第1090回 いのちが私たちの中にあるのではなく、私たちが、いのちの中にある。

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今日はお天気がよくて、家の前の河川敷に、親子連れが、わりとたくさん来ていて、子供の頃によくやっていた川に向かった石投げや、虫取をしていて、いいなあと思って眺めていた。

 

 忘れてならないことは、いのちが私たちの中にあるのではなく、私たちが、いのちの中にあるということ。

 4月1日に「Sacred world 日本の古層」を発表して、4月3日に注文をしてくれた知人の劇作家で俳優の和田周さんが、新型コロナウィルスによる肺炎で亡くなった。
 81歳。映画を愛し、読書家で、近年も、ハンナ・アーレンからシモーヌ・ヴェイユに夢中になり、道元本居宣長西田幾多郎鈴木大拙と読み漁っておられたようだ。
 処世には程遠い本質と大局を見据えた読書と思考と実践。専門の狭い領域で優劣を競うことが知性や創作だと錯覚している似非文化人、似非アーティストが多い世の中で、真に心ある文化人であり芸術家。
 2年ほど前、和田さんは、
『新・明日もまた今日のごとく』最首悟著(くんぶる発行)から次の言葉を引き出して、水俣病の不条理と向き合っている。

「しあわせ」を問うことは、人間の、そして「いのち」の深遠さを認識することである。

 新型コロナウィルスの猛威を受けて、今まで当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなった。
 しかし、以前の当たり前の状態に戻ることが、「しあわせ」であるはずがない。
 当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなった時、人間は、感情的になって、それを不条理だと思う。
 しかし、当たり前ではなくなった時は、当たり前だと思っていた現実を距離を置いて見つめる機会である。
 人間が変われる時というのは、そういう時しかない。

 「いのち」の深遠を認識するところから、「しあわせ」を捉え直す時期が来ている。

 

 合掌

 

 

 

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第1089回 発展途上国で健やかな暮らしをしている人々の方が、新型コロナウィルス感染による死者数が少ない。

 このたびの新型コロナウィルスにおいて、たとえばアメリカでは、アンソニー・ファウチ博士など、感染症の権威の発言が大きな影響力を持っている。

 アンソニー・ファウチ博士は、エボラやヒト免疫不全ウィルス( HIV)の研究に貢献されてきた人だが、そのため、今回の新型コロナウィルスも、自らの経験に基づいて、エボラやHIVのようなイメージで伝えられている。 

 なので、欧米などに比べて医療機関が不十分な発展途上国でこの病気の感染が広がったら大変な事態になる、どれだけ死者が出るかわからないといったパンデミック映画のような光景が多くの人々の脳裏に共有されて、報道で伝えられる情報も、それらの映画を彷彿させる絵が切り取られている。

 しかし、欧米などの先進国に比べて、本当に発展途上国の方が危険極まりないのだろうか。

 毎日更新される全世界の感染者数や死者数の分布を見ていても、ずっと前から、感染の分布や死者数は先進国に偏っている。専門家は、それは感染の時間差であり、これから発展途上国で広がっていく可能性があると主張するのだが、現時点で感染元とされている中国は、これらの発展途上国と緊密に関係があり、観光やビジネスで人の往来も激しいわけで、にもかかわらず、狙ったように欧州や日本、韓国、アメリカなどで急速に感染が広がっていったというのは不思議だ。

 そして、日本、韓国など早くから感染が広がったアジア圏の一部は、欧米などに比べて、はるかに低い致死率となっている。

 なぜ日本などに比べ欧米での致死率が高いのか、まだはっきりとしたことがわかっていないが、注目すべきことは、インドシナ半島周辺のアジア諸国の感染状況だ。
 4月24日現在、新型コロナウィルスによる死者は、ベトナムカンボジアラオス、ネパール、ブータンが0人で、ミャンマーが5人。最大のタイで50名。台湾も6名と少ない。
 しかも、ラオスミャンマーなど、中国と国境も接しているし、経済面など関係性も非常に深い。カンボジアアンコールワットには、欧米や中国から観光客が大勢訪れている。
 これらの国々の南のマレーシアやシンガポールは少し多くなるが、それでも95人と12人。まだ感染が始まっていないからということではなく、日本の20分の1以下の人口のシンガポールの感染者数は、すでに日本とほぼ変わらない。
 3月24日にラオスでツアーガイドの感染者が出て、ASEAN諸国すべてに感染者が広がったことになり、医療水準が高くない途上国で今後さらに感染が拡大する懸念があると心配されたが、それ以前も、それ以降も、欧米などに比べて死亡者数はまったく増えていない。

 カンボジアシェムリアップに7年住んでいる人の話では、中国の武漢の感染爆発の前に武漢からも大量の観光客がアンコールワットに来ていて、現地の人は観光業の就いていたり露天をやっているので感染が広がるのではないかと懸念していたという。でも、そうした気配がないので不思議だと。子供達はマスクもすることなく普通に遊んでいるそうだ。

