さ。 

 飛鳥時代歌人柿本人麻呂は、軽皇子(後の第42代文武天皇)と阿騎の野に出かけた時に詠んだ歌に、天皇に関する言葉がある。 

 

やすみしし わご大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと・・・

 

 「やすみしし」というのは、「四方八方を知る」ということで、「わが大君は、くまねく国土全般を明るく照らす太陽であり、実に神々しい」という意味であろうか。

  前回の記事でも書いたが、日本の天皇制は、中国の支配者のように世俗の実権と権威の両方を握って国を支配するのではなく、地上を照らす太陽のように、世俗の権力者が入れ替わっても変わることのない神聖な権威によって国を修めるという特有の在り方で、人類史上稀に見る長期間にわたって続いてきた。

 天皇は武力で威圧して國家を管理しているのではなく、太陽の神の御子としての神聖なる権威によって国を治めていて、その権威の根幹は、四方八方に通じて天神地祇を祭られる<天皇の祭祀>なのであり、これは今も変わらない。

 そして、これは大事なことだが、連綿と続いてきた天皇の権威というのは、天皇家万世一系であるとか、純粋の日本人だからということではない。

 天皇家の血筋は、第26代継体天皇(在位507〜531)の時に変わっている可能性が大きいし、第50代桓武天皇の母親の高野新笠は、土師氏と百済系渡来人氏族のあいだの娘である。また、第59代宇多天皇(在位887〜897)の母である班子女王(はんしじょおう)の母は当宗氏であり、渡来系の東漢坂上の一族である。

 そもそも、聖徳太子の時代の飛鳥地方は、道ゆく人は渡来人の方が多かったくらいなので、純血の日本人という概念は意味がないのだ。

 相対するものを調和させてきたのが日本的システムであり、天皇制という権威システムは、その中心にある。この調和のシステムを作り上げたのは、純日本人ではなく、相対するもの同士の知恵の寄せ集めだろう。 

 この日本的システムがどのように整えられていったのかを深く理解せずに、今そしてこれからの自分たちの在り方を考えることはできない。いつまでたっても、欧米からの新しい情報知識の後追いすることが次の時代につながるという感覚でいると、思想的にも、感受性としても、日本の精神的風土が貧相になるばかりであり、価値観の拠り所を失い、アメリカや中国の動向に神経質になりながら、その駆け引きに巻き込まれ、煽動され、国を滅ぼす選択を強いられる可能性もある。

 戦前の皇国史観の過ちのトラウマが依然として残り、さらに、神の国という単純化された国家神道の亡霊を、この時代においても呼び起こそうとする空疎な人々が相変わらず存在しており、さらに流行のグローバリズムの影響で、日本の歴史に向き合うことが、古ぼけて偏狭な価値観の持ち主であるかのような誤解がある。

 果たして、そうだろうか? 物事の本質と向き合わず、他人の知識や情報や考えを右から左に流すばかりで、言動が散漫で一貫性がなくなっていくのは、世界のことや歴史の本質に向き合って自分の頭で考えていないからではないか。

 歴史の謎と向き合うというのは、邪馬台国がどこにあったかを議論することだけではなく、日本という精神的風土の成り立ちや、その風土で育まれてきたものの本質を探ることであり、それは、自分の思考や価値観、世界観や人生観に責任を持てるようにするためだ。

 天皇の譲位という歴史の節目において、そのことを改めて認識するとともに、考えれば考えるほど、知れば知るほど、謎と驚きに満ちた日本の古代を探っていきたい。

 最先端のテクノロジーによる太陽系探査の新情報にも胸が踊るし、若い頃から続けてきた世界の秘境地域、極北やサハラ砂漠熱帯雨林や野生動物の楽園への旅も魅惑的だが、地球儀で見ればあまりにも小さな島国なのに、未だ十分に知ることさえできていないこの国の歴史文化の地層こそが、今、もっとも心を惹きつける。

 近年になって、あまり大きなニュースにならないのが不思議なくらいだが、巨大な古代製鉄跡の発見とか、歴史が書き換えられるような大発見が次々と起こっている。

 日本の古代は、これまで教科書でならってきたものより、はるかにダイナミックで、システムとしても精巧で、麗しいものだったような気がしてならない。

 考古学も、文献学も、様々な角度から探求を続けているが、時代が進むにつれて真理に近づいているのではなく、実証主義にとらわれすぎるあまり想像力が萎んでしまい、次々と出てくる新たな実証の後追い分析を繰り返しているうちに、思考の迷路に陥り、縦割り行政のように狭い領域に閉じ込められ、総合的な推論ができない状態になってきているようにも思われる。

 一方、依然として不確かなことの方が多すぎるにもかかわらず、伝統にあぐらをかいただけの相続者、歴史趣味人、文化通が、教養人の代表として、各種の文化イベントに繰り返し登場する。クイズ番組のように、それらしい解答で、”すっきり”としたい大勢を満足させるために。

 長い年月を経て積み上げられてきた歴史文化は、現代的価値観で”すっきり”と整理できるものではない。

 しかし、ミステリアスなものほど、人は惹かれる。

 日本の文化史上、もっとも長く、多くの人々に愛され、影響を与えてきたものの代表が、『源氏物語』であり、それは、この小説が、華やかな宮廷生活を描くだけでなく、随所に怨霊が登場するなど、人為を超えた力が多く描かれ、人間存在の不確かさ、その宿命の受け止め方が人によって様々で、自分に引き寄せて色々と考えさせられる余地があるからだろう。

 日本の文化史上、もっとも重要な作品であるにもかかわらず、触れようともしない人が大勢いるのは、一千年も前の話だから自分と関係ないと思う人が多いからだ。それゆえ、その魅力もわからない。読んだわけでもないのに、女たらしのプレイボーイの話だと信じ込んでいる。

 伝える側にも責任があるのだが、いずれにしろ残念なことだ。

 『源氏物語』に限らず、多くの日本文化が、現代の価値観で都合よく整理されて、その本質から遠ざけられ、単なる美術館の展示物になって、間に合わせの解説文を添えられているが、それを消費することが現代の文化教養となってしまっている。

 経済の問題も大事かもしれないが、本当の意味で、文化の問題が、かなり危機的な状況かも知れない。

 文化の不毛は、じわじわと、人の心を蝕んでいくから。

 

第1043回 日本の古層〜相対するものを調和させる歴史文化〜(1)

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梅宮大社

 天気の良い暖かな日が続くので、桂川の東岸にある梅宮大社に梅を見に行く。この神社は、同じ松尾エリアの松尾大社ほど有名ではないが、立派な名神大社だ。

 かつては桂川のすぐ近くまで広大な神域を誇り、川をはさんで西の松尾大社と並び立っていたのではないだろうか。

 この神社の創建は、橘嘉智子。私のなかで、”もののあはれ源流”の要に位置する重要な人物だ。

 彼女は、桓武天皇の次男である第52代嵯峨天皇の皇后で、日本最古とされる禅寺の檀林寺を創建した。その場所は、現在、嵯峨嵐山天龍寺があるところで、周辺の竹林は、外国人観光客に大人気の写真スポットになっている。(嵯峨野には、現在、檀林寺という同じ名がついたところがあるが、あれは、まったく別もの)。

 京都の松尾と嵐山の桂川のほとりに二つの社寺を創建した橘嘉智子は、絶世の美女だったが、諸行無常の真理を自らの身をもって示すため、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示し、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。

