第1110回 現代人にも受け継がれている縄文の世界観や生命観。

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山添村 縄文時代早期の遺物が多く出土した大川遺跡の目の前の名張川

 最近、山の中に分け入って、激しく急流が流れるところを訪れることが多いのだが、そういう場所の近くに見晴らしの良い高台があり、そこに縄文人が住んでいたと知ると、縄文の人たちの世界観や生命観を身近に感じられるような気持ちになる。

 激しい急流、多彩な滝、巨岩だらけの山、日本以外の国で、人が住む里からすぐ近くにこういう場所が無数に存在しているところはあるだろうかと考えてみた。
 私は、70カ国以上、海外の国々を訪れたが、日本よりもスケールの大きな自然が見られるところはたくさんある。しかし、人間が住んでいる場所のすぐ近くで、これだけ変化に富んだ場所が存在するところは珍しいと思う。
 まず日本が島国であること。火山国であること。断層が多くて滝も多くなること。国土の大半が山に覆われて、急流のある上流部が近いこと。それらは日本人にとって当たり前のことが、実はかなり特殊なことではないかと思うようになってきた。
 ただし、東京は、関東平野が広くて、山の姿も見えず、急流がそばにあるわけでもなく欧米の都市の条件とさほど変わらない。だから、欧米の価値観に染まりやすいということもあったのだろう。
 そして、その東京から発信される情報が日本のスタンダードとなっており、まったく異なる風土、環境世界に住んでいるにもかかわらず、東京発の情報に踊らされるということが、現代日本を歪なものにしているかもしれない。
 東京という中心からものを見るのではなく、周辺から中心の異様さを見てみるという逆転の発想が大事だろうと思う。

 管理された縄文遺跡それ自体は、ダミーの縦穴式住居が作られ、芝生が敷き詰められたりしているので悠久の時間を感じることは難しいが、周りの風景は、おそらくそんなに変わっていないはずで、例外なく、その風景は素晴らしい。縄文人は、現代人でも、こんな所に住めれば理想的だなと思うような、見晴らしがよく風通しもよく、風景も美しい場所に集落を作っている。だから、狩猟採集を行っていたと言われるわりに、集落と集落の距離が狭い。条件の良いところを選んで住むようになると、自然とそうなる。

 私が小学生の頃、縄文人は毛皮を着て狩をしている人のイメージだったが、近年の新たな発見によって、縄文人がかなり高度で洗練された営みを行っていたことがわかってきた。現代人も羨むような素晴らしい本麻の衣服を着用し、装飾品も、漆や朱で美しく彩られた精巧なものが作られていた。食事も、海の幸、山の幸が豊かで、加工品だらけの現代人よりもはるかに健康的な食生活だった。

 家については縦穴式住居などが発掘されているが、もっと大きく立派なものを作ろうと思えばできたことは三内丸山遺跡などの建造物を見ればわかる。しかし縄文人は、共同で使う祭祀用の建物は立派なものを作っていたが、個々の住居は快適に暮らせればそれで十分だと考えていたのだろう。縦穴式住居の中は、とても居心地良く、安眠できる空間だと思う。

 先日訪れた山添村の大川遺跡は、名張川に面した場所で、縄文時代早期(約8000年前)の住居跡や集石炉、焼土壙が確認されている。土器は早期の押型文土器、石器は石鏃、石錐、尖頭器状石器など多数出土している。

 集落の目の前の川の流れが心地よく、まわりを低い山で囲まれており、川と山の幸がふんだんに得られただろうと想像できる。

 この遺跡においては、住居の外に食事のための竃が作られており、毎日、キャンプをしているようなものだった。縄文人にとって、毎日の生活がキャンプのように刺激的で、一日中外で活動して家に戻り、家ではぐっすり眠るだけだったのだろう。大自然がフィールドなのだから、壁で囲った大きな家が必要なはずはない。

 大きな家を望むのは、毎日、ゴミゴミしたところで仕事をしなければならない人間が、せめて家の中ではゆっくりとくつろぎたいと思うからか、それとも、自分の人生がうまくいっていることを他人に誇示したいか、どちらかなのだろう。

 現代人は、縄文人と比べて、心地よさや快適さを得るために、随分と屈折した心理を持つようになってしまった。

 現代人が理解できない縄文人の不思議さは色々あるが、たとえば縄文人は、何千年にもわたってずっと同じところに住んでいた。そして、他にも住むためのスペースがあるはずなのに、集落と集落の距離が近い。もしも狩猟採集生活を基本としているのなら、もう少し分散した方が収穫量も多くなるのではと邪推するが、ストックするという発想がないから、食物の獲得と、いざという時の助け合いなどの必要性など、最適なバランスの中で集落の位置が決まっていったのだろう。なによりも、彼らは、戦争を必要としなかった。足るを知る人々だったからだ。

 なぜ、縄文人は、足るを知る人だったのか。

 現代人は、これまでの人類史の中でもっとも優れた文明を手にしていると錯覚しているが、足るを知ることがないために、常に不安や焦燥に苛まれている。

 他人と比較し、他人を羨んだり見下し、他人との比較で安心したり不安になったりする。

 できるだけ多くお金を得たいと考え、できるだけ大きな家に住み、できるだけ便利で楽な生活をしたいと願い、できるだけ寿命を伸ばそうと足掻く。

 そして、発展途上国の人々の映像を見て、自分より劣った生活をしているということに少し安心しながら同情する。

 どれだけ物質が増えようとも、足るを知ることがないことが、不幸の源泉になっていることを自覚できていない現代人。

 だからといって、意識的に、足るを知ろうとしてできるものではない。

 それはなぜなのか?

 一言で言って、植えつけられている死生観、生命観、世界観の問題だ。つまり、宗教の問題。

 縄文の人たちは、「人を含めた全ての生物は死んで神になる」と普通に考えていただろう。死は、身体に限られたもので、死んだ身体は他の生物に食べられ土に戻り、魂は山に帰って神となる。

 ”神”と言っても、キリスト教徒やイスラム教徒が主張している唯一絶対神ではなく、我々が生きている世界の中に満ちている霊的エネルギーのようなものだ。形あるものを動かしている力は、その霊的エネルギーであり、形を失えば、その霊的エネルギーは山に帰り、また他の形あるものに力を与える。

 理屈ではなく生活実感として、縄文人は素直にそう感じていたのだろう。

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山添村。現在はダムの底に沈んでいる上津大片刈遺跡は、縄文時代草創期から早期の住居跡や遺物を多数出土している。その近くの大井戸の杉。

 だから、彼らは、集落の位置を簡単に変えたりしない。その場所から霊的エネルギーを受け取って生きて、死んだらそれを元のところに返すわけだから。

 また、同じ霊的エネルギーのめぐりの中に生きているだけだから、他人と比較する必要もないし、できるだけ多く、できるだけ大きく、などという発想もない。お腹がすくというのは、霊的エネルギーが不足しているわけだから有り難く補充させていただく。お腹がいっぱいになったら、それ以上、補充は必要がない。獣たちのように、できるだけ不必要なエネルギーは使わず、のんびりしていればいい。

 幸いなことに、山や川の恵みが豊かな日本の風土の中では、飢えをしのぐために他の場所に移動して、そこにいる人を殺したり食べ物を奪ったり支配したりする必要がなかったのだろう。

 この日本が、急激に変わっていかざるを得なくなったのは、2500年ほど前、中国で春秋戦国時代という激しい内乱が起き、多くの人が日本に逃げて来ざるを得なかったからだ。

 彼らは、稲作などの技術をもたらしただけでなかった。彼らは、縄文人と違った死生観、生命観、世界観を持っていた。ただ、日本は大陸から離れた島国だったため、日本を支配できるような集団が大挙してやってくるということはなかった。

 しかし、大陸からやってきた人たちは、他人と比較したり、序列をつけたり、他人を管理下に置くという知恵分別と方法論を身につけていた。

 新たに持ち込まれた技術を用いたところと、そうでないところに格差ができはじめると、それまで長いあいだ保ち続けてきた全体の調和が崩れていく。有利と不利という分別が生じる。いったんそういう分別が生じると、人間は焦燥や不安に駆られるから、突然、変化は激しくなり、魏志倭人伝で伝えられるように戦乱の絶えない世界になってしまった。それまでの悠久の数千年の幸福は、数百年のうちに劇的に見失われていったのだ。

 しかし、日本の風土が大きく変わらないかぎり、死生観も大きく変わらない。

 新しく仏教が入ってこようが、それは日本独自のものに変容する。

 釈迦は、生老病死を”苦”ととらえ、その”苦”から逃れる道を探し求めて旅をし続け、最終的に、「世の中で永遠なものは一つもない」、「形あるものは必ず消滅する」という諦観の境地に至った。つまり、長い苦行と思索の果てに、世界はそういうものであるという認識に至った。

 しかし釈迦は、「私たちはどこから来て、何を成し、どこへ行くのか?」という永遠の問いに応えたわけではなく、この人間の微力な力ではどうしようもない厳然たる世界を潔く引き受けることで執着や煩悩を断つことが、真の意味で心の安らぎであると説いたのだった。

  釈迦は、キリスト教などのように唯一絶対神を想定し、最後の審判を設定することで厳然たる世界を潔く引き受けるという方法を提示したわけではなく、どちらかというと古代ギリシャソクラテスの無の思想のように、哲学的に着地点を見出そうとした。

 しかし、ソクラテスや釈迦が必死の探求の果てに到達した世界認識は、おそらく縄文人にとっては当たり前のことだった。縄文人は、自然界において「形あるものは必ず消滅する世界」、「全ては無に帰する世界」を当たり前のこととして受け止めながらも、悠久の時を超えて存続し続ける特別のもの、巨岩の磐座などを崇めていた。

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大川遺跡のそばに鎮座する岩尾神社。今も巨岩が御神体である。かつては龍神として祀られていた。

 

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山添村の長寿岩。長いあいだ、地中に深く埋もれていた。山添村ふるさとセンターの建設地の造成のため削っていた地中から現れた。

 日本の自然のように何一つ同じ状態を保ち続けるものがない世界で、巨岩だけは不動だ。そしてその岩は数億年の歳月を経ているものもあるし、美しい鉱物資源を含んでいるものもある。人間世界を超えた神秘がそこに宿っていることを現代人でも感じることができる。

 縄文人は、おそらく永遠と無常の世界観を、ごく当たり前のように感じ、その不可思議な、流動的で循環的な調和世界を司るエネルギーを、神の力として受け止めていたことだろう。その霊的エネルギーの一部として生きている彼らは、ニヒリズムに陥ることなく、前向きに生きていられた。形にこだわらず、形あるものを動かしている霊的エネルギーの方が重要であるということを知っていたからだ。

 縄文人の方が、釈迦やソクラテスよりも上とか下とかではなく、この違いは、生きている風土の違いによるものなのだろう。

 こうした縄文世界に、大陸の苛烈な風土で育てられた世界観や生命観を持つ人たちが少しずつやってきて、どちらか一方が他方を実力で強制的に支配管理するのではなく、少しずつ両者の世界観や生命観が重なり合っていくことで、日本独自の精神世界が形成されていった。

 縄文のような世界は地球上の他の地域にあったかもしれないが、人間の集団移動が簡単な場所であると、自分を有利にするための手段を多く身につけている狡猾な人々に、あっという間に支配されてしまう。

 新たにやってきた狡猾な人たちは、その土地の人たちを自分たちのシステムに組み込むため、その人たちの世界観、生命観の形成に通じるものを根絶やしにするだろう。そして、混血を重ね、たちまち一つの価値観を共有する集団がそこにできる。

 しかし、日本はどうやらそうはなりにくかった。日本人の遺伝子を調べると、現在でも、縄文系と弥生系の違いがはっきりしている人がたくさん存在している。これは、大陸における被支配国ではあり得ないことらしい。

 弥生時代が始まってから、日本列島には大陸から人々がやってきて住み着くようになったが、その数は少しずつであり、現地の人たちと対立的ではない方法で生きていくことが重要だった。そのため、日本においては、過去の精神世界が破壊されず、積み重なってきている。その積み重なりが膨大になったゆえに、複雑化し、本来の姿がわかりにくなっているが、本来のものが消えて無くなってしまったわけではない。

 現在、複雑なものをより複雑にしていく研究が立派な学問のように思われているが、(難しくてわかりにくいほど高尚に見える)、複雑さの中に埋もれてしまっている本来のものを露出させることが、今こそ重要になっている。

 たとえば日本の仏教の始まりについては、聖徳太子が活躍していた時代の蘇我氏物部氏の対立がよく知られている。

 しかし、ここで言う仏教は、真の意味で仏教精神に関わる問題ではなく、従来の神祇の中に仏像礼拝をどう位置付けるかということと、戦国時代のキリスト教問題と似ていて、宗教とともに入ってくる新しい知識や技術に関する政治的駆け引きだ。

 釈迦が必死の思いで創造した世界観に関しては、古来の日本人にとって目新しいものではなかったが、悟りに達した釈迦が自らの救いのためにも実践していった”衆生の救済”という精神は、古来の日本人にとって当たり前のことではなかった。この精神の輸入によって生まれた日本の新たな宗教としての仏教の始まりは、おそらく修験道ということになるだろう。

 修験道と聞くと、多くの人は、悟りを得ることを目的に山へ籠もって厳しい修行を行う山伏の姿を思い浮かべる。

 そして修験道とは何かを知ろうと思って本を読むと、修行の内容やら歴史やら、修験者が信仰する神のことやら色々と複雑である。

 しかし、それらの内容は後の時代に色々と後付けされた結果であり、始まりはもっとシンプルであった筈だ。

 おそらく上に述べたように釈迦が辿り着いた世界観に関しては、山と森と急流の多い日本の風土の中では、自明のことだった。

 現在でも日本の国土の約70%が山岳地帯だが、古代においては海岸線は今よりも山に近く、大阪平野濃尾平野なども、その多くの部分が海の底だった。つまり、山岳地帯は、70%よりも広かった。縄文の世界観は、その風土の中で育まれていた。地上の形あるものは、山からやってきた霊的エネルギーによって動いており、死んだら、霊的エネルギーは山に帰る。人間はどこから来てどこへ行くのかということにおいて、哲学的な問いは必要なかった。