  これらの東南アジア諸国に共通している点を探ると、まず米食というのがある。ラオス人は1日に3合ぐらいの米を食べている。米を長期的に食べている人に多い腸内細菌に「プレボテラ菌」というのがある。
 プレボテラ菌は、米食だけでなく、ヒエや粟などもそうだが食物繊維を多く食べているアフリカ人や東南アジア人の腸内に多く存在すると言われている。
 東南アジアだけでなく、アフリカも、今回の新型コロナウィルスの死者数が低く抑えられている。
 最近になって、科学的な裏付けがあるのか単なるフェイクニュースの一種なのかわからないが、「新型コロナウイルスは、呼吸困難を引き起こすことで知られているプレボテラ細菌に侵入し、感染したプレボテラ細菌は、新型コロナウイルスよりも遙かに悪性の攻撃を続け、炎症を伴う過剰免疫反応を起こして肺を破壊する」という情報が流れており、感染したプレボテラ細菌に対する治療で、イタリアなどですでに効果が出初めていると伝えられていた。
 この現時点では定かでない情報のなかでは、プレボテラ細菌とアジア人の関係は伝えられておらず、ウィルスに感染したプレボテラ細菌に対する治療の仕方だけが伝えられている。
 その情報の真偽はともかく、確かな事実は、米など穀物類を多く食べるアジア人は、欧米人よりも腸内にプレボテラ細菌を多く備えてこの細菌と共生しているが、欧米の人たちはプレボテラ細菌をそんなに持っていない。
 多くのプレボテラ細菌と共生しているアジア人は、プレボテラ細菌のウィルス感染を制御する仕組みでも持っているのだろうか。
 専門家は、新型コロナウィルスに対する感染率や致死率は人種による差はないと言い切っていたが、こうして感染が長引いて世界中に広がって各地の数字を見ると、明らかに人種のあいだで差がついているとしか思えないのだがどうなのだろうか。
 それでも専門家は、数字の違いはタイミングの違いでしかないように言う。しかし、日本や韓国などは欧米より先に感染が始まっていた。その事実に対して、ウィルスの変異によって欧米とアジアは状況が違っていて、致死率の高い欧米型が日本をはじめアジアに逆輸入したといった不安を煽る言論もある。
 それはともかく、ラオスカンボジアベトナム、ネパール、ブータンといった国々が新型コロナウィルスで死者を出していないのだから、 WHOは、そのあたりの原因を探る努力を同時に進めてもいいのではないかと思う。

 また、4月24日の News weekの記事において、米国の政府研究で、日光が当たる場所や高温、高湿度の環境下では、ウィルスは、より短い時間で威力が弱まる傾向があるということを明らかにした。政府の研究では、屋内の空気が乾燥した環境がコロナウィルスの生存期間を長くするのだそう。

 暗い室内だと1時間かけてウィルスの威力は半減するが、日光にあてた場合は90秒。そして、暗くて湿度が低い環境でステンレス鍋など通気性のない素材の上では18時間かけて威力を半減するウィルスが、高湿度だと6時間に減り、さらに日光が当たると2分に短縮されるのだそう。

 この記事のなかでは、「シンガポールなど温暖な場所でも強い感染力を発揮している」と注意書きもあるが、シンガポールは、熱帯の国とはいえ冷房環境が先進国並に十分に整っているのだから、感染は広がるだろう。

 しかし、560万の人口のシンガポールの感染者数は、人口が13000万の日本と変わらないくらい多いのだが、死者数はとても少ない。11000人の感染者数に対して12人の死者。日本は欧米に比べれば少ないが、昨日までで328人だ。
 欧米では完全な外出禁止令が出て家から出られない状態になってからの方が、死者数が急増したという事実もあった。
 日光のこととか、新型コロナウィルスによる死者が出ていない東南アジアの人々の腸内環境のこととか、政府や専門家の意見とは別に、個人個人は、多面的な対策を考えていた方がいい。
 専門家は、科学的な裏付けがないものは責任問題になるので口にできない。でもそうすると、対策が非常に狭く限定されてしまう。あまりにも対応が限定されてしまうために、結果的に、専門家が唱える完全なる外出禁止だけをやっていると、逆効果になるということもある。
 一般的な日本人は、生理感覚として日光浴が好きだし、家に子供達を閉じ込めていると健康上よくないという感覚をもっているので、政府が外出禁止が要請しても、どうしても近くの公園とかに子供達を連れて行きたくなる。
 すると、公園の人口密度が高くなり、それを報道するメディアが、問題現象であるかのように伝える。
 人間は試験管の中の実験材料ではなく、環境のなかで生命力を育んでいく存在であり、日光を浴びたり、散歩をしたり、食物繊維の豊富な食材を十分に摂ったり、健康な生活をすることが大事。
  感染症の権威は、エボラやHIVのイメージで、新型コロナウィルスが発展途上国に感染が広がったら大変なことになるというイメージを共有させようとするが、むしろ、食物の質とか外に出る機会とかを考えると、発展途上国の方がダメージの少ないウィルスかもしれない。

 もしそうだとしたら、非常に皮肉な現象が起こっているということになるのだが、これを機会に、自らの文明に対して自惚れていた先進国の人々がライフスタイルを変えるきっかけとなるかもしれない。

 そうすると、まさしく自然界の警鐘として、新型コロナウィルスが現れたということになる。

 ラオスミャンマーベトナムブータン、ネパールなどを訪れたことのある人々は、なにかしら共通のイメージをもっているだろう。自然に恵まれ、のどかな時間の流れの中で、多くの人々は身体を動かして汗を流すことや、日光を浴びることを当たり前に行っている。そして、野菜や穀物などが食卓にズラリと並ぶ。西欧社会に比べて貧しいと言われるけれども生命体としては健康的な生活を送っているから新型コロナウィルスに対して強い、という結果になっている可能性だってある。

  

 

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第1088回 アメリカのことが心配で怖い。

 4月17日23時現在、日本のコロナウィルス感染者は9850人で、死者は207人、感染経路が不明の人の数が増えているのが大問題、より一層の警戒が必要だというニュースで占められている。

 もちろん日本国内のことは大事だが、超大国アメリカで起こっていることにも十分に注意が必要だ。アメリカの感染者数は70万人を超え、死者は36000人。毎日のように日本の累計死者数の10倍が亡くなり続けていて、すでに医療崩壊だけでなく介護崩壊も起きている。

 アメリカは、僅かこの1ヶ月間で失業者が2000万人となり、労働人口の13%が職を失った。

 世界の経済はアメリカを中心にまわっていて、とくに日本は、アメリカがくしゃみをしたら日本は肺炎になると言われてきた。2008年のリーマンショックの時も、当初は日本は影響が少ないと言われていたのに、日本の方がアメリカよりも深刻な不況に陥った。

