第1144回 邪馬台国とは何か? 日の本、阿蘇山と富士山をつなぐもの。

 

 女王卑弥呼邪馬台国がどこにあったかというのは、いつになっても多くの人の関心を集める。

 邪馬台国があったのは近畿か九州かという議論は、長く続いてきた。

 初期ヤマト王権が宮を築いた奈良盆地の纒向にある箸墓古墳は、今でも卑弥呼の古墳だと思っている人が多いし、木津川沿いの椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した時は、この場所こそが邪馬台国だと主張する人もいた。近年では、淡路や近江などで弥生時代の大規模な鍛治工房が発見され、さらに2年ほど前には、徳島の阿南にある古代の水銀鉱山が弥生時代のものであるとわかり、それは、これまでの日本の鉱山の歴史を一挙に500年も遡らせ、邪馬台国のお国自慢が1箇所増えた。

 九州や近畿に限らず、日本全土から出土する弥生時代の遺物は、これまでの弥生時代のイメージを覆すほど、かなりの先進性を伝えている。少し前までは、日本の鉱山は奈良時代が最古で、それまでの時代は、鉄をはじめとする金属は輸入に頼り、日本国内でそれを加工する程度だったとされていたが、そうした歴史学者の設定だと説明つかない規模の金属製品が、日本中から出土している。

 もはや、はっきりとしていることは、弥生時代の先進地域は、九州と畿内に限らないということだ。そして、弥生時代以降、金属の武器も大量に作られたわけだから、争いも激化しただろう。

 肝心なことは、中国の歴史書に残る卑弥呼邪馬台国というのは、そうした争いを勝ち抜いて全てを統一した国ではないということ。

 弥生時代に、九州か畿内にあった国が日本全土を侵略して巨大な国を治める野心を持っていたとは、とても思えない。いったんは侵略することができても、それを維持管理することは大変だ。山や谷が多い日本は、地形が複雑で、地図で見るよりも広大な世界なのだから。

 九州、畿内、東国などの地域において、小さなクニに分かれて頻繁に争いが繰り返されていたことは十分に想像できる。死者も多く出て、クニは荒れるわけだから、いかにして争いを減らし、お互いに連合できるかを真剣に考えた人物はいただろう。その人たちが集まって、一つの秩序的な形を作り上げた。それが、倭国大乱の後の卑弥呼邪馬台国なのだろうと思う。女性の巫女を中心に置くことで、クニとクニが連合する新たなシステムが整えられた。

 それが、たとえどこかローカルな場所に限定される出来事であったとしても、中国の歴史書に記録が残ったことは、後世において大きな意味を持った。

 一つの集団が新しい秩序的世界を作ろうとする時、周りのものたちへの説得力を強めるために、その正当性を示す必要がある。これは、中国の長い歴史においても繰り返し行われてきたことだ。

 中国の場合、古くは秦の始皇帝の時から日清戦争の清に至るまで、ほとんどの統一王朝が、西や北からの騎馬遊牧民の侵攻によるものだが、それらの勢力は、自らの系譜を、古代中国の夏や殷や周につなげようとした。そして、賢人は、古代国の治世を理想的なものとして崇めた。

 夏や殷や周などは中国大陸のごく一部だけを治めていただけで、他の地域では他の勢力が凌ぎを削っていたが、中国王朝の歴史の中に、夏や殷や周の記憶が特別に深く刻まれた。それは、やはり、文字による記録がしっかりと残されていたということが大きい。

 日本の邪馬台国の場合も、これと同じだと思う。

 日本の歴史において、邪馬台国がどこにあったかということが、現代の我々が想像している以上に大きな意味を持つ時代があった。

 それは6世紀から7世紀、第26代継体天皇から飛鳥時代にかけてだった。この時代は、朝鮮半島において、高句麗の南下や、新羅の勢力が拡大するなど日本の周辺が緊張を孕んでいた。日本から朝鮮半島への出兵は、それまでは1000人程度だったのに、6世紀になって同盟国の百済などから派兵が求められ、継体天皇の21年には、6万人が筑紫まで行ったと記録されている。

 日本もまた、この時期、一つのまとまった国として朝鮮半島や中国に対応しなければならないという状況になっていたのではと思われる。

 その時に、急遽、天皇に即位することになったのが、北陸の豪族で、尾張の海人たちと連合していた継体天皇だった。

 当時、中国や朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて、政治や軍事においても重要な役割を果たすようになってきており、日本は、国としてのアイデンティティを再構築する必要があったのではないかと思われる。

 卑弥呼の時代は、邪馬台国がどこにあったとしても、それとは関係なく日本各地で様々な勢力が凌ぎを削っていたことが考古学的にも証明されている。

 しかし、卑弥呼邪馬台国は、倭国の中心であると中国が記録に残したところであり、その継承者であるということは、新しいリーダーたちにとってはとても大事なことであった。

 古墳中期の大古墳の世紀が終わり、5世紀後半から6世紀にかけて、畿内の有力な豪族が拠点とする地域で、古墳の内部に奇妙な変化が起こる。それまでの代表的な棺であった長持形石棺とは形も材質も違う新しい棺が登場するのだ。阿蘇のピンク石を使った家形石棺である。

 それまで、兵庫県加古川の竜山石や、奈良県葛城市と大阪府太子町のあいだの二上山の凝灰岩など、畿内の石が有力者の古墳の石棺として切り出されていたが、遠く離れた阿蘇の地から、わざわざ巨岩を運んできた。

 このことについては、第1139回のブログで、古代の復活をテーマに記事を書いた

 高槻の継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の阿蘇のピンク石の石棺は、わりと多くの人に知られているが、それ以外に、物部氏、大伴氏、阿部氏など、6世紀以降、重要な役割を果たした豪族の拠点とする場所の古墳が阿蘇のピンク石の石棺を使っており、畿内で10箇所が発見されている。しかも、奈良市天理市桜井市橿原市藤井寺市羽曳野市と、ぐるりと奈良盆地を取り囲む重要な拠点に配置され、さらに、琵琶湖の水上交通の要衝である三上山の麓、日本最大の銅鐸が出土したところの2つの古墳もそうだ。阿蘇のピンク石の石棺は、これ以外、吉備に2つほど見つかっているだけで、6世紀頃の近畿の主要勢力と関係ある石棺ということになる。

 6世紀のはじめに即位した第26代継体天皇は、第16代仁徳天皇から第25代武烈天皇までとは血がつながっていない。

 武烈天皇が子供を残さなかったので、大伴金村物部麁鹿火が、過去に遡って第15代応神天皇の血を受け継いでいるのではないかという理由で見つけてきた豪族が継体天皇だ。そして、継体天皇は、即位した後も20年もの間ヤマトの地には入らず、クズハ(現在の枚方市)、ツツギ(京田辺市の甘南備山の麓)、オトクニ(向日市)など、淀川から木津川の河川近くに宮を築き、死後も、奈良ではなく、淀川近くの今城塚古墳に葬られた。

 このことについて、通説では、新しく天皇となった継体天皇が、旧勢力が多く残る奈良の地を警戒したからとされているが、阿蘇のピンク石の石棺の配置でもわかるように、高槻と、畿内の重要な拠点はネットワークが形成されており、高槻の周辺の三島地域が、琵琶湖と瀬戸内海と奈良盆地からちょうど等距離にあり、淀川、木津川、宇治川桂川の河川交通を有効に使える場所で、それが、国のまとまりと、外敵に備えるうえで最適だったと考えた方が自然だ。

 そして、阿蘇のピンク石の石室で結びついているからといって、当時の有力者が九州出身だったということではなく、中国の歴史書に記された邪馬台国が九州の阿蘇の地だという共通認識を彼らが持っていて、それを統一のアイデンティティにしたのではないかと思われる。邪馬台国の時代は、彼らの時代とは300年ほどしか違わないし、中国から多くの知識人が渡来している状況でもあり、邪馬台国の情報を共有することはさほど難しくはなかっただろう。

 阿蘇のピンク石は、有明海側の宇土の馬門というところに石切場が残っており、そこから船で畿内へと運ばれたと考えられている。

 宇土の馬門の真東には、阿蘇山の近く、日神を祀る幣立神宮がある。その東西のライン上に沈目遺跡があって、3万年前の日本最古の石器が出ている。

 阿蘇山から西の平野には、数多くの古代の史跡が発見されている。

 ただ、こうした古い遺跡は、日本国中、至るところにあるので、ここが邪馬台国だと決める理由にはならない。

 邪馬台国論争をする人たちのあいだで、混迷の原因になっているのが、魏志倭人伝に残された邪馬台国までの道程だ。

 書かれた道程をそのまま当てはめると、どんどん南になって南洋諸島になってしまうという人もいたり、近畿こそが邪馬台国だと主張する人は、南ではなく、東の書き間違いだとしている。

 この道程の記述に関しては、その距離や日数を単純に足していくと、南洋諸島になってしまうけれど、戦後、東京大学榎一雄氏が発表した興味深い説があり、それは伊都国を中心にして、そこから放射線状に各地域のことを記載しているというものだ。確かに、魏志倭人伝の文章を見ても、この説が妥当ではないかという気がする。その内容は、以下のようになっている。

 

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。

また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。

また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。四千余戸ある。

 

ここまでの文章は、「また南に」、「また一海をわたる」と、”また”という言葉がついているので、その距離を足していけばいい。

しかし、次からは、”また” という言葉がなくなる。 

 

東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。

東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里

南の投馬国に行くには水行二十日。

南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。女王が都とするところで、水行十日・陸行一月

 

 これは見ると、邪馬台国や投馬国は、伊都国からの距離や日数で示しているようにも見えるし、伊都国の前の末廬国からの距離や日数で示しているようにも読める。ただ、末廬国は佐賀で、伊都国は福岡とされるので、いずれにしろ、九州の北だ。

 九州の北から邪馬台国まで「水行十日・陸行一月」となるが、 これは、南に船だと10日だが、陸路ならば1ヶ月ということだろう。

 投馬国の場合は、船で20日。陸行の記述はない。おそらく陸路だと困難な場所だからで、それは霧島など高い峰々を超えていかなければならないからだ。

 そうすると、北九州から、投馬国までの距離の半分が邪馬台国ということになる。そして、投馬国は、「官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という」と説明されている。つまり、ミミの人たちが治めているということで、ミミというのは、谷川健一氏が指摘しているように南洋系の航海を得意とする人たちであり、日本各地にその足跡を見ることができるが、鹿児島の大隅半島薩摩半島を拠点とする人々だと思われる。

 そうすると、北九州と鹿児島のあいだが邪馬台国ということになり、阿蘇山周辺がちょうどいい。

 熊本と宮崎のどちらかという細かな議論は専門家に任せるが、邪馬台国阿蘇山が、特別な意味を持つ関係であるのは間違いないだろうと思う。

 そして、歴史認識や神話解釈において間違いやすいポイントが、邪馬台国が九州なら、九州の王権が東に進んでいって近畿を征服したのか、という話になるやすいことだ。

 事実、神武天皇の東征など、そういう物語になっているし、天孫降臨の場所が九州の高千穂なら、そこが日本国家のルーツで、天孫降臨というのは渡来人で、渡来人の国がそこにあったのか、という話になる。

 しかし、そうではなく、6世紀の新国家にとって、自分たちが正当であるというアイデンティティが必要で、そのアイデンティティの獲得のために、中国の歴史書に記録が残っている邪馬台国の存在が重要だった。それは、阿蘇の地の邪馬台国だった。だから、その史実と自分たちを結びつける神話を構築した。さらに、阿蘇のピンク石の石棺は、古来から続いている政権であるというアイデンティティを共有するシンボルになった。

 これは何も特殊なことではなく、日本に限らず、世界中の多くの地域で同じようなことが行われている。中国の歴代王朝でもそうだったが、わかりやすいのがエチオピアだ。

 エチオピアは北部アフリカ諸国のなかで、唯一、イスラム教の侵攻に耐えてキリスト教国家として存続し続けた国だ。キリスト教の求心力があったからこそ、イスラムの侵攻を防いだ後も、ヨーロッパ列強のアフリカ進出に対抗できた。イギリスやフランスは、アフリカの各地域を民族間で分断させ、その分断を利用して巧みに統治を進めて植民地化を行ったが、唯一、エチオピアだけは独立を守り通した。

 そのエチオピアは、イスラムの侵攻にさらされている時代、国の起源に関わる神話を創造した。エチオピアの起源が、紀元前1000年まで遡り、ソロモンとシバの女王の息子、メネリク1世にあるとするものだ。そして、メネリク一世が、エルサレムのソロモン王の宮殿にあった「失われたアーク」(モーセ十戒が刻まれた石版を収めたとされる契約の箱)をエチオピアの地に持ち帰ったする神話。失われたアークは、その後もアクスムのシオン・マリア教会の礼拝堂の中に大切に守られているということになっている。

