第1047回 日本の古層 〜相反するものを調和させる歴史文化〜(4)

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明石海峡

 私は、兵庫県明石市で生まれ育った。家の近くの古墳周辺を探検したり、明石原人の発掘場所で地面をさぐってみたり、子供ながらに秘められた歴史には興味があった。

 また、源氏物語の中で、明石が大事な舞台になっていることは知っていた。にもかかわらず、最近まで、明石が、それほど歴史的に重要な場所だとは思っていなかった。

 私は、明石市内で三回、小学校を転校したが、数日前、小学校3年の頃に通っていた小学校の近くに、たくさんの瓦工場があったことを思い出した。

 調べてみたら、明石の西北部は、古代から良質の粘土と燃料となる山林資源が豊富な地で、須恵器とともに瓦を焼く窯も多く作られていたことがわかった。

 高校時代に住んでいたところからさほど離れていない高丘古窯跡群の発掘では、6世紀後半から8世紀前半まで操業が続けられており、この地で生産された瓦が、大阪の四天王寺や、奈良の寺院のために運ばれていたらしい。

 須恵器というのは、歴史的に見ても特別な焼物だ。

 土師器の場合は、縄文土器のように紐状に粘土を積んで、野焼きで作る。野焼きは、800度から900度くらいで、できあがった土器の強度もない。

 それに対して須恵器は、轆轤技術を用いて型取り、穴窯や登り窯で、1100度以上の高温で作るため、土師器に比べて強度がある。

 高温でつくる土器の技術は、中国の江南(杭州あたり)で始まったようだが、日本書紀では、天日槍など渡来人とともに日本に入ってきたと記されている。

 大阪府堺市和泉市岡山県備前、福岡県太宰府市静岡県湖西市岐阜県岐阜市、愛知県尾張地方東部とともに、兵庫県明石市から三木市にかけての地域が、主な須恵器の生産地だったようだ。

 そして、須恵器は、製鉄とも関係してくる。

 私が、小学校4年から中学校3年にかけて、夏のあいだ、毎日のように泳いでいた藤江の海岸は、白い砂がどこまでも続いて海水浴に最適なところだったが、実は、この砂は、我が国有数の産鉄地である兵庫県内陸部を流れてくる加古川が運んできたもので、砂鉄が大量に含まれているらしかった。

 砂鉄の磁鉄鉱など鉄原料を溶かして鉄を取り出すためには十分な高温が必要で、そうした炉を作る技術は、須恵器を焼く技術と連動している。

 須恵器の産地であり、砂鉄が豊富となれば、自ずから製鉄が行われる。

 『住吉大社神代記』の「明石魚次浜」の項で、住吉神を木国(紀国)の菅川の藤代の嶺(丹生川上)に鎮め祀ったが、後に、住吉神が、針間国(播磨国)に渡り住まんと、大藤を切って海に浮かべ、流れついたところを「藤江」と名付け、神地としたとある。

 ”藤”というのは、砂鉄を選鉱するために、藤の蔓で作ったざるが使用されたからだという。

 大量の砂鉄を集めるために、砂鉄の混ざり込んだ砂や土砂を大量の水で洗い流し、水流の底に沈んだ重い砂鉄を藤の蔓で編んだざるで掬い取る。その方法を、「鉄穴流(かんなながし」と言った。

 私が住んでいた藤江の地には、青龍神社(かつては厳島神社)があるが、この神社が鎮座する丘は、縄文時代の土器や石器などが発見された藤江出ノ上遺跡であり、周辺にも、藤江別所遺跡や藤江川添遺跡など縄文時代旧石器時代の遺跡が点在しており、かなり古くからの要所だったらしい。
 そして、『住吉大社神代記』には、紀伊国から播磨の藤江住吉大神が移られる際に、船木氏が関わったことが伝えられている。船木氏は、現在の三重県多気郡が本貫だったらしいが、その地に佐那神社があり、天手力男命タヂカラオ主祭神を祀っている。

 天手力男命は、天岩戸にこもったアマテラスの腕を引いて外に出し、世界に再び光をもたらした神で、伊勢の皇大神宮において、アマテラスの左に弓を御神体として祀られている。(右に祀られているのが、剣を御神体とする栲幡千千姫命)。

 佐奈神社が鎮座する船木の地から宮川を遡ったところには、倭姫が伊勢神宮よりも先に天照大御神を祀った場所とされる瀧原宮があり、そのすぐそばにも船木という土地がある。船木から宮川を下れば伊勢神宮で、櫛田川をくだれば、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(斎宮跡)がある

 さらに、佐那神社の近くは丹生という土地で、丹生大師がある。この真言宗の寺は、高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれる。奈良県の宇陀にある室生寺と同じである。そして、どちらも水銀の産地だ。

 丹生神社は、継体天皇の時代、523年の創建とされるが、奈良時代聖武天皇東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したという伝承がある。

 丹生神社という名の神社は、水銀が産出する中央構造線上にたくさんあり、祭神は、丹生都比売や罔象女神ミヅハノメノカミ)や丹生都比売が多いが、伊勢の丹生神社は、土の神、埴安神ハニヤス)を祀っている。おそらく製鉄に必要な釜作りに向いた良質の土のことではないだろうか。また、丹生神社の境内の丹生中神社には、製鉄の神、金山毘古金山彦命・金山比女命が祀られている。ここは、縄文時代から採掘されている丹生鉱山という日本でも有数の水銀の産地なのだ。

 船木氏の祖先、大田田神は、「天の下に日神を出し奉る」と『住吉大社神代記』に記されているが、天の岩戸からアマテラスを引き出した天手力男命タヂカラオ)とイメージが重なる。

 船木氏というのは、多氏の一族であり、多氏というのは古事記の編者である太安万侶が有名だが、神武天皇の子の神八井耳命かんやいみみのみこと)の後裔とされる。

 神武天皇が実在の人物だったかどうかはわからないが、太安万侶は、自分たち多氏の役割を象徴的に示すためか、祖先の神八井耳命のことを、『古事記』の中で、神武天皇と大物主の娘のあいだに生まれた子として描いている。

 神武天皇には、日向の地の阿多(隼人系)の女性とのあいだにできた子、手研耳命(たぎしみみ の みこと)がいて、彼と一緒にヤマトまでやってきた。手研耳命は、自分が神武天皇の跡を継ぐため、神八井耳命と、その弟を殺そうとするが、それを事前に知った二人に殺される。

 そして、神八井耳命は、帝位の後継を弟に譲り、自分はさにわ(神託を受ける者)として弟を支えていくことを誓う。そのため、弟が、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)となり、そこから天皇家の歴史が続いていく。

 すなわち、多氏というのは、天孫降臨のニニギの曾孫である神武天皇天津神)と大物主の娘(国津神)の血を受け継ぎ、政治の表舞台には立たずに、この国を霊的に支えていく存在ということになる。

 そして、神八井耳命皇位を弟に譲り、神祇を祭り始めた場所とされる多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)=多神社が、奈良県田原本町にある。この神社の裏や境内そして周辺の集落から、古墳と考えられるものや、大量の祭祀遺物、そして多彩な初期須恵器や韓式土器も大量に出土している。それらは、縄文時代から古墳時代にかけての遺物で、祭祀的色彩が強い。この地は、三輪山二上山を結んだ同緯度の東西のラインの中間にあり、春分秋分の日には、三輪山から昇る朝日と二上山に沈む夕日を拝することができ、太陽と関わる祭祀が行われていたのだろう。

 しかも、この多神社の真北が平城京平安京、小浜の若狭神宮寺であり、真南が熊野本宮大社(大斎原、本州最南端の潮岬なのだ。多神社は、近畿地方の真中、臍の位置にあたる。

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北緯34.53度には、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、舟木の古代製鉄所などが並び、東経135.78には、若狭神宮寺、京都の下鴨神社、奈良平城京熊野本宮大社(大斎原)、潮岬が並ぶ。