 アメリカは、これまで自国が窮地に陥った時、強引すぎる方法で立て直しを計ってきた。その時々、日本への要求も凄まじいものがあり、なぜか日本の政治家でアメリカに抵抗した人は、すぐにスキャンダルに巻き込まれてポジションを失った。

 たとえば1980年代のアメリカは、巨額の貿易赤字と巨額の財政赤字、すなわち双子の赤字で経済はどん底だった。その状況のなか、まずは1985年、日本の輸出力を弱めるために円高ドル安に誘導するプラザ合意が行われた。しかし日本企業がすばやく対応し、海外への工場移転などで依然として高い競争力を維持したため、アメリカは次の手を打った。

 まず、1989年、アメリカは、日本をスーパー301条の不公正貿易国と特定し、制裁をちらつかせながら改善を迫った。日本の衛星、スーパーコンピューター、林産物などが特定されたが、その時、マイクロソフトのウィンドウズよりも優れたOSソフトだったといわれるトロンが制裁候補となって普及を阻止され、その後、コンピューターソフトのディファクトスタンダード(事実上の世界標準)はアメリカが独占するようになった話は、よく知られている。

 これに続いたアメリカの圧力が1989年の日米構造協議だ。これは、200項目を超えるアメリカから日本への要求であり、日本国内の商習慣や流通構造も含めた社会構造の変化を求めるものだった。それはまさに植民地政策のような内政干渉だが、日本はその要求を受け入れざるを得なかった。

 1989年、前年に発覚したリクルート事件において竹下首相の関連が浮かび、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、竹下首相の秘書が自殺した。その後を継いだのが、党三役の経験もなく知名度の低い宇野首相。その宇野内閣とアメリカのあいだで結ばれたのが日米構造協議だった。しかし宇野首相は女性問題などもあって退陣。たった69日だけ日本の最高権力者となった宇野首相は、日米構造協議のためだけに表舞台に立つという不可思議なことが起きた。

 日米構造協議の主な要求は、第一に国内の投資資金を輸出産業ではなく公共事業にまわせといういうこと。この取り決めで、毎年、GNPの10%を公共事業に配分することになった。宇野首相の後を受けた海部内閣は、これに応え、10年間で総額430兆円という「公共投資基本計画」を策定した。

 その結果、庁舎・学校・公民館・博物館・テーマパークなどの無駄な公共施設が全国に乱立するようになった。

 そして、この時期、日本の政権運営はかつてなかった混迷を極め、宇野、海部、宮澤と短命の政権が続いた後、1993年に細川内閣の連立政権が発足し、自民党は初めて下野することになった。しかし、細川首相への佐川急便グループからの借入金問題など疑惑が持ち上がり、細川内閣は一年も持たずに総辞職。引き続き連立政権(社会党は抜ける)の羽田内閣が発足したが64日の歴代最短の短命で退陣。そして1994年には、なんと自民党社会党が連立を組むという村山内閣が誕生した。

 社会党の党首が初めて首相になったこの時に、日米構造協議で決めた10年間で総額430兆円という金額が見直され、さらに200兆が追加されたのだ。

 自民党社会党が連立を組む政権は、次の橋本内閣が終わる1998年まで続いたが、

政党としてのポリシーを失った社会党は国民の信頼を得られなくなり、その後、完全に存在感を失くしてしまった。

 社会党の村山首相の時、今も人々の記憶に残る二つの事件が起こる。1995年1月の阪神大震災と、3月の地下鉄サリン事件だ。

 日本の巨額な財政赤字は、高齢化による社会保障費が原因だと繰り返し言われている。

 しかし、歴史を振り返ると実際はそうではなく、1989年にアメリカから日本が押し付けられた日米構造協議が大きな転換点になっていることがわかる。

 日本は、1988年から数年間にわたって歳入が歳出を上回り、それまでに抱えていた財政赤字を減らし続け、100兆円を切るまでになっていたのだ。

 しかし日米構造協議によって、そこから急激に公共事業が増える。1991年からの10年間で600兆円も増えており、その時に抱え込んだ財政赤字の利息が、その後の財政負担となり、毎年の財政赤字を増やし続けるという悪循環を生んでいる。

 具体的には、現在、100兆円の歳出のうち、24兆円が国債の返却と利息(9兆円弱)で、これを支払うために新規の国債の発行という状態になっている。文化教育、科学振興の予算が5.6兆円だから、借金の利息の方が、この金額よりもはるかに大きいのだ。

 そして、この公共事業の桁外れの膨張によって、日本における文化も、箱物行政に癒着したものになった。日本各地に有名建築家のデザインしたモダン!?な美術館が次々と建てられ、アートフェスティバルという、どこもかしこも似たような興行が繰り返し行われた。地域に残っていた伝統的な文化を守ることよりも、海外で注目を浴びているという奇抜なだけのコレクションが美術館に集められて展示され、購入させられることにもなった。お金の流れに通じた大手広告代理店が使い回す企画書とプレゼンによる文化アート興行は、地域性などを無視してディズニーランド的な集客効果を期待するものとなり、大手広告代理店とメディアがタッグを組んで、これがアートの新しい流れであると喧伝した。

 私は、日本の色々な地域を訪れた時、伝統的な祭祀などが衰えていったのは戦後の高度経済成長の時だと思っていたのだが実際は、高度経済成長当時はまだ何とか継続できていて、1990年以降に急激にダメになったという話を聞いた。

 たとえば伝統的祭りに対しても、動員力といった数字で表されるものに対してのみ予算の優先順位がつけられるようになったために、行政からの予算を確保するために、人々の集まる場を大きく綺麗なものにし、テレビ映りがよくなるように伝統的な衣装や仮面までを新調したりするところが出てきた。神聖なる行事のために人々の立ち入りを制限するようなものは、支援を受けることができず衰退せざるを得なかった。