 この神話を伝えているのは、13世紀に編纂されたエチオピアの歴史書「ケブラ・ナガスト」なのだが、当時は、イスラム世界の猛攻を受けている時期だった。

 実際にエチオピアキリスト教が伝わったのは、エチオピアの北部にあたるエジプトのコプト教を通してであり、それはローマ時代後期のこと。当然ながら紀元前1000年のソロモンの時代ではない。

 しかし、エチオピア人は、シバとソロモンの末裔と称する王によって一つにまとまり、イスラムの侵攻を防いだ。

 この「失われたアーク」は、ふだんは見ることができないが、年に一度のティムカットの祭りの時に、神輿に担がれて人々の前に姿を表すなどという間違った情報も出ているが、祭りの時に出てくるのは、エチオピア各地の教会に大切に保管されている失われたアークのコピーである。コピーであることは、エチオピア人も了解している。しかし、そのコピーは、本物がアクスムにあると信じられているからこそ、意味のあるコピーなのだ。

 本物の「失われたアーク」が、実際にエチオピアアクスムにあるかどうかは、本当は誰も知らない。しかし、そこにあると信じられたうえでコピーが作られ、そのコピーが各地の教会に置かれ、それらの教会が各地の人々の求心力になっているという構造がある。

 20年ほど前、私がエチオピアを訪れた時、不謹慎な質問でも大丈夫だという人物に、もしも研究調査で、アクスムのシオン・マリア教会に「失われたアーク」がないとわかったらどうなるか? と聞いたら、青ざめた顔で、そんなことになったら、一挙に国民のアイデンティティが失われ、国は崩壊すると言っていた。

 白か黒かはっきり決着をつけることが科学の進歩だと信じている人は多いが、グレーのままだから守られている秩序もある。エチオピアという国は、そのようにして、神の力で守られてきた。

 このエチオピアの神話作りは、日本の6世紀から7世紀の状況と共通するところがある。

 当時のリーダー達は、中国の歴史書に書かれた邪馬台国がどこだったのかを知っていた。

 だから、その時点では畿内を中心に国を一つにまとめる努力がなされていたが、自分たちのルーツを九州にして、九州を起点にするような神話世界を構築した。

 そして、国をまとめていく時には男の力が必要だとしても、その後、男同士のエゴで乱れた場合は、女王を国の中心にした方が治るという教訓も、邪馬台国から受け継いでいた。

 6世紀から7世紀を俯瞰してみると、邪馬台国と同じような皇位継承が行われている。

 継体天皇の孫にあたる女帝の推古天皇が即位したとされるのが593年。その直前、前回のブログで書いたように、海部氏の力を背景に穴穂部皇子の横暴があり、穴穂部皇子物部氏と組んで国が二分された。崇峻天皇にも、不穏な動きがあった。

 その2人が蘇我馬子に殺害されて擁立されたのが推古天皇であり、推古天皇は39歳という高齢で即位し、35年もの長きにわたり国の治めている。そのあいだに、冠位12階や17条憲法などが、次々に制定された。そして、推古天皇のもと、後世に横暴だと烙印をおされた蘇我馬子を含む豪族たちの勢力の均衡は保たれていた。

 推古天皇の後、男の舒明天皇皇位を継ぐが、それとほぼ同時に他の男性と結婚していた宝姫王(後の皇極天皇斉明天皇)が、37歳という高齢で舒明天皇の皇后になる。

 そして、現代でも高齢出産で大変な年齢なのに、天智天皇天武天皇、間人皇女を産んだことになっていて、在位12年で舒明天皇が亡くなった時、49歳という高齢で天皇になる。再びの女帝だ。

 その後、大化の改新乙巳の変)が起こり、皇極天皇は、史上初めて譲位を行ない、皇極天皇とは同父同母である弟の孝徳天皇が即位するが、その孝徳天皇が9年後に亡くなると、皇極天皇は、61歳で再び斉明天皇として皇位に復活する。

 その女帝の斉明天皇が亡くなったのが661年。推古天皇の即位から斉明天皇が亡くなるまでの68年のあいだの男帝は、舒明天皇在位が12年、孝徳天皇が9年にすぎない。

 この傾向は、古事記日本書紀が書かれた奈良時代まで続く。

 女帝の斉明天皇の後、天智天皇の在位はわずか4年で、その後、壬申の乱をはさんで天武天皇が即位して13年。そこからまた女帝の持統天皇が7年、男の文武天皇が10年の後、女帝の元明天皇が8年、その娘の元正天皇が9年。次の男の聖武天皇は25年(実際は光明皇后の影響が大きかった)だが、その後にまた女帝の孝謙天皇が9年、男の淳仁天皇(女帝の孝謙天皇上皇として権限を持ち、淳仁天皇は実質的な力がなかった)が6年、淳仁天皇が淡路に流されて、孝謙天皇が再び称徳天皇として復活して6年。

 推古天皇が即位した593年から称徳天皇が亡くなる770年までは177年だが、そのうち女帝の期間が86年、男は79年。女帝が8代、男帝は7代だが、孝徳天皇淳仁天皇などは権限を持たせてもらっておらず、実質的に国のトップといえる男の天皇は、天智天皇天武天皇の2人に、聖武天皇を加えるかどうかという程度だ。

 現在、今上天皇 徳仁に男の子供がいないということだけで、世継ぎがどうなるのかと議論になるが、過去に遡れば、当たり前のように女帝が続いていた。

 アマテラス大神というのは、日本人なら誰でも知っている太陽の女神で、皇祖神として崇められている。

 しかし、この太陽神は、古事記日本書紀で、描かれ方が異なる。

 古事記の方は、よく知られているように、イザナギが黄泉の国から帰った後、禊をしている時に生まれる。

 このアマテラス大神が生まれる時は、すでにイザナミは亡くなっている。

 それに対して日本書紀においては、イザナギイザナミが、山とか木とか草の神を産んだ後、天下を治めるものが必要なのではないかと判断して、大日孁貴(オオヒルメノムチ)という太陽神を産む。その後、月の神が生まれ、太陽神の支えになるだろうということで、この2神を天に送る。太陽神は、アマテラス神と表記されていない。

 その後、なぜか、古事記においては国生みで一番最初に生まれたものの不完全であったために流された蛭子が生まれ、さらにその後にスサノオが生まれるが、スサノオはその時点から我慢がきかず、いつも泣き喚いて、そのため人間は死んでしまい、青い山々は枯れ果てたので、イザナギイザナミは、根の国に追放する。

 そして、その後にカグツチが生まれるのだ。

 それからは、古事記と同じような展開となり、カグツチが生まれて全身が焼かれて死んだイザナミに会うために、イザナギが黄泉に行くが、醜く姿の変わったイザナミに恐れをなして地上へと逃げ帰り、穢れを落とすために禊をする。

 その時、左目を洗った時に天照大神が産まれる。

 イザナミイザナギが一緒に産んだ太陽神は、大日孁貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれたのに、イザナミが死んだ後、禊によって生まれた太陽神は、天照大神となっている。これが、私たちのよく知っている皇祖神、アマテラス大神だ。すると、太陽神は、イザナミの死の後、禊を通して別の名前で復活したことになる。

 これをどう解くか?

 私は、邪馬台国の時に、卑弥呼が祀っていた日神が、大日孁貴(オオヒルメノムチ)に該当するのではないかと思う。

 その後、九州に限らず日本各地で、カグツチイザナミの死で象徴される凄惨な事態となり、それはおそらく様々な地域で強力になった武器による戦乱を意味しているのだと思うが、その乱れた状況をとりあえず終結させたのが、6世紀の継体天皇以降の時代なのではないか。

 その時、かつて邪馬台国で祀られていた日神が、あらたに天照大神として復活した。元からあった太陽神ではなく、穢れを祓う禊を通して、新たに現れた太陽神のもとで国を一つにまとめ、新秩序を作り上げようとしたのだ。

 その努力は、もちろん継体天皇1人の力ではなく、継体天皇の子の欽明天皇や孫の推古天皇の時代にも引き継がれ、いくつかの混乱を経て、天武天皇の時代まで続けられたのかもしれない。

 日本という国名は、日の本(ひのもと)からきているが、そのことについて、一般的には「やまと」が日出ずる国だからと説明されるが、その程度の意味だろうか。

 中国に使者を送る時は、日が上るところからやってきました、ということで構わないが、中国との関係より大事なのは、日々、生きている国内のことだ。

 

 日の本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

                      (万葉集 巻3・319 作者不詳)

  (日本の大和の国の鎮護としてまします神よ。宝ともなっている山よ。駿河国の富士の高嶺は、見ても飽きないことだなあ。 )

 

”ひのもと”は、やまとの枕詞だ。大和の枕詞は、そらみつ、秋津島、敷島など他にもあるから、”ひのもと”という言葉を響かせて、大和ときて、神ときて、富士とくると、”ひのもと”の”ひ”は、火を連想させる。

 この歌の場合、火のもとの大和の国の鎮護の神は富士山だが、邪馬台国阿蘇山の関係も同じだ。やまとの鎮護の神は、火の山だった。

 どこまでが偶然で、どこまでが必然かはわからないが、阿蘇山と富士山を結ぶと、そのラインが、ちょうど現在の橿原神宮、初代神武天皇が最初の宮を築いたと神話に記されるところを通る。

 そして淡路島のすぐ南の沼島も通るが、ここは、オノコロ島の有力候補の一つだ。日本書紀によれば、イザナギイザナミは、最初に産んだオノコロ島に降り立って、ここを国中之柱(クニナカノミハシラ)とした。その後、イザナギは左に、イザナミは右に、柱をまわって出会ったところで陰陽を合わせ、まず初めに淡路島を産んだ。それは、吾恥(=アワジ)だった。*第1140回のブログで、「恥」と、神に奉斎する巫女の関係を書いた。

 イザナギイザナミは、アワジの後、オオヤマト、イヨ、ツクシ、オキノシマ、サドノシマ、コシノシマ、オオシマ、キビコジマと産み、この8つが、オオヤシマグニとされた。それ以外の、イキや、ツシマは、潮の泡や水の泡が固まってできた。(つまり、イザナギイザナミは直接関与していない)。

 不思議なのは、下のラインのように、オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。そして、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。これは、単なる偶然なのか必然なのか。

 この話は、イザナミイザナギが日本の国土を作ったというより、この神話が作られた時の国家、阿蘇と富士をつなぐアイデンティティを共有して連合する勢力の範囲を示しているのかもしれない。

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阿蘇山と富士山を結ぶライン上に、ヤマトの中心と、オノゴロ島候補の沼島が位置する。沼島は、阿蘇山と富士山のあいだ750kmのちょうど真ん中である。

 そして、機内のヤマトの地において、このラインから南1kmのところに、日本の古墳の中で、もっとも奇妙な古墳がある。

 それは、丸山古墳である。この古墳は、天武天皇持統天皇の陵の候補ではあるが、被葬者は、継体天皇の息子、欽明天皇ではないかという説もある。

 墳丘の長さが318mもあり、日本で6番目に大きな古墳だ。しかし、この古墳は6世紀後半のものとされており、古墳が巨大化した5世紀前半から中旬から150年近く経っている。また、天武天皇持統天皇の治世は7世紀後半なので時代が合わない。

 さらに、5世紀の巨大古墳が縦穴式の長持型石棺であるのに対し、この古墳は、家形石棺で、横穴式の石室が28.4mもあり、日本の古墳全ての中で最大なのだ。

 そして、通常の石室は円墳の中央に置かれるが、この丸山古墳では中央から20mほどずれてしまっている。

 その理由はわかっておらず、私の想像では、6世紀後半に活躍した有力者のために、5世紀に作られた巨大古墳に、日本最大の横穴式の石室を設置しようとしたためではないだろうか。

 さらに不可思議なことは、この古墳の400mほど東に植山古墳があり、この古墳が、阿蘇のピンク石の石棺を用いており、推古天皇と竹田皇子の古墳と推定されている。

 しかし、この南800mの平田梅山古墳を、宮内庁欽明天皇陵としているが、欽明天皇の古墳が丸山古墳か植山古墳で、平田梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目ではないかという説もある。 

 いずれにしろ、6世紀から7世紀にかけて、新体制を築くために努力していた者たちの中で最高位の人物の陵墓が、九州の阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに集まっているのである。

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阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに、6世紀から7世紀のヤマト王権の中枢が集まる。ラインの真上が神武天皇橿原宮が築いたとされる畝傍山、右上は藤原京(ラインから1km以内)、左下が飛鳥の宮、三角形の三つの点が、日本最大の石室を持つ丸山古墳(左)、阿蘇のピンク石の石棺を持つ植山古墳(右)、欽明天皇陵(下)である。

