1051回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(7)

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和歌山市日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。
 新天皇の即位まであと一週間。天皇制は、日本人と切り離せない仕組みであるけれど、そのルーツすらよくわからないというのが、日本人のアイデンティティの曖昧さにも通じているのだろう。
 欧州の王室であれば、そのルーツまで遡ることは難しくないが、日本の天皇のルーツは、雲の彼方だ。
 初代天皇の神武元年は、紀元前660年とされているが、これは辛酉革命の影響で、そう仮定されているにすぎない。
 干支は、子・丑・寅など12支(じゅうにし)と、甲、乙、丙など10干(じっかん)の組み合わせによる60を周期とする数詞だが、陰陽五行説と結びついて、暦を始めとして、時間、方位などに用いられてきた。
 そして、古代から、60年に1度、10千の8番目にあたる「辛」と、12支の10番目にあたる「酉」の組み合わせの時に革命が起こると考えられ、さらに60年周期の21回目、1260年で大革命が起こるとみなされた。
 それが辛酉革命である。
 日本書紀には、神武天皇の即位の年が辛酉であるとだけ記されており、その辛酉がいつの辛酉なのかを記紀に記述された天皇の在位期間などを計算したりして、紀元前660年の辛酉ではないかと考えられるようになった。
 西暦の紀元前660年にあたる頃の辛酉の年を、神武天皇の即位であると判断した最初は、平安時代、菅原道眞と学問上のライバルだった三善清行という人物のようだ。彼は、推古天皇の時代の辛酉の年(601年に該当する)を国家的大変革と位置づけ、そこから1260年を遡ったのだ。
 (もちろん、日本で西暦を用い始めたのは1872年、明治維新の後であり、平安時代には西暦の概念はなく、彼の算出の結果は、紀元前7世紀ではあるけれど、現在の計算と若干異なっている)
 いずれにしろ、そういう計算によって決められた紀元前660年の神武天皇即位である。しかし、実際の紀元前660年というのは縄文から弥生に移行していく段階であり、その時に神武天皇が即位したとなると、神武天皇は弥生王国の王で、縄文王国の王であるナガスネ彦を討ち破ったということになる。
 もしそうなら、神武天皇の前の国譲りのタケミナカタタケミカヅチの時代は、どの時代に該当するのか。さらに遡ることになるオオクニヌシの国づくりは縄文王国のことか、という疑問が生じる。
 神武天皇が実在したかどうかは議論があるが、記紀に描かれているような事態が実際に生じたとしても、紀元660年ではなく、もっと後のことだ。
 ならば、それはどの歴史的段階のことなのか。
 日本で歴史が大きく動き始めるのは弥生時代に入り、渡来人が大挙してやってきてからだ。
 それは、大きく分けて4度あったと考えられており、最初の2回は、中国国内の動乱、後の2回は朝鮮半島の動乱の時となる。
 明治維新や戦国時代の鉄砲伝来にかぎらず、日本の歴史変動は、日本列島内だけに原因があるのではなく、海外からの影響が大きい。
  第1の波は、BC5世紀-3世紀で、中国では春秋戦国時代(BC403-221)の時期。この時、渡来人がもたらした新技術(稲作だけでない)によって弥生時代が始まった。
 第2の波はAD4世紀-5世紀と考えられる。応神・仁徳天皇から倭の五王の時代にあたりとなる。古墳が巨大化され、その副葬品も、それまでの鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩の強いものから、武器や馬具などの実用品が多く加わるようになり、さらに馬の形をした埴輪が加えられるようになるが、その急激な変化を指摘し、江上波夫氏が、「騎馬民族日本征服論」を唱えた時期にあたる。
 この時期、中国は三国志の戦いによる分裂と混乱の後、異民族が激しく争う五胡16カ国時代にあたる。中国から朝鮮半島への人民の流入に伴い、高句麗朝鮮半島を南下し、新羅高句麗の影響下に置かれ、日本にも渡来が増えた。当時、日本では大王はじめ各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っており、渡来人の技術が必要とされた。秦氏東漢氏など技術系の渡来人はこの時期にやってきたようだ。
 前回のメモで書いた”丹”という水銀に関わる文化は、どうやら最初の弥生時代の渡来人との関連が深い。というのは、中国の春秋・戦国時代に滅亡した江南の国、呉や越の文化との共通点が多いからだ。そして、江南の地は揚子江流域で稲作の中心地でもあるし、揚子江中流湖南省が、水銀の最大の産地である。
 戦国時代の中国はすでに鉄器時代に入っていたので、その中国からやってきた人たちが、稲作だけを持ってきたとは考えにくい。
 教科書では稲作のことばかり強調されているが、近年になって、各地で歴史認識を覆す大発見が頻繁に起こっている。
 京丹後市弥栄(やさか)町に、弥生時代の奈具岡遺跡がある。1995年の調査で、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっており、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていた。ここから出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、製作された鉄製品の量は莫大だったことがわかる。
 そして、つい最近、2019年3月1日、徳島の阿南市の若杉山遺跡で昨年発見されていた朱砂(硫化水銀)の坑道が、土器片の年代から、弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認されたと発表された。
 これまで発見されていた最古の坑道は、奈良時代に始まった長登銅山(山口県美祢市)だったので、この若杉山遺跡の坑道の発見以前は、たとえ弥生時代の遺跡から金属器などが発見されても、材料は中国や韓国から輸入して加工しただけのように言われていた。しかし、若杉山の坑道の発見によって、坑道を掘る技術の開始が一挙に500年も遡るために、歴史認識が大きく覆されるだろう。
 さらに、2018年7月、ここから東に5kmほどの阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末~後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落の半分が工房で、大規模な鉄器の生産拠点だったと考えられる。
 竪穴住居跡の内部に鍛冶炉が19カ所あり、鍛冶炉は、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。さらに古代の祭祀などに使われた水銀朱を生産する石杵や石臼、ガラス玉や管玉など、出土品は計約50万点にも達する。
 不思議なことにこの10年以内に、徳島だけでなく、淡路の舟木遺跡(2016年から調査)や彦根の稲部遺跡(2013年から調査)など、次々と、弥生時代に作られた大規模な鉄器工房が発見されている。
 大発見からまだ日が浅いということや、これまでの歴史学の常識が覆されるような発見が続いているので、これらの新発見を踏まえた新しい歴史認識について、学会からは、まだきちんと整理された説が出ていない。
 いずれにしろ、中国国内に大きな動乱があった第1回目の春秋・戦国時代(紀元前5世紀頃〜)に日本に大量の渡来人がやってきて弥生時代が始まり、五胡十六国時代という第2回目の中国の大動乱の時(紀元4世紀から5世紀)に、新たな技術を持った人たちが大量にやってきた。
 とすれば、神話の中のオオクニヌシの国づくりや国譲りや、神武天皇の東征や、神功皇后応神天皇の物語は、こうした大変化の時と関わりがあるのではないだろうか。
 記紀が伝える内容は、歴史的事実かどうかわからないが、たとえ史実でなかったとしても、何かしらの事実を象徴的に伝えていることは間違いないだろう。

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これは、もはや偶然とは思えず、何かしらの意図があったとしか考えられない。 日本の古層(4)で書いたように、北緯34.5度のラインは、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、淡路舟木の製鉄遺跡を結ぶ。伊勢の多気室生寺などは水銀鉱床で知られ、三輪山や舟木など鉄と関係あるところと一緒に東西に並んでいる。 さらに三輪山から、徳島の阿南町で最古の坑道が発見された若杉山遺跡の東5kmの所にある日本最古の鉄器工房である加茂宮の前遺跡を結ぶラインが、和歌山の紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と、日本建国の地とされる橿原(畝傍山)の神武天皇陵を通っている。このラインは、夏至の日に太陽が上り、冬至の日に太陽が沈むラインである。日前神宮・国懸神宮は、古代には五十猛神が祀られており、周辺に、丹生という場所が非常に多い。そして、大物主を祀る三輪山と、徳島の水銀と鉄。これらが結ばれたライン上に、神武天皇という日本の歴史の始まりが刻まれたのだ。