 彼女は、平安前期、真の意味で、禅の精神を唯一理解する日本人だったと言われ、禅を学び、日本に広めるため、中国から義空禅師を招いた。

 中世において上流階級に重んじられて発達した禅は、”わび”や”さび”という趣とつながり、茶道や俳諧などの日本特有の文化を育んでいったが、もともとは、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れることを目指す修行だった。

 橘嘉智子が、なぜ、桂川にそって松尾と嵐山に二つの社寺を築いたのか。

 もともと梅宮大社は、藤原不比等の妻、県犬養三千代が、現在の京田辺の井出町、木津川のそばに創建したものだった。そのすぐ西には甘南備山があり、その山頂が、月読神の降臨した場所とされ、甘南備山の南の大住(鹿児島の大隅半島おおすみ)にある月読神社が、隼人舞発祥の地である。すなわち、このあたりは、隼人の居住地域だった。

 県犬養氏は、壬申の乱において、天武天皇が吉野で挙兵した時から付き従い、その活躍によって橘という氏姓を賜った。すなわち、橘嘉智子は、県犬養氏の末裔だ。そして隼人は、悪霊を鎮める呪声の犬吠を発するなど、”犬”との関係が深く、さらに犬養三千代が梅宮大社を築いた京田辺は隼人の居住地であったので、県犬養氏は、隼人そのものか、隼人と関係が深い氏族ではないかと思われる。

 それゆえ、橘嘉智子が、桂川沿いに二つの社寺を作った理由も、隼人と関係あるのではないだろうか。なぜなら、隼人の畿内の居住地は、京田辺、亀岡、宇治田原町、奈良の五條、大津の石山寺など、木津川、吉野川宇治川桂川に沿ったところにあり、川によって奈良、京都、大阪、吉野を結び、瀬戸内海と琵琶湖(日本海に至る)や近畿の内陸部を自由に行き来できる海上交通の要所だったからだ。

 そして、檀林寺や梅宮大社下流桂川が木津川と宇治川に合流するところに、かつては巨椋池という大きな湖があった。現在、その地には石清水八幡宮が鎮座するが、もともとは、その対岸の大山崎にある離宮八幡宮石清水八幡宮の元社だった。さらに離宮八幡宮は、橘嘉智子の伴侶である嵯峨天皇離宮跡だった。

 離宮八幡の地は、それ以前は、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)があり、この神社は、現在、すぐそばの天王山の頂上近くに鎮座する。
 祭神は酒解神スサノオで、酒解神が、橘氏の先祖神であると言われている。
 「源氏物語」の登場人物や、源頼朝につながる源氏氏族は、嵯峨天皇が、奈良時代から続く血なまぐさい後継者争いで肉親が殺しあわないように、自分の皇子・皇女を臣籍降下させて源氏を名乗らせたことに始まる

 源氏と八幡は関係が深い。源氏が東国において勢力を拡大させたのは八幡太郎の通称で知られる源義家の活躍によるものだが、彼は、石清水八幡宮元服し、それ以来、八幡は源氏の氏神とされ、源頼朝が、鎌倉に鶴岡八幡宮を創建するなど、武士の時代となってからは、八幡神社は全国に広がり、神社の数では一番多いものとなった。

 八幡神が全国的なものになる起点は、859年、清和天皇が、神託により国家安泰のため、そして平安京の守護神とするため、九州の宇佐神宮から八幡神を分霊し大山崎嵯峨天皇離宮の跡地に勧請したことに始まる。

 八幡神社は、祭神として応神天皇神功皇后が祀られているが、この2人の神話は、戦いを通じて日本国家を統一していった立役者として描かれている。なので、勝利の神として、武士や商売人に支持されたことは理解できる。

 しかし、一つ、わからないことがある。

 離宮八幡宮のある大山崎は、今でもサントリー山崎の工場があるように、酒作りと関係が深く、離宮八幡宮には酒解神が祀られている。しかし、後からその対岸に作られた石清水八幡には、酒解神は祀られていない。

 そして、大山崎から桂川を遡っていくと京都の松尾で、その東岸の梅宮大社には酒解神が祀られているが、西岸の松尾大社には祀られていない。にもかかわらず、松尾大社は、全国の酒造家の聖地なのだ。松尾大社では、祭神のオオヤマクイが酒の神ということになっているが、同じ神を祀る比叡山の麓の日吉大社が、酒と関係あるわけではない。

 これはいったいどういうことだろうか?

 酒解神というのは、オオヤマツミという国津神のことで、天孫降臨のニニギに嫁いだコノハナサクヤヒメの父だ。

 そして、コノハナサクヤヒメは、隼人の祖先とされる海幸彦を産んだ。

 なぜ松尾大社が酒の聖地になったのかは謎だが、気になるのは、松尾大社の奥に、月読神社があることだ。

 上に述べたように、梅宮大社がもともとあった京田辺の井出は、隼人の居住地で、月読神が降臨した甘南備山がすぐそばにある。

 甘南備山の真北が、平安京の真中の朱雀通りで、平安京を建設する時、この山が一つの軸になったとされる。

 そして、隼人のルーツ、鹿児島の桜島にある月読神社は、和銅年間(708〜715年)に創設されたと伝わる由緒ある神社だが、ここに、コノハナサクヤヒメ解子神(サケトケノコカミ)」が祀られている。どうやら、月読神と、酒の神と、隼人が結びついているのだ。

 そして、京都の松尾大社の創建は701年だが、その奥の月読神社は、日本書紀によれば487年で、こちらの方が古い。

 なので、松尾から嵐山にかけての一帯は、もともと月読神と関わりが深く、隼人にとっても大切な場所だった可能性がある。(嵐山から保津川渓谷を抜けた亀岡で、桂川の支流の犬飼川のほとりの佐伯郷が隼人の居住地だった記録は残っているし、亀岡には、名神大社の小川月神社など月読神を祀る神社が多い)。

 橘嘉智子橘氏は、奈良時代は、犬養三千代の子供である橘諸兄などの活躍で天皇の側近として実権を握っていたが、その後、藤原氏との政争に敗れて、存在感を失っていった。

 さらに橘嘉智子の時代は、血みどろの権力争いが続き、そのため、嘉智子の伴侶の嵯峨天皇が、自分の子供達が権力争いに利用されないように臣籍降下させる措置を行うほどだった。

 橘嘉智子は、そういう時代を生き、さらに橘氏の栄枯盛衰を身にしみて感じ、そのうえ、九州に残っている隼人が、奈良や京都の政権が中央集権化を急激に進めることに反発し、その鎮圧のための戦いが繰りかえされる状況でもあった。 

 橘氏は犬養氏であり、犬養氏が隼人だったとすると、橘嘉智子が、諸行無常を悟り、禅に傾倒し、桂川沿いの松尾に梅宮大社、嵐山に檀林寺を築いたのは、十分に理解できる。

 ここで考えなければならないのは、権力を獲得する側と、権力を譲る側の関係だ。

 国津神酒解神であるオオヤマツミは、自分の娘のコノハナサクヤヒメを天孫降臨のニニギに嫁がせた。この2人の子供が、山幸彦と海幸彦で、山幸彦は、神武天皇から続く天皇家につながる祖先であり、海幸彦は隼人の祖先で、隼人は、朝廷の守り人となる。