 天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメが、上に述べたエチオピアのソロモンとシバのように、日本の天皇家の起源ということになるが、2人が出会ったとされる場所は、いろいろな説があるものの、神話上の人物の話なので、事実かどうかわからない。そんなことより、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として崇められてきているということについて、もう少し考える必要がある。

 コノハナサクヤヒメと富士山がつながっている理由について、納得できる説明は見られない。父親が山の神だからといって、娘が富士山の神様になる必要もないだろう。

 また、コノハナサクヤヒメは、はかない命の象徴でもあり、富士山の堂々たる様とは結びつかない。だから、コノハナサクヤヒメは、一般的に桜を重ねてイメージされる。

 しかし、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の木花は、本当に桜なんだろうか? 木花は、現在でも、樹氷とか樹霜のことを指す。実際の花ではなく、木についた霜とか凍った水滴が花のように見える状態。

 コノハナサクヤヒメが、富士山の樹氷とすれば、それはそれでつながるし、はかない命を象徴する理由にもなる。しかし、コノハナサクヤヒメは、浅間山などでも祀られているし、樹氷ならば、わざわざ富士山である必要がない。

 だとすると、樹氷ではなく、やはり火山と関係しており、花咲か爺さんの物語のように、火山の灰が霜のように樹木に積もって、花に見えるイメージを表しているのではないか。

 つまり、コノハナサクヤヒメは噴火の神様で、富士山の噴火は、遠く離れた場所でも火山灰を運び、木花を咲かせたのだ。しかも、火山灰によって太陽の光が遮られ、夜のように暗くなった状態で。木花之佐久夜毘売には、”木花”と”夜”という言葉がついているのだから、この説明で、大きな矛盾はないはずだ。

 富士山は単独峰であるため、かなり離れたところからも美しい姿を拝める山だが、噴火の時に立ち上る噴煙は、近いところだと凄まじい迫力だったろうが、遠く離れたところから見ると、神がかった美しさがあったのではないか。

 コノハナサクヤヒメが、吹き上がる噴煙や火山灰の神様であるとすると、浅間山で祀られている理由も納得できる。

 ニニギが、阿蘇山の近くに天孫降臨し、富士山を象徴するコノハナサクヤヒメと出会い、結ばれる。この二人の末裔が”やまと”であるのだから、阿蘇山と富士山を結ぶライン上に新たな国の中心を置いたことは必然だった。

 そして、邪馬台国の日神を復活させることで、やまとは、古代と一つながりになる。

 やまとは、火と日のもとにある国なのである。

 

 

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第1143回 古代は未来への架け橋となりうる。

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丹後の竹野の海岸に立つ穴穂部間人と聖徳太子の母子像。

 

 現代社会で他者との競争に明け暮れて生きる私たちは、私たちの意識というものは、自分の言動を管理している自己意識が全てだと思いがちだ。

 そして、社会での色々な不安や悩み、他人と比較した優越感や劣等感、確執や争い、喜びや満足も、この自己意識の基準の上に生じている。

 脳の専門家の説明では、右脳は感情的な部分を担い、左脳が論理的な部分を担って、そこから人間意識が生じるとされる。

 それに対して、ジュリアン・ジェインズが、『神々の沈黙』という著書の中で、私たちの意識は、古代において大きく変わった時期があったと述べている。

 彼は、その意識の変化は、アルファベット文字を使い始めた紀元前1000年頃と判断した。その根拠として、ギリシャ最古の叙事詩ホメロスの神話において、書かれた時期の異なるイリアスオデッセイアの二つの物語に着目し、イリアスが書かれた頃と、オデッセイアが書かれた頃の言葉の使い方の違いから意識のあり方の変容を見出し、それを、右脳言語から左脳言語への移行というふうに捉えた。

 その言語野の変化によって、人間意識の変化が現れ、それまで自分と世界が一体化されていたのに次第に分断され、社会の変化として、巫女の減少と消滅のことが挙げられていた。

 アルファベットの登場以前、人間の言語野が右脳にあった時は、巫女が、社会の中に当たり前のように存在した。しかし、アルファベットの登場後、言語野が右脳から左脳に移行していくにしたがって、巫女は少なくなり、しかし巫女の重要性は認識されていたため、巫女な素質のある者をデロス島などに住まわせ、世俗的な穢れに染まらないように隔離して育てた。しかし、さらに時代が下り、ローマ時代になると、その努力すらほとんど効かなくなってしまったようだ。

 アレクサンダー大王は、アリストテレスを家庭教師に持つ理性的な人物であったが、東征前に、デロス島の巫女の神託を受けていた。それほど、巫女の存在が重視されていた。それは迷信とかではなく、実際の世界においても、不可欠な力だったようだ。

 そして、ジュリアン・ジェインズは、フェニキア文字以前の未解読の文字言語、ヒッタイト文字やミケーネ文字などが詳しく解読できるようになれば、人間は、現在の自己中心的な意識ではない方法で世界とアクセスすることが可能だと覚ることになるだろうと預言した。

 ジュリアン・ジェインズは、ただの知的好奇心で、このような研究と考察を続けていたわけではない。彼は、我々の左脳言語に偏重した意識が、今日の様々な歪みを生み出していると認識していた。

 たとえば幸福感なるものは、満たされた感覚を得られればそれで幸福なはずなのに、左脳意識のロジックが介入すると、人と比較したり、社会的な体面とか色々な分別で、それを計ろうとして、せっかくの喜びを損なってしまう。

 優劣とか不安とか焦燥とか猜疑心などという幸福感を蝕むものは、左脳意識のお得意な分別から生まれている。この不幸な状況を抜け出すための意識の回路を、ジュリアン・ジェインズは見出そうとしていたのだと思う。

 左脳意識よりも右脳意識が思考回路の軸になるような思考というものはどんなものか。それを知るために、左脳言語を主体にした思考(科学的分析)で、フェニキア文字以前の文字言語を解釈したとしても、意識の構造が異なるから、真の意味で理解できない。理解したと思っていても、それは左脳意識の思考の癖でそう決めつけているだけのこと。

 これは、左脳言語と右脳言語のあいだだけでなく、文学作品などの翻訳でも起こる問題だ。いくら外国語の単語の意味を多く記憶していたとしても、文脈を読む力、書かれている内容の背後を読む力が弱いと、その真の意味を捉えて翻訳することはできない。

 欧米言語の場合は、アルファベットの使用が、意識の変化に大きな影響を与えた。ならば、日本の場合はどうなのか。

 日本の場合は、ヒッタイト文字などのように3000年以上前に遡らなくても、2000年から1000年前に、そうした変化があったのではないか。

 長く平和に続いた縄文時代は、それ以降とはまったく異なる世界観があったのではないかと想像できるが、おそらく意識の在り方も、それ以降とは異なっていたのではないか。

 しかし、弥生時代が始まってからは、急激に島国以外からの人々が増え、異なる文化背景を持つ人々が、この狭い島国で争うこともあっただろうし、そのことによって凄惨なことになったため、まとまって生きていくためにはどうすればいいのか、ということも真剣に考えざるを得なかっただろう。

 そして、国を束ねていく人たちのあいだで、共通文字として漢字が導入された。その漢字を、島国で古くから育まれてきた意識との調和を実現するために、様々な工夫が重ねられ、古事記日本書紀万葉集をはじめとする多様な表現も創造された。この時代が、古代ギリシャでは、ホメロスの神話の時代にあたるのではないだろうか。

 その後、ギリシャでは哲学が発展し、その強固なロジックをもとに、民主制が敷かれる。

 日本も日本ならではのロジックを獲得し、律令制を強化していく。

 しかし、日本の古代の特徴的なところは、おそらくそれ以前の時代がとても豊かで長く続き、その蓄積が大きかったからだと思うが、漢字という中国から輸入した言語に重きを置く意識に抵抗する別の意識が膨らんでいった。そして、仮名文字を、豊かに育んでいく道が、表現分野において実践された。

 石川九揚氏が、二重言語国家・日本という見事な書物で、漢字とひらがなという日本語の二重構造から浮かびあがる日本文化および日本人の意識の深層を、鋭く解いていく試みを行ったが、まさに、日本という国、日本人の意識を考えるうえで、この二重構造に対する認識は不可欠だ。

 私は、漢字と仮名文字を調和させていく試みが、日本の長く平和に続いた古代の記憶を、タイムカプセルのように現代まで伝える箱舟になったのではないかと思っている。

 そして、その揺籃期において、紫式部をはじめとする女性が力を発揮したということ、また、女性にそれを可能にさせる社会構造が、長年の歴史的蓄積によって整えられていたことも大きかったと思う。

 古代日本は、この部分において、きわめて成熟を遂げた社会だった。 

 古代、地方から選ばれて宮中に仕えていた采女と呼ばれる女性も、今日の基準で言うところの美人とか、スタイルがいいとか、そんな下卑た基準ではなく、教養や品格が大事だった。

 宮中に仕えるといっても、単に夜の相手をしたり、お手伝いさんだったわけではなく、大王の話相手や、幼い姫や皇太子の教育係でもあったのだから。

 社会において、女性の文化的地位が高かったのは、おそらく、それ以前から、その基礎が準備されていたからだろう。このことが、日本文化において、とても大きかった。

 というのは、やはり、男性に比べて女性の身体の方が、月経や出産など、自然の摂理に即してできており、自然に基づいた身体に宿る意識は、左脳の自己都合的なロジックに勝るものだからだ。

 1000年ほど前、紫式部などの女性を中心にして、新しい日本の文学が創造された。その文学は、今日では単に文学部、絵画部、音楽部などに分断された専門的部門の一つにすぎないものになってしまったが、言語を使うことで意識を整えていく人間の精神にとって、文学は骨格である。もしも、文学は自分には無縁だと鼻で笑って他分野の表現活動に勤しんでいる者がいたとしたら、時代の風潮のなかで人に受けたりそうでなかったりすることはあっても、古代から箱舟に乗せられて伝えられてきた人間精神の普遍性を、未来へとつなぐ仕事とは、また別のものだろう。

 紫式部たちが創造した文学の中に宿る精神は、その後の様々な表現者や為政者に影響を与えた。本来の詩人は、ホメロス(1人とは限らない)のように言葉の力によって精神の箱舟を生み出すものであって、単に詩と呼ばれる定型の言語活動をする人のことではない。だから、詩人は、画家や音楽家や写真家と違って、詩家とはならず、詩の人であり、名刺の肩書きとなる業界や専門ジャンル、ましてや社会的ステイタスではない。

 

 「詩は志の之くところなり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。」

                             (白川静 字統より)

 この意味において、詩心が、過去と未来の紐帯となってきた

 源氏物語」を、実際に読んだこともないのに、漫画や、流行の早わかり本からの断片的情報で、プレイボーイの女性遍歴だと思っている人がいたら、それは非常に残念なことだ。

 「源氏物語」は、ホメロス神話のように、古代の精神と次の時代の精神をつなぐ役割を果たしており、それは、紫式部に、そういう志があったからだ。だから彼女もまた、当然ながら、真の詩人である。

 その紫式部に影響を与えたと思われる竹取物語

 紫式部が、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」と書いているように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。原本も存在しない。もっとも古い写本でも、室町時代に書かれたもので、それでも原本の時代から300年が経っており、しかも、この写本はほとんど流通しておらず、多くの人が現代語訳で知っている「かぐや姫」は、江戸時代に活字印刷で出回った「流布本系」を原本としている。

 実際に竹取物語が書かれてから1000年近く経ち、写本を繰り返すうちに、その時々の価値認識にもとずく判断で、文脈は大きく変わっていないにしても表現に修正が加えられていった写本を、竹取物語の原本としているのだ。

 助詞や助動詞の表記も、1000年前と同じかどうかわからない。

 「ぬ」という文字も、否定なのか完了なのか、未然形、連用形、終止形など、学校教育の古文で習う方法論に添って理解しようとしても、そもそも、平仮名一文字が書き換えられていたら、意味が大きく違ってしまうことになる。

 なので、物語の真意は、文脈全体から判断していくほかない。

 しかし、文脈といっても、古典研究に精を出すだけや、物語の中だけを解析してもわからないだろう。文章の背後のことを想像力で補えるだけの時代認識も必要だ。

 上に述べた”巫女”ということについても、時代によってその捉え方がまったく異なる。

 現代で巫女といえば、神がかりをして、時には口から泡を吹いたりして、わけのわからないことを言う宗教家だと思っている人が多いかもしれない。

 それはともかく、紫式部は、竹取物語から、古代から箱舟に乗せられてきた大切な精神のエッセンスを受信している。それが、”もののあはれ”という形でさらに磨き抜かれていく。

 物語の出で来はじめの「竹取物語」」の作者も、自分勝手な想像力で物語を作ったわけではなく、それ以前の時代から伝わっているものから、精神のエッセンスを掬い取っている。