  仏教は、形あるものは消えていくという空の概念を伝え、それゆえ執着することの無意味さを説くが、そんな自明のことより、古来の日本人にとって新鮮だったことは、生きているあいだに何を成すか、というポイントだった。

 修験道というのは、古来の日本人が備えていた山を中心とした魂のコスモロジーにくわえて、現生において、”衆生の救済”の実現を目指していく新しい精神的実践活動だった。

 山から離れた生活を続けてしまうと、改めて山にこもって修行をしなければならなくなる。しかし、本来、その修行とは、滝に打たれたり肉体を極限まで追い込むようなものである必要はなく、山に入って、森の中や急流を渡りながら、五感および六感をすべて使って世界の原理を感じ取ることだろう。そこにはあらゆる生命が潜み、絶妙なバランスがあり、劇的な変化がある。天候も気圧の変化で読めるだろうし、何かしらの不穏は音や匂いだけでわかるだろう。それを感じることは、現代でも可能である。

 天武天皇の時代に活躍されたとされる伝説の人物、役小角吉野の金峯山で示現した蔵王権現は、修験道の本尊とされる。

 蔵王権現というのは、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したもの、もしくは、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているというと、わけのわからない説明がなされる。

 釈迦は「過去世」、千住観音は「現世」、弥勒菩薩は「未来世」の救済に関わるのだが、ようするに、蔵王権現というのは、過去とか現在とか未来という分別も、仏や菩薩や神々の役割分担の分別も関係ない、無分別の融通無碍の超越者であるということだ。

 それは、過去と現在と未来、そして全ての様相が有機的に関係し合って生かし生かされている山のコスモロジーそのものである。

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山添村の布目ダムの底に桐山和田・北野ウチカタビロ遺跡が沈んでいる。縄文草創期の有尖頭器と石鏃、有溝砥石などの石器、隆起線文土器、早期の文土器、集石炉等(12000年~6200年前)が多数出土している日本最古級の縄文遺跡である。このそばに牛が峯という古代からの聖域があり、その山頂に巨大磐座が鎮座する。その磐座の壁面に空海が刻んだと伝説のある大日如来が描かれ、ここは真言密教の聖地となった。

 仏教が入ってきた頃の日本は、すでに各地で分断が起きていた。縄文時代の足るを知ることによる万物の調和や心の安穏は失われつつあり、歪みが至るところに出ていた。

 特に稲作は、山の生活と比べて、天候の変化で大きな影響を受けた。日照りや台風が致命的な結果を残す。

 そうした困難に陥っている衆生を救済するための日本人の精神的実践活動の始まりが、行基集団の活動であり、その活動の主導者である行基(668-749)を守り、支えたのが修験道者だった。 

 百済系渡来氏族を父に持つ行基は、知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。

 行基の活動に関して、当初、朝廷は弾圧をくわえた。当初の仏教は、国家鎮護のためのものにすぎず、民衆への布教活動を禁じていたからだ。

 しかし、聖武天皇の皇后、光明子は仏教に篤く帰依し、東大寺国分寺の設立を聖武天皇に進言しただけでなく、貧しい人に施しをするための施設「悲田院」や、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行っており、衆生の救済の実践者だった。その影響からか、聖武天皇行基の活動を認めるだけでなく、僧侶の最高位である大僧正に行基を任命し、東大寺と大仏造立の責任者とした。

 仏教と修験道が統合されたうえでの衆生の救済”という社会活動の実践は、平安時代が始まると空海によって受け継がれていく。

 

 

 (つづく)

 

 

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 第1109回 「命は何よりも大事」と言う時のいのちとは何か?

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 今回のコロナウイルス騒動で、強く感じた違和感。
「命は何よりも大事」という時の”命”とは一体何を指しているのかということ。
 生命尊重という言葉を使っていると、現代社会においては、まず誰からも非難されることはなく、腹の中で何を考えていようが、良心のある人徳者としてふるまうことができる。
 しかし、生命尊重の”生命”が指すものが、単に肉体的なもの、すなわち物質的なことにすぎないとすれば、それこそ死んでしまえば何もならないということになり、それは大きな意味で”生命”の意義を貶めていることにならないのだろうか。
 人は必ず死ぬ宿命だけれど、30年より60年、60年より90年というカレンダー上の長さ、つまり物資的なスケールが生命の重みを計る基準だとすると、何か救いようのない気持ちになる。
 その基準は、どれだけ多くのお金を稼いだか、どれだけ立派な肩書きを得たか、どれだけ大きな家を建てたかなどの物質的なスケールの基準が、人間の幸福を決定するという考えと重なっている。
 しかし、いくら努力しても人間は万能ではない。自らの努力とは関係なく、容赦なく過酷なまでの宿業を背負うことがあり、そのことによって物質的なスケールにおいては乏しい人生になってしまうことだってある。その場合は、価値のない生命ということになってしまうのか。
 この不条理の問題について、人間ははるか古代から考え続けてきた。
 生命の定義を物質的な側面だけに限定してしまうと救われないし、やりきれない。そして冷静に自然界を観察していると、たとえばミツバチの働き蜂は、短い一生を、自分が産んだわけではない子供を育てることのみに捧げるし、倒木の幹からは新たな芽が育っており、生命が個体の物質的な限定を超えて他へと繋がっているケースを幾らでも確認できる。ならばきっと人間だって同じだろう。特定の宗教が説くように、たとえ肉体が滅んでも、あの世で魂が生き続けることができるというビジョンも救いになる場合があるが、この世とあの世の二つに分けなくても、一つの世界のなかで、自分の生が何かしらの形で他の生につながっている。そして、そのつながりは、生命を育てる霊的エネルギーのようなものであり、霊的エネルギーを介して、個は他の個とつながっていると考えることだってできる。
 「命は大事」と言う時、たとえ物資的には滅んでも霊的エネルギーは存在し続け、その霊的エネルギーを介して他の個がまた新たな生をつないでいくという意味においての”命”のことでないと、個体としては必ず滅びることが宿命づけられている人間は、救われない。
 また、死んだ後の救いとして、死んでも誰か他の人の心の中に生き続けるなどという、死んだ後も自己承認欲に縛られたことである必要もない。
 肉体はあくまでも器であり、自分の身体が生きているあいだ預かっていた霊的エネルギーを、身体が滅んだ後は山や海にお返しする。その霊的エネルギーの循環に終わりはない。
 祖先を敬うという場合も、自分と血縁のつながった特定の誰かを指すのではなく、霊的エネルギーを循環させ続けてきた万物全体のことを指している。
 自分の祖先が歴史上活躍した人だとか、そうでないとか、そういう人間に限定された世俗的な問題ではなく、祖先の口から入ってお尻から出ていった循環物全てに対する崇敬が、本当の意味で、祖先を敬うということだろう。
 生きているのではなく生かされているということの納得感は、そういう霊的エネルギーを預かって、お返しするだけであるという認識を自然に持てた時に得られる境地なのだろうと思う。
 人間の生命観は、生きている風土による影響が大きい。
 乾いた砂漠の中で育まれた世界観と、湿潤な森の中で育まれた世界観は異なる。
 コロナウイルスの騒動の中でも、しきりに”科学的な分析と判断と対応が必要”という言葉が聞かれた。現代社会において、科学は、もはや一種の権威装置であり、それに抵抗することは簡単ではない。
 しかし、現代人が圧倒的に信頼を置く科学というのは、西洋文明の科学のことであり、西洋文明というのは、古代ギリシャ文明とキリスト教の強力なタッグのもとに築かれている。
 第1級の科学者として尊敬されているアインシュタインニュートンも、西洋人が信じる唯一絶対神が作った宇宙の法則を、古代ギリシャを見本とする理性と論理で解きあかそうとする精神の運動に従ったまでのことだ。
 アインシュタインニュートンは、神はサイコロをふって決めるような曖昧さでこの宇宙を作ったのではないという強い信念を持っていたからこそ、その法則の解読のための努力が、唯一絶対神に対する敬虔さの証明にもなった。
 ”科学的”という言葉を使う時、そのことを忘れるわけにはいかない。もし、私が、ニュートンアインシュタインが信じた唯一絶対神を、何の違和感もなく共有できるのであれば、そこから生まれた近代科学に、自分の生命観を委ねることに躊躇はない。
 しかし、審判において天国に行けるか地獄に落ちるかという二者択一の発想は、乾いた砂漠から生まれたコスモロジーとつながっている。砂漠の上で死んだものは、乾いた骨となり風に吹かれて消えていく。砂漠における物質の滅びは、孤独極まりなく、その孤独に耐えるための信仰が必要であり、そこから、キリスト教ユダヤ教イスラム教などの旧約聖書を共有する唯一絶対神を仰ぐ宗教が発生した。

 

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 それに対して日本の生命は、山川草木など万物自然の中で育まれ、循環してきた。
 近代化された都会は、乾いた砂漠のようで、唯一絶対神を背景に持つ近代科学とは相性がいい。しかし、科学的対応だけではどうにもならない心の問題が残る。
 湿潤な日本の風土の中では唯一絶対神の宗教があまり根付いてこなかった。
 宗教も、歴史にさらされてきたものは、様々な経験によって矛盾に対する調整機能を発達させているが、新興のものはそこが弱く、矛盾に対する抵抗力が極めて弱い。そのため、時間をかけて整えていく負荷や苦しみに我慢できず、一気にケリをつけようとする性急な行動に駆られることが非常に多い。オウム真理教の例えを出すまでもないが、おぞましい宗教戦争を繰り返してきた欧米人は、賢明に、上手にごまかしながら唯一絶対神とお付き合いできる人が多いが、日本人はそうはいかない。

 

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 日本には日本の風土があり、その風土から生まれたコスモロジーがあり、そこで育まれた生命観がある。
 苦しい局面に立たされた時は、心の拠り所をそこに向けるしかない。
 万物は流転し、形あるものは必ず滅びる。そして、形あるものが存在しているのは、霊的エネルギーのようなものを一時的に預かっているからであり、それが終わったら、お返しするだけである。お借りした霊的エネルギーが帰っていくところは、それが帰っていきそうだと直感的に感じられるようなところであり、そのことが実証できるかどうかは大きな問題ではない。他の誰かからそう信じるように仕向けられるのではなく、自分が、そう感じられればそれが救いにつながるのだから。
 霊魂は存在するかどうかと科学的に問われれば言葉に詰まるが、霊的エネルギーのようなものはあるだろうし、それがなければなぜこうやって生きていられるのか説明ができない。
 心臓が動いて血液を循環させて栄養と酸素を云々という機械論的な説明に、自分の生命を置き換えることの方が違和感がある。そういう機械論的な説明ですんでしまうのなら、胸が圧迫されるような悲しみなんか生じるはずがない。

 

 

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第1108回 未来の土壌となる記憶

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 東京が日本の中心になって、日本の歴史が見えにくくなってしまったことは間違いないだろう。
 しかし、400年前まで東京は辺境の地だったわけで、時代環境が変われば、辺境だった地域が中心になる可能性もある。
 その場合、インフラの変化は大きな意味を持つ。明治維新の後、海外との物質をやりとりする貿易が国家にとって何よりも重要になったことで、太平洋側の大きな港を中心に都市が発展し、その都市と都市を結ぶ交通路が整備されて、その周辺が活性化していった。
 しかし現在、物や人や情報の流れは変化しつつある。
 海外からやってくる人も、以前のように羽田や成田だけなく、直接、地方空港にくる人も増えているし、通勤の在り方も変わりそうな予兆がある。
 5年や10年では無理でも、50年や100年という単位で考えると、中心軸が変わる可能性はある。
 最近訪れた奈良県曽爾村などは、関東の人で知っている人はほとんどいないだろうし、関西にいる人でも山の中の鄙びた里というイメージを持っている人が多い。
 しかし、古来、大阪や奈良と伊勢を結ぶうえで最短だったのが伊勢本街道で、それは奈良から宇陀を通り、曾禰から松阪から伊勢に抜ける道で、多くの人々が行き交っていた。
 しかもこのルートは東西の道であるが、宇陀、室生、曾禰からは、大和川、室生川、名張川などが北に向かい、大和川奈良盆地を経て淀川まで伸びて、室生川は名張川は伊賀の地から木津川と合流し、京都にも行け、淀川で大阪にも行けた。野洲川を使えば琵琶湖まで行けた。
 今では静かな山里にすぎない曾禰だが、水上交通を使えば、近畿圏の主要な所はどこにでも行けた。
 しかも、この周辺は日本でも有数の鉱物の産地でもあり、つまり産業にとっての要所だった。
 そんな古代の日本のことは、東京で生活してテレビばかり見ていると、イメージできない。
 古い昔のことなんかイメージできなくても、知らなくても、理解できなくても何の問題はない、大事なのは今この瞬間であり、未来なのだからと考える人は、おそらく、日本人の半分を軽く超えているかもしれない。
 しかし、未来というのは何なのか。
 未来は、この瞬間ごとの自分の判断や決断の上に積み重ねられていく。そして、自分の判断や決断は自分の記憶からくる。そうでなければ、他人の判断や決断に盲目的に追随するだけということになる。
 しかし、他人といっても色々いるわけで、どの他人をあてにするのか自分で判断しなければならない。その判断すら難しいと数が多いものに従うだけということになる。つまり扇動されやすく、当人にとっても集団にとっても危険な状態だ。
 いずれにしろ、自分の判断は、意識的であれ無意識的であれ自分の記憶による。すなわち、記憶が未来の土壌なのだ。
 未来のことを真剣に思うのであれば、記憶はおろそかにできない。そして自分の記憶のなかには、自分が意識していなくても、自分以外の色々なものが関わっている。文化や風土なども、自分の記憶に影響を与えている。
 そして記憶は、自分の無意識のうちに自分を操っているので、そのことに無自覚だと、自分の未来は、自分では知らず識らず、記憶に操られたものになっていく。ふつう、人は、そのように生きている。それが人生だと。そんなややこしいことより、今、食っていくことが大事なのだと。 
 しかし、食っていくためにやっていることにおいても、判断と決断が積み重ねられており、記憶と無関係ではない。
 そして何よりも、人は誰でも死ぬことが宿命付けられているのに、自分の存在の下地になっている記憶が、自分が直接的に関わったと意識できる出来事だけに限定されているとすれば、あれは良かったとか悪かったとか、楽しかったとか悲しかったとか、運が良かったとか悪かったとか、そういう感慨だけで自分の人生は閉じてしまうことになる。
 人生は、自分の運や努力や能力で左右されて、その結果が全てと割り切れる人はかまわないが、世界中には、そう簡単に割り切れない状況に追い詰められている人もたくさんいる。
 人間は色々と理屈をつける種だが、たとえば蜜蜂は、とてもシンプルだ。蜜蜂の雄はたった一回の交尾のためにだけ生まれて、育てられ、女王蜂と後尾した時にペニスを引き抜かれて爆死するし、メスの働き蜂は、自分の子供を作らず、女王蜂が産んだ子供の世話だけで一生を送る。
 彼らの生命が”個”に閉じていないからであり、彼らの活動の判断と決断が、彼らの中に刻まれた無意識の記憶によるものだからだ。
 蜜蜂は、無意識のうちにそうした生命の摂理を悟っている。しかし、理屈を覚えた人類はそうはいかない。
 自分の生命が”個”に限定されるものではないということを、理屈を超えたところで納得感を伴って感じられなければ、人間は、自分個人に降り掛かる不運や不幸に一喜一憂し続けるしかなくなる。 
 自分だけのものだと思っている自分の現実と自分の記憶が、自分だけのものではないことのリアリティは、人間の場合、歴史の中に見出すことが可能だ。
 人間が、古代から歴史を重んじてきた理由は、そこにある。