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さらに上記の地図の三輪山と徳島の阿南の加茂宮の前遺跡を結ぶラインにおいて、三輪山周辺を見ると、驚くべきことがわかる。 天香山、耳成山畝傍山大和三山が、ちょうどこのラインの上に三角形を描き、その中心に藤原宮がある。藤原京は、三輪山と紀ノ川河口の日前神宮・国懸神宮と徳島の阿南の日本最古の鉄器製造拠点を結ぶライン上にある。そして、藤原京は、夏至の日に、三輪山から太陽が上るのを見ることができる。 藤原京は、日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な都城であり、694年から710年のあいだ新しい国家の中心だった。都の建設は、676年(天武天皇5年)から始められたことがわかっているので、壬申の乱に勝利した天武天皇の意思で、この地に都を作ることが定められた。天武天皇は、陰陽道に通じており、日本初の天文台陰陽寮という官僚組織を作った。そして、天武天皇は、古事記の制作も進めさせた(古事記の完成は712年)。 古事記が描く世界観と、三輪山と徳島の阿南を結ぶラインが、深く関係している。

第1051回 Original Memory

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雲ヶ畑で撮ったピンホール写真を和紙に出力して出品しました。

京都の四条烏丸の近く、ターミナルキョウトで、写真、工芸、美術、彫刻などのコラボレーション展示会を行っています。

富士山の写真で有名な大山行男さんをはじめ、各ジャンルで響きあう作品づくりを行っている人たちに声をかけて、一つのテーマにそった空間づくりを行っています。テーマは、Original Memoryです。

私たち一人ひとりの経験に基づく個人の記憶というより、人類が積み重ねてきた普遍的な記憶へのアクセス。

すぐに思い出せるような浅い記憶ではなく、もっと深いところに潜んでいる、ふだん意識できないような記憶。

時代を超えて、私たちの祖先、そして未来の子孫ともつながる可能性のあるもの。

そうしたものとの出会いは、自分という存在が自分の力で生きているのではなく、生かされているのだと謙虚に感じられ、なるべくしてこうなったと、今この瞬間を受容できる瞬間でもあります。

そうした潜在的な記憶に深く語りかけるような場づくりのために、一つひとつの作品は、自己を主張するのではなく、もっと大きな調和世界の中の大切なエッセンスでありたいと願っています。

 

第5回  Original Memory

本能的に秘めた特有の記憶。

感情は、その記憶を起源に生まれる。

詳細は、ホームページでご覧いただけます。

https://kazesaeki.wixsite.com/shitsurai

2019年4月1日(月)〜5月6日(月)9時〜18時

<会場> The Terminal KYOTO

〒600-8445 

京都府京都市 下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町424 

424 iwatoyama-cho shimogyo-ku  Kyoto cit

第1050回 日本の古層 相反するものを調和させる歴史文化(6)

 

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居

  京都の太秦に鎮座する蚕ノ社には、謎の三本の鳥居がある。蚕ノ社秦氏と関係が深いので、この三本の鳥居は、秦氏の聖域を指していると考えられている。真北が、秦氏関係の古墳のある双ヶ丘と、鴨川源流の雲ヶ畑、南西の方向が桂川沿いの松尾大社で、その真逆にあるのが鴨川沿いの下鴨神社、そして東南が伏見稲荷であると。

 しかし、地図上で実際に確認してみると、松尾大社下鴨神社、双ヶ丘、雲ヶ畑は合っていたが、伏見稲荷は違っていて、蚕の社の東南の方向は、大津の石山寺となる。

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京都太秦蚕ノ社の三本の鳥居が指す方向。北は、秦氏関係の古墳があるとされる双ヶ岡、仁和寺と通り、鴨川源流の雲ヶ畑秦氏の姓が多い)となる。西南が、松尾大社の磐座の位置。その反対方向が下鴨神社比叡山。東南が石山寺で、その反対方向に亀岡の千歳車塚古墳。蚕の社の真西が、北緯35.01度に並ぶのが、嵯峨野の天龍寺、亀岡の桑田神社、佐伯郷の御霊神社となる。

 

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紫式部が「源氏物語」の執筆を始めたとされる石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸にある。石山寺は、その名の通り、巨大の石(岩)の上に築かれている。花崗岩マグマと石灰岩接触すると、石灰岩が熱変成し、珪灰石とか大理石ができるそうだが、石山寺が建っているのは、珪灰石の上で、珪灰石の下に大理石の岩盤がある。石山寺の珪灰石は、層状で強く褶曲していて、平地のところに褶曲したものが見られるのは珍しいらしい。

 石山寺秦氏の関係は謎だが、石山寺周辺は、古代、隼人の居住地だったことがわかっている。石山寺の地は、琵琶湖から流れ出る瀬田川宇治川、淀川と名を変えて大阪湾に至る)の流域で、水上交通の要である。

 そして、蚕の社の場所(北緯35.1度)から真西にラインを伸ばしていくと、京都の嵐山の天龍寺を通り、亀岡盆地の入り口で保津川渓谷を抜けたところに鎮座する桑田神社(松尾大社と同じく祭神は大山咋神)を通り、亀岡市の稗田野町に至る。ここは佐伯郷で、古代、隼人の居住地であった。亀岡の隼人の居住地は、田野町から、曽我部町穴太(あのう)、犬養あたりまでで、桂川の支流の犬飼川や、さらにその支流の山内川の流域となり、ここも、水上交通の要である。また、古代山陰道は、この佐伯郷を抜けて丹波、但馬、因幡、出雲へと通じていた。

 2017年1月、亀岡の佐伯郷で、農地の再整備に伴う区画整理を行っている最中に遺物が発見され、本格的な発掘調査が行われることとなり、その後の継続的な調査で、古墳時代から奈良時代平安時代にかけての大規模な都市遺跡、寺院遺跡が発見された。

 この地に鎮座する稗田野神社、御霊神社と、河阿(かわくま)神社、若宮神社は、非常に謎めいた神社だ。

 この四つの神社が合同で行う佐伯灯篭祭りは、五穀豊穣と男女の和合を祈願する祭りで、中世の時代、「男寝て待て女が通う 丹波佐伯郷の燈籠まつり」と呼ばれた女の夜這いの祭りとして知られていた。

 今でもこの地域でもっとも崇敬されている稗田野神社は、神社の裏に鎮守の森があり、約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が、その森の中の土盛りのところで、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたと伝えられ、古事記の作者、稗田阿礼の生誕の地であるという伝承もある。

 この神社の祭神は、保食神(うけもち)に、イザナギイザナミが産んだ大山祇神(おおやまつみ)と野椎神〔 のづちのかみ)の夫婦神。

 保食神は、『日本書紀』のなかで、以下のように記される。

 月夜見尊保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

 月読神は、アマテラスやスサノオと同じ三貴神であるが、この神について記した物語は少なく、月読神を祀る神社も、アマテラスやスサノオに比べて、かなり少ない。しかし、亀岡には、名神大社の小川月神社と月読神社がある。亀岡から保津川渓谷を抜けた京都の松尾山に鎮座する月読神社と関係があると言われる。

 この月読神と、保食神は、対立的な存在であるが、月読神によって殺された保食神の身体から、様々な食べ物や、養蚕が生まれる。

 頭頂からは牛と馬、額からは粟(あわ)、眉の上には蚕(かいこ)、眼の中には稗(ひえ)、腹の中には稲、陰部からは麦と大豆や小豆。

 このことについては、金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究によると、身体の部分と食べ物の関係は、朝鮮語で対応しているらしい。