 竹取物語の成立は平安初期と考えられているが、”もののあはれ”の精神の起源はそれ以前にある。とくに、上に述べたように、漢字という新しい思考の様式が入ってきて、それまでの思考の様式との違いに軋轢を感じながら、なんとかそれを分断させずに調和させようと努力していた時代、6世紀頃からの精神文化が、古代と新しい時代をつなぐ架け橋として、非常に大きな役割を果たしたことだろう。

 文学作品は、上に述べたような修正が加えられ、原本に触れることもできず、原本のように信じられている多くの写本も修正が加えられており、古代へとアクセスするためのハードルは非常に高い。

 しかし、造形美術は、ストレートに、私たちの左脳意識以外の意識に働きかけてくる力がある。

 完全な形で現存する造形美術として最も古い斑鳩中宮寺の半跏思惟像や、国宝第一号の京都の広隆寺弥勒菩薩像を愛する日本人はとても多い。

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)、広隆寺 弥勒菩薩(パンフレットより)

 この二つの像を、仏像のジャンルで分けることにまったく意味はない。

 日本が、まだ仏教を消化しきれていなかった時代に作られた、静かに物を思うあの表情、あの微かな笑み、あの佇まいに心惹かれる人が多いのだ。

 竹取物語の作者もまた、中宮寺の半跏思惟像や広隆寺の彌勒菩薩像によって、古代から伝わってきた精神文化のエッセンスを受け取ったことだろう。

 中宮寺の半跏思惟像は、中宮寺に住み、その場所を尼寺にした穴穂部間人や、聖徳太子とつながっている。そして、物部氏蘇我氏の戦いの時に丹後の竹野に隠遁していた穴穂部間人は、竹野の土地とつながっている。そして、第11代垂仁天皇の妃で、竹野媛の後裔で、竹野の地をルーツに持つ迦具夜比売命かぐやひめ)をモデルにしたとされる竹取物語は、丹後の竹野の地の記憶と無関係であるはずがない。

 穴穂部間人が丹後の竹野に隠遁していたのは、おそらく彼女の母親が、その土地とつながっているのだ。母親とは、蘇我稲目の娘で欽明天皇に嫁いだ2人のうち1人の小姉君(おあねのきみ)だ。

 小姉君の娘の穴穂部間人は、用明天皇の皇后になるが、ともに父親は欽明天皇である。そして、用明天皇の母親が、蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)で、穴穂部間人の母親が、蘇我稲目の娘の小姉君。もしも、堅塩媛と小姉君が実の姉妹だとすれば、用明天皇と穴穂部間人の子供の聖徳太子に流れる血は濃すぎる。

 小姉君は、蘇我稲目の養子と考えるのが自然であり、なぜ彼女を養子にしたのかというと、おそらく、丹後を拠点にする海部氏と同盟関係を結ぶためだろう。

 穴穂部間人が、丹後の竹野に身を隠すことができたのも、母親の実家だからだと考えると筋が通る。

 そして、興味深いことに、蘇我氏が滅ぼされた後に天皇に即位した孝徳天皇の皇后となりながら、難波京において、孝徳天皇と関係を断つようにヤマトの地に帰ってしまった中大兄皇子と行動をともにした間人皇女も、聖徳太子の母親と同じ名前だ。

 彼女は、中大兄皇子の妹とされ、兄妹の間で禁断の恋に落ちたからだとする世俗的な発想の説もあるが、2人を産んだとされるタカラノヒメミコ(後の皇極天皇重祚して斉明天皇)は、他の男性に嫁いでいたのに、37歳の時、突然、舒明天皇の皇后になり、中大兄皇子天智天皇)と大海人皇子天武天皇)と間人皇女を産んだとされる。しかし、37歳以降というのは今でも高齢出産であり、当時だとちょっと考えられない。

 間人皇女は、養子縁組だと判断するのが自然だろう。そして、彼女もまた丹後の竹野の間人と関係している可能性が高い。なぜなら丹後の海部の力は、大化の改新乙巳の変)の後の新政権にとっても重要だからだ。

 丹後の竹野は、羽衣伝説の土地でもあるが、この地域の女性の役割を踏まえることなく、竹取物語の本質にたどり着けないと思う。

 海部氏の拠点である丹後の女性とは、簡単に言うと、神に奉斎する聖なる人であり、さらに同盟関係における紐帯。

 中世の戦国時代において、同盟関係を結ぶ大名同士の間では、妻や子供が人質にとられたが、古代において、同盟の紐帯で人質の役割も負う女性は、時には皇后になり、皇統を継ぐ子供を産む人物でもあった。

 垂仁天皇の皇后となり景行天皇ヤマトタケルの父)を産んだと神話に記録される日葉酢媛(ひばすひめ)も丹後の女性である。

 とくに、丹後の竹野川流域は、古墳の多さや多くの弥生遺跡などの出土品から判断して、古代から栄えた場所であることは間違いないが、飛鳥時代の頃は、海部氏と呼ばれる海人の拠点でもあった。

 海人は、単に漁に勤しむ人ではなく、船舶を自由に操る人たちであり、古代世界において重要な役割を果たしていた。

 古代に限らず、中世においても、たとえば豊臣秀吉は、瀬戸内海の村上水軍を味方にするための懐柔策を駆使しており、水軍が敵につくか味方になるかで、勝負の行方が決まってしまうところがあった。

 海部氏と尾張氏アメノホアカリを始祖とする同族であったとされるが、それは、もしかしたら同盟関係の盟約が結ばれたうえでの同族だったかもしれない。尾張氏物部氏が同祖とされるのも、それと同じかもしれない。

 6世紀のはじめ、突然、天皇に即位することになった第26代継体天皇の最初の妃は、尾張目子媛であり、継体天皇は、尾張氏の力を味方につけていた。

 ある日、突然、福井の王が、歴史の表舞台に登場したわけではないのだ。

 壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子天武天皇)は、その名からもわかるように、幼少期に、若狭湾の沿岸で、凡海氏(海部一族の伴造) の養育を受けていた。

 欽明天皇の時代に、蘇我稲目が、突然、頭角を現すようになるが、小姉君を通して、丹後の海部氏との関係が深まったからだろう。

 小姉君は、聖徳太子を産んだとされる穴穂部間人や、その兄弟の穴穂部皇子崇峻天皇を産む。

 しかし、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった時、次の王は自分であると横暴に振る舞い、その後、物部守屋と組むが、蘇我馬子に阻止されて、物部氏とともに滅ぼされる。崇峻天皇も、即位したものの自分の思うどおりにできないと不満をもらし、蘇我馬子に殺害される。

 これらのことについて、歴史の教科書は蘇我氏の横暴を伝える。

 しかし、穴穂部皇子の行動は、かなり問題がある。

 というのは、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった直後、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、天皇の死体を安置している神聖なる殯宮に押し入ろうとしたのだ。その時、敏達天皇の寵臣の三輪逆(みわのさかう)が門を閉じてそれを防いだのだが、そのことに怒った穴穂部間人は、三輪逆を殺すように物部守屋に命じ、守屋は軍を率いて実行した。その時、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えたと記録が残る。 

 こうした記録を見れば、蘇我馬子は、海部の力を背後に持つ穴穂部間人と物部守屋が結びついて、傍若無人な行動を起こしつつあったことを憂いているようにも見える。

 崇峻天皇の暗殺にしても、崇峻天皇が、蘇我馬子を殺害することを暗示したからでもある。もしかしたら蘇我馬子は、様々な勢力の調和をはかりながら国をまとめていこうと、聖徳太子と協力しながら努力していたにもかかわらず、穴穂部皇子崇峻天皇が、自分たちの背後にある丹後の海部の力をもとに、横暴になっていた可能性もある。

 そう考えないと、蘇我馬子物部守屋との戦いの際、聖徳太子蘇我氏と行動をともにした理由がわからなくなる。いくら、聖徳太子の父親(用明天皇)が蘇我氏の血を受け継ぐとしても。聖徳太子は、叔父の穴穂部皇子の粗暴な振る舞いよりも、蘇我馬子の方が、国を束ねるうえで相応しいと判断していたのではないか。

 蘇我氏は最初、強力な軍勢を持つ物部氏の前に劣勢だったが、聖徳太子が、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いを立てたことで、流れが変わり、勝利したとされる。

 これが大阪の四天王寺の起源であるが、単なる神頼みを行ったわけではなく、河内の勢力を味方につける何かしらの根回しがあった可能性もある。

 物部守屋を弓で射た迹見赤檮(とみのいちい)は、物部氏の一族であるという説もあるが、この戦いの後、勝利の殊勲者として、物部氏の遺領から一万田を賜与されており、彼が寝返ったと想像することは可能だ。

 蘇我氏物部氏の戦いの時、穴穂部間人は、母と義母が蘇我氏の出身で、兄の穴穂部皇子物部氏とつながっていたわけだから、その心中は、さぞ複雑なものだったろう。

 日本神話は、悲劇の女性を主人公にするものが、とても多い。

 旅している天皇が、各地で出会った女性に妻どいをするという形をとっているが、同盟関係を結ぶための手続きが、神話化されているのだろう。

 しかし、大切な紐帯役として嫁いでいく女性は、同盟関係が破綻する時、垂仁天皇の皇后、狭穂姫命(さほひめのみこと)のように、兄をとるか、天皇をとるかと迫られて引き裂かれる。

 世の不条理にさらされて、女性は、よりいっそう神話的な存在となっていく。

 紫式部が書き上げた長編小説の源氏物語も、光源氏のまばゆい魅力が、光源氏と関わりを持つ1人ひとりの女性の個性を、より鮮明に浮かび上がらせる。

 女性たちは、実に多様な、個性ある存在として書き分けられている。

 多様社会といわれる現代、実際のところ、源氏物語の登場人物ほど多様な個性を、1人ひとりが持ち合わせているだろうか。

 源氏物語に登場する女性たちの多様性を生み出すものは、いったい何なのか。

 それは、彼女たちが、世間の基準にそって分別を駆使しながらエゴを肥大化させる人物ではなく、関わりを深める他者の隅々まで気持ちを行き届かせることでエゴを滅却し、その結果、世間の基準が無化された、その人自身の色が立ち上がってくるからだろう。ジュリアン・ジェインズの言葉を借りれば、左脳言語による計画や打算ではなく、右脳言語に即した無為の献身によって、時代を超えた個性的な存在となる。

 それに対して、竹取物語において、かぐや姫に求愛し、かぐや姫に試みられる男性陣の、狡いけれども滑稽な顛末となる言動は、自己基準の左脳言語に即した意識による茶番ということになるだろう。

 竹取物語の作者は、丹後の竹野の女性たちが、異なる勢力のあいだで紐帯の役割を果たしながら運命に翻弄されてきた歴史事実をもとに、神聖なるものと穢れた世俗に関する比喩表現を立ち上げたのではないか。

 今から、1000年以上も前に、人間意識の違いを絶妙に書きとめながら、普遍性を追求している姿勢は、とても感動的であるが、それもまた、古代からの蓄積があってのこと。

 そして、それらの文学が、後の時代に多大なる影響を与えているわけだから、まさに、古代は、未来の架け橋となっている。計算高い左脳意識による計画によってではなく、エゴによって分断される世界の紐帯にならねばという志を育む右脳意識と結びつくことで。

 古代に限らず世界というものは、解釈の度合いを人と競い合うだけでは何にもならない。自分に引き寄せて、その根元を解かなければ、どこにもつながらない。

 

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第1142回 鬼とは何か? という本質的な問い。かぐや姫の背後にあるもの(後半)

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)

 かぐや姫は、高畑勲監督のジブリ映画で大ヒットして、その映画のサブタイトルが、「姫の犯した罪と罰」だったため、かぐや姫罪と罰は何ぞやと、この映画を見た人たちで議論になったようだ。

 映画の中で、その罪とは、「地球上の虫や鳥や動物たちのように生きること」に憧れたせいだと語られている。

 そのため、「生命そのものの営みが、なんで罪なのか?」という疑問が残されたのだ。

 かぐや姫の罪については、古くから多くの研究者によって議論が繰り返されているが、明確な答えは出ていないようなので、少し考えてみよう。

 竹取物語は、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。

 竹取物語の原文の中で、かぐや姫は、地上に降りた理由として、「昔の契りありけるによりなむ」と述べていて、その段階では、特に、罪をおかしたなどとは書かれていない。

 そして、物語の最後、かぐや姫を迎えに来た月の王は、翁に対して、汝、幼き人と声をかけ、「汝が少し功徳をなしたから、汝の助けになるだろうと、しばらく、かぐや姫を地上に置いておいたが、翁は、それからずっと黄金を貯めづけて、すっかり変わった」と言った後、

かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限り果てぬれば、かく迎ふるをと述べている。

 ここで初めて、かぐや姫の罪ということが出てくるわけだが、この部分の意味として、「かぐや姫は、罪を犯したために、賤しい翁のもとに(穢れた地球に)、しばらく降ろされたが、罪の期間が終わったので、迎えにきた」とされているわけだが、竹取物語が書かれたのは9世紀から10世紀と考えられているが、その頃はまだかな文学は完全に成立していない。

 そして、竹取物語の原本は存在していない。写本は、物語が書かれた時より300年以上経った室町時代の初期が最古とされている。さらに、室町時代に書かれた写本ではなく、江戸時代に活字印刷で出回った活字印刷で出回った「流布本系」が、現在において、かぐや姫の原文古典の扱いになっている。そして、このプロセスの中で修正が加えられてきたこともわかっている。

 なので、この部分を、江戸時代に書かれたものを基準にして理解しようとすると、どうにも意味が通らないような気がしてならない。

 前後の文脈から判断すると、ここで月の王が述べる言葉は、現世の罪というものは、(そのままにしていたら)限りがない、ということではないのか?