 近畿のちょうど真中の位置で、天津神国津神の両方の血を受け継ぐ者が、太陽に関わる祭祀を行うという構造は、日本という不可思議な国の根本原理なのかもしれない。

 そして、多神社、三輪山二上山がある北緯34.53度は、東西に線を伸ばしていくと、古代の聖域がたくさんある。

 このラインのことは、1980年2月11日、NHK総合テレビの『知られざる古代』という番組で紹介されたようで、これに関する著書もある。その内容は、奈良県箸墓古墳を中心に、西の淡路島の船木の石上神社~伊勢の斎宮跡まで、三輪山、長谷時、室生寺二上山などが、北緯34度32分の線上に並んでいるというもので、それらは、太陽崇拝および山岳信仰とつながりがある古代祭祀(さいし)遺跡であり、日置氏が、その測量に関係しているということだ。

 それに対して、真弓常忠という学者が、このラインは、太陽祭祀ではなく製鉄と関係あるのだと主張されている。

 しかし、どちらか一方ではなく、両方と関係していることは間違いないと思う。

 1980年当時の発表では、このラインは、北緯34.32度ということだが、なぜか現在、グーグルマップで確認すると、34.53度となる。(GPSの発達した現在、測量の仕方が違うのか?)

 そして、1980年度から現在までのあいだに、このライン上で新たな場所の発見が幾つかなされている。

 その最大のものが、2017年1月、淡路島の舟木で発見された2世紀半ば~3世紀初めの鉄器工房跡で、4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。炉跡も発見された。調査はわずか130平方メートルだけだったが、その周辺にも広がっており、南北800メートル、東西500メートルに及ぶと推定され、国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まっている。

 1980年の時点で太陽のライン上にあると考えられていた舟木の石上神社は、僅かながら緯度がずれていた。しかし、その誤差は許容範囲とみなされていたが、新しく発見された巨大な鉄器工房跡は、北緯34.53度で、多神社、三輪山二上山とまったく同じ緯度上にある。

 専門家のあいだでは、淡路が、瀬戸内の西から河内や大和へと物資や情報を中継する『玄関口』だったゆえのことと説明されているが、近年では、明石市の西に広がる播磨平野を流れる大河が、日本海と瀬戸内海を結ぶルートだったという説も出ている。とくに加古川は、分水嶺が90mほどであり、若狭湾や出雲方面に上陸した人々が、河川をつかって比較的簡単に明石辺りまでやってきて、そこから大阪湾を東に行って難波に上陸するか、淡路島に上陸して、その東の端の洲本あたりから和歌山に渡り、紀ノ川を遡っていけば大和地方に入ることができる。明石や淡路島は、古代の海人にとっては、ごく普通の通り道だったのかもしれない。

 住吉神は、海上交通安全の神として海の近く祀られていることが多いが、海から離れた加古川中流域にも、住吉神社が多数存在しており、加古川の支流の東条川沿いに船木の地がある。『住吉大社神代記』によると、加古川河口に近い明石にも船木村があった。

 淡路島の北緯34.53度に、古代最大級の舟木製鉄所の跡があり、奈良の三輪山も、鉄との深い関連が考えられ、その山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。そして、室生寺も、伊勢斎宮跡の近く、多気の地も水銀の産地だ。

 東西に一直線の太陽のラインとされるこの線上には、鉄や水銀と関わりのある聖域が多いということがわかる。そして、船木氏を代表とする多氏とも関わりがある。

 太陽と製鉄の関係は、製鉄炉の中の眩い光と太陽光線のイメージが重なるからだという説もある。

 また、太陽は海人にとって大切な道しるべであり、海人には日神信仰がある。その海人は、船を作るために樹木を必要とし、川を遡って山の奥深くに入っていき、船の防水加工に有用な水銀を採掘したとも言われる。船木氏が、伊勢の多気という水銀の産地を本貫の地にしていたのは、そのためだろう。

 ところで、明石市には、船木氏と関係の深い住吉神社が数社あるが、そのなかで、魚住の海岸にある住吉神社が、住吉神社の発祥の地とされている。

 これは、神功皇后三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったからだという伝承もある。

 源氏物語のなかでも、似たようは描写がある。

 京の都から須磨へと流された光源氏。須磨の館で暴風と激しい雷雨にあい、光源氏は、救いを求めて、住吉の神に必死に祈る。

 その時、夢に現れた亡父、桐壺帝が、「住吉の神の導きたまふままに、舟出してこの浦を去りぬ」と告げる。

 そのお告げに符合するように、海上で、明石の入道の迎えがあり、光源氏は、鎮まった海を渡り、明石に移る。

 この時を境に、光源氏の運命が変わり、京都に戻ってから栄華の道を歩み始める。

 さらに、明石の入道は、自分の血筋から国母が出るという霊夢を信じて、明石の地で住吉神を信仰していた。 明石の入道が住吉の神に祈りはじめて十八年、住吉の神の導きによって須磨から明石にやってきた「光源氏」と、明石入道の娘が結ばれ、女の子を出産する。その女の子は、京都で光源氏と紫の上に育てられ、皇太子のもとに嫁ぎ、四男一女を産み、皇后となり、第一子が皇太子となる。

 住吉の神への信仰深い明石入道の悲願が叶う。

 神功皇后の物語と同様、源氏物語のなかでも、住吉神が、極めて重要な役割を果たしている。

  紫式部が、「源氏物語」を須磨と明石の帖から書き始め、明石の一族の繁栄で物語を終わらせ、さらに、光源氏を救い、栄華に導いていく神として住吉神が位置付けられているわけだから、紫式部がこの物語の構想を行う時、住吉神のことが念頭にあったと思わざるを得ない。

 これはいったいどういうことだろうか?

(つづく)

 

 

第1046回 広河隆一氏の性的暴行事件について(4)

 広河隆一氏が、月刊雑誌に、今回のセクハラ事件に対して「手記」を書いて掲載している。
 このタイミングで、手記を書く方も書く方だが、掲載する方の神経も理解できない。
 手記を書くのは構わない。しかし、ふつう、手記というのは、事件がなんらかの結論に到り、過去を振り返るためのものであり、事件が現在進行形であるという認識をがないから、こういうことができる。
 つまり、これは手記というより、こちらにも言い分があるという反論であり、文体に工夫が凝らされているが、反論として読むことが相応しい。

 彼は、文章を書き慣れているから、過激な対立姿勢を見せないように書かれているが、事実としてあったことに対する認識の食い違いを浮かび上がらせるというアプローチを文章で行っている。こういうことは達者なので、「見方を変えれば、現在、女性が告発している内容も、見え方が変わってくるんではないか」と誘導をしようとしている。
 話は変わるが、今回の事件のことに対して色々な分野の人が言及するなかで、写真家の長倉洋海氏が、「自分はいい写真を撮りたいから現場に行って写真を撮る」と素直に語った時、広河氏が、「自分は起こっている事実を伝えるために現場に行って写真を撮っている」と、長倉氏の考え方を否定する発言をしたことを述べていた。
 しかし、事実というのは、実は、自分に都合よく解釈したり歪めることができるものである。純粋なる事実なんてものは存在しない。
 今回の広河氏の手記は、自分の立場を守るために、起こった事実の酷さをオブラートに包んで曖昧にしようとしている表現であり、「事実を伝えるためにこそ表現はある」という自分の発言の矛盾を、そのままさらけ出している。
 長倉氏が述べている「いい写真」というのは、単に綺麗な写真、見た目のいい写真を撮りたいということではない。
 その時々の価値観や都合によって歪められてしまう事実をなぞるのではなく、不完全な人間ではあるけれど、「真理」というものが存在するのであればそれに近づきたいという執拗なまでの思いをこめたものだ。
 人間という無常の存在は、血の滲むような努力をしても「真理」を必要とし、真理と現実のギャップの深淵であがきながら、美を生み出してきた。この「美」というのは、もちろん汚いとか醜いの反対にあるものだが、その真意は、「偽」の対極ということ。
 いい写真を目指すというのは、決してカッコつけた写真を目指すことではなく、「偽」の対極の美を目指すこと。ともすれば人間性への信頼が揺らぎやすい世の中であるが、人間性への信頼は、これに尽きると思う。表現者に限らず、職人さんであれ、企業に勤めている人であれ、「偽」に対して毅然とした態度をとっている人は、生き方として、美しい。そういう人は、時に厳しい時があるが、それは、自分を守るためではなく、偽(本物でないものを本物らしく見せかけること)を許せないからだ。
 このたびの広河氏の手記を見て、この期に及んでカッコつけているという欺瞞性を感じるのは私だけでないだろう。
 彼は、「偽」の対極を目指していたのか、事実の伝達などと言いながら、実際は、カッコつけていただけか。
 長倉洋海氏が書いているように、 DAYS JAPANで世界の有名フォトジャーナリストの写真を載せて、その横に自分の写真も並べて自分を権威づける方法。テレビなどによく登場する著名人の名前をズラリと並べ、それを自分の支援者たちと見せる方法。
 そしてテレビや、人権団体その他の機関をうまく巻き込み、彼の演出に便乗させる手法。
 被害を受けた女性たちが、彼のことを「すごい人」、「雲の上の人」と思い込んでいたのは、こういう演出によるものが大きい。