 1989年の日米構造協議の結果、日本は、アメリカの要求に従って莫大な借金を積み重ねながら自国の文化を破壊していったのだ。

 さらに1989年の日米構造協議によって変貌させられたのは駅前商店街だ。日本のきめ細かな商習慣に阻まれて参入しずらいアメリカ企業のために、大店法規制緩和が行われた。同時に、土地税制の見直しが迫られ農地への税率が上がり、地主が土地を手放すことを促進した。結果的に郊外に駐車場を備えた大型ショッピングセンターが次々に出来て地方都市中心部の商店街は寂れた。日本の地方の風景は、その時ガラリと変わったのだ。風景だけでなく、文化の質も変わった。

 アメリカが怖いのは、その巨大な影響力を駆使して、自国の危機を回避するために、国際秩序すら大きく変えてしまうところにある。 

 アメリカは、国内が不安定になると、必ず、戦争を引き起こしてきた。

 1980年代の双子の赤字を消すための最終章が、1990年からの湾岸戦争だった。

 この戦争のきっかけは、イラクによるクウェートへの侵攻だが、その前に、イラクアメリカに追い詰められていた。

 アメリカは、8年間に及ぶイラン・イラク戦争イラクを支援しながら、イラクが戦時債務を返済できないことから農産物の輸出を制限し、食料をアメリカに頼っていたイラクは困窮した。さらにアメリカは工業部品などの輸出も拒み、石油採掘やその輸送系統においてもフセイン大統領は追い詰められた。そのうえ、イラク経済の拠り所である石油に関しては、サウジアラビアアラブ首長国連邦クウェートOPECの割り当てを超えた石油増産を行って石油価格が暴落した。

 追い詰められたイラクが8月2日にクウェートに侵攻すると、アメリカは、その5日後に、サウジアラビアイラクに侵攻される可能性があると主張して、サウジアラビアへの派遣を決定。アメリカは、国連軍ではなく、有志を募るという形の多国籍軍を結成し、延べ50万人でサウジアラビアイラククウェート国境付近に進駐を開始した。

 アメリカは、事前に計画されていたのかと思うほど、素早い動きだった。

 そして、1990年代に自動車産業に代わってアメリカ経済を牽引していたIT産業に翳りが見え始め、ITバブル崩壊の時、2001年のアメリカ合衆国テロのその後に続くアフガニスタン侵攻があった。それまで失業率も増え、景気が悪化していたアメリカは、この戦争によって一つにまとまった。そして、テロの被害を受けた町の復興支出や、アフガニスタン紛争の戦費増大により、景気を回復させたのだ。そのエンジンの一つが住宅需要の拡大だったが、低所得者向けのサブプライムローンが焦げ付き、住宅バブルは崩壊し、2008年にリーマンショックが起こった。

 リーマンショック後、2010年までの間に、米国では870万人の雇用が失われた。

 日本は、リーマンショックを引き起こしたサブプライムローン関連債権などにあまり手を出していなかったため、当初は直接的な影響はあまりないと考えられていたけれど、全世界的な金融不安のなか日本の経済も落ち込み、立ち直りも遅れることになった。

 とりわけ事態を深刻化させたのが、1ドル79円という超円高の状態になったことだ。リーマンショック金融危機を回避するため、アメリカを筆頭に欧米諸国が量的緩和政策を行い、大量のマネーを供給した。しかし、その時、日本だけがそれをやらなかった(何かしらの理由でできなかったのか?)。そのため、日本円の流通量は他の通貨に比べて相対的に少なくなるわけで、円高にならざるを得ない。

 この超円高のため、当時、急激に経済大国になりつつあった中国の台頭と合わせて日本企業の国際競争力は著しく低下。企業は、多くの国内製造工場を閉鎖して、生産拠点を海外に移転し、大量の派遣切りが生じた。派遣村などが話題になったが、2009年以降から20代〜30代の若年層による生活保護の申請が急増した。

 リーマンショックの時も、1989年の日米構造会議のように、日本の産業構造が変わったのだ。

 そして、日本で東北大震災があった2011年の同じ時期にリビア内戦が起こり、3月19日に米英仏を軸とした多国籍軍リビア空爆アメリカは、核弾頭の搭載可能なトマホークミサイルを220発打ち込んだ。世界の目が日本の原発事故に注がれている時だった。

 そして、2014年8月8日からは、アメリカ軍がイスラム過激派組織ISに対して攻撃を加え始めたが、もともとイスラム過激派組織ISは、シリア国内でアサド政権を打倒するためにテロ攻撃を繰り返していたヌスラ戦線で、ヌスラ戦線は、サウジアラビアカタールクウェートなど湾岸諸国から資金援助を受けるとともに、アメリカからも武器の提供を受けていることを明かしていた。

 2010年代、世界最大の問題児としてその恐怖が喧伝されていたイスラム過激派組織を育てるうえでも、アメリカは関与していた。

 こうしてアメリカは100年に一度の不況、約80年前の世界恐慌以来の金融危機と言われたリーマンショックから立ち直り、2019年、アメリカの株価は史上最高値となった。しかし、失業率が低下して消費も堅調で、株価の上昇が資産効果を生み出しているように見えていたのに、トランプ大統領をはじめ、世界各国で保護主義を唱えるリーダーが人気を集める事態となっていた。 

 この保護主義化の現象は80年前も同じだった。1929年のウォール街の恐慌を切り抜けた後、1932年頃から植民地を持つ列強が中心となって関税同盟を結び、日本など第三国に対して関税障壁を張りめぐらせるというブロック経済を行い、ドイツや日本は追い詰められていった。そして奇しくも2020年と同じく東京オリンピックが開かれることになっていた1940年に第二次世界大戦が勃発する。