 私がそのように解釈するのは、かぐや媛は、月から迎えが来る前、月に帰りたくないと嘆き悲しみ、迎えが来てからも、世間のしがらみに執着し続け、喜怒哀楽の虜の中であり、天界から見たら、まさに罪の中にあるように思えてならないからだ。

 しかも、羽衣を着せられるギリギリの瞬間まで、帝宛に言い訳じみた手紙を書き、手紙と一緒に不死の薬を地上に残す。

 不死の薬なぞというものは、究極の執心であり、自然界の摂理に反する究極の罪である。虫や鳥や動物たちのように生きることとはまったく相反する人間ならではの煩悩だ。

 かぐや姫は、俗界で生きているうちに、煩悩の虜になっていた。

 結婚を進められて、「浮気でもされたら後悔するに違いない」と答えたり、5人の男を試したりする行為などは、自己にとらわれ心おごる状態である。

 しかし、かぐや姫は、羽衣を着せられた瞬間、一切の執心が消え、卑しい翁のことを、いとほし、愛しと思しつることも失せて」、何事もなかったように車に乗って、月に帰っていくのだ。

  かぐや姫は、罪をおかしたから地球にやってきたのではなく、俗界で長く生きていると罪に限りがなくなるから、月の世界からお迎えが来たのではないか。

 かぐや姫は、俗界で喜怒哀楽の暮らしを続けた結果、財を蓄えることにしか精を出さない賤しい翁に対してさえ執着してしまっていた。

 羽衣を着るというのは、そうした俗界の執着の外に出ることなのだ。

 かぐや姫の物語で、最も重要なところは、かぐや姫が去った後である。

 かぐや姫が残した手紙と不老不死の薬を受け取った帝は、

逢ふことも 涙に浮かぶ わが身には 死なぬ薬も 何にかはせむ」

 と呟く。この部分を、「嘆き悲しみの中にいる自分にとって、不死の薬は、なんの役にも立たない」と訳してしまうと、ちょっとニュアンスが変わってくる。

 逢ふことも 涙に浮かぶ という情景は、かぐや姫との出逢いを、幻のように思い返して見ている状況のように感じられる。

 この状態は、羽衣を着せられたかぐや姫が、憑き物が落ちたようになった状態と近い。

 帝にとっては、不死の薬、それがどうした? 自分には関係ない。という感じだ。

 それは、役に立つとか立たないかという俗界の分別を超えて、哀しみの中の諦観であり、哀と真の愛がイコールになる心境だ。

 そして、帝は、その不老不死の薬と、かぐや姫からの手紙を、駿河の山の頂上で燃やさせる。その山は「富士の山」と名付けられ、燃やされた煙は、未だに雲の中に立ち上ると伝えられている。 

 この最後の文章に、この作者の”もののあはれ”観が表現されているのに、無粋な研究者は、「当時の富士山は、火山活動が活発だったことを表している」などと説明する。

 この物語の最後、肝心なことは、帝は、不死の薬だけでなく、かぐや姫からの手紙も燃やさせたことだ。

 雲の中の向こうは、かぐや姫が帰っていったところであり、不死の薬や手紙といった執心につながるものは、煙となって、俗界のことはすっかり忘れているかぐや姫の世界に上っていくのである。

 帝の到達した達観の境地がそこに表現されており、その世界観こそが、”もののあはれ”である。

 この竹取物語を起源に、源氏物語など日本特有の文化が育っていくことになる。

 竹取物語を本流とするならば、垂仁天皇に帰された竹野媛の物語や開化天皇の時の竹野媛の物語、そして羽衣伝説は、支流である。それらの水が集まって竹取物語になっていく。

 その源は、かぐや姫のモデルとなった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)の曽祖母である竹野姫が巫女をつとめた丹後の間人である。

 かぐや姫が帰っていったところは、俗世間を離れて忌み籠り、神に奉斎するところでであろう。

 前回のブログに書いたように、古代、太陽の神も月の神も、天の神の両目だった。

 竹野媛の父親の由碁理(ゆごり)は、丹後の籠神社に伝わる海部氏勘注系図では、始祖・天火明命の七世孫と記されている。

 籠神社の発祥は、現在、奥宮になっている真名井神社で、天火明命豊受大神を祀ったことを起源としている。

 丹後の地は、全国でもっとも豊受大神を祭る聖域が集中しているところだが、峰山町に、月輪田という三日月型の水田の史跡があり、豊受大神が、天照大神のために籾種を蒔いて稲作をした場所が月の輪田であるとされる。また、真名井神社においても、豊受大神は、月神の一面を持っているとされている。

 この竹野の地が、蘇我氏物部氏が争っている時、聖徳太子の母親、穴穂部間人が隠遁していたところであった。

 そして、第26代継体天皇は、竹野にルーツを持つ竹野媛ゆかりの堕国や、かぐや姫の父親ゆかりの筒城を、都にした。

 第50代桓武天皇も、堕国に長岡京を建設し、その後、筒城の甘南備山の頂上から北を見て、そのライン上に平安京の真ん中の朱雀通りを計画し、その上に、羅生門大極殿を築いた。しかし、桓武天皇平安京を造営する前に、甘南備山の真北のライン上には、竹野媛と同じく甚凶醜(いとみにくき)という理由でニニギに忌避された磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社が鎮座していたのである。

 さらに不思議なことに、筒城の地の甘南備山から真南に行ったところが、斑鳩中宮寺跡だ。現在法隆寺東伽藍夢殿の東隣にある中宮寺は、室町時代後期までここにあった。

 中宮寺は、聖徳太子の母親、穴穂部間人の宮殿だったものを聖徳太子が寺にした、もしくは、穴穂部間人自身の開基だったとされる。

 中宮寺のあった場所が、京田辺の甘南備山、その真北の麓の月読神社、平安京羅生門平安京の中心の朱雀通り、大極殿、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社と同じ南北ライン上にあるのは、単なる偶然なのだろうか。

 中宮寺には、凛として気高い半跏思惟像がある。この仏像は、如意輪観音像と称されているが、造像当初の尊名は明らかでなく、弥勒菩薩像として造られた可能性も高い。

 しかし、そんな分別はどうでもよく、この像は、日本に数多くある像の中で、もっとも美しいものであることは間違いない。気高さがあり、近寄りがたい雰囲気もあるが、見ているだけで人を幸せにする力がある。

 この像は紛れもなく女性であり、穴穂部間人という女性を通して、古代の竹野媛につながる神に仕える巫女を連想させる。

 羽衣を着せられて罪を祓われたかぐや姫は、この半跏思惟像のように、穢れた俗界の愛憎とは無縁の境地であったろうと思う。

                                  (つづく)

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上から、磐長姫を祀る西賀茂大将軍神社、平安京大極殿羅生門平安京の中心、朱雀通りの位置決めの基準となった京田辺の甘南備山(この北麓に月読神社)、斑鳩中宮寺跡。東経135.74で、完全なる南北の一直線上である。

  

 

第1141回 鬼とは何か? という本質的な問い(5) かぐや姫の背景にあるもの(前半)

 前回の記事で、第11代垂仁天皇の時に、甚凶醜(いとみにくき)という理由後宮を出され、その途中、堕国で自殺した竹野媛のことを書いたが、多くの人はマニアックな話だと思うだろう。しかし、この話は、誰もが知っている「かぐや姫」ともつながっている。

 この二つを結びつけるものは、日本海に面した京都府丹後市、旧竹野町の間人という場所である。

 この場所は、竹野媛の生まれ故郷というだけでなく、飛鳥時代蘇我氏物部氏とのあいだで争い事があった時に、聖徳太子の母親の穴穂部間人が隠れていたところでもあった。

 さらに、この場所は、第10代崇神天皇の時、日子坐王による鬼退治があり、さらに飛鳥時代聖徳太子の異母弟の当麻皇子による鬼退治の伝承のある所でもあり、その鬼が追い詰められた場所が、間人の海岸にある立岩だ。 

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間人の海岸にそびえる立岩。

 聖徳太子の母親が隠れていた地域が、聖徳太子の弟によって鬼退治されるというのは、いったいどういうことなのか?

 この謎について、納得感の得られる書物は、私の知る限り、どこにも見当たらないが、日本の古代を考えるうえで避けて通れない問題である。

 今では日本海の寒村にすぎない場所の伝承は、ローカルな昔話でしかなくなっているが、この間人という土地は、古代史を読み解く上で重要な史跡が数多く残されている。 

 立岩から少し行った所に、4世紀末に作られたと考えられている日本海側最大級の神明山古墳があるし、すぐ近くに王の墓とされる組み合わせ式の長持形石棺が出土した産土山古墳をはじめ、古墳が多い。

 さらに、ここは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、川にそって、弥生時代のハイテク都市として知られ羽衣伝説とも関わってくる奈具岡遺跡や扇谷遺跡などがあり、さらに弥生時代最大規模の墳墓や、青龍3年(235年)という、卑弥呼の時代の年代がきっちりと刻まれた、紀年銘鏡では最古の鏡が出土した大田南古墳もある。しかも、この青龍3年の方格規矩四神鏡は、継体天皇の古墳がある大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した鏡と同じである。

 これらの事実から、竹野川が海に流れ込む間人という土地が、古代史を解く上で、非常に重要な鍵を握っていることがわかる。

 もちろん、「謎の丹後王国論」という研究が行われていることは私も知っている。

 丹後王国論は、この丹後の地に、ヤマトや吉備と並ぶ独立性のある勢力が存在していたという内容で、網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳など日本海側を代表する巨大古墳が、この地域に集中的に造営されていることがその根拠であり、さらに、その後の様々な出土品から、古代、この地が栄えていたことが実証されている。

 しかし、三つの大きな古墳は、造営の時期がヤマト王権の拡大期と重なっており、しかも、4世紀の中旬頃に作られた蛭子山古墳から、順々に南から北へと場所が移動し巨大化しているので、これらの古墳は、ヤマト王権に対抗する勢力のものではなく、ヤマト王権が、丹後地域に侵攻していく過程を示しているのではないかと思う。

 実際に、神明山古墳は、平城京の北にあるヤマト王権の陵墓群と考えられている佐紀陵山古墳の中の日葉酢媛陵古墳と相似形なのだ。

 このことについての議論は専門家に任せるとして、謎を秘めているのは、聖徳太子の母親とされる穴穂部間人だ。

 結論から先に言うと、この穴穂部間人は、間人に鎮座している竹野神社と関わる存在だろうと思われる。

 竹野神社といっても、現在、巨大な神明山古墳の横に鎮座するものではない。神明山古墳の隣に鎮座する現在の竹野神社は、神明山古墳を築いた勢力が、竹野神社の祭祀を、自分たちの懐に抱き込んだのだろう。この竹野神社には、丹後の鬼退治を行った日子坐王が祀られている。

 竹野神社の参道は、海岸線に向かって伸びているのだが、そこには現在、御旅所がある。そこは竹野川の河口域の弥生時代の遺跡の中で、海岸に鬼が閉じ込められた立岩が聳えている。

 おそらく、そこが、本来の竹野神社の鎮座地だろう。竹野川内陸部には弥生時代の日本を代表するような史跡が散在しており、それらの場所と海をつなぐところに竹野神社があった。

 そして、その竹野神社に仕える巫女が竹野媛だった。

 竹野媛は、古代の記録では、2人存在している。しかも、非常に謎めいたポジションに位置付けられている。

 1人は、前回の記事でも書いたが、丹波道主命の娘で、第11代垂仁天皇後宮に入りながら甚凶醜(いとみにくき)という理由で帰され、その途中、堕国(継体天皇の弟国宮と、桓武天皇長岡京のあったところ)で自殺したとされる女性。この自殺が意味するところについて、殉死=人柱ではないかという考察を、前回の記事で書いた。