 広河氏の今回のセクハラ事件と、 DAYS JAPANのような彼の仕事は切り離して考えるべきだというジャーナリストなどが存在するが、私は、前から言っているように、根っこに同じものを感じている。

  人権派の旗を掲げた活動は、善良なる人が、人の為に行うものだと思われている。

 しかし、気をつけなくてはいけない。「人」の「為」は、漢字で表すと「偽」になってしまう。

 「人の為に何かをしてあげる」という意味が、「偽」という漢字になっていることを肝に命じておく必要がある。

 なぜそうなるのか? 「人の為」というのは、実は、うわべを取り繕った人間の作為であることが多いからだ。作為というのは、正体を隠して上辺を取り繕って、本質から遠ざけること。本来の性質や姿を歪めること。偽」の真意は、そういうこととなる。

 なので、「これは人の為です」という声が大きくなる時、多くの場合、自分を良く見せるためのポーズであり、その言葉に釣られて集まってくる人を手なづけて、人生の真理から遠ざかっていってしまうことが多い。


 「写真がうまくなりたければ私についてくればいい」という言葉に引っかかる前に、長倉氏のアフガンやコソボの写真などをじっくりと見る機会を得て、「いい写真」の真意や、「いい写真」から滲み出る撮影者の誠実を感じ取り、「偽」と「真」と、「真」に近づくための「仮」を見極める目を養い、そのうえで、DAYS JAPANの 「事実を強調する写真」を見れば、それらの写真が、いかに撮影者の狙いが露骨で、被写体への配慮がないか、それらの「偽」がわかるのではないかと思う。
 写真がうまくなるというのは、どういうことか?
 シャッターを押しさえすれば誰でも写真が撮れる時代であるが、カメラは、ファインダーを覗けば狭い領域しか写らない。
 その狭く切り取られた画角は、それじたいがすでに撮影者の価値観であり、日頃、何を考えて生きているかを表している。発表される写真を見て、その撮影者が信じられるかどうかは、どんな事実を写しているかで判断されるのではなく、自分というちっぽけな存在が、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤が、どれだけ深いかで判断されると思う。
 そういう葛藤があってはじめて、表現の仕方やアプローチの仕方に創意工夫が生まれ、その人ならではのものが出てくる。発表という形でアウトプットされているものには、必ず、その人の人柄や内面の深さが反映される。
 人権の旗を掲げてさえいれば信頼できるなんて大間違いであり、アウトプットされているものを見極められるようにならなければいけないのだけれど、そのためには、この情報過多の時代、それなりの心構えと実践が必要になる。
 たとえば、写真に関しては、まずは、長倉氏が言っている本当の意味での「いい写真」を、たくさん見るしかない。
 世の中に溢れているのは、よくない写真が99%以上。その中から、心して、ものを見る目、人を見る目を養っていくしかない。
 繰り返しになるが、誰でもスマホなどで写真が撮れる時代、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤がない写真は、ただのカッコつけた写真であり、写真によって世界の本質を歪めてしまう、”よくない写真”だと思う。

第1045回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化(3)

 

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京都の南、宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台で、平安時代、貴族の別荘が営まれていた。宇治平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる源融の別荘だったものが宇多天皇に渡り、その後、紫式部が仕えた藤原道長の別荘「宇治殿」となった後、道長の子の藤原頼通が、宇治殿を寺院に改めた。開山は小野道風の孫、明尊である。

 第一回目の記事で、橘嘉智子や隼人と梅宮大社のことに触れながら、”もののあはれ源流”についての私の洞察を書いたけれど、その続きとして、『源氏物語』の著者である紫式部にくわえ、”小野氏”との関係についても考えたみたい。

 紫式部は、大津の石山寺において、『源氏物語』の執筆を、「須磨」と「明石」の帖から書き始めたと、長い間、伝えられてきた。近年になって、そうではなかったのではないかと異論を唱える研究者も出てきたようだが、その真偽の証拠探しはともかく、長いあいだ、そう伝えられきたことに意味があると思う。

 石山寺は、琵琶湖から大阪湾へと流れる、瀬田川宇治川、淀川(場所によって名が異なる)の出入り口に位置し、巨大な磐座の上に寺院が建造されており、仏教伝来以前からの聖地だった。そして、このあたりは、かつて海人(隼人)の居住地だった。

 そして、源氏物語の中でも描かれている須磨や明石も、海人の活躍する場所だった。

 源氏物語の主人公、光源氏は、住吉の神に救われるが、住吉三神は、現在も、航海安全の神として信仰を集めている。

 源氏物語と、海人の関係を、無視することはできない。

  話は少し脇にそれるが、紫式部の墓が、京都の西陣堀川通沿いに小野篁の墓と並んでいる。

 この2人は、生きた時代が150年ほどずれているのに、なぜ墓が並んでいるのか、明確な理由はわかっていない。男女の秘め事を書いた紫式部が死んで地獄に落ちないように、閻魔大王に仕えていた伝説のある小野篁に守ってもらうためという俗説があるが、彼女が生きたのは恋愛にオープンな時代であり、そんな陳腐な理由でないことは明らかだ。

 小野氏というのは、ルーツが和邇氏であり、海人の末裔だ。そして、古墳時代から、生と死のあいだの祭祀を司ってきた。

 古代、大王が亡くなった時、土師氏(菅原道眞の氏族)が古墳を作り、多治比氏(菅原道眞の祟りを言い出し北野天満宮に祀られている多治比文子の氏族)が石棺を作り、祭礼を取り仕切ったのが小野氏だとされる。さらに平安時代の文献から、小野氏は、その領地内に猿女氏を取り込んでおり、小野氏から猿女を出していたという記録もある。

 猿女というのは、 アメノウズメを始祖とし、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。古事記の作者、稗田阿礼もその一族だ。

 さらに、天皇に関する歌や、挽歌で知られる飛鳥時代歌人柿本人麻呂も、和邇氏の末裔で小野氏と同族である。

 古事記』を読めばすぐにわかるが、天皇以外で登場するのは、圧倒的に和邇氏が多い。天皇と恋愛する女性の情感溢れる物語は、ほとんどが和邇氏の娘である。しかも、河川の近くが舞台になっていることが多い。

 和邇氏の娘が天皇に嫁ぐということは、和邇氏が、次に生まれる天皇の実家ということになる。天皇の系譜として表には出ていなくても、天皇のなかには、和邇氏の血が流れ込んでいる。

 話を『源氏物語』に戻すと、源氏物語の主人公は、もちろん光源氏であるが、54帖もある長編の源氏物語の読破した人は、日本人でも少なく、光源氏が、第41帖の『雲隠』で、物語から姿を消してしまうということを知らない人は多い。