 1929年のウォール街恐慌、2008年のリーマンショックからの流れは、とても似ている。

  現在、世界中を大混乱に陥れている新型コロナウィルスの問題は、感染のことに注意を払わなければいけないのは当然だが、日本国内のことだけでなく、この危機を切り抜けるために各国がどのような手を打つのかということにも注意していなければならない。

 アメリカで起こっていることは、対岸の火事ですまない。

 

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第1087回 パンデミックと不条理と、もののあはれ

 

 

 新型コロナウィルスによって、世界中がこれまでにない事態に直面しているが、この問題に関して、海外の知の巨人と言われる人たちが意見を述べている。

 これは危機的な状況であるが、人類の次なるステージへの準備段階でもある。実際に、テレワークをはじめ様々な場面で社会的実験が行われ、より”合理的な仕組み”が整えられつつある。また、産業がストップしたことで大気汚染をはじめ、環境問題も劇的に変化している。

 知の巨人でなくても、そのあたりまでは普通にわかることだが、問題は私たち一人ひとりの内面がどのように変わることができるかだ。2011年3月、現世代がそれまで体験したことのない深刻な天災と人災が同時に起こったにも関わらず、日本は、アベノミクスという掛け声のいかがわしい金融経済政策によって、むしろ内面は、貧しくなったように感じられた。相も変わらずテレビでは大食い番組が流れ、政治的な問題が発生すると、芸能人の麻薬や離婚などゴシップで騒ぎ立てる。

 このたびのパンデミック現象を、14世紀頃のヨーロッパのペストと結びつけて語る論者もいる。当時、ヨーロッパではペストによって人口の半分以上が亡くなった。しかし、そこからルネッサンス、人間復興が起こった。

 しかし、現代の状況と当時を結びつけるのは間違っている。 

 14世紀までのヨーロッパ世界は、しだいにカトリック教会の矛盾が大きくなっていたものの宗教の影響が強く神頼みの世界だった。しかしペストによる壊滅的な被害で、神頼みの神通力はなくなった。教会が金儲けのために発行する免罪符などペストの前に完全に無力だった。

 そのため人間は、そうした災いに対して、神に頼るのではなく、人間自身の力で克服する道を歩み始めた。宗教戦争による荒廃がその運動を加速させた。最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願して絶望したデカルトは「我考える、ゆえに我あり」と覚った。災害や病は人間が自らの頭で考えて打ち負かす対象となったのであり、ルネッサンスの人間復興というのは人間の神からの自立と言っていいだろう。その結果が、聖書の中で描かれるように、ノアの洪水を生き残った人たちによるバビロンの塔の時代となる。人間は、神の存在を無視し、天にも届かんばかりの塔を建設し、神の怒りを買う。

 それはまさに近代社会と同じである。

 現在のパンデミックは、ルネッサンスの前のペストよりも20世紀の文学者カミュが描いた「ペスト」の不条理の世界の方が相応しい。

 人間は、「ペスト」の前に様々な対応を試みるが、ウィルスは人間が想定している次元を超えた存在であり、人間世界に大きく関わったかと思うと、人間の努力とは関係なく去っていく。そして人間が忘れて油断すると、また突然やってくるだろう。人間は、自分たちの努力でなんとかなると考え、その対策のために滑稽に見えることも繰り返すが、人間の努力は世界の本質からすれば無意味である。カミュは、そうした不条理の世界を描いている。

 現在、このパンデミックの状況のなかでも、欧米の知の巨人は、意味を求め、意味を説き、夢を共有しようと語りかける。

 人類という種が意味を求める生物だから、知の巨人とされる人たちの言葉は、多くの人の共感が得られることが計算できることであり、だからこそ知の巨人のブランディングとなる。 

 そういう状況のなか、カミュの「ペスト」が爆発的に売れているというのは興味深い。

 しかし、欧米人であるカミュのインスピレーションに頼らなくても、日本人は、古来より、人間界と自然界のあいだに横たわる、人間の側からすると不条理、自然界の側からすると単なる不整合の事態を、カミュのように冷徹に突き放すだけでなく、一歩踏み込んで洗練させて受け止める作法を備えていた。

 それが、”もののあはれ”である。

 日本人は、天災や生老病死など人間の都合とは関係なく生じる自然の営みに対して抵抗するのではなく、かといって投げやりになるのではなく、その定めとの付き合い方に人生の奥行きや趣を求めていたのだ。

 日本人は、古来から台風や地震などの天災だけでなく、繰り返し疫病にも苦しめられてきた。もしかしたら、渡来人が来日して新しい技術をもたらすたびに新しいウィルスも持ち込まれていた可能性もある。だからかどうか、国内の勢力のバランスが崩れ、変化する時、災いが起きていることが多い。

 894年に菅原道眞による進言で遣唐使が廃止されるが、その前、京都では疫病の大流行(859〜877)があり、多くの死人が出ている。同じ時期に、富士山の大爆発や、大地震、大津波もあった。貴族から武士の時代への移行は、その頃より起きている。

 日本書紀の中では、第10代崇神天皇が即位してまもなく、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になり、その原因は、アマテラス大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)をヤマトの宮中に祀っていることだと考えられ、その存在を怖れた崇神天皇の命によって、両神に相応しい場所へと遷すことが実行され、最終的に、アマテラスは伊勢の地に落ち着いた。元伊勢巡行である。

 記紀によれば、さらに疫病が続き人口の大半が失われ、疫病の原因がオオモノヌシの祟りであると判明し、三輪山でこの神を祀ることにしたと記されている。オオモノヌシは、神話の中で国譲りを迫られた大国主の別名(和魂)である。

 日本の歴史の中では、天災や疫病が起こると、それは恨みを残して死んでいった者の祟りであるという考えが伝えられ、その怨霊に敬意をはらい、その魂を鎮めれば、守り神に転ずるという発想があった。