 そして、もう1人が、丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘。第9代開化天皇の最初の妃で、開化天皇が、自分の父親の妃であった物部氏伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を自分の皇后にするという現代社会ではタブーのことを行ったため、丹後の地の竹野に帰り、晩年は、竹野神社で日神を奉斎していたとされる。

 この日神は、アマテラス大神のことにされているが、おそらくそうではない。太陽神信仰は、時代との関係で変容していく。

 わかりやすい例として、古代エジプトがあげられる。

 サッカラに階段状のピラミッドが建築された紀元前3000年頃のエジプト初期王朝時代は、天空の神ホルスが最高神として崇められた時代だ。ホルスは、エジプトの神でもっとも古く、もっとも多様化した神であるが、初期のホルス神は、太陽と月を両目に持つ天空神だった。それは光の神でもあり、エジプトの南と北の異なる聖域を自由に行き交っていた。

 ホルス神は、「王そのもの」であり、当時のファラオは、ホルス神の化身、地上で生きる神(現人神)だった。

 そして、二つの目のうち、右目が太陽のラー、左目が月のウジャト。しかし、ホルス神が父のオシリス神を殺害したセト神(砂漠の神)と戦っている時、ホルス神は、左目(ウジャト=月)を失う。しかし、その後、この左目は、エジプトをさまよって様々な知見を得た後、時の神トート神によってホルス神のもとに回復する。

 そのため、月(ウジャト)の目は、「全てを見通す知恵」や「修復・再生」の象徴とされ、魔除けの護符となり、供物の象徴となる。

 太陽を象徴するラーは、当初は、あまねく地上を照らし出す存在だったろうが、ホルスが外敵と戦う国家の守護神になっていくように、ラーも、戦いの力を象徴する存在になっていく。そして、エジプト古王国時代のギザのピラミッドを建造したクフ王の息子、ジェドエフラーから、ファラオは、「ラーの息子」を名乗るようになる。

 月と太陽のホルス神の時代から、太陽が絶対的な中心になるラー神の時代への移行ということだろう。

 紀元前2500年頃、巨大なピラミッドが建設されていた古王国時代のエジプトで、太陽神ラーは、他の神々を生み出したアトゥムと結びついた万物の創造神であり、ファラオはラーの息子となった。

 しかし、その後、ラーは権威が衰え、自らを崇め敬わない人間を滅ぼそうとするようになる。

 やがて、紀元前1500年頃、エジプト南部のナイル川沿い、現在のルクソールを中心にした新王国の時代、ラーは、この地方の豊穣神アメンに吸収され、ラー・アメン神となり、ファラオもアメン神の子となった。

 そして、太陽信仰が創造神から豊穣神に変容した新王朝のエジプトでは、アメン神殿と祭司団は絶大な権力をふるい、王権と対立する勢力になった。

 遊牧系の人々にとって、太陽は宇宙の秩序を司る神として崇められるものだが、農耕系の人々にとって太陽は、植物の成長を促す豊穣の神として崇められる。

 そして、遊牧系の組織においては、宇宙の秩序を司る太陽と一体化した王が強力なリーダーシップを発揮する。それに対して、農耕系の組織においては役割分担が複雑で、生産活動のための各種の儀礼が重要になり、祭祀集団の力が増していき、王に対抗するようになる。

 いずれにしろ、農耕生産が大規模になっていくと、作物の成長に欠かせない太陽が豊穣・生産の神として存在感を高めていき、やがてはその祭祀自体が権威的存在になっていくが、もっとも古い時代においては、修復・再生の力である月も、太陽と等しく豊穣の神として崇敬されていたということだ。

 女性の月経や潮の満ち干にも影響を与える月のサイクルは、人間が循環する自然界の摂理に添った生活を営んでいる時は、再生力や修復力とつながっていると信じられ、そこに生命原理を認識する人々によって畏敬の対象とされていた。日本の縄文時代もそうだった。

 ゆえに、日本の古代においても、巫女というものは、日々の現実の問題に対応するため、太陽と月の両方に奉斎していたはずだ。竹野媛も同じだっと思う。

 月の神は、日本神話の中で三貴神の一つであるはずなのに、アマテラス神やスサノオに比べて、存在感が非常に薄い。記紀のなかでもほとんど出てこない。

 それは、古代エジプトのように、もともと月と太陽は天の神の両目として同等であったのに、現実世界においては太陽の存在感のみが高まっていき、月は、トート神のように知恵の神や、癒しの神としての位置付けとなり、学問や芸術と結びつくものの、現実の裏側で精神的な役割を果たすだけとなっていくからかもしれない。

 竹野媛が還っていく丹後の間人の地というのは、4世紀から8世紀、もしかしたその後の時代において、自然界の摂理に添った人間の営みが行われていた古代の記憶装置のようなところだったのではないだろうか。

 浦島太郎や羽衣伝説、そして竹取物語が、この地に起源を持つのは、単なる昔話なのではなくて、自然界の摂理から離れて穢れていく人間が、自らを省みるために、記憶の中に眠る古代を復活させる試みなのかもしれない。

 同時に、新しい秩序世界の構築を急ぐ新しい権力者にとっては、そうした記憶は、取り除くべき障害物となる。だから、何度もこの地は鬼退治の対象となる。

 しかし、そうした人間のエゴとエゴがぶつかり合う戦いが続いた後、なんとかそれが治った時は、異なる価値観を持った者どうしが一つに和合していくが必要であり、古代の記憶は、重要なかすがいになり得る。そうして、古代の復活が起こる。

 おそらく歴史というのは、そのように、過去と現在を行ったり来たりしながら進んできたのだろうと思う。決して、右肩上がりの一直線に進んできたのではなく。

 

 前置きが長くなってしまったが、過去と現在が行ったり来たりするように、古代においても2人の竹野媛が登場し、その2人は、もちろん無関係ではなく、当時の人間にとって、共通の記憶のなかにある。

 垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛は、垂仁天皇の皇后になった日葉酢媛と姉妹であり、父親は丹波道主命だ。

 丹波道主命は、記紀のなかで日子坐王の息子とされて、その母親は、天御影神という鍛治の神の娘の息長水依媛とされる。日子坐王は第9代開化天皇の息子だから、丹波道主命は、王の血を受け継ぎ、さらに、鍛治の神様の血を受け継ぐ存在であるとされている。

 しかし、丹波道主命を産んだとされる息長水依媛だが、その時代は、息長氏は存在しない。息長氏は、『記紀』の中で、第26代継体天皇の曽祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)を始祖としているのだから、古事記の中で登場する息長水依姫は、それよりも古すぎて、架空の存在ということになる。

 意富富杼王の後、歴史的に息長氏の名が登場するのは、息長真手王であり、彼の娘の広姫の血が、第34代舒明天皇と、その皇后の第35代皇極天皇(第37代斉明天皇として重祚)に流れているとされ、しかも、この2人の子供が、天智天皇天武天皇と、間人皇女とされる。なぜか、ここにも聖徳太子の母親と同じ名前の間人が登場する。

 ここで問題となるのは、日葉酢媛や竹野媛の父親の丹波道主命だが、日本書紀の異説に、彼の父は、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)となっている。彦湯産隅命の母親が、第9代開化天皇の最初の妃となった竹野媛なのだから、これは重要な指摘だ。

 敢えて異説という形で記録を残したのは、表の情報を得てわかったつもりになる人を対象にしているのではなく、その裏側にアクセスしようとする人に大切なことを伝え残すためだろう。

 残された異説によって、第9代開化天皇の妃でありながら丹波の竹野に帰って巫女となった竹野媛は、第12代垂仁天皇に、甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛の曽祖母ということがわかる。

 同じ名前なのは、竹野神社の巫女に対して用いられた名前だからだ。

 そして、日本最古の物語とされる竹取物語(日本の昔話でおなじみのかぐや姫)は、竹野媛の息子の彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)の息子である大筒木垂根王の娘で、垂仁天皇の妃の1人になった迦具夜比売命かぐやひめのみこと)がモデルとされる。すなわち、かぐや姫は、竹野媛の曾孫ということになる。

 大筒木垂根王は、名前のとおり、現在の京田辺市の木津川流域の筒城地域を拠点にしていたと考えられている。

 しかし、この筒城地域の有力者としては、丹後の鬼退治を行った日子坐王と、和邇氏の娘、袁祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)が存在する。しかも、この山代之大筒木真若王が、第15代応神天皇を産んだ神功皇后の曽祖父に位置付けられているのである。

 この筒城の地は、古代史を考えるうえで、とても重要である。なぜなら、第26代継体天皇筒城宮(つつきのみや)を築いたところであるし、桓武天皇平安京を造営する時、筒城の甘南備山をポイントにして、その真北に朱雀通りを作り、その朱雀通りに、政治の中心の大極殿を置いたからだ。(大極殿から南の羅生門までと、北の西賀茂大将軍神社=甚凶醜(いとみにくき)の磐長姫が祭神、までの距離は4.4kmで同じである)。

 丹波道主命の父が二つの陣営に分れているように、この筒城においても、丹後の竹野媛の子孫の大筒木垂根王と、丹後の鬼退治を行った日子坐王の子孫の山代之大筒木真若王が存在している。

 そして、大筒木垂根王の娘、すなわち竹野媛の子孫として、かぐや姫が位置付けられているのである。

 第9代開化天皇の妃の竹野媛も、第11代垂仁天皇甚凶醜(いとみにくき)とされた竹野媛も、迦具夜比売命がモデルとなったかぐや姫も、理由と結果は異なるが、元の場所へと帰っていくことで共通している。

 この竹野の地の女性が意味しているものは一体何だろうか。

 (つづく)

 

 

第1140回 鬼とは何か?という本質的な問い(4) 桓武天皇と継体天皇と明治維新の不可思議な縁の裏側

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鴨川と桂川の合流点。左が桂川、右が鴨川。背後に見える山は、左が比叡山、中央が東山、右が、上醍醐

 

歴史はつながっているという当たり前のことを、現代社会において、あまり意識されることはないが、過去においては、歴史のつながりを無視できない時期があった。歴史こそが、自らが存在する根拠。とくに、国を統治するものにとっては、歴史は、執政の指針であり、護符でもあった

 

 前回の記事で書いた継体天皇のことを掘り下げるために、桂川と鴨川の合流点を訪れた。それぞれの川の水の色が少し違うのがわかる。

 二つの河川が交わるこの場所が、古代、水上交通の要であったことは誰でも想像できる。

 さらに、この場所は、広大なカルデラの中心のような場所で、ぐるりと周辺を山々が囲んでいる。北には比叡山が聳え、その西に愛宕山、南には天王山、交野山から生駒山、東には、上醍醐、東山、宇治から奈良盆地の東の山並みまで、畿内の重要な聖山が見渡せる。

 この二つの川の合流点の西に、羽束師坐高御産日神社(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)が鎮座している。通称、はづかし神社だ。

 観光客はほとんど訪れないが、創建は477年と、京都で最も古い神社の一つであり、延喜式神名帳では、山城国第一の社として大社に列している。

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羽束師坐高御産日神

 風水害除けの神としても信仰を集めたが、朝廷は雨乞い祈願の神として崇敬した。遣使など渡航の際には、風雨の災難除けに参詣された。

 現在、周辺は住宅化が著しくて車の通りも多く騒がしいが、境内一帯は『羽束師の森』と称されるように深い森におおわれ、今でも静粛な雰囲気が満ちている。

 なぜ、”はづかし”なのかという問いに対する答えとして、竹野媛の霊を祀っているからという説がある。

 竹野媛というのは、第11代垂仁天皇の時代、丹波道主命の娘で、後に皇后となった日葉酢媛を含む4人の娘の末娘で、姉たちと一緒に天皇後宮に入るが、甚凶醜(いとみにくき)という理由で実家に帰されることになり、その途中、自分のことを恥じて自殺を試み、最終的にこの地で深い淵に堕ちて亡くなったとされる女性だ。その由来で、この地を堕国と呼ぶようになり、それが訛って弟国になったと古事記に記されている。

 しかし、この物語は、竹野媛の容姿が美しくないために帰されたと受け取っている人が多いが、ニニギに選ばれなかった磐長姫の物語に通じるところがあり、近代的価値観のバイアスのかかった顔やプロポーションに関する美醜の問題ではないと私は考えている。”甚凶醜”と、何がどう醜いかは書かれていないのだ。

 そして、前回の記事でも書いた第26代継体天皇が、この弟国の地を都にした理由について、学校の歴史授業に限らず大半の歴史本でもスルーされている事の重要性を、もう少し深く考える必要がある。