 光源氏が姿を消してからの主人公こそ、明石一族であり、光源氏の栄華は、明石一族の栄華を描くための布石となっている。

 住吉神を崇敬する明石入道は、神の導きによって光源氏と出会い、娘を光源氏に嫁がせる。そして、光源氏とのあいだにできた明石の姫が皇后となり、大勢の子供達を産む。その後の天皇に明石一族の血がつながっていくことになるが、この展開は、和邇氏(小野氏)の史実と重なってくる。

 さらにいくつか、紫式部と小野氏がつながる事実がある。

 京都は風水で守られた都だが、その四つの門、鬼門(東北)、風門(東南)、人門(西南)、天門(北西)において、鬼門、天門、風門のところが、小野氏の拠点の小野郷となっている。

 北東は比叡山の麓の八瀬の小野郷。ここは天皇が亡くなった時に棺を運んでいた八瀬童子で有名だが、八瀬の崇道神社に小野妹子の息子の小野蝦夷の墓がある。南東が、醍醐寺のそば、随心院のある小野郷で、小野町子や小野篁が生まれ育った場所。そして、西北が、京北と神護寺のあいだの小野郷で、源氏物語の中で、光源氏の息子である夕霧にしつこく婚姻を迫られる落葉の姫が隠棲するところだ。

 そして残りの一つ、西南の人門は、紫式部氏神である大原野神社がある。ここは、小野郷ではなく、春日という地。春日というのは、奈良の若草山のあたりの地名で、和邇氏の拠点がこのあたりだった。また春日氏というのは、小野氏や柿本氏と同じ和邇氏の末裔である。

 このように見ていくと、京都の四隅の門を、和邇氏の血が守っているということになり、その一角が、紫式部が大切にしていた大原野なのだ。

 さらに、紫式部と小野氏の関係を示すもう一つの事実。それは、紫式部のルーツが、京都の風門(東南)の”小野郷”にあること。

 紫式部の父親である藤原為時の母親は、藤原定方の娘である。藤原定方の墓は、京都東南の小野郷、山科川の近くにある。

 藤原定方は、この地の豪族、宮道弥益(みやじいやます)の娘、宮道列子藤原高藤のあいだに生まれた。つまり、紫式部のルーツは、山科の”小野郷”の豪族、宮道氏である。

 現在、宮道氏の館跡に宮道神社があるが、小野町子が住んでいたとされる随心院と、山科川をはさんで存在している。宮道氏が、小野氏と、どういう関係だったかはわからない。宮道氏はヤマトタケルの末裔と称しているが、ヤマトタケルゆかりの地は製鉄と関係が深い。もしかしたら、小野氏のもとで活躍していた製鉄関係者だったかもしれない。

 宮道氏の館の敷地の大半は、現在、勧修寺になっている。観修寺の創建者は第60代醍醐天皇であり、醍醐天皇の墓は、山科川対岸の小野郷にある。醍醐天皇の墓の東に、小野寺という小野氏氏寺の遺蹟が見つかっており、醍醐天皇と小野氏の関係が気になる。

 さらに、なぜ醍醐天皇が宮道氏の館を観修寺にしたかというと、醍醐天皇もまた、宮道氏の血縁者だからだ。紫式部のルーツにあたる藤原定方を産んだ宮道列子は、藤原高藤とのあいだに藤原 胤子(たねこ)という娘も産んだ。この 胤子が、その当時、臣籍降下して源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて産まれたのが醍醐天皇だった。醍醐天皇は、源氏の身分で産まれて天皇になった唯一の天皇である。

 つまり、紫式部と第60代醍醐天皇は、宮道列子宮道弥益という共通の祖先を持つ。

 宮道氏の館のすぐそばの山科川は、宇治川と合流しているので、琵琶湖、大阪湾への海上交通の要所でもあった。

 紫式部は、光源氏の父親、桐壺帝を、理想的帝王として描写しているが、それは、聖代とされる醍醐天皇の時代がモデルとされる。

 紫式部は、子供の頃から行動をともにしていた父親の祖父の甥が醍醐天皇であることは、当然、知っていただろう。しかも、醍醐天皇が、源氏の身分で産まれながら天皇になり、天皇親政を実現し、後の時代に理想とされる治世を築いたことを。

 理想の天皇の子として産まれながら源氏の身分に臣籍降下した光源氏を華やかに描き、光源氏と、明石入道という海人と関わりがありそうな氏族の娘とのあいだに明石の姫が生まれ、その血を受け継ぐ天皇の時代の到来を示して、『源氏物語』は終わる。

 その展開は、日本という国の権威構造の作られ方が、暗示されているように思える。

実力者の権力で国を統一し、管理するのではなく、権力者が入れ替わろうとも、永久に人々に崇め続けられる権威的な仕組み。その仕組みは、一つの氏族によって伝えられるのではなく、異なる氏族が複雑に組み合わさって形成される。

 醍醐天皇の時代が理想とされたのは、その前後に時代は、藤原氏によって政治が牛耳られ、それに不満を持つ貴族が多かったからだ。たしかに、醍醐天皇の時代は、菅原道眞のように実力で出世する人物もいたが、9世紀後半から10世紀というのは、遣唐使の廃止や律令制の行き詰まりなど、大きな変化があり、大きな改革が必要があった時代でもあった。

 この変化は、当然ながら、醍醐天皇の時代に急激に起こったわけではない。

 醍醐天皇の祖父にあたる第58代光孝天皇は、第54代仁明天皇の第三子であったために、天皇になることを想定せずに、官職をつとめながら学問と和歌・和琴諸芸に励んでいたが、884年、55歳になって、急遽、天皇に即位させられた。

 そういう展開のなかで、自分の子孫に皇位を伝えない意向を表明し、息子の宇多天皇を含む全員を、源氏の身分に臣籍降下させたのだ。

 しかし、即位して3年で病に臥せり、次代の天皇が候補者が確定していなかったために、宇多天皇が、急遽、源氏の身分から親王に復し、立太子し、その日に光孝天皇崩御して宇多天皇が第59代天皇として即位(在位887〜897)するという、慌ただしい3年間があった。

 この3年に何があったのか?

 実は、光孝天皇が幼少の頃から寵愛を受けていたのが、(1)の記事で書いた橘嘉智子だった。橘氏というのは、県犬養氏のことで、もともとは、木津川や吉野川を拠点にしていた海人(隼人)だと思われる。

 そして、光孝天皇の息子、宇多天皇とのあいだに醍醐天皇を産み、皇太后となる藤原胤子は、宮道氏という山科川沿いの豪族の血をひく。

 さらに、宇多天皇を猶子(ゆうし)=養子のようなもの、として、天皇即位の強力な後ろ盾となったのが藤原淑子で、彼女の母は、難波氏だった。難波氏は、現在は大阪の地名であるが、もともとは、鉄の産地、備前に拠点をもっていた氏族(おそらく渡来系)だった。

 さらに宇多天皇の母親の班子女王(はんしじょおう)の母方は当宗氏であり、渡来系の東漢坂上の一族である。

 そして、宇多天皇は、即位してすぐ阿衡事件(あこうじけん)で、自分の参謀であった橘氏県犬養氏)の橘広相が、藤原基経によって失脚させられ、それを嘆き悲しみ、この事件の最中、光孝天皇の遺志を継ぐ形で、888年、仁和寺を創建した。

 仁和寺は、蚕ノ社と双ヶ岡という秦氏と関係のある聖域の真北に位置し、さらに北に位置する鴨川源流の雲ヶ畑(ここも秦氏の姓が多い)と一本のラインでつながっている。

 第58代光孝天皇から第60代醍醐天皇に至る時代、850年頃から950年頃の変化と改革の時代に背後に、難波氏、宮道氏、橘氏秦氏、当宗氏、小野氏といった海人や渡来系の人々の影響が見え隠れする。