 日本の歴史は、勝者が全てを奪い取って、敗者を全滅させる歴史ではない。

 この二つは重なり合っており、それが日本特有の権威システムを作り上げた。中国は、権威ではなく権力で国を修めたので、権力者が変われば全てが入れ替わる。しかし、日本特有の権威システム(天皇制)は、権力の実権が誰にあるかに関係なく、システムとして連綿と連なる。

 そのシステムは、敗者とされる側が、陰の力としてシステムに組み込まれていることに特徴があり、だから、日本の歴史や文化は、征服と被征服、勝者と敗者の二元論で捉えようとすると、理解できないことが多くなる。

 相対する二つのものの調和こそが、日本の歴史と文化を解く鍵なのだ。

 隼人というのは、蝦夷とともに、朝廷に対して、たびたび反乱をした人たちと教科書では教えられているが、隼人の歴史的な位置づけは、それほど単純ではない。

 隼人舞は日本の伝統芸能のルーツの一つであり、隼人舞は、やがて猿楽となり、さらに能楽へと発展したとも言われる。

 たとえ政治的に表舞台から姿を消したとしても、隼人舞や、橘嘉智子が身をもって実践した諸行無常の精神が、”もののあはれ”という日本文化の底流となっている。

 日本は海に囲まれた島国であり、その狭い国土は、毛細血管のように河川ネットワークが張り巡らされている。隼人のように海や川を自由に行き来できた人々だからこそ、日本の風土を知り尽くし、それに見合った人生観や世界観を生み出し、そこから固有の文化が育っていった。

 歴史的には敗者かもしれないが、もしかしたら、その敗者の美学が、この国の文化の主流になっているのかもしれない。

 ”もののあはれ”とは、勝者の驕りから生まれる美意識ではないのだから。

  ちなみに、鹿児島の桜島にある月読神社は、コノハナサクヤヒメを祀っていると上に記したが、この神社を起点に、夏至の時に太陽が昇る場所の線を引いていくと、日向の吾平山上陵=ウガヤフキアエズ神武天皇の父)の陵と、伊勢の月夜見宮、さらには、富士山と結ばれる。

 コノハナサクヤヒメは、富士山を御神体としている富士山本宮浅間大社と、配下の日本国内約1,300社の浅間神社に祀られており、富士山とコノハナサクヤヒメの関係を説明するものは多々あるが、どれも、説得力が弱い。

 ウガツフキアエズは、山幸彦と、海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫の子であり、育ての母が、豊玉姫の妹の玉依姫だから、あきらかに、海人との関係が考えられる。そして、富士山と桜島のあいだの伊勢には、月夜見宮と月讀神社があり、月読神が祀られている。

 桜島から富士山を結ぶ夏至の時の日の出のラインは、松尾大社下鴨神社比叡山、九州の阿蘇神社や、長野の諏訪大社を結ぶラインと平行である。

 この二つのラインは、相対する二つのものの調和が関係しているように思われてならないのだが、その真相は、私にはまだわからない。

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上のラインは左から阿蘇神社、松尾大社(月読神社)、下鴨神社比叡山諏訪大社。下のラインは、左から桜島の月読神社(コノハナサクヤヒメも祭神)、伊勢の月夜見神社、富士山(富士山本宮浅間大社の祭神が、コノハナサクヤヒメ)。

 

第1042回 能面に伝わる人類のタマシイ

 ニューヨークに活動の起点を置く写真家、井津建郎さんが京都に来て、数日間、一緒に過ごすことになった。

 井津さんは、7、8年ほどかけて一つのテーマをじっくりと追っているが、現在のテーマは、日本の能面。彼が撮った能面の凄みのある写真を見せてもらい、一緒に酒を飲みながら、京都でどなたか協力してもらえそうな人はいないかということになり、それならばきっと、河村能舞台の河村晴久さんが適任だと思い、この先の井津さんの仕事のために縁だけつなごうと連絡をすると、奇跡的に、1日だけすっぽりとスケジュールが空いていると返事があった。
 ならば急なことだし、夕飯時にかかるので、15分くらいでいいので、井津さんの紹介と、井津さんの能面の写真を見てもらいたいと、河村能舞台まででかけた。
 すると、想像していたとおり、河村さんは、井津さんの写真にえらく感心し、15分の挨拶どころか、河村さんがお持ちの能面を奥から出してこられ、ずらりと並べて、一つひとつ、話を聞かせてもらった。ふだん、生で間近に見ることのできない桃山時代室町時代の至宝などを堪能させていただき、能面に凝縮している日本文化の背後を流れる強烈な何かを感じずにはいられなかった。
 能面は、マスクではなく、オモテと言う。マスクというのは、顔にかぶせる。つまり、自分のウチとソトの境目に在る。しかし、オモテというのは、自分のウチが、ソトに現れ出るということだ。だからそれは、タマシイと言っていいもの。
 そのタマシイは、中世日本の文化の形というよりは、古代から連綿とつながるもの。能面は、まさに、そうした悠久の時間のなかに、立ち現れてきている姿なのだ。
 だから河村さんは、そのオモテを身に着けることは、並大抵のことではない、若い時から、いつこのオモテをつけられるようになるだろうと思いながら、オモテを見つめ続けてきたと言う。
 井津さんは、自分では能の初心者だと素直に言う。しかし、その写真は、ストレートに河村さんに伝わった。能の知識や経験といった表層的で形式的なことは関係ないのだ。
 私が、なぜ河村さんに連絡したかというと、河村さんは、そういう表層的で形式的でカタログのような能文化の紹介の仕方に危機感を持っており、能の真髄をどのように伝えていけるか、苦慮し、苦闘しておられるからだ。もちろん、自分の心身を通じて舞台で表すことがもっとも重要だが、それ以外にも、海外での講演をはじめ、様々な方法で、能の真髄を伝える努力をし続けている。
 しかし、たとえば生の能面を、大勢の人に、直接、見ていただくことは、簡単なことではない。だからといって、写真で見せたところで、これまでは、その真髄が伝えられるような写真とは出会わなかった。
 だが、井津さんが、8×10の超大型のフィルムカメラで撮った能面の写真の、”自由度”に、河村さんは、かなり惹きこまれていた。
 井津さんは、午前中に1枚、午後に1枚の写真を撮る。自然光で、一回のシャッターが数十分というピンホールカメラよりも長時間露光で。
 8×10インチフィルムの情報力は素晴らしい。オモテの微妙な傷も逃さない。しかし、井津さんは、その描写力に頼っているだけではない。ふつう、8×10インチフィルムの写真は、情報力は秀でているものの、カメラ自体が巨大なため、カメラの制約を感じさせるものが多くなる。情報量は素晴らしいが、自由度がなく、型通りになりやすい。といって、型から逃れようとしてもわざとらしく、意図が透けて見えてしまい、かえって不自由に見える。
 井津さんは、能面の内から生じるものに大型カメラを寄り添わせていくことができる。大型カメラの不自由さをまったく感じさせない自由度がある。それはなぜかというと、何十年ものあいだ、8×10インチの大型カメラのさらに4倍もある14インチ×20インチの超巨大カメラ(カメラだけで100kg超)を使って、アンコールワットカイラス山など、世界の聖地を撮り続けてきたからだ。現在、この超巨大カメラを完璧に使いこなせるのは、世界で片手で数えられるほどだろう。
 だから、井津さんいわく、8×10インチの大型カメラは、14インチ×20インチを主戦場にしてきた自分にとって扱いがとても楽で、カメラを意識せずに、つまり道具が身体の一部になったかのように撮影できるので、楽しくて仕方がないと。
 面白いのは、井津さんは、ピラミッドとかアンコールワットとか、古代から連綿と続く人類の巨大な足跡を撮り続けてきて、その後、それらを作り出した人間の信仰の力に関心を持ち、ブータンとインドを、それぞれ、8年ずつくらい通い、その後に、日本の能面に至った。
 ピラミッドやガンジズなど世界の聖地を巡り歩いた後、能面に至ったのは、能面には、古代から現代まで人類が受け継いできたタマシイが宿っているからであり、そのタマシイに、井津さんのタマシイが感応しているからだろう。 
 一枚の能面の中には、世界中の聖地を流れるタマシイが凝縮している。オモテに現れているタマシイを表現すること。河村さんが能の舞台で伝えたいと願う能の真髄も、そこにあるような気がする。
 *この写真は、井津さんの最新完成作、「ETERNAL LIGHT」より。