 頭(mara) が馬(mar)、顱(cha)が粟(cho)、眼(nun)が稗(nui)、)腹(pai)と稲(pyo)、女陰(poti) と小豆(pat)。

 そして、稗田神社のもう一つの祭神、野椎命は、この神のパートナーの大山祇神が色々な所に登場し、祀られる神社も多いのに比べ、あまり知られておらず、祀る神社も少ない。

 しかし、亀岡には、稗田野神社の他に、藤越神社や篠葉神社(ささばじんじゃ)で祀られていて、全国的にも珍しい集中だ。

 イザナギイザナミが産んだ野椎神と大山祇神は、それぞれ、野と山を分担して司ることになるが、藤越神社に伝えられるところによると、「野椎命は、またの名は鹿屋野比売(かやのひめ)という女神で、今の薩摩の阿多の郡に住んでおられた。夫神に従い、日向から西海道を伊勢へと出られ淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物、甘菜辛菜に至るまで霊感を示された。」とある。

 淡海国の日枝の山というのは、琵琶湖に面した比叡山のこと。夫神というのは大山祇神のこと。

 これによると、野椎神(のづちのかみ)は、南九州の隼人の地にいたということになる。

  『古事記』でも、野椎神は「鹿屋野比売(かやのひめ)」という女神の別名であると記されるが、”かや”という言葉について、大林太良氏が、熊襲の首長名として繰り返し出てくると指摘している。さらに、マレー、フィリピン、インドネシア方面の言葉で、”カヤ”という言葉が、呪力とか資産の意味を持つことも合わせて述べている。(『隼人』社会思想社)。

 熊襲も隼人も、大和朝廷側からの呼び方にすぎず、南九州に、どうやらインドネシア系と関連の深い独自の言語と文化を持った人たちがいて、その共同体の中で呪術力を持つ首長だった鹿屋野比売(かやのひめ)(野椎命)が、亀岡にやってきたということになるのだろうか。

 ちなみに、近畿圏の隼人の居住地は、室町初期に中原康富という人が記した『康富記』(やすとみき)によると、琵琶湖に面した竜門(大津の石山寺)、宇治川沿いの田原(宇治田原町)、木津川近くの大住(京田辺)、旧大和川近くの萱振(大阪の八尾)、吉野川沿いの阿陀(五條市)、そして、亀岡の佐伯郷ということになる。いずれも、水上交通の要であるが、このうち、亀岡と大阪の八尾、そして大津に”穴太”(あのう)という地名がある。近畿では、もう一つ、隼人と同じく水上交通と関わりの深い船木氏ゆかりの三重県四日市の員弁川(いなべがわ)沿いにも穴太がある。

 大津の穴太衆は、戦国時代の城壁などの石垣積みで有名だが、もともと、穴太というのは、第20代安康天皇のために設けられた名代部(なしろべ=天皇,皇后,皇子の名をつけた皇室の私有民の土地)の一つで、安康天皇は、わが国で最初に鉄の矢を用いた天皇であるとされ、その矢を穴穂矢といったと「日本書紀」にある。

 なので、穴太は、鉄の武器と関係している。大阪の八尾は、大和朝廷の軍事を司っていた物部氏の土地で、弓矢を作る職人たちがいた。奈良時代の僧侶で、称徳天皇の寵愛を受けて天皇になろうとした道鏡は、物部氏の一つ弓削氏で、出身地は、八尾である。

 また、大津の穴太は、周辺に製鉄の史跡が多く残り、四日市の員弁川沿いも、淡路の船木遺跡のように鉄と関わりの深い船木氏ゆかりの地で、丹生という地名がある。

 ならば、亀岡の隼人の居住地、佐伯郷の穴太も、製鉄と関係あるのだろうか。

 佐伯郷で、佐伯灯篭祭りを合同で行っていた四つの神社、稗田野神社以外の三つの神社も詳しく見てみる。

   若宮神社は、奈良時代の769年の創建と伝わる。創建当時は多気神社として祀られ、2013年、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえる。多気という名は、伊勢の水銀の産地の地名でもあり、海人の船木氏の本貫でもある。

 そして、次に、河阿(かわくま)神社だが、ここは、約二千年程前に九州方面から移住してきた南方系の採鉱治金術を知った部族によって創始されたのではないかと言われている。河阿神社一帯は、温泉が湧き、近代においては日本最大のタングステン鉱山であった大谷鉱山(昭和58年まで操業)があり、古代、錫の鉱床でもあった。

 この神社の祭神は、豊玉姫命と鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえず)という、南九州ゆかりの海人関係の親子。豊玉姫命は、海神豊玉姫の父)の宮にやってきた山幸彦と結婚して、鵜葺草葺不合尊を産んだ。鵜葺草葺不合尊は、豊玉姫命の妹の玉依姫と結ばれて初代天皇神武天皇を産み、神武天皇は、45歳の時に兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国安芸国吉備国、難波国、河内国紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え、大和国に入って、橿原の地に都を開いたことになっている。

 日本のルーツには、南九州の海人が深く関係しているのだ。

 そして、4つの神社のもう一つが、御霊神社であり、近年発見された佐伯郷の古代都市、寺院遺跡は、御霊神社の目の前に広がっていた。

 この神社の祭神が吉備津彦命であることが、この地の謎を深める。

 

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亀岡の御霊神社。祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。

 吉備津彦命というのは、『日本書紀』によれば第10代崇神天皇の時に四道に派遣された4人の将軍の一人で、播磨から吉備にかけて山陽道を平定したとされる。

 しかし、『古事記』においては、吉備津彦命が西方に派遣されたのは、10代崇神天皇の時ではなく、第7代孝霊天皇の時となっている。

 また、『日本書紀』によれば、亀岡に四道将軍の一人として派遣されたのは、丹波道主命だが、『古事記』では、丹波道主の父親の彦座王(ひこいます)が亀岡に派遣されたことになっている。

 丹波道主命は、第11代垂仁天皇の皇后で、第12代景行天皇を産んだ日葉酢姫(ひばすひめ)の父親だ。

 この丹波道主命が、父親の彦座王と祖父の第9代開化天皇を祀るために創建したのが、御霊神社からさほど離れていない亀岡の穴太、犬飼川沿いの小幡神社で、この地は、大本教の二代教祖の一人、出口王仁三郎の生誕の地だ。

 王仁三郎は、幼少の頃より小幡神社に参拝し続け、ここで神示を受けた。この神社の裏山は古墳になっている。

 山陰道沿いの亀岡の地は、四将軍のうち、丹波道主命もしくは彦座王の関係の深い土地なのに、なぜ、ここの御霊神社に、山陽道を平定した吉備津彦命が祀られているのか。

 実は、亀岡にかぎらず、京都をはじめ、各地の御霊神社でも、吉備大臣とか吉備精霊が祀られている。

 御霊神社は、早良親王井上内親王など、奈良時代から平安時代にかけて政争に

巻き込まれて憤死した人たちが祀られている。その人たちの恨みが怨霊となって災いを起こすことを恐れたからだ。

 一般的に、御霊神社に祀られている吉備大臣、吉備精霊を、吉備真備と解釈する人が多いが、奈良時代遣唐使として派遣され、帰朝後、聖武天皇光明皇后の寵愛を得た吉備真備は憤死した人ではない。なので、御霊神社に祀られている吉備大臣は、吉備真備ではない。京都の下鴨神社ではそう解釈している。