 奈良時代、権謀術数によって権力を握った藤原四兄弟藤原不比等の子供たち)が次々と天然痘で亡くなった時は、長屋王の祟りだと怖れられた。

 平安時代初期、桓武天皇の周辺で流行病で次々と人々が亡くなった時も、桓武天皇が即位するために犠牲になった井上内親王や、長岡京の変で無実の罪を着せられた早良親王の祟りだと怖れられた。

 そして、10世紀、菅原道眞の政敵だった藤原時平たちが病で次々と亡くなった時は道眞の祟りとされた。

 日本で国風文化が華開くのは遣唐使の廃止以降であるが、それは、歴史上最大の貞観の富士山の大爆発(864-866)や貞観の大地震、859〜877と長期にわたった疫病の大流行の後でもあり、国風文化を通して、人間にとっての不条理が、”もののあはれ”の美へと昇華していくことにもなった。

 日本文化の特徴は、不条理さえも人間に都合よく意味付ける欧米ブルジョワ層の啓蒙文化と違い、不条理は不条理のまま、無意味なものは無意味のまま受け入れて、その人間と自然の不整合な間合いや、不条理に対する人間の作法を、美へと転換させてきたことなのだ。

 もちろん人間は、危機に際して、頑張って乗り切るための意味を必要とする。その意味のおかげで、ふだんよりも何倍もの力を発揮できることがある。受験に失敗することは人生の失敗につながると不安や恐れを植えつけられて、受験生は努力させられる。

 そして人間は、その意味あることの達成を、自分の自信にする。世間が認める意味あることを実践できている人は、態度に自信が現れている。そうした意味を求めた精神の運動が、西欧社会が掲げてきた人間の進化だった。しかし、その合理的な考えに基づく進化は、自分が世界の中心であると錯覚する驕りにもつながりやすい。

 それに対して、祟りを怖れるという感覚は、合理主義者からすれば迷信的だと片付けられてしまうかもしれない。しかし、畏怖には、傲慢になりがちな人間の心構えを修正する力がある。

 子供の躾においても、「そんなことすれば罰が当たる」という感覚を教えることは、とても大切なことではないか。

 そうした意味不明の内容ではなく、「そんなことしてたら、いい学校に入れないよ」とか、「近所の人に笑われるよ」、「先生に叱れるよ」といった具体的な意味があった方がわかりやすいと思う人がいるかもしれないが、それらの功利的なシミュレーションは相対的なものであり、学校や近所や先生の基準が変われば、やっていいことと悪いことの基準も変わってしまう。

 しかし、「罰があたるよ」という時の畏れの基準は、人間世界の相対性を超えた絶対的な神様のところにある。

 コロナウィルスの災難に耐えて新しい社会を築こうという呼びかけは立派なことだが、何を基準にした社会にすべきかを考えることは、もっと大切だ。

 テレワークで仕事や学習が便利になり、自分で自由に使える時間が増えるといったことだけでは、ただ退屈な時間が伸びるだけで、その時間が消費や娯楽にまわされたところで、世の中がパンデミック以前よりもマシになるとは思えない。

 現在は、ルネッサンスの時のように、神に頼らないで生きる時代の幕開けが必要なわけではない。

 むしろ、その逆で、「そんなことをすれば罰があたるよ」という意識が当たり前のように通用する社会が望ましい。

 自分の罪を隠すために大切な文章を処分したり、黒塗りで消したり、子供にもわかる詭弁でごまかしたりすることの恥を恥とも思わない人たちが、この国のトップやエリートとされる人たちのなかにたくさん存在しているのだ。

 テレワークによる能率的な社会よりも、情報操作などによって、あらゆるところで虚がまかりとおっている世の中が変わることの方が望ましい。

 今、必要なことは、人間復興ではなく、自分が行っていること、自分が存在することの恐れ多さの感覚を取り戻すこと。

  「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる  西行

  西行が詠むように、みずからの存在を、”かたじけない”と感じる瞬間というのは、自分がそこに存在していることの申し訳なさや恐れ多さと、有りがたさの両方が混ざり合っている。 

 生きることの有り難みは、恐れ多さによって裏打ちされているのであり、決して、不便も悩みもない状態ということではない。

 

 

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第1087回 ウィルスは殺戮目的でやってくるのではない。

 

ウィルスの感染による死と聞くと、ウィルスが殺戮目的で体内に侵入してくるような気がしてしまう。しかし、ウィルスの生存戦略は共生であり、侵入した相手が死んでしまうと自分も生き残れない。

 だから、通常は特定の動物の中で共生している。今回の新型コロナウイルスはコウモリ由来だと考えられているようだが、そのウィルスが何かしらの理由で他の生物に感染してしまうと、そのウィルスに慣れていない側の身体が、不測の事態に対して対応しようとする。

 問題は、その対応の仕方であり、それが免疫システム。コロナウィルスへの対策は、感染を広げないことで自らを守るということも大事なのだろうけれど、それでも完全に感染を防げるとは限らないのだから、免疫システムという対応力のことも、考えていく必要があるのではないかと思う。

 アメリカやイタリアなどが、なぜあれほど感染者数および死亡者数が急増したのか。アメリカでの感染者数は、黒人が圧倒的に多いらしいが、それはなぜなのか。

 黒人が多いというのは人種的な問題というより、貧困層が多いとか十分な医療が受けられないという理由も挙げられているが、たとえば肥満率も相当に高い。昔は、でっぷりと太った人がお金持ちの象徴だったが、今では逆だ。

 アメリカの貧困層は、貧困層に無料で提供されるファーストフード食品への依存率も高い。ファーストフード産業や清涼飲料水産業は、子供の頃から味覚の中毒化を起こさせて、生涯にわたって加工食品への依存度を高めさせる戦略なのか、貧困層への食糧配給をマーケティングの実践の場にしている。慈善という仮面を被った企業の奸計。