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第1041回 病老死を遠ざけたいという、現代の屈折した病

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201902/0012086861.shtml

 2019年2月22日の神戸新聞の記事によると、望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。施設は、1970年代に入居が始まった須磨ニュータウンの一角にある。少子高齢化の進行で周辺では空き家が増加している。

 昨年10月、事業者が自治会関係者に事業概要を文書で伝えたところ、自治会側が反対の意思を表明。詳しい説明を求める住民と事業者がもみ合いになり、警察が出動したこともあった。自治会側は「看取りの家はいらない」「断固反対」と記したチラシを住民に配布し、各戸の外壁に張り出した。その後、事業者側が住民説明会を申し入れたが、自治会側は拒否している。 

 日本に愛着はあるけれど、日本にいて、なんともやりきれない思いになるのが、こういうニュースに触れる時だ。

 世界の様々な地域を旅したことがある人なら実感としてわかると思うが、日本よりも生活水準が低いにもかかわらず、日本よりも、心豊かに、幸福そうな顔で生きている子供や老人が多いという現実に触れて、人間の豊かさとはいったい何だろうと思わずにいられない、という経験をした人は多いと思う。

 日本は、これから先の20年、相当な危機に直面するだろう。人類史のなかで経験したことのないような、共同体の中に占める高齢者の数。しかも、その高齢者が、病や老いや死を、悪の巣窟のようにとらえ、遠ざけようとすると、いったいどうなるだろう。

 健康産業は潤い、テレビのコマーシャルは、健康に関わる通販番組と、やかましいだけなのに、それが元気で健康的であるかのように見せる番組(消費者に媚びたスポンサーとテレビ局のマーケティングによって)ばかりになるだろう。

 そして、政治は、直面している危機を、統計不正など色々な手段でごまかして、虚ろな大衆に媚びた政策を続けるのだろう。

 さらに、各種の表現に携わる者たちは、こうした偏狭な価値観の変容を促すために努力すべきなのに、政治家と同じように、自身の虚栄を優先して、事態の本質に向き合わず、刹那的な刺激を提供し続けることに、かまけるのだろう。

 虚ろな人々は、自分の子供が通うための保育園や、自分の体調が優れない時に通う病院施設、自分の肉親をケアしてもらう福祉施設の数が足りないと不満の声をあげる。しかし、それは、自分の日々の生活に制限を与える障害をできるだけ遠ざけたいという自己都合的な欲求でしかないのか、自分の家のすぐ側に、それらの施設ができることには、声をあげて反対する。

 現在の日本を象徴する典型的な、屈折した光景を、そこに感じる。

 やかましいだけのテレビから離れ、煽情的な広告塔の乱立する都会に足を向けることもやめ、しばらくの間、自然の中に心身を浸す時間を持つようにすれば、私たちが、生きて存在していること自体が、いったいどういうことなんだろうと不思議でならない気持ちになるかもしれない。生命のこの精巧さ、強靱さ、脆弱さは、一体どういうことなのか。生命の神秘の解答は、ダーウィンの唱える進化論なんかで説明しきれない、もっと奥深いところにあることは間違いない。

 ここ数年、樹齢数百年という大樹を見るために、時々、様々な場所を訪れている。

 長く生きてきた大樹の幹は、あちこちに瘤が盛り上がっている。それは、樹木のエネルギーが、型に収まりきれずに外に押し出ようとする形にも見える。生きているあいだに、そうした衝動が何度も何度も繰り返したのだろう。無数の瘤の集まりが、樹木そのものの本質のようにも見える。生命は、型に収まりきれずに、もがいている。そのもがきこそが生命の証とするならば、現代社会において「病」と整理しているもののなかに、生命の本質が秘められているとも言える。

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樹齢千年と言われる、奈良豆比古神社の楠の木。

 しかし、「病」とされる症状に陥ると、そのもがいている状態が、苦しみという言葉で表される。確かに苦しい。しかし、「苦しい」という言葉を知らずに、その状態と向き合えば、どうなんだろう。わけのわからない突き上げるような衝動。いったい何の衝動が、どこに向かって、突き上げようとしているのか。その先に、生命は、何を志向しているのか。

 世界は揺さぶられて何かが引き起こされる。そういうことが繰り返されてきた。エネルギーというものは、常に、そうした破壊と創造を引き起こす。瘤だらけの幹に生命力を感じるのは、生命力が、まさにそうしたエネルギーであることを、私たちが本質的に知っているからだ。

 調和とは程遠い瘤を醜いと思う人もいる。しかし、長い歳月を乗り越えた大樹が無数の瘤をまとっているということは、瘤の積み重ねこそが、その樹木の歴史なのだ。人類の歴史もしかり。そして、一人ひとりの人生もまた、瘤のような身じろぎ、溢れ出るような衝動を否定してしまうと、いったい何が残るというのか。

 機械のように秩序的に管理された身体と心が健全という考えは、永遠に連なる生命よりも、ただこの瞬間を無難にやりすごしたいという無気力と相性がいいというだけで、現代の人々に支持されている。

第1040回 日本の古代史につながる身体感覚

 ひさしぶりに、京都の家の近くにある温泉に入り、ぐっすりと眠り込んだ。

 一昨日、和歌山の日前宮を訪れた時、和歌山市内に、関西最強と言われる花山温泉があった。関西最強とされるのは、その含有成分の多さで、温泉水に溶存物質が1000mg/kg以上含まれていれば「療養泉」として認められるが、「花山温泉」はその16倍を超える16000mg/kg以上。しかも、二酸化炭素・鉄-カルシウム・マグネシウム-塩化物・炭酸水素塩泉と様々なミネラル分が含まれ、その色も独特だ。このような特別な温泉がある理由は、おそらく、地下活動の盛んな中央構造線上にあるからだろう。

 この温泉のすぐ隣に県内最大の鳴神貝塚があり、さらに、国内では最大規模の群集墳で、700を超える古墳が集中する岩橋千塚古墳群が近くにある。

 花山温泉は古代から存在していたらしく、温泉のあるところは、聖所が多い。当然だと思う。1日の労働の後に、ゆったりと温泉に浸かれるなんて、これ以上の贅沢はないし、禊としても使われただろう。私が通っている近所の温泉も、神社の隣(たぶん昔は境内)にある。