 吉備大臣というのは、四道将軍吉備津彦命であり、いつのまにか吉備真備にすり替わってしまったのだろう

 ここで注意しなくてならないことは、吉備津彦命というのは、吉備に派遣された将軍の名ではないということ。吉備に派遣された人物の名は、第7代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)であり、彼によって征伐されたのは温羅(うら)という百済の王子だが、温羅こそが、吉備津彦命だったのだ。

 吉備の伝承では、温羅は、吉備に製鉄の技術を伝えたが、鬼として大和朝廷に征伐され、この時の話が、桃太郎の鬼退治の説話になっている。

 湯羅には、吉備冠者の異称があるが、吉備に派遣された彦五十狭芹彦命は、湯羅を討ち取った後、その名を自分が名乗るようになったのだ。

 ジブリアニメ「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯婆婆に名前を奪われるという状況が描かれているが、名前を奪われることは、支配されることである。

 古来より、名前は、ものの本質を表すものと考えられており、日本の古い言い伝えでも、『妖怪に名前を知られるとその人間は呪われてしまうが、反対に妖怪の名前を知ったときは、その妖怪を支配したり使役したりできる』という話がある。

 すなわち、吉備津彦命という名は、吉備を支配していた湯羅が、ヤマトから派遣された彦五十狭芹彦命に討たれ、奪われた名前なのだ。

 吉備津神社に伝えられる話によると、討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げたため、犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという。

 死んだ後も鎮まらなかった温羅の魂が、神事を経て、吉凶を占う存在となったわけで、平安時代以降、怨霊を鎮めるために行った御霊会に通じるところがある。

 日本の歴史の初期段階において製鉄をめぐる戦いがあり、その多くが鬼伝説となっているが、鬼を鎮魂することで鬼を守護神に転じさせるという発想が、古代からあったのだろう。

 太宰府に流されて憤死した菅原道眞を神として祀ることなど、平安期において、災いを、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」として祀ることにより祟りを免れ、そのご加護で平穏と繁栄を実現しようとする御霊信仰が広まるが、その根元が、吉備津彦命の物語なのではないだろうか。

 そして、吉備の鬼退治伝説に通じるものが、亀岡の地にもあるのだ。

(つづく)

 

 

第1049回  虚飾の時代の、覚醒の本。 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』

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 鬼海弘雄最新写真集『PERSONA 最終章』(筑摩書房)。

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/

 

  こんなにもおかしくて、こんなにも美しい本が、ほかにあるだろうか。

 この本は、美しさがおかしさの旨味を引き出すソースで、おかしみが美しさの香味を引き立てるスパイスであることを、生の体験として教えてくれる。

 計算づくめのしたり顔で料理のレシピの工夫を説明するシェフが多い世の中だが、押し付けがましい見かけだおしばかりで、肝心の味が臓腑に染み込んで満足感を与えてくれるものは極めて限られている。

 この本の料理人、鬼海弘海は、今までの作品集ではあまり見られなかったサービス精神を少し発揮してはいるものの、それは、ベテランの域に達した者だけが持つ懐の広さから生じる遊び心であり、程合いを弁えている。そのうえで、手間暇かけて作り込んだ料理を、品のいい器に丁寧に盛り付けて、気の利いたアドバイスを一言だけ添えて出してくれる。

 「わかる人にはわかる。わからない人に、敢えてわかってもらおうとは思わない。」

 それでいいのだろう。化学物質におかされて鈍った舌の力は、当人の心がけがなければどうにもならない。

 味のわかる人が、食べ終わった後にもずっとその至福の余韻を保ち続け、後々まで記憶してもらえれば、料理人として、それ以上の喜びはない。

 鬼海さんは、そういう風に仕事をしてきた。世の中に媚びて流行りの店を賑わせたり、目新しいメニューで話題性を狙うなんて、気性として向いていなかった。だから、何十年も同じことを続けてきた。見返りのない私的な仕事だと割り切って。ただ一つのこだわり、写真行為の誠意と矜持として、人を正面から見つめるということからは、決して脇に逸れることなく。

 この最新写真集『PERSONA 最終章』は、鬼海さんのただ一つのこだわり、人を正面から見つめるということを、何十年も積み重ねてくるとどうなるかという、一つの極致の形である。

 1960年代から70年代の初頭、ダイアン・アーバスという高名なアメリカの女性写真家が、人を正面から見つめることを苛烈に行い続け、自らの精神のバランスを崩し、48歳で自殺した。

 彼女が行ったことも写真表現の一つの極致であり、尊い仕事として写真史に刻まれているが、鬼海さんは、同じように人間と正面から向き合い続けても、ダイアン・アーバスのような悲壮にはならなかった。鬼海さんには、不可思議な軽妙さと野太さがあり、ダイアン・アーバスがもがき続けた壁を、ふわりと超えてしまっている。

 おそらくであるが、ダイアン・アーバスが、ニューヨークで生まれ育ち、若い頃、華麗なファッション写真においても成功した都会人であるのに対し、鬼海さんが、山形の農村出身で、若い頃、トラックの運転手や職工、マグロ漁船など、自然にもまれ、肉体労働者として生きていたことが表現のベースになっていることが大きいだろう。肉体は思うようにならないことが多いし、自然は、人間に容赦なく、長い目で見るしかないと、たびたび思い知らされるものだから。

  さらに鬼海さんは、大学時代、哲学者の福田定良さんと師弟関係だった。

 政治運動が盛んな頃、福田さんは、社会に関心を寄せながらも哲学という根気のいる試みを淡々と続けていた。哲学者は、外にばかり答えを求めるのではなく、自分の内に答えがあることを知っている。

 肉体労働と哲学、この二つの軸によって、鬼海さんは、どんなに物事がうまくいかない時でも、軸をぶらすことがなかった。その表現世界は地にしっかりと足がつき、それでいて軽やかで、タッチは柔らかいのに、ずっしりと重い人間の尊厳に迫るものとなっている。

 人間の尊厳とは、大きな声で叫ぶスローガンではなく、私たち一人ひとりの”体温をおびた想像力”を通して、愛しさや慈しみと深くつながっているものである。

 想像力を麻痺させてしまう恫喝的な正義や尊厳の主張は、正しそうな言葉とは裏腹に、人間の体温の伴う感覚からの容赦のない遮断ではないか。

 鬼海さんが撮る肖像写真は、なまめかしいまでの体温が伝わってくるものである。その体温それじたいが人間の命を愛おしく感じさせる力であり、尊厳を大切にするというのは、そうした愛すべき存在を、そのまま愛することである。

 鬼海さんは、「表現は独創性なしでは成り立たない。」と述べているが、肖像写真という、写真表現の中では差別化しずらい方法を選んでいながら、その表現個性が際立っているのが、鬼海さんの写真である。

 しかし、それだけ印象の強い鬼海さんの写真であるがゆえに、同じことを長期間に渡って続けていると、ともすればワンパターンの仕事だと、思慮の浅い裁断をする人もいるだろうが、事実はまったくそうはならない。

 鬼海さんは、浅草の浅草寺の朱色に塗られた壁の前で、通りゆく人を撮影するということを、1973年から続けていて、2004年に、草思社から「PERSONA」を発表し、日本だけでなく世界中で話題になった。

 浅草の一箇所で出会った人の肖像写真に、世界中の人々が、特別な親近感と驚きと普遍性を感じ取ったのである。

 そして、このたび筑摩書房から発行された『PERSONA 最終章』は、2004年の写真集の発行の後、2005年から2018年にかけて撮影されたものが収められている。

 なんと、最初の「PERSONA」と今回の「最終章」のあいだで、45年もの月日の隔たりがある肖像写真が存在している。

 にもかかわらず、何も変わらないと感じさせるところと、何かが違うと感じさせるものがある。

 テレビ番組などにおいて、10年前、30年前の流行などを取り上げて明らかな違いを強調して懐かしさを押し付けて消化させる類のものとは一線を画した、得も言われぬ差異と普遍性。