 

 

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第1107回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(10)

 

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奈良県宇陀郡曽爾村、済浄坊の滝

 神話に事実が厳密に書かれているわけではない。神話は、大切なものを次世代に伝えていくために創り出された物語だ。

 神話は、その多くが口承によるものだったため、人間の記憶に頼らざるを得ず、人から人へと伝えていくうちに話の内容が大きく変わってしまう可能性がある。そのため、一度聞いたら忘れにくい物語に置き換える工夫がなされ、英雄物語や悲劇が発明された。

 だから、ヤマトタケル神武天皇など初期の天皇が実在していたかどうかを議論するのはあまり意味がないことで、古代人が、それらの物語を通して何を伝えようとしているのかを洞察した方が、歴史の核心に近付くことができる。

 奈良県宇陀郡曾禰村は、1500万年前の室生大噴火の影響を受けた地勢が非常に印象的な場所であり、山々の光景を見るだけで別世界に彷徨いこんだような不思議な感覚になるが、この地にも、気になる伝承が残されている。

 1つは、現代の曾禰村が、”ぬるべの郷”をキャッチフレーズにする元になっている物語で、平安時代末期に成立した色葉字類抄という古辞書のなかの「本朝事始(ほんちょうことはじめ)」に書かれている内容である。

 ヤマトタケルが、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大猪に矢を射たが、止めを刺すことができなかった。部下(てした)の1人がそれならばと、漆の木を折ってその汁を矢先に塗り込めて、再び射ると、見事に大猪を仕留めることができた。塗りの木汁で手が黒く染まった皇子は、部下の者に命じてその木汁を集めさせ、持っている品物に塗ると、黒い光沢を放って美しく染まった。そこで、その地を漆河原(現・大宇陀町嬉河原)といい、漆の木が自生している宇陀郡の奥、曽爾の郷に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いた。

 この物語をもとに、曾禰村は、当地を漆文化発祥の地と位置付けている。

 平安中期に作られた『和名抄』にも、曽爾村と、その南隣の御杖村が、「宇陀郡漆部郷」と記されている。

 しかし、漆の歴史は縄文時代に遡ることはよく知られているので、ヤマトタケルの伝承が、漆文化の発祥のことではなく、武器としても重要な漆を大和朝廷が管理するようになったことを伝えているのであろうと、少し考えればわかる。

 2011年、福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土したウルシの木片が世界最古の約1万2600年前のものだと判明した。

 また、北海道函館市の垣ノ島B遺跡から出土した約9千年前の装飾品が、世界最古の漆製品とされている。日本の縄文文化は、土器もそうだが、漆もまた世界最古級なのだ。

 このことはとても重要なことで、なぜなら土器や漆製品を作り出した人たちは、おそらく土器や漆の分野だけが得意だったということはあり得ない。なぜなら、土器にしても漆製品にしても、複合的な知恵を組み合わせて製作が可能なものだからだ。そして、複合的な知恵を組み合わせる力を備えていたということは、必ず、他の分野にも応用される。

 たとえば木の樹液から得られる漆にしても、その使用は、器を彩ることに限定されない。 

 漆は、木製品に塗って耐久性を増したり防水効果を発揮するが、それだけでなく、強力な接着剤効果があるし、抗菌性があり腐食を抑える。また、その性質を利用して薬にもなる。漆は、古来から実に様々な用途に使われていたのだ。

 日本の縄文文化の中で、世界最古級の土器や漆製品が発見されているのは、それらの製品が、その物自体の性質として何千年もの歳月を経ても分解されずに残るからだ。エジプトなど有名な遺跡が多く残る乾燥地に比べて、日本の湿潤な風土のなかでは、多くの物が簡単に朽ちてしまう。日本において高度な漆製品や土器が作られた時代に作られていた他の多くのものは、長い歳月を経て簡単に朽ち果ててしまったのだろう。

 多くの古代文明が現在の乾燥地に位置しているが、それらの地域は遺物を長く保存するための環境条件が整っていただけであり、古代文明が、それらの地域だけで発展していたわけではないと思う。

 世界でも最古級、約9000年前に作られた北海道函館の垣ノ島B遺跡の漆製品は、埋葬者の副葬品の衣服だが、頭から膝にかけておおわれた繊維が赤色に染められており、漆と、赤色を発色するベンガラを焼いて混ぜたものだ。

 そして、そこからわずか2kmほどの大船遺跡は、縄文中期(約5000年ほど前)の遺跡だが、膨大な数の石皿が発見されており、それらは木の実などをすり潰すものとされているが、当然ながらベンガラなど鉱物色素を作り出すためのものでもあり、色素の大量生産が行われていたということになる。石川県や福井県などからも、5、6千年前の真紅の漆塗りの精巧な櫛が出土している。

 また、装飾用としてではなく、漆の接着剤効果は古くから知られており、貝塚な どから出土する石の鏃のつけ根部分に漆が付着している場合がある。矢を作る時、木の棒の矢柄の先端に鏃を固定させなくてはならないが、その時に、漆の接着効果がとても重要だった。

 矢柄に鏃をつなぎとめる際、植物の蔓で縛り付けるだけでは頼りなくて、獲物に刺さる時に矢の威力が半減する。植物の蔓で縛った後に漆で固めることで矢先は強靭になる。漆は、一旦固まると、紫外線に晒すことさえしなければ劣化しないのだ。

 曾禰に伝わるヤマトタケルの伝承を振り返ってみると、「大猪に矢を射たが止めを刺すことができず、それならばと、漆の汁を矢先に塗り込めて再び射ると、見事に大猪を仕留めることができた。」とあるのは、矢の先端の鏃の固定に用いられた漆の接着効果のことを伝えている。

 そして、弓矢というのは、古代において極めて重要な武器だった。刀剣よりも大量に生産ができ殺傷力も十分だった。とすれば、その弓矢の威力を高める漆資源は、武器として重要だということになる。

 古代日本において、朝廷により漆の生産を管理するために「漆部造(ぬりべのみやつこ)が置かれたのは、武器の管理がとくに必要だったからだろう。

 3世紀末に書かれた魏志倭人伝において 卑弥呼が治めていた邪馬台国の軍隊の武器について、「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」という文章がある。

 武器には矛・盾・木製の弓を用いていて、弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃やじりがついていると書かれている。

 また、飛鳥時代物部氏蘇我氏が台頭するが、物部氏は、同族に弓削氏という弓矢を統率する氏族がいたように、弓矢と関わりが深かった。

 蘇我氏物部氏の戦いについて、『日本書紀』巻第二十一によると、587年に漆部造兄(ぬりべ の みやつこ あに)が他2名とともに、物部守屋の使者として蘇我馬子のもとへ派遣されたと記されており、漆部造は、物部氏と関係があったことが伺える。

 そして、蘇我氏物部氏の戦いは、当初は、弓矢の力に勝る物部氏が優勢だった。

 その状況を見た蘇我馬子は、物部氏随一の弓の名手であった迹見赤檮(とみのいちい)を引き抜いて味方につけた。その迹見赤檮が物部守屋を射落とし、総大将を失った物部氏の軍勢は総崩れとなって大敗した。

 そして、日本に律令制が定着すると軍隊の主力は弓となり、武官は騎射、歩射の成績が勤務評定で重視されることとなった。また、儀式への参列にも弓矢を携えることが定められるようになった。

 そして、弓矢は、邪気払いとも深く関係している。

 現在の節分の豆まきは、もともと宮中で大晦日に悪鬼疫病を追い払う儀式、鬼やらいで、奈良時代初期、文武天皇の時に中国から伝わったとされる。

 (もともとは立春が新しい年の始まりだったので、節分の時期が大晦日ということになる。)

 元来の鬼やらいは豆を使わず、鬼の仮面をつけた者を桃の木を使った擬似的な弓矢で追い払うものだった。桃太郎の”桃”は、中国で悪鬼を払う呪力ある木と考えられていた。

 その宮廷儀礼に、豆を焼いてその年の吉凶を占う豆占いや、自分の厄を豆に移して辻(現世と来世との境界)に捨てる厄落としの民間習俗が重なったのが、現在にも伝わる「鬼は外、福は内」の節分の習俗だ。

 また、馬に乗って矢を射る流鏑馬の起源は、第29代欽明天皇の御世、国の内外が戦乱のため、心を痛められた天皇は、これを平定するに先立ち、豊前の国、宇佐の地(宇佐八幡宮の鎮座地)に神功皇后応神天皇を祀られ、神前で、天下平定・五穀成就を祈られて、馬上で三つの矢を射られたのが起源とされる。

 現在でも、毎年1月12日に、京都の伏見稲荷では、矢を射ることで邪気を払う神事、奉射祭が行われるし、島根県太田市物部神社の奉射祭(ぶしゃさい)では、氏子らが「鬼」と書かれた的を矢で射て無病息災を祈願する。

 これらのことからわかるように、矢は、こちらの世界と鬼の世界との境界と関わっており、その矢は、漆の接着効果があってこそ威力を発揮する。

 山々の姿が印象的な曾禰村で、とりわけ目を引く鎧岳の麓に門僕(かどふさ)神社という古社が鎮座している。

 現在の主祭神天津児屋根命だが、「惣国風土記」では、ヤマトに征伐された隼人の祖の火蘭芹命(ほのすそり)を祀ると書かれ、実際のところ詳しくはわからない。また、生贄を象徴する神事も今に伝えられている。

 その参道の案内に、「鍫靫を奉納すとあり今にその先金●●を伝承する古社」とある。●●は、謎の象形文字だが、文字の形からして鏑矢に使われる鏃の雁股に似ている。

 それはともかく、鍫靫の靫(ゆぎ)は、矢を入れる武具だ。そして、当社の宝物として、鉄製武器(鏃・鏑矢・鉾尖)と書かれている。

 いずれにしろ、”ぬるべの郷”の真ん中に鎮座するこの古社が、武器と関係するものであることは明らかだ。

 しかし、それらの武器に象徴される勢力は、もともとこの地にいたのではなく、後からやってきて支配するようになったのだろうと思う。

 神話の中で、ヤマトタケルは、宇陀の阿貴山で狩猟をしていた時、大猪に矢を射たが、止めを刺すことができなかったが、漆を矢先に塗りこめることで、大猪を仕留めることができたとあるが、宇陀の阿貴山というのは、曾禰から25kmほど西に行ったところの宇陀の嬉河原であるとされる。

 その場所には、屑(くず)神社という古社がある。吉野の国巣という先住の人たちがルーツとされるが、日本書紀の中で、国巣の人たちは、純朴で、山の菓やカエルを食べるなど古い習俗を残し、大和朝廷から珍しがられた存在だったと記されている。

 そして、その屑神社で祀られているのが、道返之大神(ちかへしのおほかみ)と衝立船戸神(つきたつふなとのかみ)である。これらの神は、黄泉から逃げ帰るイザナギが、追ってくるイザナミに対して、これ以上来るなと言って投げ捨てた”杖”と、黄泉と現世のあいだを閉ざすために置いた”大岩”が元になった境界の神、塞の神である。

 そして、ヤマトタケルが、この屑神社のある宇陀の嬉河原の大猪を漆で補強した矢で仕留めた後、曽爾の郷に「漆部造」(ぬりべのみやつこ)を置くことになるのだが、曾禰の南隣の御杖村に御杖神社が鎮座しており、御杖村も、古代においては曾禰の地に含まれる。

 その御杖神社に祀られているのが、久那斗神(くなど)、八街比古神(やちまたひこ)、八街比女神(やちまたひめ)で、イザナギが黄泉から逃げ帰って禊をする時に生じる神々で、境界を守り、邪悪なものを祓う塞の神である。

 そして、なぜ”御杖”なのかというと、この曾禰の地は、倭姫命がアマテラス大神を祀るうえで相応しいところを訪ね歩く元伊勢巡幸の伝承地であり、倭姫命が、この地に杖を残したとされているからだ。黄泉の国でのイザナギの場合、追いすがるイザナミを追い払うために用いられたのが杖だった。杖には、邪霊を防ぎとめる効果が期待されているのだろう。