 和歌山市を訪れた理由は、日本のことをもっと深く知りたいという古代探索の一環だが、次の出来事があったからだ。

 1月8日のエントリーで書いたのだが、今年の正月の明け方、空に光の玉が走るのが全国で目撃され、その後、熊本に地震が起こった。太陽黒点が激変し、太陽活動の低下に伴って太陽風によるバリアが弱まり、銀河宇宙線が、大量に太陽圏内に侵入してきた。その頃から、私の友人のうち敏感な人たちの体調が悪化していた。そのうちの一人、和歌山に住む若い友人は、理由もわからず失神しそうになり、私に電話してきた。身体と感性が過剰に敏感になり、周辺を移動する時にも、ものすごく気持ちが晴れ上がって恍惚とするところと、息苦しくて気を失いそうになる所があると言う。いったいどういうことなのだろうと思い、ぜひとも、それらの場所を訪ねてみたいと思ったのだ。

 すると、日本の古代史とも通じる、とても不思議なことが浮かび上がってきた。

 彼は、和歌山市にある古代からの聖所、日前神宮、国懸神宮のそばに住んでいる。

 この神社は、伊勢神宮と同じ鏡を御神体とするとても古い神社で、中央構造線近畿地方の西の端に位置している。東の端が伊勢神宮、真ん中が吉野であり、いずれも、古代から水銀とゆかりのある場所だ。水銀の存在を示す丹生という地名や神社が無数にある。

 ピュアな水銀は、現在でも漢方として用いられるほどだが(水銀の化合物である有機水銀は毒)、古代から、薬や顔料、そして金属の冶金に使われていた。

 和歌山市内の日前宮は、鳥居をくぐった正面の地に結界が張られていて、中に入ることができず、今は、社殿もなく、二つの灯篭が立っているだけだ。そして、メインとなる本殿は、その場所から左右に分かれて二つ、日前神宮と国懸神宮がある。日本でも最も古い神社の一つだが、それぞれの祭神である日前大神、国懸大神がなんのことかよくわかってない。そして、それぞれ、日像鏡と、日矛鏡御神体としている。

 これらの鏡は、伊勢神宮御神体の鏡の前に作られたけれど、あまり見栄えがよくないという理由で、天の岩戸からアマテラスを引き出すために使われなかったものだ。

 正月に身体に異変を感じた私の友人は、鳥居をくぐってまっすぐに歩いて、左右の分かれ道に来た時に強い神気を感じ、前に進めなくなった。今は何もないその空間のところに引き込まれそうだと言う。その後、左右の本殿を訪れても何も感じず、また最初の神気の強いところに戻ってきて、ここに何があるのだろうかと、結界の周辺をウロウロしていたら、突然、眩しい感じ、頭上を仰ぐと、ちょうど南中の太陽が、鳥居の上に出ていた。時計を見ると、11時57分で、正午になると、その結界の正面に太陽が来ることがわかった。

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日前宮、鳥居の正面、結界の張られた空白地帯

 その後、その友人が、気持が良くなる場所に行きたいと言い、車を東に走らせて、古くから人々の崇敬を集める一宮の伊太祁曾神社を目指した。

 しかし、彼は、伊太祁曾神の社殿のところにはあまり関心がないようで、鳥居を入ったところに座って、ずっと休憩している。そして、伊太祁曾神社から歩いて15分くらいのところにある鎮守の杜に行きたいと、ウズウズしている。そこに向かうために、鳥居のすぐそばに二つの道があるが、どうしてもこちらを通りたい、こちらの方が気持ちいいと彼が言う道は、切り通しになっている。確かに気持ちの良い気が流れている。その時、その切り通しの表面を観察すると、なんとその地層は、樹木が積み重なったものだった。完全に土になりきっていないが、膨大な樹木が横倒しになって積み重なって地層になっているのだった。

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伊太祁曾神の鳥居を出た所の切り通し(樹木の断層)

 その切り通しを通り抜けて、集落の中や田畑のあいだを通り抜け、鎮守の杜にたどり着いた。そこは本当に気持ちの良い気が流れていて、いつまでも留まっていたいところで、私たちは、裸足になって寝そべっていた。すると、彼は、ウネウネと奇妙な舞踏のように身体を動かし、とても安らかな気分に浸っているようだった。

 

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亥の森、三生神社

 この鎮守の杜は、三生神社(亥の森)と言われ、実は、伊太祁曾神社の祭神、五十猛神が、古代に祀られていた場所だった。そして、五十猛神は、この杜に来る前は、なんと、日前神宮に祀られていたのだ。この杜に移されたのが第11代垂仁天皇の時(4世紀ごろ)で、現在の伊太祁曾神社に移ったのは、古事記編纂の翌年の713年だ。

 すると、日前神宮の鳥居の正面、あの何もなかった空間は、五十猛神が祀られていた場所だった可能性がある。家に帰って、いろいろ調べてみると、江戸時代までは、あの鳥居の正面は、今よりもずっと奥行きがあり、いろいろな社殿が建っていたことがわかった。そして、現在の日前神宮、国懸神宮は、その正面のスペースの両隣で、脇役のような存在になっている。

 そして、面白いことに、五十猛神は、樹木の神さまであり、現在の伊太祁曾神社の鳥居のそばの切り通しが樹木の墓場のような地層になっていることを考えると、おそらく切り通し以外の周辺地域も同じような状態で、伊太祁曽神社は、樹木の墓場のような場所に建てられた可能性がある。樹木の神様である五十猛神を祀るために。

 そうすると、私の友人が恍惚感を感じるところは、どれも五十猛神と関係があるところだったということになる。

 彼は、何の予備知識もなく、ただの体感だけで、それらの場所に導かれていた。そして、心底、気持ちが良さそうにしていた。

 樹木の神様の五十猛神とは、いったい何なのか。そして、なぜ、紀ノ川河口に鎮座していたのに、垂仁天皇の頃、亥の森に移り、さらに古事記編纂の頃、現在の伊太祁曾神社に移ったのか。

 それは、日本の古代史の変遷と秘密に、とても深くつながっている。そして、その秘密に、隼人、海人、ニギハヤイ、丹生都比売が関わり、そこに神武天皇の神話が、重なってくる。

 まさに、出雲や播磨と同じように、ここにも国譲りの物語の形跡が見られる。

 日本の歴史は複雑だが、頭で整理する前に、身体で感じるものにそって編んでいくと、くっきりとしたものが浮かび上がってくる。この身体感覚は、いったい何だろうか。そして、今年の正月、太陽活動や宇宙線量の変化にともなって敏感な体質な人に起きた身体の異常と、どのように関係しているのだろうか?