 イタリアは、日本と同じく高齢社会だけれど、日本に比べて肥満度は高い。イタリア料理は健康なイメージがあるが、イタリア人は、サラダとか食べず、肉ばかり食べている人が多い。トスカーナ地方などは特にそう。海に囲まれているのに、魚はあまり食べていない。

 同じラテンヨーロッパで、スペインに隣接したポルトガルはイタリアやスペインに比べて感染が抑えられており、それは結核予防のBCGワクチンのおかげではないかと言われているが、ポルトガルは、スペインやイタリアと違って、日本のように魚介類をよく食べている。

 世界の肥満度の傾向を見ると、西洋人に肥満が多く、アフリカやアジア民族は肥満が少ない。日本は先進国でありながら肥満の割合は非常に少ない。

アメリカ37.3 イタリア22.9 スペイン27.1 フランス23.2 日本4.4 感染率の高いイランも肥満率が高くて25.5)2016年WHO統計

 もちろん、肥満度とコロナウィルスの感染率の高さの関係を示す科学的な裏付けは何もないけれど、ウィルスの封じ込めばかり考えるのではなく、ウィルスというのは人間が封じ込めようとしても完全に封じ込めるのは不可能な存在であり、共生の道も探らなければならない。

 ウィルスが入ってきた体は、免疫機能で対応しようとする。大半の人はそれで終わりなのだが、なかには、免疫系が暴走して、健康な組織も含め破壊してしまうことが起きる。

 人工呼吸器が必要になっている人は、こうした事態が体内に起きており、体内組織の損傷はウィルスによるものではなく、自らの免疫系の暴走だ。

 ウィルスに感染しても、すぐに治る人と、重症化し、死に至る人の違いは、免疫系の対応力にかかっている。

 イタリアやアメリカで起っていることが必ず世界中で起きるとは言い切れない。もちろん、その可能性はあるけれど、健やかな免疫力を育むために、とくに食生活やライフスタイルなど、感染率の低いところがあれば、そこからヒントを探っておくことも大事だという気がする。

 ウィルスは、現れたり消えたりしているのではなく、人類誕生のはるか以前から地球上に存在している。そして、人間の歴史をふりかえってみても、そのウィルスが人間に深刻な害を与えるタイミングは、何かしらのサイクルがある。

 それは、人間社会に大きな変化が起きている時だ。そしてなぜか、気象変化や天変地異も同時に起っている。まさに聖書の黙示禄のようなことだが、なぜそういう時に伝染病が蔓延するのかと想像してみると、人間の体内(特に免疫系)でも何かしらの変化が起きているからと考えることができる。もちろん、人の動きが活性化して、接点が増えるということもあるが。

 それはともかく、免疫系は、規則的なパターンで機能しているものなのだから、人類がこれまで経験してこなかった状態、新規の生活習慣や食生活をはじめたり、それらが頻繁にイレギュラーに変わると、その新環境に慣れるまで、適度な反応がしずらくなるだろう。

 食べ物にしても何にしても、昔から行われていることを繰り返し行うことが、免疫系にとって、もっとも安定した反応ができる状態なのだと思う。

 

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第1085回 日本の古層vol.2   祟りの正体。時代の転換期と鬼(1)

 怨霊と聞くと、菅原道眞(845ー903)がよく知られているが、道眞の死より少し前にも、怨霊が日本を騒がせていた。

 9世紀、日本は、疫病の大流行(859〜877)や、貞観の富士山の大噴火(864-866)、そして貞観地震貞観の大津波(869)などに襲われていた。

 貞観の富士山の大噴火は、記録に残るなかで最大のもので、現在、自殺の名所として知られる青木ヶ原の樹海などは、この時にできた。

 

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富士山の青木ヶ原樹海

 また、貞観の大津波の時、宮城から福島の海岸線が大被害を受けたことが記録に残っているのだが、2011年3月の福島の原発事故の前に、この貞観の大津波のことを被害対策の想定に入れるかどうかで東電内部で議論があったにもかかわらず、現場の声を無視した幹部によって、この津波の規模が判断材料から外されたために、あれだけの大惨事となってしまったことが後にわかった。

 原発の爆発という大災害直後、津波の規模は想定外だったと東電幹部が口走っていたのは真っ赤な嘘である。

 そうした9世紀に起った疫病や災害は、当時、無実を訴えながら死んでいった人が怨霊となって引き起こすと考えられた。そこで、その御霊を鎮め、厄災を祓うために、京都の神泉苑で初めて国家的に御霊会が行われた。

 今では観光客で賑わう京都の祇園祭も、859〜877年に京都で疫病が流行した時、当時の国の数66国にちなんで66本の鉾を立て祇園の神を祀り、神輿を送って厄災の除去を祈ったのが由来で、それが次第に盛大となり今に続いている。

 9世紀の厄災の時代に起きたもう一つの大きな変化。それは、武士に関することである。

 平安時代後期から貴族に変わって武士が実権を握るようになり、源頼朝足利尊氏徳川家康など武士が、この国の最高権力者になっていった。この3人以外、武田信玄新田義貞など著名な武士は清和源氏の系譜だが、清和天皇(在位858-876)こそが、まさに厄災真っ只中の時の天皇だった。

 清和天皇は、879年、京都で疫病が終焉した後、27歳で突然譲位。出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ出て、絶食を伴う激しい苦行も行っている。

 武家としての清和源氏の基礎を築くのは、清和天皇の曽孫の代にあたる源満仲で、京都での出世争いなどの暮らしに嫌気がさし、住吉神の神託を受けて摂津の多田に拠点を移し、鉱山開発を行ったり農業のための治水灌漑に力を入れるとともに、武士団を形成して勢力を固めていく。

 京都での貴族の出世争いは、権謀術数という抽象的な戦いであるが、天変地異や厄災を経て、実質の伴ったものを拠り所にしようとする精神の動きが生じ、貴族の時代から武士の時代への移行、すなわち封建時代への社会的変容へとつながっていったのではないだろうか。