 人間には、現実にさらされて変わらざるを得ないところもあるが、生き物として、変わらなくていいものもある。そして、人間として、生き物として、変わらなくていいものがあると気づかせてくれるものが、これほどまで愛おしいということを、消費社会の廃棄物だらけの中で、鬼海さんの写真は、にんまりと教えてくれる。

 鬼海さんが撮った写真を通じて、鑑賞者もまた、「人に思いを馳せること。」の追体験をする。その時、他人にも、自分にさえも少し愛おしさを感じることになる。

 『PERSONA 最終章』を見終わった後の幸福感は、人に愛されることで満たされる自己愛によるものではなく、人を愛せることに喜びを感じる他者愛によるものだ。

 人に思いを馳せることは、人を深く愛し、人に深く配慮し、どんな人生にも敬意を払うこと。

 人類が、幸福になるためには欠かせないその大切な軸が、種々雑多な薄っぺらい虚飾によって崩され、人生の足元がおぼつかなくなる。

『PERSONA 最終章』は、そんな虚飾の時代に、ひたすら誠実に人間の正面に立ち続けた驚くべき持続の軌跡であり、生の感覚を鈍らせた頭と身体を覚醒させる本なのだ。

 写真表現は、生まれてから200年にもならず、絵画や彫刻などに比べてもっとも歴史が浅い表現であるが、『PERSONA 最終章』は、写真表現にとって一つの極北を示しており、同時に、人生のリアリティを、他の表現方法では成し得ないスタイルで描ききることに成功している。

 さらには、一つひとつの写真に添えられた短いキャプションの豊かさにも感嘆させられるが、巻末の鬼海さんの文章が、また味わい深い。写真の奥行きは、写真家の人生の奥行きの投影だということが、これ以上に明確に伝わってくる言葉を、私は他に知らない。

 

 写真集の詳しい内容はこちら→http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/

 

第1048回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(5)

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紀国(和歌山)は”木国”であり、五十猛神の土地である。五十猛神は、木と船の神なので、船木氏のイメージが重なる。また、紀国は、中央構造線上にあり、水銀の産地である”丹”という地名が多い。五十猛神は、もともと、現在の日前神宮・国懸神宮のところに祀られていて、その後、この写真の「亥の森」のところに移り、さらに現在の伊太祁曽神社に移された。

 『源氏物語』よりも前に書かれた物語はいくつかあるが、その中で、『源氏物語』の様々な箇所で影響が見られるのが、平安初期に書かれた『伊勢物語』である。

 『源氏物語』には、伊勢物語の中の歌が数多く引用されているし、伊勢物語の主人好のプレイボーイ(在原業平が想定されている)が繰り広げる恋愛は、源氏物語光源氏と重なる。

 なかでも、『伊勢物語』の第69段で、 男と伊勢斎宮恬子 (やすこ) 内親王との一夜の情交の話を描かれているが、 『伊勢物語』 という通称は、この伊勢における一夜の愛が、愛の極致の姿であると考えられたためだとも云う。

 伊勢斎宮は未婚の皇女たちの中から選ばれて、伊勢神宮に巫女として奉仕する女性であり、 神聖で冒すべからざる存在である。

 『源氏物語』には、光源氏につれない態度をとる朝顔の君や、たびたび怨霊となって現れる六条御息所の娘である秋好中宮などの伊勢斎宮が登場するが、光源氏は彼女たちに惹かれるものの男女の関係とはならない。光源氏にとって神聖で冒すべからざる存在にもかかわらず男女の関係となってしまうのは、父親の妃、藤壺であり、彼女との恋愛の苦悩が、物語の軸となっている。

 『伊勢物語』には、古代に海人として活躍した紀氏が多く登場する。主人公の在原業平の妻も紀氏だった。

 紀氏と、住吉神との関係は深い。

 大阪の住吉大社の境内摂社として、船玉神社がある。船玉というのは船の守護神であるが、この祭神について、『住吉大社神代記』では、「紀国の紀氏の神なり。志麻神(シマ)・静火神(シヅヒ)・伊達神(イタテ)の本社なり」とある。

 さらに、「船木氏の遠祖・大田田命が、自分が領有する山の樹を伐って船三艘を造り奉った。神宮皇后は、この船に乗って新羅に遠征し、凱旋したのち、その船を武内宿禰に命じて祀らせたが、志摩社・静火社・伊達社とは此の三前の神なり」とある。

 住吉大社の摂社である船玉神社の祭神は、船木氏が神功皇后のために造った三艘の船であり、これらは、紀氏の神となっている。

 だから、この三神は、いずれも紀の国(和歌山)に祀られている。志摩神社祭神:中津島姫命(別名:イチキシマヒメ))、静火神社祭神:火結神ホムスビ))伊太祁曽神社(祭神:五十猛神(イタケル))である。

 神功皇后の参謀として活躍し、これらの三神を祀った武内宿禰の母親も紀氏であるが、神功皇后新羅出征に紀氏が大きく関わっており、紀氏は、住吉の神ともつながっているということになる。

 神功皇后の物語はフィクションである可能性が高いとされるが、たとえそうだとしても、紀氏と住吉神は関係が深く、『伊勢物語』と紀氏の関係も深い。さらに、『源氏物語』などの女流文学、仮名文学に大きな影響を与えた『土佐日記』の作者が、紀氏の紀貫之である。

 そして、一般的に和歌三神とされるのが、住吉神と、紀の国(和歌山)の玉津島明神と、柿本人麿である。

 玉津島神社には、稚日女尊(わかひるめのみこと)、神功皇后衣通姫(そとおりひめ)が祀られている。

 稚日女尊水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名である。また、衣通姫は、第19代允恭天皇の皇女であり、美しく、歌に優れていたとされる。

 紀貫之が、小野小町の歌を評して、小野小町は古の衣通姫の流(りゅう)なり。
 あわれなるようにて、つよからず、いわば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし」と書いている。

 古事記』によれば、衣通姫は、允恭天皇の皇女であるが、允恭天皇の第一皇子で、衣通姫の同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)

 衣通姫の物語も、「伊勢物語』や『源氏物語』と同様、禁じられた恋の物語であり、だからこそ、人々の胸に深く刻まれてきた。

 そして、和歌三神の残りの一つ、柿本人麿が祀られているのが明石の柿本神社である。

 柿本人麿は、明石の歌を数首、詠んでいる。

 「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に島隠れゆく船をしぞ思ふ」

 古今集の中では、詠み人知らずとされているが、平安時代より、この歌は柿本人麿のものだと信じられてきた。

 『源氏物語』の明石の帖において、光源氏が明石の地に残してきた明石の君に送る手紙の中で、

 嘆きつつ あかしの浦に 朝霧の 立つやと人を 思ひやるかな

 と詠んでいる。

 紫式部のなかで、明石の地というのは、住吉信仰の地であるとともに、柿本人麿ゆかりの地として、すなわち、歌神の聖地として、認識されていたものと思われる。

  日本の古層(3)の記事で書いた紫式部のルーツ宮道弥益は、『今昔物語集』において、山城国宇治郡の郡司として登場する。その当時、850年頃、宇治郡を含む山城国の長官だったのが、紀氏の紀今守である。租税制度の改革など様々な政策を提言し、実行するなど良吏の代名詞とされる人物で、最終的な官位が、『源氏物語』の明石入道と同じ播磨守だった。

 そして、宮道弥益は、自分の娘が産んだ娘が宇多天皇と結ばれて醍醐天皇を産むことになるので、『源氏物語』の中の明石入道の娘が光源氏と結ばれて産んだ娘が皇后となる展開と同じである。