 なぜなら、平安時代桓武天皇もまた、この弟国の地に長岡京を造営したからだ。

 もちろん、この地が、上に述べたような水上交通の要の地であることもあるが、それだけではない。

 たとえば、弟国宮(桓武天皇の時の長岡京)の中に向日山があり、その上に向日神社が鎮座しているが、明治天皇を祀る明治神宮は、この向日神社を1.5倍のスケールにした設計なのだ。

 竹野媛が墜ちて死んだという堕国(弟国)は、継体天皇桓武天皇明治天皇に、何かしらの陰を落としている。

 さらに、この場所は、京都から太宰府都落ちする菅原道眞が、途中に立ち寄って、自分と竹野媛を重ね合わせて、歌を残した場所だった。

 その時、菅原道眞は、北の方向を見返したとされ、はづかし神社のすぐそばに見返天満宮が鎮座している。本殿が珍しく北を向いている。

 そして、はづかし神社の本殿の後ろに、北向きの小さな社が合わさっている。

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羽束師坐高御産日神社(通称、はづかし神社)の本殿の裏側。神社では珍しく北を向いている。

 これは、菅原道真を祀る神社の総本山である京都の北野天満宮も同じで、北野天満宮の場合、本殿の裏に天穂日命アメノホヒノミコト)が祀られていて、そちらが本来の聖所だったとされる。

 このはづかし神社の場合、ここから東に7kmほど行ったところ、伏見の地の山科川宇治川が合流するところに式内社天穂日命神社が鎮座している。

 はづかし神社の本殿の裏に一体化している祭神について、神職の方がおられたので尋ねてみたが、菅原道眞が北を見返したこととのつながりかもしれないけれど、よくわからないとのことだった。

 私が思うに、菅原道眞が北を意識したように、北の方向に大事な何かがあるということだ。

 北というのは、この神社にゆかりのある竹野媛の出身地である丹後の間人だろうと思われる。その場所は、聖徳太子の母親の穴穂部間人が、蘇我と物部の争いの時、隠れていたところだった。そして、日子坐王や聖徳太子の弟の当麻皇子の鬼退治の舞台だ。

 そして、竹野媛というのは、古事記日本書紀には2人が登場するが、もともとは、その竹野の地の巫女だった。

 日本海に面した丹後の竹野の地に竹野神社が鎮座するが、現在の鎮座地は、日本海側で2番目に大きな神明山古墳の隣である。しかし、この巨大古墳の造営の時期は4世紀後半とされており、そこから判断すると、鬼退治をした側(日子坐王側)の古墳であろうと思われる。なぜなら、この竹野神社には、日子坐王が祀られているからだ。

 この神社の参道は、異様に長く伸びており、その起点に御旅所がある。おそらく、本来の神社の場所は御旅所があるところだろう。そして、その場所は弥生時代の遺跡の中。目の前に、鬼退治の鬼が閉じ込められたとされる立岩がそびえる。そして、そこは竹野川の河口で、竹野川を遡っていくと、扇谷とか奈具岡など弥生時代のハイテク都市や、弥生時代最大の墳墓である赤坂今井墳墓、卑弥呼の時代にあたる青龍3年(235年)の紀年鏡が出土した大田南古墳がある。 

 この鏡は、方格規矩四神鏡で、継体天皇の古墳とされる今城塚古墳がある高槻の安満宮山古墳から出土した鏡もまた青龍3年の方格規矩四神鏡であり、この二つが、日本で発見されている紀年鏡で最も古い2枚の鏡なのだ。

 竹野媛の出身の丹後の竹野は、弥生時代からとても栄えていた場所だが、鬼退治の物語にも象徴されるように、ヤマト王権とは異なる価値体系、世界観があり、その中心に、日神に奉斎する巫女がいた可能性がある。その日神は、後にアマテラス大神と呼ばれる女性神ではなかったのではないか。

 というのは、太陽神の性質というのは、歴史的段階を踏んで、変容していくからだ。

 古代エジプトにおいても、紀元前3000年の初期王朝、紀元前2500年の古王国偉大、紀元前1500年の新王朝時代で、変化していく。

 この太陽神の問題は、古代の謎のパズルを解く上で極めて重要なので、後日改めて記すが、第11代垂仁天皇は、竹野媛の姉で皇后となった日葉酢媛が死んだ時、もう殉死はやめようと、土師(はじ)氏の祖先の野見宿禰の助言を受けて、埴輪を作って生きた人の代わり古墳に埋葬したと記録されている。

 はづかし神社の場所は、古代、泊橿部(はつかしべ)の土地だったとされるが、泊橿部について実態はよくわかっておらず、土に関連する仕事に従事した泥部と同じ集団ではないかという説がある。

 4世紀末から6世紀前期までの古墳時代、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族が土師氏だが、土師氏という姓は、日葉酢媛の死に際して埴輪のアイデアを出した野見宿禰の功績に対して垂仁天皇が与えたもので、後に土師氏が担うような仕事を行っていたのが泥部とか泊橿部(はつかしべ)の人々だったのかもしれない。そして、その時、まだ埴輪が発明されていないとすれば殉死が行われていたということで、それは、高貴な人の死の時だけではなく、土木工事においても、洪水などの災害が起きないように神に祈願するために、人柱が行われていたのではないだろうか。泊橿部(はつかしべ)は、おそらくその人柱と関係あった。桂川と鴨川の合流時点は、古代から、たびたび川の氾濫が起こったことが記録されている。

 ここで考えなければいけないのは、自ら死を選んだ竹野媛の”はづかしさ”というのは、「恥を知れ」とか、「人と比較した劣等感」といった人間社会のルールや慣習の範疇の”恥”ではないだろうということだ。おそらくその恥は、西行の歌の、「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」の”かたじけなさ”に通ずるものだろう。

 巫女にとって神に身を捧げることは、身にあまるようなこと。かたじけないこと。

 また ”はじ”は、羞とも書き、ごちそうなどを人に羞める時に用いられるが、本来の意味は、羊の生贄を、うやうやしく、畏れ多く、はづかしさをもって、神にすすめることを意味する。

 いずれにしろ、竹野媛と日葉酢媛は姉妹であり、その死の時期は、殉死から埴輪へと変わる端境期にあたり、そのため、竹野媛の死は、埴輪以前を象徴するもだと洞察できる。

 垂仁天皇は、竹野媛の姿形が美しくないから返したのではなく、本来の場所、つまり神の元に帰した。

 なので、彼女が自殺をしたと描かれているのは、おそらく殉死(人柱)のことではないかと思う。

  「堕は、裂肉を聖所に埋める意味。聖所における呪禁の方法として行われる血祭。それは聖所を守るためのものであり、また同時に聖所を攻撃し、堕廃する方法であったと思われる。共感的呪術は、攻守とも同じ方法をとるのが原則である。(白川静 字統)」

 この白川さんの言葉からすれば、堕というのは、境界を鬼によって護衛する事に通じる。

 きっと堕国という地名の起源はそこにある。

 第1137回の記事で書いたように、ニニギが、妻として迎えることができないと親元に返した磐長姫が、平安京の北を護るために西賀茂大将軍神社に祀られているのと同じだ。

 そして、この堕国の地を、第26代継体天皇も、第50代桓武天皇も、都にした。

 桓武天皇の母親、高野新笠は、土師真妹の娘であり、土師氏の血を受け継いでいる。

 高野新笠の陵が、弟国宮(長岡京)の北西5kmほどのところの京都市西京区大枝にあるが、このあたりの山背国乙訓(古くは弟国=堕国)が、高野新笠の生まれ故郷ではないかと考えられている。

 そして、高野という姓は、桓武天皇の父、光仁天皇が即位する際に、賜ったものだ。

桓武天皇は、母親が土師氏と百済系の和氏の娘ということで出自は低く、さらに父親の光仁天皇も、生まれたからずっと天皇になる予定もなく、むしろ世継ぎ争いに巻き込まれないように慎重に生きていたのに62歳の高齢で即位させられ、桓武天皇即位への道が作られた。継体天皇と同じように、実に怪しい皇位継承となっている。

 高野新笠の生まれ故郷、堕国で亡くなった竹野媛の竹野は、”たかの”だった。そして、奈良時代の最後、孝謙天皇称徳天皇と女帝が重祚したが、この天皇は、「高野天皇」「高野姫天皇」と称され、奈良の平城京の北にある陵も、高野陵とする。

 竹野媛の”たかの”が、継承されているのである。

 桓武天皇というのは、継体天皇の宮、弟国に長岡京を造営しただけでなく、継体天皇のもう一つの宮、木津川沿いの筒城にある甘南備山を平安京造営の軸として、その真北に平安京の中心の朱雀通りを作り、朱雀通り沿いに、羅生門大極殿などを置いた。

 不可思議なのは、この朱雀通りを北に延長したところに、平安京の北を護るように、磐長姫を祭神とする西賀茂大将軍神社が鎮座し、さらに、大極殿羅生門のあいだの距離が、大極殿と西賀茂大将軍神社と同じであることだ。

 大将軍と名付けられる神社は、平安京遷都の時に、都を護る方位神として、平安京の四方に設置された。しかし、磐長姫を祭る西賀茂大将軍神社は、由緒によれば創建は609年、女帝の推古天皇の時代である。すなわち、平安京ができる前から、京田辺の甘南備山と西賀茂大将軍神社の位置関係が定まっており、その南北のライン上に、平安京の中心を持ってきたということになる。

 継体天皇から桓武天皇につながるこの不可思議な縁は、堕国の竹野媛といい、磐長姫といい、”甚凶醜(いとみにくき)」という理由で本来の場所に返されたもの”と関係している。

 このことが、日本の古代史を理解するうえで、極めて重要な鍵であることは間違いない。

 

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この地図上に、垂直と水平のラインがいくつかあるか、この中で、計画的に定められたと記録が残るのが、南北を貫く長いライン。一番南の甘南備山の頂上から真北を見て、平安京の朱雀通りを建設し、朱雀通り沿いに南を護衛するための羅生門を置き、その北に政治の中心の大極殿を置いた。しかし、不可思議なのは、その北の西賀茂大将軍神社(磐長媛とその家族神が祭神)は、平安京遷都以前からここにあった。それ以外のラインは計画的だという記録はないが、偶然とは思えない縁でつながっている。黒のマークは都のあったところ。継体天皇は、この領域で3度宮を造営したが、一番最初が石清水八幡のそばの樟葉宮。2番目が、京田辺の甘南備山のそばの筒城宮。甘南備山を基準に平安京は計画されたが、筒城宮の真北が、伏見の桓武天皇陵。継体天皇の宮の3度目の場所が、1番目の樟葉宮の真北の弟国宮で、桓武天皇も、ここに長岡京を築いた。さらにこの場所の向日神社が、明治神宮のモデルである。桓武天皇の母親の高野新笠の実家もこの弟国郡だが、その陵は羅生門の真西に作られた。そして、継体天皇桓武天皇の都となった弟国宮(長岡京)のすぐそば、真東のところが、羽束師神社ということになる。

 

 

 

第1139回 鬼とは何か? という本質的な問い(3)  古代の復活と、6世紀。

 6世紀、古墳の規模は小さくなったが、石室は大きくなった。そして、縦穴式から横穴式に変わった。単に、古墳の様式が変わったというのではなく、世界観が変わっている。この6世紀に起きた世界観の変容は、日本文化の本質を考えるうえで、きわめて重要ではないかと思う。
  4世紀から5世紀にかけて古墳はどんどん大きくなっていくけれど、当時の石室は縦穴式で、前方後円墳の頂上付近に盛り土を掘り下げる形で石棺が収められていた。石棺に大きな石をかぶせて蓋をするので、一度、死者を埋葬したら、2度とその中に入ることは想定されていなかった。高いところに埋葬されているので、死者の魂は、鳥のように天に上ると考えられていた。
 しかし、6世紀の古墳は、古墳自体の大きさは小さくなるが、石室は横穴式になって、巨石を積み上げるようになる。飛鳥の石舞台古墳や京都の蛇塚古墳が代表的だが、これらは、日本にある全ての古墳を対象に、石室の大きさだけで比較すると、上位6つに入る。石室の大きさの上位は、すべて横穴式になる。
 6世紀、古墳自体は小さくなっても、死者の領域(黄泉)は大きくなるのだ。
 しかも、これだけ巨大な岩を組み上げるために、盛土の上だと石の重みで沈下してしまう。なので、地面と同じ高さのところを、現在、新たに宅地開発するの時のように地盤強化して、つまり踏み固めて巨石を組み上げた。
 そして、横に出入り口があるので何度でも出入りできる。なので、縦穴式古墳の時のように1人の被葬者ではなく、複数の被葬者の棺が石室の中にある。親族なのか側近なのか、関係者が一緒に祀られているのだ。しかも、盛り土の上ではなく盛り土の下なので、死者の魂は天に上がっていけない。黄泉の世界は大地の中ということになる。