 実際に、清和源氏だけでなく、京都にとどまって地方から集められる租税に頼ることの不安定さよりも、実際に地方におもむいて長官(受領)になることを選ぶ貴族が増えていった。

 源満仲の三男の源頼信が、河内の地を本拠地として河内源氏の祖となるが、この河内源氏こそが、後の源頼朝をはじめとする武士として活躍する源氏のルーツである。

 河内源氏の拠点は、現在の大阪府羽曳野市壷井で、そこには現在、壺井八幡宮がある。

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壺井八幡宮の樹齢千年の楠木。河内源氏がこの地に拠点を築いた時から現代までの時間を、生き続けている。

 源頼朝鎌倉幕府を開いてからは、河内源氏の総氏神鶴岡八幡宮になるが、それまでは壺井八幡宮だった。

 壺井八幡宮の場所は、近畿の重要な聖域を水平に結ぶライン上にある。

 二上山三輪山長谷寺室生寺、そして伊勢の斎宮跡を結ぶ北緯34.53度のラインで、それぞれの聖域において、春分秋分の日に、太陽が昇り沈む。

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西から、壺井八幡宮二上山三輪山長谷寺室生寺、伊勢の斎宮跡を結ぶ北緯34.53度のライン。

 源氏というのは、古墳が1600もある栃木県足利に拠点を築いた足利氏や、貞観の富士山大爆発の際に富士山を鎮めるために創建された笛吹市浅間神社を大切にした武田信玄などもそうだが、刀で殺しあうだけの単なる戦闘集団ではない。

 徳川氏に関しても、江戸の鬼門と裏鬼門に日光東照宮久能山東照宮を築いているが、どちらも祭神は、神霊となった徳川家康だ。

 武士は、常に生と死が隣り合わせのところで生きていたゆえ、自分の生を超えた大きな時間の流れの中に生きていることを意識せざるを得なかったのだろうか。

 自分が今生きているこの瞬間の時間しか意識できなければ、戦闘や災厄など偶然的な要因で今この瞬間の生を絶たれてしまうと、自分の生の意味が空しくなる。

 苦しい時、辛い時ほど、今この瞬間と、時を超えた世界全体をつなぐ大きな時間の中で自分も生かされていると意識することで、少しは救われるような気がする。

 人は誰でも死ぬ。今この瞬間の出来事だけに世界が狭く限定されてしまい、過去や未来とのつながりを喪失してしまうと、自分と世界全体とのつながりが断絶されてしまう。現代人を蝕む孤独や不安の根源的な理由はそこにあるのではないか。

 過去から受け継いでいるものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一であり、そういう狭い意識で生きていると、自分の生は、どこにもつながらない単なる点でしかなくなってしまう。

 

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第1084回 世界の本質?

 

新型コロナウイルスへの感染防止策として、世界中の産業が停止することで、二酸化炭素や二酸化窒素の排出がなくなり、大気汚染が劇的に改善されている。

 大気汚染が世界最悪とされるインドでも、今まで見えなかったヒマラヤ山脈の神々しい姿が現れ、人々が驚いている。

 これまで存在していたにもかかわらず見えなかったものが、この状況下で見え出しているのだ。

 現実とは一体何なのか。人間は、自分の目に見えている世界を現実と考え、その現実に即して世界観を築き、その世界観に合わせて自分の人生を設計する。

 同じ場所に住んでいても、毎日、神々しいヒマラヤの山々を見ながら生きている時と、スモッグガスによってヒマラヤの山々がそこに存在していることすらわからない状態で生きている時では、その人の世界観、人生観が、違ってくるだろう。

 現代社会は、情報で溢れかえっているように思われているが、実際は、非常に限定された範疇に思考や感性を誘導する情報ばかりが溢れているということで、その範疇の外の情報は、遮断されている。つまり、見えない、存在しない、ということにされている。

 ガスが晴れれば、今まで見えていなかっただけのものが見え始める。見えるということは大きなインパクトを持つ。たとえば、幽霊や宇宙人の姿を実際にこの目で見てしまった人は、世界観を変えざるを得ない。誰にも信じてもらえなくても、自分が感じ取ったリアリティは打ち消せないのだ。

 コロナウィルスの問題が社会に与えるインパクトは、世の中の状況が劇的に変わり、ものの見え方が変わることにあるかもしれない。

 しかし、そうしたチャンスの時期ではあるものの、テレビの存在はいただけない。

 ふだんワイドショーなど見ない人でも、コロナウィルス関連の情報が知りたくて、私もそうだが、つい見てしまう。

 どのチャンネルをまわしても、そこに登場している人のキャラは同じ。自分を安全圏において何かを強く非難するような口調の人がとても多い。これまでワイドショーの視聴者が、自分の代わりに何かに対して不平や文句を言ってくれる人を求めていたからだろうか。 

 しかし、この状況下で、しかめっ面の顔、キンキンとした声の心情の吐露、何かを責める強い口調、不平や不満や非難の言葉を聞き続けていると、気分が滅入ってくる。

 どんどんと狭いところに詰め込まれるような気がしてくる。

 一歩外に出て川岸を歩けば、この状況下でも世界の広がりは十分に感じられる。

 自分の気持ちの持ちようで、未来の方向性を変えることはできるが、世界の本質は自分の力で変えるものではない。

 しかし、自分の気持ちの持ちようで自分に見えているものが変わり、ものの見方が変われば、世界は異なる様相となる。

 これまでと違ったものの見方をする人の数が増えていくと、その新しいものの見方に沿うように世界の表層が整えられていく。その世界の表層を、人々は現実だと判断して生き方をそれに合わせる。でも、世界の本質は、ずっと変わらない。

 世界の本質、それは、世界は人間だけに都合が良いようにできていないということ。

 絶妙なるバランスのうえに成り立っているもので、そのバランスが崩れると、それを修復するための変化が起こる。例外なく。

 

 


 

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