 (つづく)

 

 

第1039回 広河隆一氏の性的暴行について(3)

  昨日、広河隆一氏の性暴力について2度目の記事を書いたところ、それを読んだ女性から、メールでメッセージをいただきました。
 彼女が書いていることは、このたびの事件における一つの大事な側面であると感じ、すぐに返事を書き送ったところ、それに対する返事がきました。 
 今回の事件に関して、世の中でやりとりされている言葉は、そのほとんどが広河氏の酷い性的暴行に対する非難および、被害に遭われた方を慰るものであり、それは当然の心理であると思います。
 しかし、今回の事件を、広河氏の非人間的な行為とだけで片付けてしまっても、それはワイドショーの扱いと同じで、一人の人間を極悪人として葬り、次にまた別の事件を探してきて、「こんなやつ、人間じゃない」と攻撃することが繰り返されるだけ。
 こうした構造自体に、今回の問題を生み出した原因も横たわっていると私は考えていて、それは、今はじめて考えたことではなく、風の旅人を50号まで作り続けたことや、このブログで1000回を超えて書き続けた際に、常に、意識してきたことです。
 なので、私の問題意識の延長線上のこととして、一人の女性から送られてきた文章と、私の返事を、ここに記そうと思います。もちろん、匿名であることを条件に、本人の了解を得て。
 こういうことを書くと、また、「居丈高だ!」とか、「こうした事件を利用して自分が作った本の正当性をアピールしたいだけだ」とか、論理的でなく歪んだ感情で噛み付いてくる人がいることが予想されますが、そのように矮小化された次元のことはどうでもいい。私は、過去にも同じことをずっとアウトプットしていて、別段、今回のことに乗じて考えを変えたわけでもないし、自分が作ってきた風の旅人を売り込みたいわけでもないので(現在は、休刊中で、50号までの在庫はもう手元になく、売りたくても売れないし)。

 以下が、その対話です。

A「初めまして。先日、佐伯さんの「広河隆一氏の性暴力について」を拝見させていただきました。どちらも、でも特に1035回の方は非常に思いの伝わってくる内容でした。

 佐伯さんには大変申し訳ありません。今回私がなぜこのようにメールを送らせていただいたかと申しますと、決して佐伯さんのブログへの感想ではありません。本当にすみません。これは、私が広河氏の一連の報道を受けたこれまでの思いを、ただ、誰かに聞いてほしいと、ただそれだけで送らせていただいてます。今回の報道は本当に衝撃的で、でも周りに広河氏を知っている人はおらず、一から説明して聞いてもらう勇気もなく、ただただ、佐伯さんを頼った次第です。

 念のためお伝えしますが、私は今回の性暴力事件の被害者ではありません。広河氏とは面識はなくあくまでメディアを通じて知っているに過ぎない一般人です。そこのところは安心してください。

 私は広河氏を崇拝していました。広河氏を知ったきっかけはDAYS JAPANです。18歳の時、学校帰りの本屋さんでDAYSの10か月分ぐらいが平積みで置かれていました。どの表紙も写真がすばらしいと思い、私は一目で気に入りました。でも高校生にとっては雑誌で820円は決して安い値段とは言えず、一冊だけ、表紙で気に入ったものを買うことにしました。それは2004年の9月号で、特集は「反テロ戦争」でした。当時はロシアで、チェチェン人のテロが度々報道されていました。テレビではテロの悲惨さは詳しく述べられているものの、チェチェンという国についてはほとんど知る機会がありませんでした。しかしながらDAYSで、チェチェンがいかに悲惨な状態にあるか詳しく紹介されており、私は大きな衝撃を受けました。そして、私は善人と悪人を明解に区別することの危うさを学びました。

 結局、今までに至ってDAYS JAPANで買ったのはこの一冊でしたがそれはわたしの宝物となりました。今でも大事に持っています。そのDAYS JAPANの中核を担っているのが広河隆一という人であるということを知ったのは2016年頃と割に最近です。経歴や慈善活動をしり、あのDAYS JAPANを監修している人はこんなにすごい人だったのかと思い、当時上映された「人間の戦場」の予告編を見て(結局仕事の都合やらで映画は見に行けなかったのですが)広河氏を大尊敬するようになりました。写真もこんなに人をきれいに撮れるんだなあと思うものもあって大好きでした。そして何かあると「広河さんだったらどう考えるだろう。」と思い、勝手に心の支えにしてしまいました。

 改めて、自分はなんと弱い人間なのだろうと思います。どこかに崇拝する人を作って、それを神様のように絶対視して自分を保っているわけです。

 そういう訳があり、昨年末の広河氏の報道は大変大きな衝撃を受けました。あれから1か月弱、広河氏のことを考えなかった日はなかったと思います。いろんなことが頭を巡りました。いったい何時から、何がきっかけでこんなことをするようになったのだろうか?。本人は加害の意識が足りなかったと反省していると言っているが、本当に加害の意識が無いなどあり得るのだろうか?。ホテルへ連れ込む方法などはむしろ計画的ではないか?。慈善活動などで子供達と接する機会も多いのだから、少しは罪悪感を感じないのだろうか?。そうやって人を落としめることと、彼の人権派としての発言・活動が同時平行で行えるということは一体どういうことなのか?。

 そして、本当に呆れることなのですが、事件から日が立つにつれ、私は、「今回の報道の内容はあまりにひどい、でも彼の功績や写真は本当にすばらしいものなのだ。」などと思うようになっていました。

 しかし、おとといに、新たな被害者の証言を受けて、考えていたあれこれはすべてどこかに飛んでいきました。いまはただただ恐ろくて仕方ありません。

 私は、世の中に悪と言われる人たちも、その行為に至るまでの理由があることを学んだはずでした。しかし今回、世の中にはこんなにも、恐ろしく悪い人がいることを知りました。そして、これだけ凶悪な人を私は長い間尊敬し、1月の報道に行きつくまで否定しきれずにいたということも。怖くて仕方がありません。

 先にも言った通り、私はメディアを通して広河氏を知っているに過ぎません。ですが他人事のようには振舞えません。自分のことのように感じます。長い間心の支えてとしていた親近感が重くのしかかります。恐らく私と被害者の年齢が比較的近いのだろうというのもあるのかもしれません。これがもし自分だったら・・と。

 おとといに第二弾の報道が出て以降、私は夜が眠れなくなりました。6~7時間は横になっているのですが、うとうとできるのは1時間ぐらいです。彼が女性の身体を徹底的に玩具にしていた一つ一つの事例がイメージとなってずっと頭の中を反復しています。別のことを考えて紛らわせたいと考えてもできません。心臓の鼓動がずっと早いので苦しくなります。時々手が震えるのを感じます。

 それほどまでに凶悪な人物をずっと尊敬していたことへの恥と責任が重くのしかかります。決して忘れることはできません。怖くて叫びたくなります。でも、そんな人物を崇拝していたということが恐ろしくて、周りに話すことができません。佐伯さんのブログを見て、佐伯さんならきっと聞いてくださるのではないかと思いこのようにメールを送らせていただきました。本当に失礼いたします。それに、私は決して文章が上手い人ではないので読みにくかったと思います。本当に読んでいただきありがとうございます。

 最後になりましたが、被害にあわれた女性の傷は想像できるようなものではないでしょう。彼女たちの傷が完全に癒えることはないのかもしれませんが、少しでも癒しが訪れることがあることを心から願っています。」

佐伯「はじめまして。今回、広河氏の事件を知り、犠牲になったのはまさにAさんのような純粋な方であり、そういう純粋な人たちが付け込まれたことに、やりきれなさを感じます。