 さらに、宮道弥益の娘、列子は、紫式部の父親の祖父にあたる藤原定方の母親でもあるが、藤原定方は、醍醐天皇の叔父として政界で出世するとともに優れた歌人でもあり、紀貫之の最大の後援者だった。

 紫式部と、住吉神や紀氏とのあいだには、深い縁がある。

 ともに歌神と関係が深いということも、興味深い。

  平安文学を彩り、日本固有の文化の軸となっていく和歌だが、”和歌陀羅尼”という言葉がある。

 空海は、「和歌はこれ陀羅尼なり」と言い、西行も「和歌陀羅尼」と言った。陀羅尼とは呪文のようなお経であり、言葉に特別な力の宿る神秘の言語表現ということになる。

 905年、醍醐天皇の勅命で編纂された『古今和歌集』の序文において、紀貫之が、和歌について、このように述べる。

「大和歌は、人の心を種として、万の言の葉となれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞く物につけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鴬、水に住む河鹿の声を聞けば、生きとし生ける物、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも、あはれと思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛きもののふの心をも、慰むるは歌なり」

 紀貫之は、歌というのは、力も入れないで天地を動かし、目に見えない鬼神ですらしみじみと感動させ、男女の仲も和らげ、勇ましい武士の心でも慰める。と述べている。

 言葉というものは、世の中の現象をなぞるためのものではなく、言葉には霊の力が宿り、その霊の力が、言葉によって表された事柄を現実化する。そういう言霊の力を、紫式部も信じて、『源氏物語』を書き表したに違いない。

 そして、数多くの歌が織り込まれている『古事記』も、考古学的な裏付けが必要な歴史事実の記述ではなく、言霊の力によって、この国の大切な真理を伝えているのだと思われる。

 

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和歌山の玉津島神社から、近江高島安曇川町(古代船木氏の地)を結ぶライン上に、比叡山清水寺石清水八幡宮四天王寺住吉大社日前神宮・国懸神宮が並ぶ。四天王寺の鳥居は、真西を向いていることで知られる。春と秋の彼岸の日、鳥居の向こうに太陽が沈む。沈む夕日に浄土の想いをはせる日想観(につそうかん)が古代から現在まで行われているが、四天王寺の真西に位置するのが明石の柿本人麿神社で、ともに北緯34.65度である。

 

 

第1047回 日本の古層 〜相反するものを調和させる歴史文化〜(4)

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明石海峡

 私は、兵庫県明石市で生まれ育った。家の近くの古墳周辺を探検したり、明石原人の発掘場所で地面をさぐってみたり、子供ながらに秘められた歴史には興味があった。

 また、源氏物語の中で、明石が大事な舞台になっていることは知っていた。にもかかわらず、最近まで、明石が、それほど歴史的に重要な場所だとは思っていなかった。

 私は、明石市内で三回、小学校を転校したが、数日前、小学校3年の頃に通っていた小学校の近くに、たくさんの瓦工場があったことを思い出した。

 調べてみたら、明石の西北部は、古代から良質の粘土と燃料となる山林資源が豊富な地で、須恵器とともに瓦を焼く窯も多く作られていたことがわかった。

 高校時代に住んでいたところからさほど離れていない高丘古窯跡群の発掘では、6世紀後半から8世紀前半まで操業が続けられており、この地で生産された瓦が、大阪の四天王寺や、奈良の寺院のために運ばれていたらしい。

 須恵器というのは、歴史的に見ても特別な焼物だ。

 土師器の場合は、縄文土器のように紐状に粘土を積んで、野焼きで作る。野焼きは、800度から900度くらいで、できあがった土器の強度もない。

 それに対して須恵器は、轆轤技術を用いて型取り、穴窯や登り窯で、1100度以上の高温で作るため、土師器に比べて強度がある。

 高温でつくる土器の技術は、中国の江南(杭州あたり)で始まったようだが、日本書紀では、天日槍など渡来人とともに日本に入ってきたと記されている。

 大阪府堺市和泉市岡山県備前、福岡県太宰府市静岡県湖西市岐阜県岐阜市、愛知県尾張地方東部とともに、兵庫県明石市から三木市にかけての地域が、主な須恵器の生産地だったようだ。

 そして、須恵器は、製鉄とも関係してくる。

 私が、小学校4年から中学校3年にかけて、夏のあいだ、毎日のように泳いでいた藤江の海岸は、白い砂がどこまでも続いて海水浴に最適なところだったが、実は、この砂は、我が国有数の産鉄地である兵庫県内陸部を流れてくる加古川が運んできたもので、砂鉄が大量に含まれているらしかった。

 砂鉄の磁鉄鉱など鉄原料を溶かして鉄を取り出すためには十分な高温が必要で、そうした炉を作る技術は、須恵器を焼く技術と連動している。

 須恵器の産地であり、砂鉄が豊富となれば、自ずから製鉄が行われる。

 『住吉大社神代記』の「明石魚次浜」の項で、住吉神を木国(紀国)の菅川の藤代の嶺(丹生川上)に鎮め祀ったが、後に、住吉神が、針間国(播磨国)に渡り住まんと、大藤を切って海に浮かべ、流れついたところを「藤江」と名付け、神地としたとある。

 ”藤”というのは、砂鉄を選鉱するために、藤の蔓で作ったざるが使用されたからだという。

 大量の砂鉄を集めるために、砂鉄の混ざり込んだ砂や土砂を大量の水で洗い流し、水流の底に沈んだ重い砂鉄を藤の蔓で編んだざるで掬い取る。その方法を、「鉄穴流(かんなながし」と言った。

 私が住んでいた藤江の地には、青龍神社(かつては厳島神社)があるが、この神社が鎮座する丘は、縄文時代の土器や石器などが発見された藤江出ノ上遺跡であり、周辺にも、藤江別所遺跡や藤江川添遺跡など縄文時代旧石器時代の遺跡が点在しており、かなり古くからの要所だったらしい。
 そして、『住吉大社神代記』には、紀伊国から播磨の藤江住吉大神が移られる際に、船木氏が関わったことが伝えられている。船木氏は、現在の三重県多気郡が本貫だったらしいが、その地に佐那神社があり、天手力男命タヂカラオ主祭神を祀っている。

 天手力男命は、天岩戸にこもったアマテラスの腕を引いて外に出し、世界に再び光をもたらした神で、伊勢の皇大神宮において、アマテラスの左に弓を御神体として祀られている。(右に祀られているのが、剣を御神体とする栲幡千千姫命)。

 佐奈神社が鎮座する船木の地から宮川を遡ったところには、倭姫が伊勢神宮よりも先に天照大御神を祀った場所とされる瀧原宮があり、そのすぐそばにも船木という土地がある。船木から宮川を下れば伊勢神宮で、櫛田川をくだれば、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(斎宮跡)がある

 さらに、佐那神社の近くは丹生という土地で、丹生大師がある。この真言宗の寺は、高野山が女人禁制だったのに対し、女性も参詣ができたので「女人高野」とも呼ばれる。奈良県の宇陀にある室生寺と同じである。そして、どちらも水銀の産地だ。

 丹生神社は、継体天皇の時代、523年の創建とされるが、奈良時代聖武天皇東大寺大仏殿の建立のさい、水銀の産出をこの地の神に祈ると忽ち水銀が湧出したという伝承がある。

 丹生神社という名の神社は、水銀が産出する中央構造線上にたくさんあり、祭神は、丹生都比売や罔象女神ミヅハノメノカミ)や丹生都比売が多いが、伊勢の丹生神社は、土の神、埴安神ハニヤス)を祀っている。おそらく製鉄に必要な釜作りに向いた良質の土のことではないだろうか。また、丹生神社の境内の丹生中神社には、製鉄の神、金山毘古金山彦命・金山比女命が祀られている。ここは、縄文時代から採掘されている丹生鉱山という日本でも有数の水銀の産地なのだ。