 前回のブログで、アマテラス大神は、もともとは皇室の祖神ではなく、第10代崇神天皇の時に鬼退治された人たちの祀る神で、そのため、崇神天皇の治世においてアマテラス大神の祟りがあり、それを怖れた崇神天皇によって、アマテラス大神を祀るうえで相応しい地を求めて(鎮魂のため)、倭姫命が巡幸したのではないかと書いた。

 御杖村のある曾禰の地も、鬼退治と関係ある場所の一つということだろう。

 そして、ヤマトタケルの大猪退治と関連する宇陀の地の屑神社と、曾禰の地の御杖神社は、ともに塞の神を祀っているが、北緯34.49度と東西のライン上に並んでいる。しかも、この北緯34.49というのは、神武天皇がヤマトを平定して宮を築いたとされる畝傍山橿原宮)、すなわち藤原京と同じなのである。さらに東に行くと、伊勢神宮豊受大神を祀る外宮の別宮、月夜見宮である。

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北緯34.99度のライン、左から橿原宮藤原京)、宇陀の嬉河原の屑神社、曾禰の御杖神社、伊勢神宮外宮(トヨウケ大神を祀る)の別宮の月夜見宮。縦軸の左は東経135.98度のライン、上から服部遺跡、伊勢遺跡、牛ヶ峯岩屋桝型磐座、丹生川上神社、熊野の神倉神社。右は、東経136.19度で、下から御杖神社、伊賀の服部川の真泥(原初琵琶湖の湖底であり、高温に耐える窯づくりに使われた粘土の産地)、東近江の服部町。ここから東に1.8kmのところに日本最古の前方後方墳、神郷亀塚古墳があり、西に1.2kmのところに弥生時代の巨大な鍛治工房跡が発見された稲部遺跡がある。この服部町は、愛知川の河岸であり、愛知川の上流に日本最古の土偶の一つが発見された滋賀県相谷熊原遺跡 がある。前回のブログで書いたように、日本の最深部の古層に、服部の存在が関わっている。


 そして、曾禰の御杖神社と橿原宮のあいだが38kmで、そのど真ん中が、前回のブログで書いた、12500年前の隆起線文土器が発見された桐山和田遺跡のある山添村の布目湖の湖岸、牛が峯山頂の巨大磐座を軸としたラインである。この東経135.98度の南北のラインには、日本最大級の弥生時代の祭祀都市である伊勢遺跡や、縄文時代から鎌倉時代までの遺構が残る巨大な服部遺跡、そして、熊野南端の神倉神社(ゴトビキ岩)、神武天皇がヤマト平定の前に天神地祇を祀った丹生川上神社が並んでいる。

 この不思議な合致のことはともかく、ヤマトタケルの大猪退治の神話に関係ある二つの場所が、ともに塞の神を祀る場所であり、しかも、曾禰の地に、倭姫命が、邪霊を防ぐ杖を置いた伝承があるのは重要なポイントだ。

 宇陀の嬉河原は、古くから日本最大級の水銀鉱脈がある地域で、そこに鎮座する屑神社は、吉野の国栖がルーツで、純朴で山の菓やカエルを食べるという人々がと関わりがあった。そして、もう一方の曾禰には、どういう人たちが住んでいたのだろう。

 このあたりも、かなり古くから人々が営みを続けていたことは間違いなく、御杖村から東に18km行ったところの粥見井尻(かゆみいじり)遺跡からは、13000年前〜9000年前の竪穴住居群がある。竪穴式住居じたい、これほど古い時期のものは全国的にも発見例が極めて少ないが、ここからは日本最古、13000年前の土偶が見つかっており、女性の上半身をかたどったものだ。その後、近江の相谷熊原遺跡でも同じ時期の土偶が発見され、この二つの縄文遺跡が、現時点では日本最古の土偶の出土地とされる。

 相谷熊原遺跡は、愛知川の上流にあり、愛知川を下ったところに服部の地があり、そこに日本最古の前方後方墳や、弥生時代の巨大鍛治工房が発見された稲部遺跡がある。その服部町は、曾禰の御杖神社の真北にあたり、同じライン上に伊賀の服部川の真泥があり、ここが原初琵琶湖の湖底で、その土が、鉄の質を高めるための高温に耐えうる窯づくりに利用された。

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13000年前の日本最古の土偶(左)三重県粥見井尻遺跡(右)滋賀県相谷熊原遺跡 

*発掘調査資料より

 曽爾村の中にも、縄文時代の遺跡がたくさんあり、土器のかけらや矢尻を畑で見つけた農家も少なくないそうだ。

 現代人である私たちが見ても心惹かれる場所というのは、古代人も同じであり、とくに縄文遺跡はそのほとんどが眺望がよく、遠くまで見通せるような場所にある。

 曾禰村の風景は、とても魅力的で、古代人も何かしら神聖なものを感じたであろうことは間違いないが、その中でも鎧岳の天に突き刺すような山容は、一度目にしたら忘れられない。

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左は兜岳、右が鎧岳、女山、男山と、古くから崇められていた。

 この山もまた、吉野や宇陀から伊賀の名張山添村一帯にかけて独特な地勢を作り上げた1500万年前の室生大爆発の影響によって形成された。

 この鎧岳の麓に鎮座しているのが、上に述べた門僕神社だが、山の懐深くに、皇大神社と、金強稲荷神社が鎮座している。

 皇大神社は、伊勢神宮の内宮と同じでアマテラス大神を祭神とする現代の日本人でも馴染みの深い神社である。

 鎧岳においては、この皇大神社は金強稲荷神社までの長く険しい参道にあり、神社そのものは小さなものだが、その場所が遥拝所のように素晴らしい。北に目前に鎧岳が聳え、東と南と西は広々と開けている。つまり、太陽の動きが確認できる。おそらく、昔から何かしらの祭祀が行われていたのは間違いないと思われる。

 そして、ここからさらに険しい山道を登っていき、垂直にそそり立つ鎧岳の岩盤、柱状節理がそのまま御神体となっている場所に、金強稲荷神社がある。

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金強神社への長い参道の途中、皇大神社が鎮座する遥拝所から見上げる鎧岳。

 

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鎧岳の柱状節理が、金強稲荷神社の御神体である。

 稲荷神社は、現世御利益の神様として日本中どこにでもあって珍しくもなんともない。しかし、京都の伏見稲荷神社のように全国から商売繁盛を願って参拝に来る人が大勢いて、御利益は大変あるのだけれど、祈願が成就した後きちんとお礼をしなければ酷い目にあうということは認識されている。つまり、この神は祟り神であることを承知のうえで、大切に祀られている。

 そして、鎧岳の最奥にある金強稲荷神社そのものは、実はそんなに古くなく、明治の初め頃、村人たちの1人が白い蛇を見たり、村人の大勢が白狐の夢を見たなどということがきっかけで、稲荷を祀れという神託を受けて社が作られたようだ。

 鎧岳の山容そのものが御神体であり、ずっと以前から何かしらの原始宗教があっただろうことは想像できるが、なにゆえにこの山の奥に稲荷なのか。

 稲荷の神様は、ウカノミタマであるが、豊受神(トヨウケ)や保食神ウケモチ)など、”ウケ”の神と同じとされる。これらの神は、記紀神話で食物神として登場する。

 稲の神である稲荷神と同神として、稲荷神社に祀られることが多い保食神ウケモチ)は、日本書紀』において次のように描かれる。

 高天之原の天照大神の命を受けて、月読尊が葦原中国保食神のもとを訪れると、 保食神は口からいろいろな食物を吐き出してもてなした。月読尊はそれを「穢しい」と怒って保食神を殺してしまう。天照大神はこれを怒って月読尊と仲違いし、昼・夜を分けもち別れて住むようになった。

 大和朝廷の人たちは、吉野の国栖の人たちが食べているものを珍しがったという話があるが、ツキヨミに殺されてしまった保食神と関係のある人たちも、大和朝廷と習俗が違っていたのかもしれない。

 しかしそれだけでなく、大和朝廷の人たちは、新しい知識文化や技術を備えていたかもしれないが、どうにも体裁にこだわる分別が強いとも言える。美味しければそれで十分なのに、作り方が汚いからという理由だけで殺してしまうなんて。

 保食神以外にも、たとえば、天孫降臨のニニギに対して、オオヤマツミ神が、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの2人の娘を嫁がせたが、ニニギは、イワナガヒメが美しくないという理由で父親の元に返してしまう。それに対して、オオヤマツミ神は、コノハナサクヤヒメを嫁がせたのは、天孫が花のように繁栄するように、イワナガヒメを嫁がせたのは岩のように長く続くように誓約を立てたからだと怒った。

 天孫とされる人たちは、どうやら現代の私たちと似た分別を持っている。

 かつては、天孫とは違う価値観を持っている人たちがいた。オオヤマツミ神や保食神など黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をする以前に生まれた神は、異なる価値世界に生きていた人たちの神だった。

 だから彼らは鬼とされ、彼らとのあいだに分別の境界線が引かれた。しかし、その後、祟りを恐れる人たちによって、それらの神も丁重に祀られるようになった。

 保食神に対するツキヨミの行為を非難したアマテラス大神は、イザナギの禊の後に生まれた神と位置付けられているにもかかわらず、古い神様たちと通じるものがあるようだ。

 アマテラス大神は、もともとは鬼とされた人たちの神様だった可能性がある。

 アマテラス大神を国家神とし、伊勢神宮を特別に重視し、『古事記』の編纂を命じたのは天武天皇だ。

 天武天皇は、アマテラス大神の加護を受けたから壬申の乱(672)に勝利できたので、この神を重要視したとされる。しかし、加護を受けたという伝承は、困った時の神頼みという程度のことではないだろう。

 天武天皇は、壬申の乱が始まる前、吉野に隠れ、国栖(くず)の人たちと交わっていた。国栖の人たちは丹生とつながる鉱山の採掘者たちだったように思われる。吉野から伊勢にかけて丹生という場所が多くあるが、おそらく丹生が、アマテラス大神と深く関係があったのだ。

 そして天武天皇と対立した天智天皇の息子の大友皇子が近江を拠点にしていたのは、吉野や伊勢の勢力とは別の、琵琶湖を中心とする勢力と近い関係にあったからだと考えられる。

 しかし、壬申の乱で勝利した後、天武天皇は、分裂している日本を一つにまとめる必要があった。当時、日本は白村江の戦い(663)で唐と新羅の連合軍に大敗し、海外からの脅威に晒されていたからだ。

 天武天皇は、古来の神の祭りを重視しながらも、アマテラスを中心とする国家祭祀を整え日本人の民族意識を高めるとともに、天文学陰陽道など大陸から輸入した最新の科学や思想を組み込み、富国強兵を行い、急速に律令国家を作り上げていく。150年前、武家と公家の戦いを経て実行された明治の改革のように。

 曾禰村とか御杖村は、今でこそ山岳部のローカルな場所というイメージを持たれているが、古代においては、奈良と伊勢を結ぶ最短の伊勢本街道沿いの地域だった。

 奈良から宇陀を通り、曾禰、御杖、そして13000年前の土偶の発見された三重県粥見井尻遺跡も同じ道沿いなのである。漆にまつわるヤマトタケルの大猪退治の伝承地、宇陀の嬉河原と曾禰(御杖神社)が東西の同じライン上で、ともに境界の神を祀っているのも、単なる偶然ではない。

 

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ヤマトと伊勢を結ぶ最短の道、伊勢本街道沿いの拠点。西から大和三山に囲まれた藤原京ヤマトタケルが矢の先端を漆で補強して大猪を仕留めた宇陀嬉河原の屑神社、大和水銀鉱山、漆部の置かれた曽爾の御杖神社、13000年前の土偶が出土した粥見井尻遺跡、多気の水銀鉱脈地の丹生神社、同じく水銀鉱脈の地の佐那神社(祭神はアメノタヂカラオ)、伊勢神宮外宮。伊勢本街道沿いに古代の水銀の大産出地が三つも含まれ、漆に関連する二つの地に境界の神(塞の神)が祀られる。この道沿いに13000年前からの縄文遺跡も含まれており、かなり古代から使われた道の可能性が高い。下の二つのポイントは、西が、壬申の乱の前に天武天皇が隠れた吉野の国栖、東が、神武天皇がヤマト平定の前に天神地祇を祀った丹生川上神社

 

(つづく)

 

 

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第1106回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(9)

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山添村 神野山 鍋倉渓。真っ黒で重く硬い「角閃石斑れい岩」の巨岩が谷を埋め尽くす。

 

  1995年から本格的に発掘が進められてきたトルコのギョペクリ・テペ遺跡が、放射性炭素年代測定によって12000年も前のものであることが証明された。

 この地の神殿は、繊細な模様が刻まれた10トン以上の巨大な石柱が幾何学上に配置されており、高度な技術と叡智を持った人々によって築かれたと考えられている。

 この遺跡が古代エジプトなど従来の謎の古代遺跡と異なるのは、人間が農業を始める前に築かれていること。農業による富の蓄積で権力者が登場してから巨大建造物が作られるようになったという従来の説を覆し、純粋に宗教的目的だけを共有する人々が協力し合って大建造物を作っていたことだ。

 これまでの歴史の概念を覆す”事実”の登場に、歴史の権威学者達は沈黙しているが、調査は着々と進んでおり、歴史の教科書が書き換えられる日はそんなに遠くないだろう。古代エジプト文明よりも七千年も前に文明が存在していた。しかも、大河のそばではなく丘陵地帯の上に。

 世界の古代文明に比べて、日本の文明の曙は随分と後になると考えている人が多いが、日本の土器は、世界で最古級である。

 現時点において世界で最も古い土器の破片は、約2万年前のものが中国・江西省の洞窟遺跡で2012年に発見されているが、日本の大平山元(青森県)で発見された縄文土器の破片(約1万6500年前)も世界最古級とされている。しかし、これらは無文土器で、縄文土器の特徴とされる隆起線文土器は12500年くらい前に登場している。土器の表面に、わざわざ線状の文様をつけており、ギョペクリ・テペ遺跡の幾何学のように、この時代、何かしらの心の変化、精神文化が生じたということだろう。