 広河氏の下にいた人で、違うタイプの女性を知っています。良くも悪くも図々しいところがあり、ある種の計算と割り切りがあって広河氏のところにいた人です。そういう人は、広河氏を絶対視していないので、自分の中で、こいつはダメだ、と思った時は、彼と衝突して、あっさりと辞めています。
 彼を絶対視してしまった人たちは、純粋であるとともに、免疫がなかった、のではないかと思います。
 免疫というのは、男性経験とかそういうことではなく、社会の矛盾、汚さ、エグさ、に対する免疫です。だから、社会経験のあまりない、つまり社会に対する免疫のない学生アルバイトとかが狙われてしまった。
 免疫には、”文学的”な免疫も含まれます。これは説明が難しいのですが、人の言動の背後にある本当の心理に対する洞察力を深めていくための文学的体験ということです。
(文学というと、小説をイメージするかもしれませんが、小説だけとは限りません。写真にも、文学性のある写真と、そうでない写真があります。前者は、写っているものの背後にあるものを深く想像をさせるもので、後者は、広告写真などが典型ですが、記号化され単純化されたビジュアルで、人心に媚びたり、人心を誘導するものです。そうした文学体験の有る無しが、その人の美意識に影響を与えます。)
 人は、自分の人生の経験だけを経験とするならば、経験は、非常に限られてしまいます。
 しかし、人の経験を深く自分のものにできる舞台があれば、自分一人が経験するだけより、経験は豊かになり、美意識も育まれます。美意識は、何をもって誇りとし、何を持って恥とするかという判断にも影響を与えます。
 ここ20年ほど、この文学的体験が、軽視され、色あせてしまいました。政治家のワンフレーズポリティックのように、簡単な言葉でズバリということが、スマートで、頼りになり、わかったつもりになってスッキリするというように。わかりやすい答えを、近道で得ることが、万人受けするようになり、その種のものがベストセラーになりやすい。テレビなどでも取り上げられやすい。なぜなら、説明しやすいからです。
 それに対して、文学的に深みのあるものは、何がどうなのか説明しずらく、でも心にズシリとくる。そうした文学的体験が人生において重要なのだけれど、そんな遠回りを誰もやらなくなってきました。手近にハウツーを求めてしまうのです。その結果、恥と誇り(カッコウ良い、カッコ悪いという判断)の基軸も、歪んでいきました。
 私は、19歳の頃、広河氏の「パレスチナ」を読み、社会派のジャーナリストになりたいと思いながらも、同時に、たくさんの文学を読んでいました。とくにドストエフスキーの文学は、社会的活動家の自己欺瞞自己矛盾を徹底的に暴いていて、自分の中にもそういう欺瞞があることを突きつけられ、悶え苦しみ、自殺してしまいたいとさえ思いました。そして、自殺するくらいなら、誰も知らない荒野で野たれ死ぬのも同じだと思い、あえて危険なところへと旅を続けました。いったい何をやればいいのだという叫びに似た精神の渇きと、自分が世の中になんの役にも立っていないという自己嫌悪と焦燥と、胸いっぱいに膨れ上がった空虚を抱え込んで。
 そんな私を、空虚や焦燥から救ったのも文学でした。日野啓三という作家です。彼のすべての本を掻き集めて読んだ私は、数年後、なんとかして彼とつながりたいと思い、手紙を書き、講演依頼という理由をつくって会いに行きました。私の手紙を読んだ日野さんは、きみは私と同じだ、と言ってくれました。同時代の多くの人とつながることよりも、100年前、500年前、2000年前のごく僅かな人と蜘蛛の糸のようなものでつながっていると感じられることの方が大事で、文学には、そういう力があり、それが本当の意味で救いなのだ、われわれは孤独でないのだ、ということも、日野さんは言っていました。
 日野さんは、当時、癌で闘病中で、2年に1度、癌が転移して入院ということを繰り返していましたが、およそ6年、彼が亡くなるまで、月に1度、彼と会い、夜遅くまで語り合う貴重な時間を持つことができました。
 私が「風の旅人」という雑誌を創刊したのは、日野啓三さんが、2002年10月に亡くなったことがきっかけです。その前年、2001年9月11日にアメリカ合衆国テロがあり、このことについて、私たちは、深く語り合っていました。
 単に戦争とかテロという問題だけでなく、原理主義という、わかりやすい言葉による正義と正義が衝突する事態は、アメリカとイスラムの問題だけではないと、私たちは語りあっていました。日本でもまさに小泉政権となり、シンプルな正義の言葉(既得権組をぶっ壊すという類の)で大衆を煽り、大衆を味方につけていく構図は、原理主義の戦いと同じだったのです。
 「風の旅人」は、最初からそういう問題意識で作っていました。だから、DAYS JAPANの創刊に協力したものの、創刊号が出た時点で、「これは違う」と思い、離れました。これは、人の思考を養うものではなく、思考を奪っていくもので、原理主義ポピュリズムの手法と同じだと感じたからです。

 2003年に風の旅人を創刊し、第3、第4、第5、第6号で広河氏の写真と言葉を紹介した頃、広河氏からDAYS JAPANというジャーナリズム雑誌を創刊したいと相談があって協力し、その後、出版のパーティがあり、スピーチをするように言われたので、私と広河さんは考え方が違うけれど、今日のメディアや雑誌の状況に一石を投じたいという思いで雑誌を立ち上げたことでは同じだ、という話しをしました。

 19歳の頃、自分が影響を受けた人の役に立てることは、私にとって大きな喜びであり、さらに、その時から20年後、同じ土俵で仕事をしていることに不思議な縁を感じました。 

 しかし、雑誌作りにおける考え方の違いは極めて大きく、また、彼の人間性を疑わざるを得ないこともあり、私は、DAYSに近寄らなくなりました。

 しかし私は、風の旅人を作りながら、ずっとDAYSを意識していました。その理由は、世間には、娯楽雑誌、ゴシップ、趣味教養雑誌が溢れるなかで、世界や人間の問題と向き合うということにおいて、DAYSと風の旅人は、同じだったからです。しかし、その方法論は違っていた。私は、世界や人間の問題に対して、自分の頭で考える土壌づくりが大事だと思っていたけれど、DAYSは、そういう土壌づくりではなく、糾弾することに力を入れていた。その糾弾の表現方法は、強ければ強いほど、人の思考を奪っていく。私は、ずっとそれを懸念していました。DAYSが社会に知られるようになり、賞をとったりするたび、その懸念は大きくなっていきました。

 私は、DAY JAPANと、有名度や部数や賞のことで競争する意識はまったくありませんでしたが、DAYS JAPANが社会的存在になり、盲目的に崇拝する人が出てきていることに危うさを感じ、だからその存在を意識せざるを得ませんでした。

 このたび、広河氏の性的暴行が露わになった後でも、「それはそれ、これはこれであり、 DAYS JAPANなど広河氏がこれまで行ってきたことの価値は損なわれない」という意見を述べる人もいますが、私は、DAYS JAPANの編み方にずっと違和感を感じ、問題があると公言もしていました。まさかここまでのことが起きていたとは想像もしていませんでしたが、「それはそれ、これはこれ」でなく、人がアウトプットしているものには、その人の内側が写っているものです。その欺瞞を察知できるかどうかは、上に述べた文学的体験の深さにかかってきます。

 いずれにしろ、風の旅人を作る前に出版業の経験のなかった私は、出版界の常識はどうでもよく、また世の中の評価もあまり気にせず、最初のうちは、日野啓三さんが生きていたらどう評価してくれるだろうか、ということだけを意識して「風の旅人」を作っていました。

 だから、誘惑に負けず、一貫性を保てたと自分では思っています。誘惑というのはいくらでもあります。たとえば、高名な写真家が、口々に、「風の旅人賞を作ろう、協力するよ」、などと言ってくれたこともそうです。「こうすれば、もっと売れるよ」、という囁きもそうです。自分を権威装置にする道はいくらでもありましたが、私は、それは違うと思い、やりませんでした。真の意味で、文学性から外れるからです。どんな表現も、環境の悪習に簡単に染まらず、思考停止に陥らないための、ある種の修行体験と言える場を提供しなければならない。それができないなら、やらない方がまだマシ。なぜ、やらない方がマシなのかというと、環境の悪習に寄り添っていくと、作り出されるものは、より環境を悪化させるだけ。それが、私自身の考えだからです。