 船木氏の祖先、大田田神は、「天の下に日神を出し奉る」と『住吉大社神代記』に記されているが、天の岩戸からアマテラスを引き出した天手力男命タヂカラオ)とイメージが重なる。

 船木氏というのは、多氏の一族であり、多氏というのは古事記の編者である太安万侶が有名だが、神武天皇の子の神八井耳命かんやいみみのみこと)の後裔とされる。

 神武天皇が実在の人物だったかどうかはわからないが、太安万侶は、自分たち多氏の役割を象徴的に示すためか、祖先の神八井耳命のことを、『古事記』の中で、神武天皇と大物主の娘のあいだに生まれた子として描いている。

 神武天皇には、日向の地の阿多(隼人系)の女性とのあいだにできた子、手研耳命(たぎしみみ の みこと)がいて、彼と一緒にヤマトまでやってきた。手研耳命は、自分が神武天皇の跡を継ぐため、神八井耳命と、その弟を殺そうとするが、それを事前に知った二人に殺される。

 そして、神八井耳命は、帝位の後継を弟に譲り、自分はさにわ(神託を受ける者)として弟を支えていくことを誓う。そのため、弟が、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)となり、そこから天皇家の歴史が続いていく。

 すなわち、多氏というのは、天孫降臨のニニギの曾孫である神武天皇天津神)と大物主の娘(国津神)の血を受け継ぎ、政治の表舞台には立たずに、この国を霊的に支えていく存在ということになる。

 そして、神八井耳命皇位を弟に譲り、神祇を祭り始めた場所とされる多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)=多神社が、奈良県田原本町にある。この神社の裏や境内そして周辺の集落から、古墳と考えられるものや、大量の祭祀遺物、そして多彩な初期須恵器や韓式土器も大量に出土している。それらは、縄文時代から古墳時代にかけての遺物で、祭祀的色彩が強い。この地は、三輪山二上山を結んだ同緯度の東西のラインの中間にあり、春分秋分の日には、三輪山から昇る朝日と二上山に沈む夕日を拝することができ、太陽と関わる祭祀が行われていたのだろう。

 しかも、この多神社の真北が平城京平安京、小浜の若狭神宮寺であり、真南が熊野本宮大社(大斎原、本州最南端の潮岬なのだ。多神社は、近畿地方の真中、臍の位置にあたる。

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北緯34.53度には、東から、伊勢斎宮跡、室生寺長谷寺三輪山、多神社、二上山、舟木の古代製鉄所などが並び、東経135.78には、若狭神宮寺、京都の下鴨神社、奈良平城京熊野本宮大社(大斎原)、潮岬が並ぶ。

 近畿のちょうど真中の位置で、天津神国津神の両方の血を受け継ぐ者が、太陽に関わる祭祀を行うという構造は、日本という不可思議な国の根本原理なのかもしれない。

 そして、多神社、三輪山二上山がある北緯34.53度は、東西に線を伸ばしていくと、古代の聖域がたくさんある。

 このラインのことは、1980年2月11日、NHK総合テレビの『知られざる古代』という番組で紹介されたようで、これに関する著書もある。その内容は、奈良県箸墓古墳を中心に、西の淡路島の船木の石上神社~伊勢の斎宮跡まで、三輪山、長谷時、室生寺二上山などが、北緯34度32分の線上に並んでいるというもので、それらは、太陽崇拝および山岳信仰とつながりがある古代祭祀(さいし)遺跡であり、日置氏が、その測量に関係しているということだ。

 それに対して、真弓常忠という学者が、このラインは、太陽祭祀ではなく製鉄と関係あるのだと主張されている。

 しかし、どちらか一方ではなく、両方と関係していることは間違いないと思う。

 1980年当時の発表では、このラインは、北緯34.32度ということだが、なぜか現在、グーグルマップで確認すると、34.53度となる。(GPSの発達した現在、測量の仕方が違うのか?)

 そして、1980年度から現在までのあいだに、このライン上で新たな場所の発見が幾つかなされている。

 その最大のものが、2017年1月、淡路島の舟木で発見された2世紀半ば~3世紀初めの鉄器工房跡で、4棟の竪穴建物跡と刀子(とうす、ナイフ)などの鉄器や鉄片約60点が出土。炉跡も発見された。調査はわずか130平方メートルだけだったが、その周辺にも広がっており、南北800メートル、東西500メートルに及ぶと推定され、国内最大規模の鉄器工房跡である可能性が高まっている。

 1980年の時点で太陽のライン上にあると考えられていた舟木の石上神社は、僅かながら緯度がずれていた。しかし、その誤差は許容範囲とみなされていたが、新しく発見された巨大な鉄器工房跡は、北緯34.53度で、多神社、三輪山二上山とまったく同じ緯度上にある。

 専門家のあいだでは、淡路が、瀬戸内の西から河内や大和へと物資や情報を中継する『玄関口』だったゆえのことと説明されているが、近年では、明石市の西に広がる播磨平野を流れる大河が、日本海と瀬戸内海を結ぶルートだったという説も出ている。とくに加古川は、分水嶺が90mほどであり、若狭湾や出雲方面に上陸した人々が、河川をつかって比較的簡単に明石辺りまでやってきて、そこから大阪湾を東に行って難波に上陸するか、淡路島に上陸して、その東の端の洲本あたりから和歌山に渡り、紀ノ川を遡っていけば大和地方に入ることができる。明石や淡路島は、古代の海人にとっては、ごく普通の通り道だったのかもしれない。

 住吉神は、海上交通安全の神として海の近く祀られていることが多いが、海から離れた加古川中流域にも、住吉神社が多数存在しており、加古川の支流の東条川沿いに船木の地がある。『住吉大社神代記』によると、加古川河口に近い明石にも船木村があった。

 淡路島の北緯34.53度に、古代最大級の舟木製鉄所の跡があり、奈良の三輪山も、鉄との深い関連が考えられ、その山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。そして、室生寺も、伊勢斎宮跡の近く、多気の地も水銀の産地だ。

 東西に一直線の太陽のラインとされるこの線上には、鉄や水銀と関わりのある聖域が多いということがわかる。そして、船木氏を代表とする多氏とも関わりがある。

 太陽と製鉄の関係は、製鉄炉の中の眩い光と太陽光線のイメージが重なるからだという説もある。

 また、太陽は海人にとって大切な道しるべであり、海人には日神信仰がある。その海人は、船を作るために樹木を必要とし、川を遡って山の奥深くに入っていき、船の防水加工に有用な水銀を採掘したとも言われる。船木氏が、伊勢の多気という水銀の産地を本貫の地にしていたのは、そのためだろう。

 ところで、明石市には、船木氏と関係の深い住吉神社が数社あるが、そのなかで、魚住の海岸にある住吉神社が、住吉神社の発祥の地とされている。

 これは、神功皇后三韓征伐の際、播磨灘で暴風雨が起こったため、魚住に避難し住吉大神に祈願をすると暴風雨がおさまったからだという伝承もある。

 源氏物語のなかでも、似たようは描写がある。

 京の都から須磨へと流された光源氏。須磨の館で暴風と激しい雷雨にあい、光源氏は、救いを求めて、住吉の神に必死に祈る。

 その時、夢に現れた亡父、桐壺帝が、「住吉の神の導きたまふままに、舟出してこの浦を去りぬ」と告げる。

 そのお告げに符合するように、海上で、明石の入道の迎えがあり、光源氏は、鎮まった海を渡り、明石に移る。

 この時を境に、光源氏の運命が変わり、京都に戻ってから栄華の道を歩み始める。

 さらに、明石の入道は、自分の血筋から国母が出るという霊夢を信じて、明石の地で住吉神を信仰していた。 明石の入道が住吉の神に祈りはじめて十八年、住吉の神の導きによって須磨から明石にやってきた「光源氏」と、明石入道の娘が結ばれ、女の子を出産する。その女の子は、京都で光源氏と紫の上に育てられ、皇太子のもとに嫁ぎ、四男一女を産み、皇后となり、第一子が皇太子となる。

 住吉の神への信仰深い明石入道の悲願が叶う。

 神功皇后の物語と同様、源氏物語のなかでも、住吉神が、極めて重要な役割を果たしている。

  紫式部が、「源氏物語」を須磨と明石の帖から書き始め、明石の一族の繁栄で物語を終わらせ、さらに、光源氏を救い、栄華に導いていく神として住吉神が位置付けられているわけだから、紫式部がこの物語の構想を行う時、住吉神のことが念頭にあったと思わざるを得ない。

 これはいったいどういうことだろうか?