 この縄文草創期の隆起線文土器は、北海道や南西諸島以外の日本各地で見つかっているが、奈良の大和高原の山添村の桐山和田遺跡でも見つかった。この遺跡は、現在、布目ダムの湖底にある。

 山添村には、ここ以外に名張川岸の大川遺跡や、遅瀬川右岸の上津大片刈遺跡からも、縄文草創期の遺物や約8000年前の押型文土器や住居跡などが発掘されている。

 桐山和田遺跡からは、初期の土器、石の矢じり、石斧が揃って発見されており、この三つが揃って出土している遺跡としては日本でも最古級で、さらに約12000年前から約6000年前までの長きにわたって人々の生活の痕跡を辿ることができる。

 現在から古代ピラミッド時代までが約5000年なので、6000年ものあいだ同じ場所で人々が営みを続けるというのは、現代人の時間感覚では理解できない。縄文時代は争いごとがなかったから、それが可能だったのだろう。

 山添村は、村おこしのためか観光に力を入れているようで、お役所を訪ねたら膨大なパンフレットをくれた。そして、村内に磐座がたくさんあることから磐座Mapを作成しているが、その内容がどうにもお粗末だ。

 たとえば観光の中心となっている神野山にある磐座(単なる岩にすぎないものも含めて)を線で結んで、アルタイル、ベガ、デネブ、アンタレスなど天の川周辺の星々と重ね合わせて位置が重なっていると主張しているが、星の配置が作り出す三角形と磐座の場所を結んだ三角形の形が厳密に同じではない。しかも磐座とは思えないただの岩盤も含まれている。その上で、神野山の頂上にある古墳について、山頂に古墳があるのは珍しいので天体観測所でないかと説明しているのだが、その説は、かなり無理がある。

 それはともかく、山添村に多く見られる磐座に注目しているにもかかわらず、縄文や弥生文化古墳文化、そして地元の伝承との関わりについて一切言及されていないことが残念だ。過去から伝えられている物語の真意を洞察せず、現代人の天体感覚(古代は、星の見え方も大きく異なっていたはず)を磐座にあてはめて理屈付けるのは、磐座に対する敬虔さが弱いとしか言えない。西暦2000年をすぎてから山添村に磐座保存会が出来ているようだが、磐座保存というのは、磐座の背景に流れている歴史こそを大切にするものでなければならない。

 約12000年前からの縄文文化の痕跡が見られる桐山和田遺跡から真東に行くと、名張川の川岸に、縄文草創期からの遺跡である大川遺跡がある。(北緯34.69)

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名張川に面した大川の縄文遺跡の周辺には巨岩が多いのだが、この岩尾神社は、その巨岩を神体石として古くから祀っている。

 布目川の桐山和田遺跡の周辺もそうだが、名張川の大川遺跡の周辺にも、岩屋神社をはじめ、多くの磐座が点在している。

 山添村を流れる名張川も布目川も北上して木津川と合流し、やがて淀川となって大阪湾へとつながる。今でこそ過疎の村だが、古代は、水上交通の要で、そこに草創期の縄文遺跡がある。

 しかも、山添村は、大和高原の真ん中に位置するが、大和高原は標高300mほどの高低差があまりない丘陵地隊で、西の奈良が標高100m、東の伊賀が標高200mで、遥か遠くまで眺め渡すことができる高天原のようなところだ。

 その実感は、山添村の神野山(618m)に登ると、より強く感じられる。この山の頂きに立つと360度のパノラマが広がっている。とくに印象的なのが南側で、大和富士と称えられる額井岳と、神武天皇の東征が終了した時に天神を祀ったとされる鳥見山のあいだの香酔峠が、まるで異界への門のように見え、その峠の向こう側が、金峯寺や天河弁財天社など吉野の聖域である。 

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真ん中の谷に見えるところが香酔峠。その左が大和富士と言われる額井岳。右が、鳥見山。その向こうが宇陀、吉野の山々。

 山添村の神野山の山頂には王塚があり、これは天体観測所ではないかとか、白鳥座のデネブを表しているなどと観光協会配布のパンフレットに書いているのだが、あまりにも根拠が薄い。

 そんなことよりも、この王塚に隣接して神野大明神を祀る社が鎮座して甕速日神(みかはやひ)を祀り、大塚が、昔から樋速日神(ひのはやひ)のものと語り伝えられているのが気になる。

 甕速日神樋速日神は、イザナミが死んだ時、怒ったイザナギカグツチの首を切り落とした時、十束剣の根元についた血が、岩に飛び散った時に生まれた神であり、その時に、国譲りに深い関係のある武甕雷男神タケミカヅチ)も生まれた。岩に付いた赤い血のイメージは辰砂(硫化水銀)を思い起こさせる。

 これまでのブログで書いた吉野の室生龍穴や京都の貴船神社の祭神、龗の神(おかみのかみ)も、カグツチの血から生まれ、水銀と関係のある神である。

 そして、神野山の山頂に祀られて神については、次のような伝承がある。

 古い昔、伊勢に熯之速日命(ひのはやひのみこと)という女神が住んでいた。あまりにも美しいため、男の神々が恋い焦がれていた。

 女神は、多くの男神の期待には応えられないと身を隠し、伊勢から熊野を通って吉野の山中に隠れ住んでいた。

 しかし、男神達は女神を探し求めて追いかけてきた。女神はさらに北に進み、山添村の神野山の弁天地に隠れたが、さらに男神達が追いかけてきた。たまりかねた女神は、一匹のオロチとなって男達の目をごまかそうとした。しかし男達は、オロチが自分たちの行く手を邪魔するものとみなし剣でしとめてしまった。するとオロチは、傷ついた女神の姿に変わった。男達は涙が涸れるまで泣き、神野山山頂に女神を祀った。

 さらに神野山には次のような伝承もある。

 昔、神野山の天狗と伊賀の青葉山にいた天狗とが喧嘩をし、青葉山の天狗は石塊を神野山の天狗に投げつけた。神野山の天狗は弱いふりをしてほうっておいた。青葉山の天狗はこれにつけこんで、手当たり次第に石塊や芝生をつかんで投げた。そのため伊賀の青葉山は岩も芝生もなくなり、禿山になってしまったが、大和の神野山は石くれが集まって、鍋倉谷ができたり、山頂が芝生になったりして、きれいな良い山になったという。

 神野山には鍋倉谷という黒い巨岩が埋め尽くす谷があるが、ここの石は、真っ黒で重く硬く「生駒石」と呼ばれて造園用石材や墓石として珍重されていた。専門用語では「角閃石斑れい岩」と呼ばれ、磁鉄鉱なども含む場合がある。

 この岩は地中深くで固まった火成岩で、大和高原一帯は同じ火成岩の花崗岩で出来ているが、角閃石斑れい岩は花崗岩よりも風化しずらく、神野山全体がこの硬い岩でできており、そのため、長い歳月をかけて、なだらかな円錐形の山として残った。

 この角閃石斑れい岩は、山添村周辺では、三輪山の南部や、宇陀の大和水銀鉱山のあたりにも広がっている。生駒山も含めて、いずれも古代からの聖域だ。

 山添村は、1500万年前、吉野の修験の聖地、大峰から大台ケ原を中心に起きたとされる巨大爆発の影響が及んでいる北限である。

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この地質図の紫部分が角閃石斑れい岩。左端上が生駒山。右下の広大な部分が、宇陀の地の大和水銀鉱山周辺。その上の帯状部分の左端が三輪山。そして、生駒から真東に行ったところ、右上端の飛び地になっているところが山添村の神野山。

 

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神野山の磐座。上:竜王岩。下:天狗岩

 さて、伊勢から熊野、吉野と逃れてきた女神は、神野山でオロチの姿となり刀剣によって殺されてしまった。これは一体何を意味しているのだろう?

 上に述べたように、神野山の山頂に立つと、吉野や熊野の地とこの地がつながっていることが強く実感される。

 伊勢と吉野と熊野の共通点は、”丹生”という地名が多いことである。また、丹生という土地は、熊野の龍神村など龍神との関わりも強い。

 また、樋速日神(ひのはやひ)と同じくイザナギによって斬られたカグツチの血から産まれた龗の神(おかみのかみ)は、丹生川上神社の祭神で、龍神でもある。

 そして神野山の北、12000年前から縄文人が営みを続けていた布目川沿いの桐山和田遺跡から西2kmのところに丹生神社があり、この一帯は古くから丹生と呼ばれてきた。

 興味深いことに、桐山和田遺跡から東に約5kmのところに吉備津神社が鎮座している。吉備津神社は、第10代崇神天皇の時の吉備国の鬼退治と関係の深い神社であるが、それがなぜここにあるのか? 奈良県内で吉備津神社山添村だけである。

 この吉備津神社御神体は巨大な磐座であり、『波多野村史』では、このご神体について「竜神が本来の神で、村人が祭祀を怠ると夜半に神前で鼓を打って警告を発すると云う」と書かれているそうだ。

 つまり、この地にはもともと磐座祭祀で龍神を祀る人たちがいて、おそらくそれが”丹生”の人たちで、鬼退治という形で討伐された。討伐した側は、強力な剣を作り出す技術があった。その剣は、鉄の純度を高めるため高温に耐えうる窯が必要だ。

 山添村の東、原初琵琶湖の硬い土が露頭している伊賀の地は、伊賀焼きでも知られる陶芸の里で、高温に強い窯づくりが可能だった。また原初琵琶湖の湖底地層には鉄資源としての褐鉄鉱も多く存在していた。だから伊賀には鍛治関係の伝承や地名が多く残っている。

 神野山の真東17kmも大村神社という古社が鎮座し、境内に古い古墳群が存在する。

 この地は木津川の上流域であるとともに伊賀と名張と伊勢を結ぶ交通の要所であり、奈良時代の740年、藤原広嗣の乱が起こった直後、不安と恐れを感じた聖武天皇が伊賀に行幸する際に宿泊した阿保頓宮のあるところで、その後、斎王が伊勢に向かう際に宿泊所となった。(伊勢行幸の後、聖武天皇はなぜか平城京に戻らず、恭仁京難波京紫香楽宮と遷都を繰り返す。)

 大村神社の祭神は、息速別命(いこはやわけのみこと)で、第11代垂仁天皇丹波道主命の娘のあいだに産まれた皇子である。

新撰姓氏録』によれば、垂仁天皇は、息速別命のために阿保の地に宮殿が築いた。

 奈良時代から平安初期にかけて活動し空海とも交流のあった修験僧の勝道上人は、日光山を開山したことで知られるが、彼の伝記『補陀洛山草創建立記(ふだらくさんそうそうこんりゅうき)』によれば、息速別命の子孫となっている。

 その伝記には、息速別命は縁があって東国に下向したが、罹病により一眼を損失し、そこに止まったとされる。谷川健一氏は、この伝承について、古代日本においては鍛冶神が多く隻眼とされていることなどから、息速別命と鍛冶職との関連を指摘している。

 さらに、伊賀の大村神社から西北に2kmほどのところに城之越遺跡がある。ここは見事な曲線美と水の流れを利用した4世紀後半の古代庭園があるところで、竪穴住居跡は29棟以上、掘立柱建物跡は50棟以上が確認されている。4世紀後半というのは、第10代崇神天皇の勢力が拡大していく時期で、その時、四道将軍による鬼退治も行われた。城之越遺跡から北西に4kmほどのところに鍛治屋という地名もある。

 また伊賀の地においては、伊勢国風土記の中で、伊勢津彦(出雲建子命)に対して強力な武器によって国譲りを迫る天日別命(アメヒワケ)の神話も残っている。

 息速別命とゆかりのある伊賀の阿保周辺は、4世紀後半、鉄の力を備えた集団(第10代崇神天皇に象徴されるヤマト政権)の勢力拡大と関係が深かった可能性が高い。

 山添村の天狗と伊賀の青葉山の天狗の喧嘩は、その時の確執と争いのことを物語っているのではないだろうか。それが後に、鬼退治という伝承に発展し、神野山に逃れたオロチの死ともつながっている。

 天狗の戦いで、伊賀の天狗は力づくで勝利したように思えたが、伊賀の土地は荒れ果ててしまった。強力な鉄製品を作るためには大量の木材を燃やすなど、自然環境に大きなダメージを与える。第10代崇神天皇の治世の時、厄災が多発し、それがオオモノヌシの祟りであったと記録されている。その祟りを鎮めるため、崇神天皇は、オオモノヌシを三輪山に祭り、それまでヤマトの宮中に置いていたアマテラス大神を祀るうえで相応しい場所を探し、そこに遷すことを命じた(豊鉏入媛と倭姫による元伊勢巡幸)。

 おそらく、アマテラス大神は第10代崇神天皇の祖神ではなく、崇神天皇との戦いに敗れた人たちが祀る神だったゆえに祟りをもたらし、崇神天皇はそれを畏れた。その結果、アマテラス大神は、ヤマトの地を出て最終的に伊勢に落ち着くのである。

 崇神天皇との戦いに敗れたのは、伊勢から逃れてきて神野山で殺されたオロチであり、伊賀の天狗に負けた神野山の天狗に象徴される存在だろう。神野山のオロチや天狗は、殺されたり負けたように見えるが、その神聖さは維持され続けた。つまり祭祀は生き残ったのだ。地上の勝利や栄華は幻のようにはかない。神野山の天狗のように弱いふりをして永遠に続く精神を勝ち取るという在り方が、現代人の私の心にも響く。

 神野山の山頂に祀られているオロチである樋速日命(ひのはやひ)は、上に述べたように、「古事記』においては、イザナギに斬られたカグツチの血が岩に散って産まれた神とされる。