 紫式部のルーツにあたる山科の小野郷、宮道氏の館があった場所の目の前に吉利倶八幡宮がある。

 伏見城の鬼門にあたることから豊臣秀吉に大切にされたらしいが、創建は、853年とされる。

 853年は、ちょうど、この地に生まれ育った小野篁が死んだ時だ。宮道弥益の生まれ年はわからないが、882年に従五位上となった記録があるので、彼もまた、ほぼ同じ時期を生きていた。

 先日、吉利倶八幡宮を訪れたが、八幡山(亀甲山)の中腹にあり、境内に、金山彦神という製鉄の神が、過去に祀られていた形跡があることに気づいた。

 この紫式部のルーツとなる宮道氏の拠点は、紫式部源氏物語を書き始めたとされる大津の石山寺と、紫式部氏神である大原野神社と、東西につながる一本のライン上にある。さらに、宮道氏の館の真南が、源氏物語「宇治10帖」の舞台で、真北が、平安京の鬼門(東北)の小野郷の八瀬。

 平安京大極殿、その鬼門の八瀬と、人門の大原野神社のラインと、石山寺と宇治は平行だから、宇治にとって石山寺は鬼門の位置である。

 そして、平安京大極殿の鬼門のラインをさらにのばすと、琵琶湖の西岸にある和邇の地であり、そこに小野篁など小野氏を祀る小野神社がある。

 宇治と、石山寺のラインの延長上(鬼門のライン)にあるのは、琵琶湖の東岸の近江富士と言われる三上山であり、この山に降臨した天御影神の末裔の息長水依存比売(おきながみずよりひめ)が、和邇氏(小野氏)の血を受け継ぐ彦座王(ひこいますおう)と結ばれ、その末裔が、第12代景行天皇ヤマトタケルである。

 琵琶湖の東と西の和邇氏ゆかりの地が、平安京大極殿と、石山寺や宇治の鬼門になっているのだ。

 ラインの謎はさらにあり、紫式部のルーツ、京都西南の小野郷と、かつて巨椋池のあった石清水八幡(宇治川、木津川、桂川の合流点)も、鬼門のライン上にあり、そのライン上に、豊臣秀吉伏見城を築いた。だから、紫式部のルーツの小野郷にある八幡神社を、秀吉は大事にした。そして、石清水八幡の真北が、(1)で言及した梅宮大社で、石清水の対岸にある離宮八幡(橘嘉智子が嫁いだ嵯峨天皇離宮跡)の真北が、嵯峨野の天龍寺橘嘉智子が築いた檀林寺)となる。

 もともとの石清水八幡とされる離宮八幡と宇治平等院という、隼人(海人)や小野氏と関係があるところも、東西のライン上にある。

 偶然とはとても思えない歴史上の刻印は、あまりにもミステリアスだ。

 

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第1044回 日本の古層 〜相反するものを調和させる歴史文化〜(2)

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古代からの聖地、ヤマトの三輪山の麓にある巨大な前方後円墳箸墓古墳古墳時代初期、3世紀末から4世紀初頭)

 第125代天皇の譲位の日が近づいている。

 地上の権力者が誰になろうが関係なく、古代から連綿と続いてきた天皇制という日本特有の権威システムの不可思議さ。 

 飛鳥時代歌人柿本人麻呂は、軽皇子(後の第42代文武天皇)と阿騎の野に出かけた時に詠んだ歌に、天皇に関する言葉がある。 

 

やすみしし わご大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと・・・

 

 「やすみしし」というのは、「四方八方を知る」ということで、「わが大君は、くまねく国土全般を明るく照らす太陽であり、実に神々しい」という意味であろうか。

  前回の記事でも書いたが、日本の天皇制は、中国の支配者のように世俗の実権と権威の両方を握って国を支配するのではなく、地上を照らす太陽のように、世俗の権力者が入れ替わっても変わることのない神聖な権威によって国を修めるという特有の在り方で、人類史上稀に見る長期間にわたって続いてきた。

 天皇は武力で威圧して國家を管理しているのではなく、太陽の神の御子としての神聖なる権威によって国を治めていて、その権威の根幹は、四方八方に通じて天神地祇を祭られる<天皇の祭祀>なのであり、これは今も変わらない。

 そして、これは大事なことだが、連綿と続いてきた天皇の権威というのは、天皇家万世一系であるとか、純粋の日本人だからということではない。

 天皇家の血筋は、第26代継体天皇(在位507〜531)の時に変わっている可能性が大きいし、第50代桓武天皇の母親の高野新笠は、土師氏と百済系渡来人氏族のあいだの娘である。また、第59代宇多天皇(在位887〜897)の母である班子女王(はんしじょおう)の母は当宗氏であり、渡来系の東漢坂上の一族である。

 そもそも、聖徳太子の時代の飛鳥地方は、道ゆく人は渡来人の方が多かったくらいなので、純血の日本人という概念は意味がないのだ。

 相対するものを調和させてきたのが日本的システムであり、天皇制という権威システムは、その中心にある。この調和のシステムを作り上げたのは、純日本人ではなく、相対するもの同士の知恵の寄せ集めだろう。 

 この日本的システムがどのように整えられていったのかを深く理解せずに、今そしてこれからの自分たちの在り方を考えることはできない。いつまでたっても、欧米からの新しい情報知識の後追いすることが次の時代につながるという感覚でいると、思想的にも、感受性としても、日本の精神的風土が貧相になるばかりであり、価値観の拠り所を失い、アメリカや中国の動向に神経質になりながら、その駆け引きに巻き込まれ、煽動され、国を滅ぼす選択を強いられる可能性もある。

 戦前の皇国史観の過ちのトラウマが依然として残り、さらに、神の国という単純化された国家神道の亡霊を、この時代においても呼び起こそうとする空疎な人々が相変わらず存在しており、さらに流行のグローバリズムの影響で、日本の歴史に向き合うことが、古ぼけて偏狭な価値観の持ち主であるかのような誤解がある。

 果たして、そうだろうか? 物事の本質と向き合わず、他人の知識や情報や考えを右から左に流すばかりで、言動が散漫で一貫性がなくなっていくのは、世界のことや歴史の本質に向き合って自分の頭で考えていないからではないか。

 歴史の謎と向き合うというのは、邪馬台国がどこにあったかを議論することだけではなく、日本という精神的風土の成り立ちや、その風土で育まれてきたものの本質を探ることであり、それは、自分の思考や価値観、世界観や人生観に責任を持てるようにするためだ。

 天皇の譲位という歴史の節目において、そのことを改めて認識するとともに、考えれば考えるほど、知れば知るほど、謎と驚きに満ちた日本の古代を探っていきたい。

 最先端のテクノロジーによる太陽系探査の新情報にも胸が踊るし、若い頃から続けてきた世界の秘境地域、極北やサハラ砂漠熱帯雨林や野生動物の楽園への旅も魅惑的だが、地球儀で見ればあまりにも小さな島国なのに、未だ十分に知ることさえできていないこの国の歴史文化の地層こそが、今、もっとも心を惹きつける。

 近年になって、あまり大きなニュースにならないのが不思議なくらいだが、巨大な古代製鉄跡の発見とか、歴史が書き換えられるような大発見が次々と起こっている。

 日本の古代は、これまで教科書でならってきたものより、はるかにダイナミックで、システムとしても精巧で、麗しいものだったような気がしてならない。

 考古学も、文献学も、様々な角度から探求を続けているが、時代が進むにつれて真理に近づいているのではなく、実証主義にとらわれすぎるあまり想像力が萎んでしまい、次々と出てくる新たな実証の後追い分析を繰り返しているうちに、思考の迷路に陥り、縦割り行政のように狭い領域に閉じ込められ、総合的な推論ができない状態になってきているようにも思われる。