(つづく)

 

 

第1046回 広河隆一氏の性的暴行事件について(4)

 広河隆一氏が、月刊雑誌に、今回のセクハラ事件に対して「手記」を書いて掲載している。
 このタイミングで、手記を書く方も書く方だが、掲載する方の神経も理解できない。
 手記を書くのは構わない。しかし、ふつう、手記というのは、事件がなんらかの結論に到り、過去を振り返るためのものであり、事件が現在進行形であるという認識をがないから、こういうことができる。
 つまり、これは手記というより、こちらにも言い分があるという反論であり、文体に工夫が凝らされているが、反論として読むことが相応しい。

 彼は、文章を書き慣れているから、過激な対立姿勢を見せないように書かれているが、事実としてあったことに対する認識の食い違いを浮かび上がらせるというアプローチを文章で行っている。こういうことは達者なので、「見方を変えれば、現在、女性が告発している内容も、見え方が変わってくるんではないか」と誘導をしようとしている。
 話は変わるが、今回の事件のことに対して色々な分野の人が言及するなかで、写真家の長倉洋海氏が、「自分はいい写真を撮りたいから現場に行って写真を撮る」と素直に語った時、広河氏が、「自分は起こっている事実を伝えるために現場に行って写真を撮っている」と、長倉氏の考え方を否定する発言をしたことを述べていた。
 しかし、事実というのは、実は、自分に都合よく解釈したり歪めることができるものである。純粋なる事実なんてものは存在しない。
 今回の広河氏の手記は、自分の立場を守るために、起こった事実の酷さをオブラートに包んで曖昧にしようとしている表現であり、「事実を伝えるためにこそ表現はある」という自分の発言の矛盾を、そのままさらけ出している。
 長倉氏が述べている「いい写真」というのは、単に綺麗な写真、見た目のいい写真を撮りたいということではない。
 その時々の価値観や都合によって歪められてしまう事実をなぞるのではなく、不完全な人間ではあるけれど、「真理」というものが存在するのであればそれに近づきたいという執拗なまでの思いをこめたものだ。
 人間という無常の存在は、血の滲むような努力をしても「真理」を必要とし、真理と現実のギャップの深淵であがきながら、美を生み出してきた。この「美」というのは、もちろん汚いとか醜いの反対にあるものだが、その真意は、「偽」の対極ということ。
 いい写真を目指すというのは、決してカッコつけた写真を目指すことではなく、「偽」の対極の美を目指すこと。ともすれば人間性への信頼が揺らぎやすい世の中であるが、人間性への信頼は、これに尽きると思う。表現者に限らず、職人さんであれ、企業に勤めている人であれ、「偽」に対して毅然とした態度をとっている人は、生き方として、美しい。そういう人は、時に厳しい時があるが、それは、自分を守るためではなく、偽(本物でないものを本物らしく見せかけること)を許せないからだ。
 このたびの広河氏の手記を見て、この期に及んでカッコつけているという欺瞞性を感じるのは私だけでないだろう。
 彼は、「偽」の対極を目指していたのか、事実の伝達などと言いながら、実際は、カッコつけていただけか。
 長倉洋海氏が書いているように、 DAYS JAPANで世界の有名フォトジャーナリストの写真を載せて、その横に自分の写真も並べて自分を権威づける方法。テレビなどによく登場する著名人の名前をズラリと並べ、それを自分の支援者たちと見せる方法。
 そしてテレビや、人権団体その他の機関をうまく巻き込み、彼の演出に便乗させる手法。
 被害を受けた女性たちが、彼のことを「すごい人」、「雲の上の人」と思い込んでいたのは、こういう演出によるものが大きい。

 広河氏の今回のセクハラ事件と、 DAYS JAPANのような彼の仕事は切り離して考えるべきだというジャーナリストなどが存在するが、私は、前から言っているように、根っこに同じものを感じている。

  人権派の旗を掲げた活動は、善良なる人が、人の為に行うものだと思われている。

 しかし、気をつけなくてはいけない。「人」の「為」は、漢字で表すと「偽」になってしまう。

 「人の為に何かをしてあげる」という意味が、「偽」という漢字になっていることを肝に命じておく必要がある。

 なぜそうなるのか? 「人の為」というのは、実は、うわべを取り繕った人間の作為であることが多いからだ。作為というのは、正体を隠して上辺を取り繕って、本質から遠ざけること。本来の性質や姿を歪めること。偽」の真意は、そういうこととなる。

 なので、「これは人の為です」という声が大きくなる時、多くの場合、自分を良く見せるためのポーズであり、その言葉に釣られて集まってくる人を手なづけて、人生の真理から遠ざかっていってしまうことが多い。


 「写真がうまくなりたければ私についてくればいい」という言葉に引っかかる前に、長倉氏のアフガンやコソボの写真などをじっくりと見る機会を得て、「いい写真」の真意や、「いい写真」から滲み出る撮影者の誠実を感じ取り、「偽」と「真」と、「真」に近づくための「仮」を見極める目を養い、そのうえで、DAYS JAPANの 「事実を強調する写真」を見れば、それらの写真が、いかに撮影者の狙いが露骨で、被写体への配慮がないか、それらの「偽」がわかるのではないかと思う。
 写真がうまくなるというのは、どういうことか?
 シャッターを押しさえすれば誰でも写真が撮れる時代であるが、カメラは、ファインダーを覗けば狭い領域しか写らない。
 その狭く切り取られた画角は、それじたいがすでに撮影者の価値観であり、日頃、何を考えて生きているかを表している。発表される写真を見て、その撮影者が信じられるかどうかは、どんな事実を写しているかで判断されるのではなく、自分というちっぽけな存在が、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤が、どれだけ深いかで判断されると思う。
 そういう葛藤があってはじめて、表現の仕方やアプローチの仕方に創意工夫が生まれ、その人ならではのものが出てくる。発表という形でアウトプットされているものには、必ず、その人の人柄や内面の深さが反映される。
 人権の旗を掲げてさえいれば信頼できるなんて大間違いであり、アウトプットされているものを見極められるようにならなければいけないのだけれど、そのためには、この情報過多の時代、それなりの心構えと実践が必要になる。
 たとえば、写真に関しては、まずは、長倉氏が言っている本当の意味での「いい写真」を、たくさん見るしかない。
 世の中に溢れているのは、よくない写真が99%以上。その中から、心して、ものを見る目、人を見る目を養っていくしかない。
 繰り返しになるが、誰でもスマホなどで写真が撮れる時代、自分の意識や価値判断によって目の前に生じているものを限定してしまうことへの葛藤がない写真は、ただのカッコつけた写真であり、写真によって世界の本質を歪めてしまう、”よくない写真”だと思う。