 しかし、日本書紀の第六段一書(三)や、第七段一書(三)では、樋速日命(ひのはやひ)は、アマテラスとスサノオの誓約の際に、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)をはじめとするアマテラスの子の5神ととともに産まれたとされる。つまり、アマテラスの子は実際は6神で、そこに樋速日命(ひのはやひ)が含まれていたのだが、何かしらの理由で、そのことが隠された。

 ”速日”は、火が激しく燃える様を表わし、 燃え盛る太陽とする説もある。

 伊勢から熊野、吉野、そして山添村の神野山に逃れてきて殺されてしまうオロチ、樋速日命は、太陽神でもあったということだ。

 そして丹生都比売神社の社伝では、丹生都比売大神の別名が稚日女尊(わかひるめのみこと)とされるが、稚日女もまた日に仕える巫女の意で、アマテラス大神の別名「大日孁貴(おおひるめのむち)」に対応した神名だと考えられている。

 そのため、稚日女尊は、この神を祭神とする生田神社では、アマテラス大神の幼名であるとしている。いずれにしろ、日の妻(め)であり、伊勢、吉野、熊野に多くの聖所を持つ丹生都比売大神も、日の妻(め)だということになり、樋速日命(ひのはやひ)は、そこに連なる神なのだ。

 日の妻(め)は、龍神だった。この龍神は、かつての騒乱の際、殺される側だった。しかし、その後、国を治める祭祀の中心の神として復活することになった。それが、伊勢神宮に祀られるアマテラス大神である。伊勢は、日の妻(め)でもあるオロチが最初にいたところだ。

 山添村で12000年前から縄文文化が栄えていた桐山和田遺跡が眠る布目湖の湖岸に牛が峯という地域がある。この場所は、古来から「みやま」と呼ばれ神聖視されてきた一帯で、その山の頂上部に巨大な磐座群が鎮座している。

 「牛」を生き贄にして腹を切った時に流れでる血が「朱」の語源である。古代、祭祀で用いられる朱の色は、丹(硫化水銀)から得られた。

 牛が峯の山頂に屹立する磐座は、鏡のように表面が平らで、真西を向いているので、夕暮れには夕日を浴びて金色に輝いていただろう。

 そして、その磐座の下方にも巨大な磐座があり、ここは、別の岩が巨大磐座の底を受け止めて支えており、その空隙が岩窟となっている。

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牛が峯の頂きに鎮座する磐座。

  伝説によると、空海が当地で睡眠をとったところ、夢枕に大日如来が立ち、「牛ヶ峰を、仏の教えを説く霊場とせよ」と告げたという。

 そこで空海が牛ヶ峰の山中に足を運ぶと、そこには岩窟にふさわしい巨大な組石状構造物があった。これこそ霊場にふさわしいとして、岩窟を構成する上部の主石表面に、空海自身がノミとツチを用いて大日如来の像を刻み込んだ。大日如来を刻み終わると、空海はその「岩屋」の上方に屹立している巨大な立岩の上部に枡形の刳り抜きを作り、その刳り抜きの中にノミとツチを収めたという伝承がある。

 大日如来を刻んだ岩窟状の磐座と、ノミとツチを収めた枡形の磐座の二つは、この伝説から弘法大師信仰の聖地となり、岩屋寺霊場として近世の頃まで栄えていたという。

 岩窟状の磐座には、巨大な大日如来が刻まれているだけでなく、岩窟内に不動明王、そして入口には、高野山麓の丹生都比売神社や宇陀の室生龍穴と同じく善女龍王が祀られている。

 大日如来は、前回のブログでも書いたように、空海にとっては丹生の神に等しい。

 この二つの巨大な磐座は、もともと一つの巨大石で、二つに割れて一方が下に落ちたのだと考えられている。

 下の磐座の岩窟は二つに分かれ、それぞれ冬至夏至の時の日没の太陽が差し込むようになっており、上の磐座は、真西を向き、日没の太陽を受けて鏡のように輝く。

 そして、この磐座の真西のすぐ近くに丹生の地があり、そこから東大寺平城京生駒山大阪城(かつては石山本願寺。瀬戸内海からの荷揚げをする渡辺津)が、北緯34.69度できれいに並んでいる。

 また、牛が峯の磐座から東経135.99のラインを真南に進むと、神武天皇が大和平定の直前に天神地祇を祀った吉野の丹生川上神社であり、さらにその南は熊野三山の一つ熊野速玉大社で、その南が神倉神社である。神倉神社は熊野速玉大社の元宮とされ、その歴史は古い。120mの神倉山の山頂に鎮座するゴトビキ岩と呼ばれる磐座がご神体で、岩の周辺からは、銅鐸片など弥生時代の祭祀に関わる遺物が出土している。

 そして、牛が峯の磐座の真北は、琵琶湖の近く、弥生時代後期の遺跡としては国内最大級、30万㎡におよぶ伊勢遺跡がある。

 この遺跡は、大型建物が計13棟も発見されており、直径220mの円周上に等間隔に配列された祭殿群で、中心部には方形に配列された大型建物が計画的に作られている。大型建物がこれだけ集中して見つかる遺跡は他にはない。しかし、人々の生活の跡が見つかっていないため、日常生活を送る場所ではなく、トルコのギョベクリ・テペのように祭祀を行う公共的な存在であったと考えられている。また、伊勢遺跡の南西1.2キロメートルの下鈎遺跡で金属器生産が行われていた。

 さらに伊勢遺跡の真北6kmの所に、縄文時代から鎌倉時代にかけて人々が住んでいた服部遺跡がある。ここは、60万㎡以上に及ぶ日本屈指の巨大遺跡で、広大な水田跡、約7万㎡にも及ぶ日本最大級の方形周溝墓群、数百の遺構や約100万点もの遺物が確認された。

 なぜこの場所に、伊勢や服部の地名があるのか。ここは琵琶湖に流れ込む川では最大の野洲川下流域である。野洲川沿いは、伊賀の服部川と同じく、原初琵琶湖が移動してきた道筋であり、服部川と同じく古代の象やワニの足跡が多く残り、その土は伊賀焼きと似ていて信楽焼でも使われるほど高温に耐えうる良質の土である。さらに褐鉄鉱の存在も確認されている。また、伊賀と同じく、アマテラス大神に相応しい場所を求める倭姫命の元伊勢巡幸の跡が多く残っている。

 いずれにしろ、伊勢も服部も、後からやってきた強力な武器を持つ集団とのあいだに確執があった名だ。

 さらに不思議なことに、古代、有数の水銀の産地であった伊勢の多気町の丹生水銀鉱山は、山添村の牛が峯の磐座から見て冬至の日に太陽が上る方向にあり、ここに丹生神社が鎮座する。その逆方向、夏至の日に太陽が沈む方向に大阪高槻の神服神社がある。ここは帯仕山の山すその服部盆地であり、ここも服部連の拠点だった。この一帯には、約50基もの古墳が群集する塚脇古墳群(古墳時代)が、また、神社の南側には大蔵司遺跡(弥生時代鎌倉時代)がひろがっている。

 山添村の牛が峯の磐座を中心にして冬至の太陽のラインで、伊勢と服部がつながっているのだ。これは一体どういうことなのだろう?

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大阪府高槻市の古くからの服部氏の拠点、神服神社

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東経135.99度のライン。上から、近江の服部遺跡、伊勢遺跡、山添村の牛が峯山頂の巨大磐座、神野山、吉野の丹生川上神社、熊野の神倉神社。北緯34.69度のライン。西から渡辺津(難波京石山本願寺大阪城となる)、平城京東大寺、丹生神社。また、山添村の神野山の真東に、鉄と関わりがある伊賀阿保の地の大村神社が鎮座。右斜め下が伊勢多気の丹生水銀鉱山、左斜め上が高槻の神服神社。この斜めのラインは冬至のライン。

 服部氏は、伊賀の服部川の周辺に大きな拠点があった。そして、その祖神は、山添村の神野山の頂に祀られている殺されたオロチ、樋速日神(ひのはやひ)なのである。

 大阪の高槻にある神服神社の由緒によれば、第19代允恭天皇の時、樋速日神の12世孫の麻羅宿禰(まらのすくね)の後裔の服部連が、全国各地で養蚕農業の指導にあたり、織部の統括者となったと伝えられているのだ。

 丹生都比売大神の別名、稚日女尊(わかひるめのみこと)は、高天原で機織をしていた時に、乱暴な須佐之男命に馬を投げ込まれたことが原因で死んでしまい、それがきっかけとなってアマテラス大神が岩戸に隠れてしまう。このエピソードにも、古代、機織り部門を担っていた服部氏が関係しているように思われる。

 伊勢と服部との関係で、一つ気になるポイントがあり、それは伊勢神宮皇大神宮(内宮)で祀られている神のことだ。

 もちろん主祭神はアマテラス大神であるが、その左右に合祀されている相殿神が存在する。左側が、天の岩戸伝説で岩戸を開けた天手力男神 (あめのたぢからおのかみ)で弓を神体としている。そして右側が、機織や織物に関係する栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、なぜか剣が神体なのだ。この神様は、天孫降臨のニニギの母親とされているが、その程度のことが、日本でもっとも大事にされている聖域の真ん中に祀られている理由になるとは思えない。

 一緒に祀られている天手力男神との関係で考えると、アマテラス大神が岩戸に隠れるきっかけになったのが機織りをしていた稚日女尊(丹生都比売神)の死で、岩戸から救い出したのが天手力男神ということになる。世界が真っ暗闇になるアマテラス大神の岩戸隠れと機織神が関係しており、伊勢と服部のつながりが、その線上にある。

 服部氏は、伊賀忍者服部半蔵で有名だが、世阿弥観阿弥もその血統とされる。

 伊賀出身の芭蕉とも関係が深く、芭蕉の弟子、服部土芳(はっとりとほう)が、『三冊子』、『蕉翁句集』、『蕉翁文集』の著書で、芭蕉の俳論、俳句を後世に伝えている。

 伊賀一之宮の敢国神社では、神事に従事する者が服部一族に限られ全員黒装束に身を固めることが厳格に守られる黒党(くろんど)まつりが、平安時代から行われてきた。

 そして、敢国神社においては、服部氏の守護神であるスクナヒコが、主祭神である四道将軍大彦命(オオヒコ)の配神として祀られている。

 大彦命は、埼玉の稲荷山古墳から出てきた鉄剣に刻まれた銘文に、この鉄剣の製作者の祖先として名が記されているように、刀剣の力が象徴された存在だ。

 服部氏は、その刀剣の力の前に屈したが、祭祀を通じて、この国の記憶の中に生き続けることを選んだのだろうか。

 大和高原の中央に位置する山添村は、琵琶湖、大阪湾、伊勢、吉野・熊野のヤマト圏のど真ん中である。そして、山添村の神野山からは、360度のパノラマで、南に吉野・熊野、西に生駒、北西に京都の愛宕、東に鈴鹿山脈が見渡せ、高天原のようなイメージの場所であり、その山頂にアマテラスの隠された6番目の子供である樋速日神(ひのはやひ)が祀られている。

 その樋速日神は、丹生とも関わる竜神であり、刀剣によって殺された神でもある。アマテラスの6人の子の1人であったが、なぜかそのことが隠されている。そして、その樋速日神(ひのはやひ)を祖神とするのが服部氏である。

 改めて、山添村の牛が峯の頂上の巨大磐座を中心としたラインのことをふりかえってみよう。

 二つの巨大磐座の下の磐座に、空海が刻んだとされる巨大な大日如来の像が描かれている。

 上にある巨大磐座は鏡のように表面が平で、西を向いて夕日を反射する。西は、胎蔵曼荼羅図では上部の釈迦院である。真理があまねく広がっていくことを示し、大日如来の化身として出現した釈迦や、歴史上の釈迦の弟子などが並び、人々に真理を語りかける。地図上では東大寺をはじめとする奈良の各寺院が、この方向にある。

 そして、南は、胎蔵曼荼羅では左部の蓮華部院で慈悲に関わっており、諸菩薩が清浄なる本来の心を悟らせる。地図上では、蘇りの聖地、熊野や吉野の方向となる。厳しくもあり寛容でもあるこの地の神々は、浄不浄や老若男女、身分の差もなく、全ての人々を受け入れてきた。

 北は、胎蔵曼荼羅の右部で、ここに金剛手院が位置しており、菩薩心を得るため、そして迷いを断つために必要な智慧と深く関係する。地図上では、琵琶湖の湖畔で縄文、弥生と続いてきた服部遺跡や伊勢遺跡の方向である。数千年を超える時間を身近に識ることは、現世の分別や迷いを卑小なものと感じさせる。また、琵琶湖は、日本海と通じ、新しい思想文化の入り口だった。

 最後に東は、胎蔵曼荼羅の下部であり、持明院が位置付けられる。諸明王が、人々の煩悩や妄執を根本から打ち砕く。地図上では、戦争の武器や農具を進化させる鉄製品の産地で、新旧勢力の戦いがあり、国譲り神話などが残る伊賀となる。そうした文明の成果は、現代でもそうだが、煩悩や妄執と、どう折り合いをつけていくかという問題に直面させる。

 こうして見ていくと、12,000年前からの縄文文化が栄えていた山添村の布目川流域の、牛が峯山頂の磐座に描かれた大日如来を中心として、胎蔵曼荼羅の世界が四方に広がっているようにも感じられる。

 トルコのギュベクリ・テペと匹敵する12,000年前という遥かなる昔からの人間の営みが、山添村を中心としたライン上に展開している。

 日本の古層の謎は、日本の精神文化と深いところでつながっている。

 世阿弥観阿弥芭蕉など服部氏と関わりの深い人々や空海は、その深層意識をしっかりと共有して、意識して、創造行為を行っていたのだろうか。

 

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第1105回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(8)

 

 

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曽爾村で出会った辰砂(硫化水銀)

 私はこれまでの人生で、野生の狐が原野を飛び回っているのを見たことがない。

 鹿とか猿なら、日本の聖域を探求中に色々なところで見ることがあるが、狐だけは見たことがなく、子供の頃からの記憶を辿っても思い浮かばない。だからその分、狐には特に妖しいイメージを抱いている。

 それが昨日、奈良と三重の県境の曽爾村を訪れた帰り道、日も暮れかかった山中で、小さな狐が何かを咥えてピョンピョンと飛ぶように走っていくのを目撃した。ちょうどその2、3日前、話の文脈は忘れたけれど「今まで狐だけは見たことがないんだよね」と言っていたところなので驚いた。

 やはり狐の走り方はとても印象的で、耳のとんがったところも記憶に刻まれる映像だった。

 そして、ここ数日、ずっと辰砂(硫化水銀)のことを考えてブログにも書いていた。辰砂が発見できそうなところは幾つも訪れているのだが、残念ながら実物の辰砂を目にしたことはなかった。

 それが昨日、曾禰村の山中で見つけたのだ。その数日前、鉱物に詳しい人に「どこに行けば辰砂と出会えますかね」と尋ねたところだったので、この偶然の発見には驚いた。曾禰の地も、最近、頻繁に訪れている室生火山帯の中にあり、1500万年前の大噴火の影響を受けた、この世離れした土地である。だからこの地で辰砂と出会えても不思議ではない。

 

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曽爾村

 狐といい、辰砂といい、きっと何かのご縁なのだろう。

 前回のブログ記事で、古代、水銀がいかに大切にされたかを書いたが、歴史に多少興味がある人は、「丹」といえば水銀であり、全国にある「丹」という場所は水銀の産地で丹生都比売は水銀の神様だと認識している。

 確かに丹という地の多くは水銀の産出地と重なっているが、だからといって、その地を水銀だけの産出地とみなしたり、丹生都比売神を水銀の神様に限定してしまうのはどうだろうか?