 一方、依然として不確かなことの方が多すぎるにもかかわらず、伝統にあぐらをかいただけの相続者、歴史趣味人、文化通が、教養人の代表として、各種の文化イベントに繰り返し登場する。クイズ番組のように、それらしい解答で、”すっきり”としたい大勢を満足させるために。

 長い年月を経て積み上げられてきた歴史文化は、現代的価値観で”すっきり”と整理できるものではない。

 しかし、ミステリアスなものほど、人は惹かれる。

 日本の文化史上、もっとも長く、多くの人々に愛され、影響を与えてきたものの代表が、『源氏物語』であり、それは、この小説が、華やかな宮廷生活を描くだけでなく、随所に怨霊が登場するなど、人為を超えた力が多く描かれ、人間存在の不確かさ、その宿命の受け止め方が人によって様々で、自分に引き寄せて色々と考えさせられる余地があるからだろう。

 日本の文化史上、もっとも重要な作品であるにもかかわらず、触れようともしない人が大勢いるのは、一千年も前の話だから自分と関係ないと思う人が多いからだ。それゆえ、その魅力もわからない。読んだわけでもないのに、女たらしのプレイボーイの話だと信じ込んでいる。

 伝える側にも責任があるのだが、いずれにしろ残念なことだ。

 『源氏物語』に限らず、多くの日本文化が、現代の価値観で都合よく整理されて、その本質から遠ざけられ、単なる美術館の展示物になって、間に合わせの解説文を添えられているが、それを消費することが現代の文化教養となってしまっている。

 経済の問題も大事かもしれないが、本当の意味で、文化の問題が、かなり危機的な状況かも知れない。

 文化の不毛は、じわじわと、人の心を蝕んでいくから。

 

第1043回 日本の古層〜相対するものを調和させる歴史文化〜(1)

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梅宮大社

 天気の良い暖かな日が続くので、桂川の東岸にある梅宮大社に梅を見に行く。この神社は、同じ松尾エリアの松尾大社ほど有名ではないが、立派な名神大社だ。

 かつては桂川のすぐ近くまで広大な神域を誇り、川をはさんで西の松尾大社と並び立っていたのではないだろうか。

 この神社の創建は、橘嘉智子。私のなかで、”もののあはれ源流”の要に位置する重要な人物だ。

 彼女は、桓武天皇の次男である第52代嵯峨天皇の皇后で、日本最古とされる禅寺の檀林寺を創建した。その場所は、現在、嵯峨嵐山天龍寺があるところで、周辺の竹林は、外国人観光客に大人気の写真スポットになっている。(嵯峨野には、現在、檀林寺という同じ名がついたところがあるが、あれは、まったく別もの)。

 京都の松尾と嵐山の桂川のほとりに二つの社寺を創建した橘嘉智子は、絶世の美女だったが、諸行無常の真理を自らの身をもって示すため、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず路傍に放置せよと遺言し、帷子辻において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示し、その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある。

 彼女は、平安前期、真の意味で、禅の精神を唯一理解する日本人だったと言われ、禅を学び、日本に広めるため、中国から義空禅師を招いた。

 中世において上流階級に重んじられて発達した禅は、”わび”や”さび”という趣とつながり、茶道や俳諧などの日本特有の文化を育んでいったが、もともとは、自分の内にある仏性に気づき、身も心も一切の執着から離れることを目指す修行だった。

 橘嘉智子が、なぜ、桂川にそって松尾と嵐山に二つの社寺を築いたのか。

 もともと梅宮大社は、藤原不比等の妻、県犬養三千代が、現在の京田辺の井出町、木津川のそばに創建したものだった。そのすぐ西には甘南備山があり、その山頂が、月読神の降臨した場所とされ、甘南備山の南の大住(鹿児島の大隅半島おおすみ)にある月読神社が、隼人舞発祥の地である。すなわち、このあたりは、隼人の居住地域だった。

 県犬養氏は、壬申の乱において、天武天皇が吉野で挙兵した時から付き従い、その活躍によって橘という氏姓を賜った。すなわち、橘嘉智子は、県犬養氏の末裔だ。そして隼人は、悪霊を鎮める呪声の犬吠を発するなど、”犬”との関係が深く、さらに犬養三千代が梅宮大社を築いた京田辺は隼人の居住地であったので、県犬養氏は、隼人そのものか、隼人と関係が深い氏族ではないかと思われる。

 それゆえ、橘嘉智子が、桂川沿いに二つの社寺を作った理由も、隼人と関係あるのではないだろうか。なぜなら、隼人の畿内の居住地は、京田辺、亀岡、宇治田原町、奈良の五條、大津の石山寺など、木津川、吉野川宇治川桂川に沿ったところにあり、川によって奈良、京都、大阪、吉野を結び、瀬戸内海と琵琶湖(日本海に至る)や近畿の内陸部を自由に行き来できる海上交通の要所だったからだ。

 そして、檀林寺や梅宮大社下流桂川が木津川と宇治川に合流するところに、かつては巨椋池という大きな湖があった。現在、その地には石清水八幡宮が鎮座するが、もともとは、その対岸の大山崎にある離宮八幡宮石清水八幡宮の元社だった。さらに離宮八幡宮は、橘嘉智子の伴侶である嵯峨天皇離宮跡だった。

 離宮八幡の地は、それ以前は、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)があり、この神社は、現在、すぐそばの天王山の頂上近くに鎮座する。
 祭神は酒解神スサノオで、酒解神が、橘氏の先祖神であると言われている。
 「源氏物語」の登場人物や、源頼朝につながる源氏氏族は、嵯峨天皇が、奈良時代から続く血なまぐさい後継者争いで肉親が殺しあわないように、自分の皇子・皇女を臣籍降下させて源氏を名乗らせたことに始まる

 源氏と八幡は関係が深い。源氏が東国において勢力を拡大させたのは八幡太郎の通称で知られる源義家の活躍によるものだが、彼は、石清水八幡宮元服し、それ以来、八幡は源氏の氏神とされ、源頼朝が、鎌倉に鶴岡八幡宮を創建するなど、武士の時代となってからは、八幡神社は全国に広がり、神社の数では一番多いものとなった。

 八幡神が全国的なものになる起点は、859年、清和天皇が、神託により国家安泰のため、そして平安京の守護神とするため、九州の宇佐神宮から八幡神を分霊し大山崎嵯峨天皇離宮の跡地に勧請したことに始まる。

 八幡神社は、祭神として応神天皇神功皇后が祀られているが、この2人の神話は、戦いを通じて日本国家を統一していった立役者として描かれている。なので、勝利の神として、武士や商売人に支持されたことは理解できる。

 しかし、一つ、わからないことがある。

 離宮八幡宮のある大山崎は、今でもサントリー山崎の工場があるように、酒作りと関係が深く、離宮八幡宮には酒解神が祀られている。しかし、後からその対岸に作られた石清水八幡には、酒解神は祀られていない。

 そして、大山崎から桂川を遡っていくと京都の松尾で、その東岸の梅宮大社には酒解神が祀られているが、西岸の松尾大社には祀られていない。にもかかわらず、松尾大社は、全国の酒造家の聖地なのだ。松尾大社では、祭神のオオヤマクイが酒の神ということになっているが、同じ神を祀る比叡山の麓の日吉大社が、酒と関係あるわけではない。

 これはいったいどういうことだろうか?