 広河氏と私とのあいだの雑誌作りにおける考え方の違い、何がどう違うのか、もし風の旅人をご覧になっていないのなら、私の手元には在庫がありませんが、アマゾンのサイトでバックナンバーが安く買えますので、1度、ご覧になってください。

 たとえば、私は、作家や写真家がいくら高名であっても、DAYSや他の雑誌のように、肩書きや受賞歴やプロフィールを載せていません。権威の力で、読者を思考停止の受け身状態にさせたくないからです。新人と高名な写真家の取り上げ方にも差をつけていません。また、表紙に、アイキャッチ効果を狙ったタイトルを入れたりしません。

 そして、DAYS JAPANのように、最後のページに、支持者だという有名人の名前をずらりと並べたりしません。

 DAYS JAPANは、権力を攻撃していますが、その作り方は、かなり権威主義的で、洗脳の手法を用いた扇動的媒体の特徴を持っているのです。写真は、これでもかと衝撃的なものを使いますが、その状況を伝える記事の文脈の深みがなく、最初に読者を誘導する結論があり、その結論のための写真と文章になっています。それが洗脳の手法なのです。読む人が、自分の頭で考えるのではなく、異議を唱えにくい正義の論調のなかで、決められた答に誘導されるだけ。

 ただ、広河氏の仕事が、以前からずっとそうだったわけではありません。彼の仕事を掲載した風の旅人の第5号や第6号を見ていただければ感じていただけると思います。

 彼は、長いあいだ、同時代の他のジャーナリストよりも、継続的で、きめ細かなジャーナリズム活動を行っていたのです。独善的で権威主義的な傾向は以前からありましたが、報道でよく見られる扇動的な手法をとることには慎重でした。そのまま表現活動に徹していれば、彼の悪業も抑制されていた可能性があります。しかし、65歳までフリーで活動してきた人が、不慣れな組織運営と経営を行うようになり、次々と作り続けなければならない定期刊行物の売上や返本や在庫のことなどを常に意識せざるを得ないプレッシャーの中で、安易に二項対立をつくって感情(印象や気分)の動きで大事なことを判断したり、ハウツー本のように単純化された解答を求める時代の構造と空気に迎合する道を選んだ。

 しかし、皮肉なことに、時代の傾向に添っていたため、そのように荒っぽい作りのDAYS JAPANを始めてからの方が、社会的に彼への注目度が高くなり、有名人をふくめ彼の周りに集まりやすくなりました。ジャーナリストとして地道ながらいい仕事をしていた頃より、自分の下で仕事をしたいと若い女性も集まってくるし、少し華やかなポジションになり、優越感に浸って自分自身を見誤り、彼の中のモンスターが肥大化していったのかもしれません。人は最初から悪人なのではなく、環境との関わり方が、その人を作り変えていきます。その歯止めになる文学的体験が希薄だと。

 Aさんからいただいた文章を見て、Aさんの欠点をあえて一つだけ申し上げます。

 DAYS JAPANを、たった一冊だけ見て、その後、まったく見ていないのに宝物にしていること。広河氏の仕事に関しても、彼の本などをきちんと読まずに、評価していることです。
 彼を取り上げた映画などにしても、予告編だけを見て、本編を見ずに判断をしてしまっている。そうしたことでは、文脈を読み取る力は育ちません。
 そうした傾向は、イメージに流されやすく、洗脳されやすい状態をつくる。Aさんに限らず、現在の多くの日本人が陥っている一番危ういポイントです。
 これは、太平洋戦争前の日本においても同じだったのです。悪人が悪事を行うことより、悪人によって、そういう洗脳されやすい人を巻き込んだ時が、一番恐ろしく、それが取り返しのつかない巨悪になるのです。もしかしたら、広河氏という権力者に支配されたDAYS JAPANの組織が、それに似たものになってしまっていた可能性もあります。
 今回の新しい記事を読んでも、海外の取材に男女の二人が行くのに、部屋を一つしか手配していないわけです。その手配を、部外者がしたとは思えず、おそらく広河氏の指示で部屋を手配した人は、起こる出来事を予測できたのではないでしょうか。悪人でなくても、簡単に洗脳されると、悪に手を貸すことになります。
 簡単に洗脳されないために、人物や物事を評価したり判断する時に、その人やその物事のことを、もっと掘り下げる必要があります。
 一人の作家の本を読んで感動したら、その感動がどこからくるのかさらに探るために、その人の本を片っ端から読むくらい。
 だって、感動できるものに出会うことは、現代社会では非常に限られており、そういう時こそ、物事を広く深く知るためのチャンスだからです。
 私が作っていた風の旅人と、 DAYS JAPANは、ともに写真の力を大切にしながら、写真と言葉で世界を表現していくものですが、一番大きな違いは、”文学性”の重要さを、どこまで意識しているかです。
 わかりやすい答えを受身的に求めるのではなく、物事の背後のことを、自分の頭でどれだけ深く考え、想像できるか。
 風の旅人の方が、DAYS JAPANに比べて、読み通すためには、はるかに根気がいります。しかし、その根気が、こうした悪業に対する免疫となり、耐性となると私は思います。」
 
A「お返事ありがとうございます。こんなに唐突に送らせていただき、お返事をいただいていいものかと思っていたら、まさかこんなに早く、こんなにご丁寧な返事をいただいてしまって、大変に驚いています。なんとお礼を言っていいのか分かりません。

 読み始めてすぐに涙が出ました。やっと、硬直していたなにかがほぐれてくれたようでした。

 佐伯さんのおっしゃる通りだと思います。私は、見た目や印象で判断して、しかものめり込みやすいのだと思います。特にスマホを持つようになってからは次々現れる情報の波の中で少しずつつまみ食いして、これやよくないと思いつつ、ネットニュースの見出しのようにセンセーショナルで刺激的なものについつい手が伸びてしまいただ「わかったつもりになる」ことも多いように思います。

 佐伯さんの便りを読んでいてネットの危うさを改めて感じました。Twitterなんかもそうですね。今回私が佐伯さんのところに行きついたように、知らない人同士をつなげてくれる、そういう意味では今回は本当に助けてもらったのですが、基本的に短く、わかりやすく、印象に残りやすい言葉ばかりですから、熟考するには不向きです。でもコメントは無限にありますから永遠にみてしまいます。本を読む時間などどんどん無くなっています。

 だからこそ、DAYSや広河氏の危うさに気付くことができなかったのかもしれません。

 でも上述したように情報が次々やってくるので、熟考するための時間を持つのは決して簡単なことでもなさそうですね・・・。

たくさんのことを書いていただいてくださったので、一読では消化できませんでしたが、繰り返して読ませていただいるうちに、ようやく今回の広河氏の報道についても、少し距離を置くことができたように思います。

 そして、今回の報道以降、心の置き場がずっと無くて、どうしたらいいのかわからなかったのですが、風の旅人を紹介していただいたことで、ようやく自分が今なにをやっていくべきなのかが決まって、前を向くことができました。

 風の旅人はぜひ拝読させていただきたいと思います。読み終えた後、感想を佐伯さんの元に送らせていただこうと思います。ものすごく本を読むのが遅いのでいつになるかわかりませんが(笑)。

 この度は本当にありがとうございました。佐伯さんとの出会いに本当に感謝しています。」