 丹の場所や丹の神様は神話の中の歴史の転換期で重要な役割を果たしている。

 たとえば神武天皇は、東征の最後、大和入りの前に丹生川上神社で戦勝を占い、神功皇后三韓遠征の前、丹生都比売の神託を受け、その通りにすることで勝利を収めた。

 水銀は大地の激しい活動があったところに鉱床があるので、水銀の鉱床のあるところには他の貴金属も眠っている。なので、地面に硫化水銀の鮮やかな赤が露頭しているところは豊かな鉱脈の目印になった可能性がある。

 もちろん硫化水銀の赤色が神聖なものとして重んじられたのは間違いないが、水銀という金属は、金、銀、銅、鉄などの他の金属と違って、それ自体が何かに使われるというよりは、岩石の中から金や銀を取り出す精錬工程において必要不可欠なものだった。

 つまり水銀は、他の価値あるものが存在する目印になったり、その価値を引き出す性質があり、そうした導きの性質が重要な神託を告げる神を創造させたのかもしれない。

 硫化水銀の赤が象徴する血液にしても、体内を巡り、細胞に栄養分を運搬し、老廃物を運び出すという媒質であり、その存在の本質は、水銀と同じく媒介者的なものだ。

 丹生都比売神が示しているものは、単なる水銀を供給する神ということではなく、水銀に象徴されるような、物事の価値を引き出し、バランスを整え、生かすうえで欠かせない媒介者。新しいものを創造する作家ではなく編集者のような存在。

 日本各地で丹のつく土地に必ずといっていいほど空海の伝承がある。その空海は、日本の精神史における最高峰の巨人であるが、空海自体も、新しい物語や思想を創り出した人ではない。

 空海は、唐の恵果和尚から密教の正当の継承者として認められたわけで、空海密教を創造したわけではない。空海が広めた密教に欠かせない修験道にしても空海の百年前に役小角が創り出したとされているし、伝承の中で空海が行ったとされる数々の社会事業も、行基が百年前に行っている。

 空海のすごいところは、先人たちが創り出した叡智を誰よりも深く理解し、自分のものとし、自在に組み合わせ、時代の状況に応じて編集し、使いこなせたことなのだ。

 空海は、最澄のような学者タイプではなく実践的編集者であったから、行動力も逞しかった。

 恵果和尚は、空海とは半年しか接していないが、空海の資質を見抜いた。

 経典を通じて一生懸命に仏教のことを理解しようと机に向かっていた最澄は、密教の真髄を理解できていなかったが、その理由は唐での滞在期間が短かったからではない。

 学校の教科書では平安初期に活躍した僧侶として、空海最澄と同等に扱われるが、最澄は一人の偉大な僧侶だが、空海は神と同格に崇められている。

 空海が築いた高野山は、信者からは今も空海が生きて瞑想を続けていると信じられて、1200年にわたって、空海に食事を運ぶ生身供(しょうじんぐ)が欠かすことなく行われている真の聖地である。

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高野山 奥の院戦国大名など無数の墓が並び、この最奥が空海廟。

 一方、最澄延暦寺を築いた比叡山は、歴史上、法然道元親鸞など日本史を代表する僧侶を生んだという位置づけで評価されているが、実際は、法然道元親鸞も、比叡山で短期間だけ修行したが、得られるものは無いと見切りをつけて下山して、別の道を歩んでいる。

 さらに、比叡山天台宗は、早い段階で山門派と寺門派に分裂した。寺門派は、空海の姪の子供である円珍を開祖とし、比叡山を去って、現在の三井寺園城寺滋賀県大津市)を拠点として活動する。

 天台宗の山門派と寺門派を分かつもの、そして最澄空海を分かつもの、それが修験道である。

 三井寺は、琵琶湖を望む低地にあるが、その背後の如意ヶ岳や大文字の送り火で知られる大文字の山頂付近に大寺院の跡が残されており、そのあたりが天台宗寺門派修験道の修行の場だった。

 空海天台宗の寺門派も、修験道をもっとも重んじていた。

 平安時代初期、空海最澄の志は同じだった。奈良時代、仏教が一部の特権階級の人たちの心の平安のため、そして国家鎮護の道具となり、仏教徒は、現代の多くの大学教授のように経典を研究する存在でしかなかった。当時の寺院は現在の大学である。

 そういう状況に対する宗教革命、仏教は万人を救うものでなければならないという志をもつ最澄空海最澄は、それまで別々の大寺院で別々に研究されていた仏教経典の教義を統合する形で天台宗を創造しようとした。いわゆる、円、禅、戒、密であるが、円というのは法華、戒というのは戒律、密というのは密教。すなわち、法華経の教え、戒律(修行を行う上で、守るべき規範=律宗)、禅の実践、それに密教の4つの統合が目指されていた。

 しかし、ここで問題となったのが密教である。最澄は、密教の真髄がわからなかったため、空海にその伝授を依頼する。しかし密教が、実践的な厳しい修行を通じて言葉を超えたところで得られる境地であるのにも関わらず、最澄は、修行者というより学者的な気質が強いのか、経典を通じて密教を理解しようとして空海にその貸し出しを依頼したが断られた。それならばと最澄は、自分の後継者と考えていた泰範にその役割を期待し空海の元に送り込んだが、泰範は、最澄との宗教上の見解の相違があると判断し、空海の元に残り、空海十大弟子の一人となった。そして空海高野山を開創するにあたっても、空海の弟子、実恵とともに奔走し、山にこもって草庵を構えた。

 一番信頼していた弟子が空海の元に去ったことで、最澄空海は決別することになるのだが、泰範の言う最澄との宗教上の見解の相違の一番のポイントは、密教を体得するための修行の在り方の違いで、そこに修験道が大きく関係している。

 空海最澄のように、円、禅、戒、密の統合を当然ながら意識していたが、この4つは並列ではなく、密によって束ねられるもの。それが空海を開祖とする真言宗の本質である。

 そして、密教は、修験の実践を通してのみ体得できるもので、最澄のように経典の学習によるものではない。秀才型の最澄には、その真理がわからなかった。

 空海は、若い頃から四国の山岳地帯に分け入り、修行を重ねていた。

 その修行とは、おそらく自分の心身と森羅万象を同化させることであっただろう。太陽の光を浴び、星や月を観続け、雨や風や雷でさえ心身にダイレクトに受け止め、植物のざわめきや風の匂いで天候の変化や動物たちの動きを事前に読み取る。

 修験は、そうした心身の実践活動であり、山深い地は、その修行に相応しい岩場や滝など、人間の潜在的意識に働きかけてくるものを豊富に備えていた。

 さらに空海は、霊感で掴みとった真理を、すぐれた構想力と表現力で指し示す能力を兼ね備えていた。

 人の苦しみは、たとえば生と死など、本来は一のものを意識分別によって二分化することで生じる。この分化を消失させることは、即、救済である。

 空海は、『十住心論』で次のように説く。

 

九世を刹那に摂し、一念を多劫に舒(の)ぶ。一多相入し、理事相(あい)通ず。

 

 過去・現在・未来を貫くあらゆる時間は、この一瞬におさまっているから、一瞬の間に感じたことはすでに、多くの無限に等しい時間に展開していることになる。そのように一と多とが互いに融け入り、一である「理」と、多である「事」とは、互いに通じ合っている。

 森羅万象世界は、因と果を繰り返しながら生々流転している事物を媒介にして、たえず自らを形成している有機体的全体である。この世界においては、どれ一つをとっても、それだけで自存しているものはない。どれもみな他のすべてのものとの関係なしには自存できない。

 生きとし生けるもののいのちの極微から極大までが、互いに内となり外となって共生し、融通無碍の世界が広がっているが、それらと精神は一体である。

 物質と生命と意識とが織りなす世界がそのまま私たちの身であり、それは、ありのままの私たちの精神である。このありのままの精神においては、過去・未来・現在を貫くあらゆる時間が、一瞬の中におさまっているから、すべての時間を、一瞬の心が生きることになる。一と多が融け入っている状態は、因と果という分別も生じない。

  古事記の序文で、太安万侶が、

 

 この世界はものの形と質が分離していなくて、名前も行為も、形も存在しない。 

 

 と表現していることと意味するものは同じである。

 古事記序文では、「その後、陰陽が分かれて、黄泉と現世を出入りするようになる」と記述される。

 分別なき状態は、生も死も、一つのエネルギーの流れの変化の一つの相にすぎない。

  空海は、そうした万物の真理を深く理解していたが、最澄はそうではなかった。

 たとえば最澄は、奈良の南都六宗の僧侶とは宗教観の違いから激しく論争し、対立した。そして、比叡山天台宗を、奈良の東大寺に変わって国家仏教の中心に位置付けたかった。最澄は、白か黒、正か誤、新か旧、正当か否かという違いにこだわった。

 それに対して空海が開いた高野山は、血液循環システムの中心の心臓のようなもので、この地から密教の教えが各地へと行き渡っていくことが目指されていたが、他と優劣を競うような世俗的な場ではなかった。そして、最澄が特に意識していた東大寺に関して、空海は、国家のためにという大義華厳宗の寺である東大寺の宗派の違いを無化してしまい、密教の潅頂(かんじょう)の場にしてしまった。

 灌頂とは、密教の最高秘儀で、師匠から弟子に法を授けるため香水(こうずい)を受者の頭に注ぐこと。もともとは、国王の即位式で行われたものが密教に取り入れられた。

 空海は、東大寺において、「薬子の乱」で嵯峨天皇との政争に敗れて出家した平城上皇灌頂を行った。

 これは、国家の中心が奈良から京都へ移った後における国家仏教の要としての東大寺復権であり、東大寺にとっても有難いことであったが、華厳宗の寺である東大寺密教化でもあった。

 有名な東大寺の大仏は、華厳宗の仏である盧舎那仏で、これは釈迦の悟りの境地を仏格化したものだが、東大寺密教化によって、この大仏は、形は違えど大日如来と同じということになった。本来、密教のなかでの大日如来は、すべての仏、菩薩、明王天部神たちの中心の存在であり、それに対して盧舎那仏は、様々な仏たちの一つであるから、大日如来と盧舎那大仏が同じということではない。

 空海は、最澄と違って融通無碍であり、東大寺と対立するのではなく、その中に入り込み、東大寺を国家仏教の中心へと復権させると同時に、まさに一である「理」と、多である「事」を一瞬にして融け合わせ、何の軋轢もなく東大寺密教化が成された。これが空海の大きさである。

 東大寺の大仏を見学に行けば、この盧舎那仏様は大日如来様と同じですと説明されても、その根拠や背景に何があるかは説明されない。説明されないほど常識化させてしまったのは空海である。

 空海は、天皇や朝廷という国家権力の中枢に関わりをもちながら、その権謀術数の渦に巻き込まれることなく、そららを超越し、同時に世俗の争いに巻き込まれる権力者たちを自らの密教世界に引き入れて浄化した。

 源氏物語』のなかでも、六条御息所の生き霊を祓うために行われたのも密教の修法だが、言葉で説明しがたい密教の真理を、視覚的に体得するためのものが曼荼羅で、曼荼羅は、真理を顕現させるための壮大な編集物である。

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曼荼羅の隅々まで血液が行き渡っているかのように、丹の色が仏たちのあいだを埋めている。

 両界曼荼羅のうち胎蔵曼荼羅は、宇宙の構造を示すもので、如来、菩薩、明王、天部の無数の諸尊をそれぞれの役割に応じて位置付けており、その中心に大日如来が存在する。

 それぞれの諸尊は、大日如来の血液のような宇宙的エネルギーを受けて、それぞれの役割に応じて顕現化している。具体的には、中心から四つの方向があり、上方向(西)は真理があまねく広がっていくことを示し、ここに釈迦院が位置付けられ、大日如来の化身として出現した釈迦や、歴史上の釈迦の弟子などが並び、人々に真理を語りかける。