 酒解神というのは、オオヤマツミという国津神のことで、天孫降臨のニニギに嫁いだコノハナサクヤヒメの父だ。

 そして、コノハナサクヤヒメは、隼人の祖先とされる海幸彦を産んだ。

 なぜ松尾大社が酒の聖地になったのかは謎だが、気になるのは、松尾大社の奥に、月読神社があることだ。

 上に述べたように、梅宮大社がもともとあった京田辺の井出は、隼人の居住地で、月読神が降臨した甘南備山がすぐそばにある。

 甘南備山の真北が、平安京の真中の朱雀通りで、平安京を建設する時、この山が一つの軸になったとされる。

 そして、隼人のルーツ、鹿児島の桜島にある月読神社は、和銅年間(708〜715年)に創設されたと伝わる由緒ある神社だが、ここに、コノハナサクヤヒメ解子神(サケトケノコカミ)」が祀られている。どうやら、月読神と、酒の神と、隼人が結びついているのだ。

 そして、京都の松尾大社の創建は701年だが、その奥の月読神社は、日本書紀によれば487年で、こちらの方が古い。

 なので、松尾から嵐山にかけての一帯は、もともと月読神と関わりが深く、隼人にとっても大切な場所だった可能性がある。(嵐山から保津川渓谷を抜けた亀岡で、桂川の支流の犬飼川のほとりの佐伯郷が隼人の居住地だった記録は残っているし、亀岡には、名神大社の小川月神社など月読神を祀る神社が多い)。

 橘嘉智子橘氏は、奈良時代は、犬養三千代の子供である橘諸兄などの活躍で天皇の側近として実権を握っていたが、その後、藤原氏との政争に敗れて、存在感を失っていった。

 さらに橘嘉智子の時代は、血みどろの権力争いが続き、そのため、嘉智子の伴侶の嵯峨天皇が、自分の子供達が権力争いに利用されないように臣籍降下させる措置を行うほどだった。

 橘嘉智子は、そういう時代を生き、さらに橘氏の栄枯盛衰を身にしみて感じ、そのうえ、九州に残っている隼人が、奈良や京都の政権が中央集権化を急激に進めることに反発し、その鎮圧のための戦いが繰りかえされる状況でもあった。 

 橘氏は犬養氏であり、犬養氏が隼人だったとすると、橘嘉智子が、諸行無常を悟り、禅に傾倒し、桂川沿いの松尾に梅宮大社、嵐山に檀林寺を築いたのは、十分に理解できる。

 ここで考えなければならないのは、権力を獲得する側と、権力を譲る側の関係だ。

 国津神酒解神であるオオヤマツミは、自分の娘のコノハナサクヤヒメを天孫降臨のニニギに嫁がせた。この2人の子供が、山幸彦と海幸彦で、山幸彦は、神武天皇から続く天皇家につながる祖先であり、海幸彦は隼人の祖先で、隼人は、朝廷の守り人となる。

 日本の歴史は、勝者が全てを奪い取って、敗者を全滅させる歴史ではない。

 この二つは重なり合っており、それが日本特有の権威システムを作り上げた。中国は、権威ではなく権力で国を修めたので、権力者が変われば全てが入れ替わる。しかし、日本特有の権威システム(天皇制)は、権力の実権が誰にあるかに関係なく、システムとして連綿と連なる。

 そのシステムは、敗者とされる側が、陰の力としてシステムに組み込まれていることに特徴があり、だから、日本の歴史や文化は、征服と被征服、勝者と敗者の二元論で捉えようとすると、理解できないことが多くなる。

 相対する二つのものの調和こそが、日本の歴史と文化を解く鍵なのだ。

 隼人というのは、蝦夷とともに、朝廷に対して、たびたび反乱をした人たちと教科書では教えられているが、隼人の歴史的な位置づけは、それほど単純ではない。

 隼人舞は日本の伝統芸能のルーツの一つであり、隼人舞は、やがて猿楽となり、さらに能楽へと発展したとも言われる。

 たとえ政治的に表舞台から姿を消したとしても、隼人舞や、橘嘉智子が身をもって実践した諸行無常の精神が、”もののあはれ”という日本文化の底流となっている。

 日本は海に囲まれた島国であり、その狭い国土は、毛細血管のように河川ネットワークが張り巡らされている。隼人のように海や川を自由に行き来できた人々だからこそ、日本の風土を知り尽くし、それに見合った人生観や世界観を生み出し、そこから固有の文化が育っていった。

 歴史的には敗者かもしれないが、もしかしたら、その敗者の美学が、この国の文化の主流になっているのかもしれない。

 ”もののあはれ”とは、勝者の驕りから生まれる美意識ではないのだから。

  ちなみに、鹿児島の桜島にある月読神社は、コノハナサクヤヒメを祀っていると上に記したが、この神社を起点に、夏至の時に太陽が昇る場所の線を引いていくと、日向の吾平山上陵=ウガヤフキアエズ神武天皇の父)の陵と、伊勢の月夜見宮、さらには、富士山と結ばれる。

 コノハナサクヤヒメは、富士山を御神体としている富士山本宮浅間大社と、配下の日本国内約1,300社の浅間神社に祀られており、富士山とコノハナサクヤヒメの関係を説明するものは多々あるが、どれも、説得力が弱い。

 ウガツフキアエズは、山幸彦と、海神(ワタツミ)の娘の豊玉姫の子であり、育ての母が、豊玉姫の妹の玉依姫だから、あきらかに、海人との関係が考えられる。そして、富士山と桜島のあいだの伊勢には、月夜見宮と月讀神社があり、月読神が祀られている。

 桜島から富士山を結ぶ夏至の時の日の出のラインは、松尾大社下鴨神社比叡山、九州の阿蘇神社や、長野の諏訪大社を結ぶラインと平行である。

 この二つのラインは、相対する二つのものの調和が関係しているように思われてならないのだが、その真相は、私にはまだわからない。

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上のラインは左から阿蘇神社、松尾大社(月読神社)、下鴨神社比叡山諏訪大社。下のラインは、左から桜島の月読神社(コノハナサクヤヒメも祭神)、伊勢の月夜見神社、富士山(富士山本宮浅間大社の祭神が、コノハナサクヤヒメ)。

 