 そして右(北)が、普賢菩薩文殊菩薩で象徴される智慧。ここに金剛手院が位置しており、菩薩心を得るため、そして迷いを断つために必要な智慧と深く関係する。左(南)が、弥勒や観音で象徴される慈悲。ここに蓮華部院が位置付けられ、諸菩薩が清浄なる本来の心を悟らせる。下(東)方向は、般若菩薩や明王など煩悩を克服する力が示され、ここに持明院が位置付けられる。我を忘れた状態を諸明王が見抜き、人々の煩悩や妄執を根本から打ち砕く。これら四方へと広がっていく諸尊たちは、別々に区切られているわけでなく有機的につながり、さらにそこから無数の諸尊が派生している。

 両界曼荼羅のもう一つ金剛曼荼羅の方は、全体が9つの升の形で区切られているが、右上の理趣会(欲望など煩悩の升)を除いた全ての升の真ん中に大日如来が存在する。

 9つの升の真ん中の升が示す成身会を悟りの最高点とし、そこから下に降りて「の」の字を書くように渦巻き状に9つの升をたどる、もしくは全体の右端から逆の渦を描いて中心に至るダイナミズムが表されている。

 ど真ん中を悟りの状態とすると、全体の右下の升は教えに逆らった状態となるが、誰でもここから始まるのでとくに否定されない。右上の理趣会は欲望や煩悩などの状態だるが、これも生命の一つの段階として受容する。そして、ど真ん中の成身会から下に降りてから左側を上向きに進む部分の升は、それぞれ、衆生を救って悟りの世界へと導く智慧や慈愛のプロセスである。

 つまり、誰しも、教えを理解できず欲や煩悩にまみれた状態(右の升の並び)と、真理を体得して衆生を真理へと導く力(左の升の並び)が、渦の右回りか左回りになっているだけであり、すべての衆生は救われて悟りの境地へと至る可能性があるとともに、その教えを広める存在となる可能性がある。その生命流の媒質が大日如来ということである。

 特に胎蔵曼荼羅はわかりやすいが、大日如来は、心臓のように中心にあり、曼荼羅の隅々まで血液を送り込み、大日如来のエネルギーが全域をめぐるように遍在している。それぞれの仏群は、体内の器官のようなもので、器官は血液が流れてこなければ機能しない。それぞれの仏群が知恵や慈悲や布教や煩悩の克服という言葉で表される様々な役割を果たせるのは、大日如来が心臓のような血液循環系の中枢器官として身体の隅々とつながって、ひたすら新鮮な血液を送り出すとともに汚れた血液を受け入れては浄化し、さらに循環させる働きを続けているからだ。

 曼荼羅世界においては、生成と変節と死滅はひとつながり、清も濁もひとつながりで、ひたすらめぐっているだけである。

 話は変わるが、古代人は、文身(いれずみ)をしていた。縄文時代土偶にも文身を思わせる文様が描かれている。

 その文身は、硫化水銀の朱色を使って描かれることが多かった。

 文という古代文字は、人形の心臓部分に❌の印がつけられている。

 文章は、単なる情報伝達の手段ではなく、心臓というポンプを通じて全身にめぐる血液循環系のようなものである。

 水銀は、なぜ丹という漢字で表されるのか。 

 丹は、”たん”と発音する。”たん”は、誕であり、旦は、太陽が地平線に現れる時をさす。子宮や闇というあちら側から現れることが、”たん”である。

 なので、天の岩戸から出てくるアマテラス大神も”たん”ということになる。

 丹生都比売神社において、丹生都比売大神は、別名が稚日女尊(わかひるめのみこと)であり、アマテラス大神の妹神であるとしている。

日本書紀」では、稚日女尊が神衣を織っていたとき、スサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込み、驚いた稚日女尊は機から落ちて亡くなってしまい、それを知ったアマテラス大神は岩戸に隠れてしまったという物語になる。

 丹生都比売大神の死が、アマテラス大神の岩戸隠れのきっかけということである。

 丹生都比売大神は、単なる水銀鉱床の神ではなく、水銀の媒質的な性質と関係しているように思われる。体内を巡る血液のように、そして岩石から金や銀を引き出すように。すなわち、エネルギーが伝播する場である。

 丹という地名が残るところも、歴史的にそのような役割を果たしていたのだろう。

 そして空海もまた、偉大なる媒質であり、丹生の地に必ず空海伝承があるのも、きっとそのためであろう。

 

(つづく)

 

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第1104回 日本の古層vol.2 祟りの正体。時代の転換期と鬼(7)

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赤目四十八滝 【布曳滝】

 修験道の祖とされるのは、役小角634年-701年)であり、空海(774-835)より100年ほど前の時代を生きたとされる。役小角は、聖徳太子蘇我氏の時代から大化の改新白村江の戦いなどを経て天智天皇の時代となり、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代に至る日本の大きな歴史的転換期を生きたことになる。

 仏教が本格的に国家の中心となるのは奈良時代だが、その前に日本独自の仏教である修験道が始まっているのが興味深い。

 仏教がまだ未整備だった時代ゆえに、修験道には、新しく大陸から入ってきた仏教と古代から続く日本の山岳宗教が深く融合している。

 唐に渡った空海が、わずか半年しか恵果和尚に師事していないのに仏教の本場である中国の僧侶たち以上に評価され、密教の正当な継承者と認められたのは、当時の唐で最先端仏教とされていた密教が、日本古来の山岳宗教に通じるものがあったからだろう。空海は、10代の頃から、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことで、すでに密教の真理を体得するための「験力」を備えていたのだろうと思われる。

 日本の山岳地帯は、地球の深いところでマグマが冷えて固まった花崗岩などの火成岩と、火山噴火によって外に流れ出た溶岩が冷えて固まった玄武岩などの火山岩が複雑に織りなしている。それは、四つのプレートの圧力による隆起や、その圧力による地下活動の活性化による火山噴火などが、世界の中でもっとも集中した地域であるからだ。

 とくに近畿地方の中央部、宇陀や吉野から熊野にかけては、1500万年前、日本列島の西日本が大陸から引き剥がされる時の凄まじいエネルギーと、その後の悠久の時を経た風化や水の侵食で形成された、スケールが大きく変化に富んだ驚異的な光景を見ることができる。

 アメリカのグラウンドキャニオンなど雄大な風景は地球上にたくさん存在するが、吉野から熊野にかけてのように、歩き回れる狭い範囲において、繊細かつダイナミックで多彩な変化が絶えず連続する場所は、そんなにはない。

 役小角が日本独自の仏である蔵王権現を吉野の金峯寺山で創造したのは、この周辺の自然環境とは無縁ではないだろう。

 蔵王権現は、、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括しているとされ、仏教的には、釈迦如来と千手観音と普賢菩薩の合体を意味し、これ一つだけで、過去、現在、未来を救済する。つまり、古代から八百万の神が存在していた日本に、突然、全てを包括する絶対神が登場したようなものだ。

 日本古来の山岳信仰は,山そのものを御神体として祀ったり、神の降臨地として、もしくは神々の鎮まる霊地として山麓の住民たちに崇められた。これらの地の奇岩・滝・泉などは、修験道という信仰形態が生まれる前から神霊の宿る地として人々によって崇められていた。

 それらの山岳地帯に入り込んで修行することによって山の神の力を体得し,それを元に呪術宗教的な活動をしていた人たちもいた。それが後に入ってきた仏教の成仏観を取り入れて、衆生の救済を目指す修験道として体系が整えられていく。

 この流れは、飛鳥時代役小角から奈良時代行基、そして平安時代空海へと受け継がれていく。

 そして、彼岸と此岸の境界である山岳において修行する修験者は、境界的な性格を持つ存在としても捉えられており、山伏を天狗として怖れる信仰もあった。さらに、修験霊山には鬼の子孫と称する者もいた。

 役小角が従えていたは善童鬼(ぜんどうき)と妙童鬼(みょうどうき)という鬼は、修験道における役小角の弟子とされる。元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた。役小角は、彼らを不動明王の秘法で捕縛した。あるいは、彼らの5人の子供の末子を鉄釜に隠し、彼らに子供を殺された親の悲しみを訴えた。2人は改心し、役小角に従うようになった。

 全国に残る鬼退治の伝承は、この役小角の物語のように、もともとは山の中で山の恩恵を受け、鉱山開発を行ったり古来からの山岳宗教に基づいて暮らしていた人たちと、里に住んで農業を営んでいる人たちのあいだで起きた軋轢がもとになっているものもあるだろう。たとえば鉄穴流しという山を切り崩して砂鉄をとる作業は、大量の土砂を里に流し、田畑にダメージを与える。

 役小角が起こした修験道は、伝来した仏教の精神を取り込んで衆生の救済を目指すものであったから、山と里の軋轢をなくすための活動も含まれていたのではないか。

 役小角の精神を受け継ぐように登場した行基は、後に聖武天皇によって日本初の大僧正となり、東大寺および大仏建造の最高責任者となるが、それまでは弾圧を受けながらも各地で仏教を布教し、その教えを広める学校、橋、ため池など公共工事に取り組み、民衆の心をつかんだ。その行基を守り、活動を支援したのが修験道者であった。

 役小角行基の活動の後を受け継いだのが空海である。

 室生龍穴神社から東北5kmほどのところに赤目四十八滝がある。

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赤目四十八滝 【荷担滝】

 室生龍穴の前を流れる室生川も、赤目の地を流れる滝川も宇陀川に流れ込み、名張川と合流し、木津川につながり淀川となって大阪湾へと注ぐ。室生龍穴も、龍が棲むとされる赤目も、淀川の源流である。

 赤目の入山口、黄龍山延寿院がある。ここに安置されている赤目不動尊は、日本不動三体仏の一つに数えられている。

 赤目四十八滝から山を一つ越えた竜口という里には、伊賀流忍術の開祖、百地三太夫の生家がある。

 赤目の長さ4kmにわたる深山幽谷の地は、数々の瀑布が龍のように躍動し、龍が棲むと言われる底知れぬ深い澤もあり、周辺の峻険な岩壁や巨岩などともに多彩で繊細でありながらダイナミックな光景が続き、まさに万物の生々流転の縮図である。

 その地勢ゆえに、ここは古より山岳信仰の聖地であった。とくに修験道者達の行場であったためか、主たる滝は、行者滝、霊蛇滝、不動滝、大日滝、千手滝など、仏教の因んだ名が多く、赤目の地全体で大日如来を中心とする曼荼羅図にも見立てられている。

 また、赤目四十八滝の48は、阿弥陀如来48願からつけられたとも言われている。  

 空海、この赤目山中の護摩窟で護摩を修したと言われ、この妖気漂う窟に、空海の像が祀られている。

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赤目四十八滝 【骸骨滝】

 赤目の由来は、役小角が修行中に赤い目の牛に乗った不動明王に出会ったとの言い伝えにあるとされるが、それとは別に、赤目の地は岩肌の赤いところが多い。古代は、辰砂(硫化水銀)や赤鉄鉱、褐鉄鉱が、ふんだんに存在していたかもしれない。

 というのは、この赤目の地は、吉野と同じく1500万年前の大爆発によってできた地勢であり、日本国内でも最も豊かな鉱脈が集中している場所に位置しているとともに、地図上の赤目の位置が、かなり意味深なものに思われるからだ。

 赤目四十八滝の入り口に位置する黄龍延寿院は、東経136.085だが、その真北に線を伸ばすと、紫香楽宮、東近江の鏡山、敦賀気比神宮である。

 鏡山の山頂には竜王社と貴船神社が鎮座し、麓には渡来系の天日槍を祀る鏡神社があり、周辺は鍛治と関わりの深いところである。そして、気比神宮が鎮座する前の海岸は、笙の川が運んできた辰砂(硫化水銀)の堆積した場所であったことが、松田壽男氏の研究でわかっている。

 そして赤目八滝の上流側、真南のところに聳えているのが高見山で、関西のマッターホルンと言われる秀麗な山は、ちょうど中央構造線上に位置し、その頂上には、神武天皇東征の際、この場所で四方を見たといわれる「国見岩」や、道案内を勤めた八咫烏を祀る高角神社がある。

 その南が、大台ケ原で、この場所と弥山、大峰山を結ぶ三角形が、空海をはじめ、修験者たちが厳しい修行を重ねてきた聖域である。

 さらに真南には、熊野市の花の窟神社が鎮座し、ここにイザナミカグツチが祀られている。

 貴船神社や室生龍穴神社の神、龗の神(おかみの神)=龍神をはじめ、火の神カグツチの誕生とイザナミの死の物語は、水銀をはじめとする鉱物資源との関わりが非常に深い。

 その花の窟神社を真西に行くと(北緯33.88)、龍神村安倍晴明社がある。この龍神村龍神温泉は、日本三美人湯とされるが、役小角が発見し、空海が開湯したとされる。空海が訪れた時、難蛇竜王が夢に出てきて、温泉場として開湯したそうだ。

 また、安倍晴明が妖怪を封じたとされる「猫又の滝」などの伝承が残っているほか、隕石が落ちた場所とされる星神社もある。いずれにしろ、村の真ん中を流れるのは丹生ノ川であり、丹と関係の深い土地であると想像できる。

 この龍神村から真西に行くと、和歌山県日高町の丹生神社であり、日高町は、熊野古道の要所で熊野参詣のために多くの人々が訪れた。九十九王子といわれ、皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で組織された一群の神社があるが、この日高町に4つ鎮座している。

 そしてこの日高町からさらに真西に行くと、徳島の阿南の若杉山遺跡である。2019年3月、この場所にある水銀坑道が1〜3世紀の弥生時代のものであることが判明して歴史家たちを驚かせた。日本の鉱山の歴史が500年も遡ったからだ。

 現時点で日本最古とされる徳島の阿南の水銀の坑道のある場所が、近畿の鉱物と関係の深い聖域とラインで結ばれているのは偶然なのだろうか。

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上から気比神宮、鏡山、紫香楽宮赤目四十八滝の入り口の延寿院、高見山、大台ケ原、花の窟神社。ここから西に行くと、丹生川沿いの龍神村安倍晴明社、熊野参詣の拠点、日高町の丹生神社、四国の若杉山の水銀鉱山。その上の東西ラインは、西から高野山、天河弁財天社。

 

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