第1042回 能面に伝わる人類のタマシイ

 ニューヨークに活動の起点を置く写真家、井津建郎さんが京都に来て、数日間、一緒に過ごすことになった。

 井津さんは、7、8年ほどかけて一つのテーマをじっくりと追っているが、現在のテーマは、日本の能面。彼が撮った能面の凄みのある写真を見せてもらい、一緒に酒を飲みながら、京都でどなたか協力してもらえそうな人はいないかということになり、それならばきっと、河村能舞台の河村晴久さんが適任だと思い、この先の井津さんの仕事のために縁だけつなごうと連絡をすると、奇跡的に、1日だけすっぽりとスケジュールが空いていると返事があった。
 ならば急なことだし、夕飯時にかかるので、15分くらいでいいので、井津さんの紹介と、井津さんの能面の写真を見てもらいたいと、河村能舞台まででかけた。
 すると、想像していたとおり、河村さんは、井津さんの写真にえらく感心し、15分の挨拶どころか、河村さんがお持ちの能面を奥から出してこられ、ずらりと並べて、一つひとつ、話を聞かせてもらった。ふだん、生で間近に見ることのできない桃山時代室町時代の至宝などを堪能させていただき、能面に凝縮している日本文化の背後を流れる強烈な何かを感じずにはいられなかった。
 能面は、マスクではなく、オモテと言う。マスクというのは、顔にかぶせる。つまり、自分のウチとソトの境目に在る。しかし、オモテというのは、自分のウチが、ソトに現れ出るということだ。だからそれは、タマシイと言っていいもの。
 そのタマシイは、中世日本の文化の形というよりは、古代から連綿とつながるもの。能面は、まさに、そうした悠久の時間のなかに、立ち現れてきている姿なのだ。
 だから河村さんは、そのオモテを身に着けることは、並大抵のことではない、若い時から、いつこのオモテをつけられるようになるだろうと思いながら、オモテを見つめ続けてきたと言う。
 井津さんは、自分では能の初心者だと素直に言う。しかし、その写真は、ストレートに河村さんに伝わった。能の知識や経験といった表層的で形式的なことは関係ないのだ。
 私が、なぜ河村さんに連絡したかというと、河村さんは、そういう表層的で形式的でカタログのような能文化の紹介の仕方に危機感を持っており、能の真髄をどのように伝えていけるか、苦慮し、苦闘しておられるからだ。もちろん、自分の心身を通じて舞台で表すことがもっとも重要だが、それ以外にも、海外での講演をはじめ、様々な方法で、能の真髄を伝える努力をし続けている。
 しかし、たとえば生の能面を、大勢の人に、直接、見ていただくことは、簡単なことではない。だからといって、写真で見せたところで、これまでは、その真髄が伝えられるような写真とは出会わなかった。
 だが、井津さんが、8×10の超大型のフィルムカメラで撮った能面の写真の、”自由度”に、河村さんは、かなり惹きこまれていた。
 井津さんは、午前中に1枚、午後に1枚の写真を撮る。自然光で、一回のシャッターが数十分というピンホールカメラよりも長時間露光で。
 8×10インチフィルムの情報力は素晴らしい。オモテの微妙な傷も逃さない。しかし、井津さんは、その描写力に頼っているだけではない。ふつう、8×10インチフィルムの写真は、情報力は秀でているものの、カメラ自体が巨大なため、カメラの制約を感じさせるものが多くなる。情報量は素晴らしいが、自由度がなく、型通りになりやすい。といって、型から逃れようとしてもわざとらしく、意図が透けて見えてしまい、かえって不自由に見える。
 井津さんは、能面の内から生じるものに大型カメラを寄り添わせていくことができる。大型カメラの不自由さをまったく感じさせない自由度がある。それはなぜかというと、何十年ものあいだ、8×10インチの大型カメラのさらに4倍もある14インチ×20インチの超巨大カメラ(カメラだけで100kg超)を使って、アンコールワットカイラス山など、世界の聖地を撮り続けてきたからだ。現在、この超巨大カメラを完璧に使いこなせるのは、世界で片手で数えられるほどだろう。
 だから、井津さんいわく、8×10インチの大型カメラは、14インチ×20インチを主戦場にしてきた自分にとって扱いがとても楽で、カメラを意識せずに、つまり道具が身体の一部になったかのように撮影できるので、楽しくて仕方がないと。
 面白いのは、井津さんは、ピラミッドとかアンコールワットとか、古代から連綿と続く人類の巨大な足跡を撮り続けてきて、その後、それらを作り出した人間の信仰の力に関心を持ち、ブータンとインドを、それぞれ、8年ずつくらい通い、その後に、日本の能面に至った。
 ピラミッドやガンジズなど世界の聖地を巡り歩いた後、能面に至ったのは、能面には、古代から現代まで人類が受け継いできたタマシイが宿っているからであり、そのタマシイに、井津さんのタマシイが感応しているからだろう。 
 一枚の能面の中には、世界中の聖地を流れるタマシイが凝縮している。オモテに現れているタマシイを表現すること。河村さんが能の舞台で伝えたいと願う能の真髄も、そこにあるような気がする。
 *この写真は、井津さんの最新完成作、「ETERNAL LIGHT」より。

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第1041回 病老死を遠ざけたいという、現代の屈折した病

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201902/0012086861.shtml

 2019年2月22日の神戸新聞の記事によると、望ましい最期の場所を余命の短い患者らに提供する施設「看取(みと)りの家」が神戸市須磨区で計画されていることに対し、近隣住民らが反対運動を展開している。施設は、1970年代に入居が始まった須磨ニュータウンの一角にある。少子高齢化の進行で周辺では空き家が増加している。

 昨年10月、事業者が自治会関係者に事業概要を文書で伝えたところ、自治会側が反対の意思を表明。詳しい説明を求める住民と事業者がもみ合いになり、警察が出動したこともあった。自治会側は「看取りの家はいらない」「断固反対」と記したチラシを住民に配布し、各戸の外壁に張り出した。その後、事業者側が住民説明会を申し入れたが、自治会側は拒否している。 

 日本に愛着はあるけれど、日本にいて、なんともやりきれない思いになるのが、こういうニュースに触れる時だ。

 世界の様々な地域を旅したことがある人なら実感としてわかると思うが、日本よりも生活水準が低いにもかかわらず、日本よりも、心豊かに、幸福そうな顔で生きている子供や老人が多いという現実に触れて、人間の豊かさとはいったい何だろうと思わずにいられない、という経験をした人は多いと思う。

 日本は、これから先の20年、相当な危機に直面するだろう。人類史のなかで経験したことのないような、共同体の中に占める高齢者の数。しかも、その高齢者が、病や老いや死を、悪の巣窟のようにとらえ、遠ざけようとすると、いったいどうなるだろう。

 健康産業は潤い、テレビのコマーシャルは、健康に関わる通販番組と、やかましいだけなのに、それが元気で健康的であるかのように見せる番組(消費者に媚びたスポンサーとテレビ局のマーケティングによって)ばかりになるだろう。

 そして、政治は、直面している危機を、統計不正など色々な手段でごまかして、虚ろな大衆に媚びた政策を続けるのだろう。

 さらに、各種の表現に携わる者たちは、こうした偏狭な価値観の変容を促すために努力すべきなのに、政治家と同じように、自身の虚栄を優先して、事態の本質に向き合わず、刹那的な刺激を提供し続けることに、かまけるのだろう。

 虚ろな人々は、自分の子供が通うための保育園や、自分の体調が優れない時に通う病院施設、自分の肉親をケアしてもらう福祉施設の数が足りないと不満の声をあげる。しかし、それは、自分の日々の生活に制限を与える障害をできるだけ遠ざけたいという自己都合的な欲求でしかないのか、自分の家のすぐ側に、それらの施設ができることには、声をあげて反対する。

 現在の日本を象徴する典型的な、屈折した光景を、そこに感じる。

 やかましいだけのテレビから離れ、煽情的な広告塔の乱立する都会に足を向けることもやめ、しばらくの間、自然の中に心身を浸す時間を持つようにすれば、私たちが、生きて存在していること自体が、いったいどういうことなんだろうと不思議でならない気持ちになるかもしれない。生命のこの精巧さ、強靱さ、脆弱さは、一体どういうことなのか。生命の神秘の解答は、ダーウィンの唱える進化論なんかで説明しきれない、もっと奥深いところにあることは間違いない。

 ここ数年、樹齢数百年という大樹を見るために、時々、様々な場所を訪れている。

 長く生きてきた大樹の幹は、あちこちに瘤が盛り上がっている。それは、樹木のエネルギーが、型に収まりきれずに外に押し出ようとする形にも見える。生きているあいだに、そうした衝動が何度も何度も繰り返したのだろう。無数の瘤の集まりが、樹木そのものの本質のようにも見える。生命は、型に収まりきれずに、もがいている。そのもがきこそが生命の証とするならば、現代社会において「病」と整理しているもののなかに、生命の本質が秘められているとも言える。

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樹齢千年と言われる、奈良豆比古神社の楠の木。

 しかし、「病」とされる症状に陥ると、そのもがいている状態が、苦しみという言葉で表される。確かに苦しい。しかし、「苦しい」という言葉を知らずに、その状態と向き合えば、どうなんだろう。わけのわからない突き上げるような衝動。いったい何の衝動が、どこに向かって、突き上げようとしているのか。その先に、生命は、何を志向しているのか。

 世界は揺さぶられて何かが引き起こされる。そういうことが繰り返されてきた。エネルギーというものは、常に、そうした破壊と創造を引き起こす。瘤だらけの幹に生命力を感じるのは、生命力が、まさにそうしたエネルギーであることを、私たちが本質的に知っているからだ。

 調和とは程遠い瘤を醜いと思う人もいる。しかし、長い歳月を乗り越えた大樹が無数の瘤をまとっているということは、瘤の積み重ねこそが、その樹木の歴史なのだ。人類の歴史もしかり。そして、一人ひとりの人生もまた、瘤のような身じろぎ、溢れ出るような衝動を否定してしまうと、いったい何が残るというのか。

 機械のように秩序的に管理された身体と心が健全という考えは、永遠に連なる生命よりも、ただこの瞬間を無難にやりすごしたいという無気力と相性がいいというだけで、現代の人々に支持されている。