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茨木には、4世紀前半に作られた大きな前方後円墳(縦穴式石室)があり、6世紀、その古墳のまわりに横穴式の石室を持つ古墳群ができる。これは、柴金山古墳の近くの海北塚古墳。
 古墳時代の前期から中期(大古墳時代)と後期(6世紀から飛鳥時代)では、古墳の規模が変わっているだけでなく、かなり死生観が変わっている。
 そして、その後期の石室とかを見ていると、古代の磐座を見ているような気持ちになる。
 6世紀の石室を見て、私は、古代の復活を感じる。

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茨城童子が妖術の修行をしたとされる茨城市の竜王山の穴仏。
 縄文時代では、環状列石などの中に墓があり、その環状列石の横に集落がある。そして、集落の住居は地面を深く掘り下げており、人々は、そこで眠る。彼らは、現代人のように建物の中で活動するのではなく、基本的に建物の外で活動する。食事もそうだ。現在、流行のキャンプのように、毎日がアウトドアライフで、住居は、テントのように眠るためだけに存在している。
 テントで眠ることが好きな人は多いが、狭い方が落ち着くのだ。潜在的な記憶が子宮体験とつながっているかもしれない。
 なので、縄文時代の家屋が現代に比べて立派でない、という理由で縄文人の生活文化が劣っていたと判断するのは大きな間違いだ。
 しかも、縄文人は、狩猟採集を行っていたのに、生活する場所を移動させていない。動物や植物の状況に合わせて自らも移動して暮らすなんてことはやっていないのだ。学校教育に問題があるのか、移動生活する原始人のようなイメージで縄文人のことを考えている人は多い。
 縄文人は、現代人では想像もできないほど長期間、同じところに暮らしている。住居跡が重ねられていたりするので、何世代も同じところに住んでいる。何百年どころか何千年というケースもある。 
 それは、単に生活していくための糧を得られるベストな場所に住んでいたからという理由だけでないだろう。
 彼らは、毎日、大地で眠り、その同じ大地の傍には彼らの祖先が祀られている。彼らは、死者の魂と一緒に暮らしていた。彼らは死者の魂に守られて生活していたのだ。
 茨木には、紫金山古墳と将軍山古墳という4世紀の大きな古墳があるが、6世紀、その大きな古墳の周りに寄り添うように、古墳の規模は小さいが横穴式石室を持つ古墳が群れて作られるようになった。あたかも、彼らの祖先のそばに眠るように。

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これは、長いあいだ、中臣鎌足の墓だと思われていた茨木の将軍塚古墳。4世紀前半に作られた将軍山古墳に寄り添うように作られている。現在は、中臣鎌足の墓は、この古墳の北の阿武山の中腹の見晴らしの良いところに築かれた盛り土のない墓がそうではないかと言われている。
 ちょうどあいだの5世紀が抜けているが、5世紀は、古墳が最大になる時で、その5世紀の古墳は、大田茶臼山古墳という全国21位の規模の古墳がある。宮内庁は、この古墳を第26代継体天皇の古墳とみなしているが、継体天皇が生きた時代は6世紀なので、それは間違っている。
 そもそも、全国に16万基あるとされる古墳のどれが天皇陵であるか特定化の作業が行われたのは、江戸時代、徳川綱吉の時代からで、古事記日本書紀延喜式など文献資料で示されている場所や大きさが判断の根拠である。そのようにして決められていった天皇陵の治定は、1889年以降、変わっていない。
 考古学的には、この大田茶臼山古墳から東に1.5kmほどのところの今城塚古墳が、継体天皇の古墳とみなされている。この古墳は、天皇綾の特定化の作業の時代、地震によって崩れていたため全貌がよくわからず、そのため、立派な体裁を整えている大田茶臼山古墳継体天皇綾ということになったのだろう。
 重要なことは、この考古学的には継体天皇綾で間違いないとされている今城塚古墳は、6世紀の古墳なので横穴式であるか、その石棺は3つあり、兵庫県加古川の竜山石、奈良県葛城の二上山の凝灰岩という、それまでの時代、高貴な身分の人の石棺として作られていたもの以外に、阿蘇のピンク石の石棺があることだ。
 阿蘇という、非常に遠方から、わざわざ巨石を運んできて、それを、大王の古墳の石棺にしている。
 これは、古代史の大きな謎の一つとされていて、福井の豪族であった継体天皇と九州勢力とのあいだに日本海交易などで交流があった云々という通説になっているが、近場に良質の石があるのだから、たかが交流くらいで、阿蘇から巨石を運ぶ必要はない。
 その理由について私は、6世紀に起こった古代の復活、と関係していると睨んでいる。その鍵は、当然ながら、阿蘇にある。
 第26代継体天皇は、現在の天皇から過去に向かって皇統を辿れる天皇の最古である。継体天皇は、第25代武烈天皇から血統が断絶している存在なのだ。(第15代応神天皇の5代後の孫云々とされているが、当然ながら、こじつけである)。
 継体天皇の謎は、古代史の謎だが、その謎解きにおいて、多くの研究が単なる当時の勢力関係の分析にとどまっているが、日本の最古層につながる極めて重要なことが、そこに隠れている。
 阿蘇のピンク石を使った石棺というのは、考古学的に第26代継体天皇の古墳と判断される高槻の今城塚古墳だけでなく他にもある。そのほとんど全てが、6世紀の近畿に集中している。例外なのは5世紀のものが1、2箇所見られる吉備くらいである。(これについてはさらなる洞察が必要)。
 近畿においては、この地図において赤印で示している10箇所あり、この分布を見るだけで、6世紀にどういうことが起きていたか想像できる。
 

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 この10箇所は、いずれも6世紀の畿内の重要拠点であり、6世紀に影響力のあった有力豪族の拠点でもあった。黒いマークは、それらの豪族と関わりのある聖域だ。
 阿蘇のピンク石の石棺は、奈良盆地では、北から奈良市の野神古墳 。この場所は、古代、興福寺東大寺と並ぶ大寺であった大安寺のあるところで、大安寺の創始は、病床の聖徳太子を第34代舒明天皇が見舞った際に造営を依頼されたことによる。舒明天皇は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)であり、息長氏の血を受け継いでいる。
 息長氏は、継体天皇とも同族である。
 そして、奈良盆地の東端にそって南に行くと、天理市に鑵子塚古墳と東乗鞍古墳がある。物部氏の拠点の石上神宮から、それぞれ1.5km。
 さらに南に行くと、桜井市の兜塚古墳で、桜井は阿部氏の拠点で、阿部氏の氏寺である安倍文殊院がすぐ近くにある。
 そして、大和川にそって奈良盆地を西に抜けた藤井寺には長持山古墳があり、このすぐ近くに大伴氏の祖先神を祀る伴林氏神社があり、その南、羽曳野市に峯ケ塚古墳がある。羽曳野は、古代の高市郡で、日本書紀には、大伴氏の遠祖・道臣命が、神武東征での功労により大和国高市郡築坂邑に宅地を与えられたとの記述がある。
 そして、 奈良盆地の南、橿原市のところは非常に重要である。ここには植山古墳があり、これは、学会では推古天皇と竹田皇子の古墳ではないかとされているが、推古天皇の古墳は太子町にもあり、被葬者が移されたことになっている。
 その真偽はともかく、この植山古墳のすぐそばに丸山古墳がある。この古墳は、古墳が巨大化した古墳中期ではない6世紀に作られたものなのに日本で6番目の318mという大古墳で、石室(阿蘇のピンク石ではなく加古川の竜山石)の大きさは日本一なのだ。 
 この規模の古墳は、前方後円墳の円墳部分の上部に石室を築く縦穴式の石室が一般的だが、この古墳は、古墳の横から石室に至る横穴式の石室であり、しかも、円墳の中央部から大きくズレてしまっている。その理由として、中央部分まで掘り進めなかったからではないかと、おかしな説明がなされているが、よくわかっていない。
 丸山古墳は、なんとも不可思議な巨大古墳なのだが、この古墳が、継体天皇の息子の第29代欽明天皇であるという説と、天武天皇持統天皇の古墳ではないかという説がある。
 しかし、このすぐそばの平田梅山古墳が欽明天皇の古墳であるとする説もある。
 いずれにしろ、欽明天皇の古墳と仮定される二つの古墳と、阿蘇のピンク石のある植山古墳は、底辺500m、残り二つの辺が800ほどの二等辺三角形の位置関係であり、密接な関わりがあっただろうと想像できる。 
 仮に、阿蘇のピンク石の石棺を持つ植山古墳が推古天皇のものだとしても、推古天皇は、欽明天皇の娘であり、継体天皇の孫ということになる。
 さらに、阿蘇のピンク石の石棺があるもう一つの場所が、阿蘇のピンク石の謎を解く鍵になってくる。
 それは、滋賀県の三上山の麓、野洲の河口そばの甲山古墳と、円山古墳だ。
 なぜここが重要かというと、この場所から24点もの銅鐸が出土し、その一つは日本最大の大きさを誇るからだ。
 しかも、この二つの古墳がある大岩山古墳群は、3世紀後半~6世紀にかけて継続的に古墳が築造されており、主なものだけでも8基確認されている。
 つまり、この場所は、卑弥呼の時代の頃より、ずっと重要な場所であり、その場所で、6世紀、阿蘇のピンク石の石棺を持つ古墳が二基作られている。
 この地の豪族は安直氏であるが、和邇氏の一族であるとされる。古事記のなかでもっとも登場する氏族も、和邇氏(後の春日氏、小野氏)である。
 こうして見ていくと、阿蘇のピンク石は、奈良盆地を東にそって、奈良、天理、桜井、橿原市と続く5箇所と、奈良盆地から西の瀬戸内海に出ていく時の重要拠点である藤井寺(ここを流れる大和川は、現在は西に流れていくが、古代は、藤井寺付近で北上していた。つまり、奈良盆地の東端の三輪山と淀川を結んでいた)、高市(ここを流れる石川は、奈良盆地の西端の葛城の金剛山葛城山あたりと大和川経由で淀川をつないでいた)に1箇所ずつ、そして、奈良盆地日本海に出ていく時のルートの重要拠点である琵琶湖の三上山の麓に2箇所、配置されている。
 しかも、それぞれ、物部氏、阿部氏、大伴氏、息長氏、和邇氏という6世紀において影響力のあった古代豪族の拠点と、継体天皇、その息子の欽明天皇関係なのだ。
 阿蘇のピンク石のことを考える時、第26代継体天皇のことだけを考えていてはいけない。6世紀に、なぜ、阿蘇が出てくるのかを洞察しなければならない。
 そして、この地図を見ればわかるように、継体天皇の古墳のある高槻は、琵琶湖方面、瀬戸内海方面、そして大和盆地から、ほぼ同じくらいの距離のところにある。
 継体天皇が、即位した後、淀川や木津川のそばに都をつくり、20年、ヤマトの地に入らなかった謎について、ヤマトの旧い勢力を警戒していたからだと説明されることが多いが、おそらくそうではなく、新しい国際関係に直面する状況で新しいクニの秩序を築き上げていくうえで、最善の場所が、現在の茨木、高槻から京田辺あたりだったということだろう。
 その理由の一つは、ここが水上交通の要であり、さらに、各重要拠点との距離が最適だったということ。
 そして、もう一つの理由が、阿蘇のピンク石とつながる”古代の復活”に関係することではないかと思う。
(つづく)
 
 
 
 

第1138回 鬼とは何か? という本質的な問い(2) 京の都の背後にあるもの

識られざる神霊の支配する世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。道とは、その俘馘(ふかく)の呪能によって導かれ、うち開かれるところの血路である。

                               (白川静 道字論)

 

 境界を通って異なる世界に入るためには、最も強力な呪的力能によって、身を守ることが必要であった。そのためには、虜囚の首を携えて行くのである。このことの真意がわからないと、鬼というものもわからない。
 風の旅人の創刊の際、白川静さんに書いていただいた「真」のまことの意味は、このことを言っている。
 真とは、首がひっくり返った状態で、畏ろしいものだ。
 真実というのは、正しいことではない。裏表一体のものである。
 風の旅人を作っている時、常にそのことが念頭にあった。

 

 前回のブログで、磐長姫を祀る京都の西賀茂大将軍神社と羅生門が南北のライン(東経135.74)で、その二つの真ん中が、平安京の政治の中心、大極殿であることを書いた。

 そして、そのライン上を羅生門からさらに南に伸ばしたところに、京田辺市の甘南備山がある。

 甘南備山は、その名の通り山全体が神の山とされるのだが、この場所は、桓武天皇による平安京造営に際して、京都の中軸線として朱雀大路建設の目印にされたという。

 標高221mのこの山に登って、真北を見ると、右に比叡山、左に愛宕山がきれいに見え、二つの山にはさまれたところが平安京で、大極殿が築かれた朱雀通り(現在の千本通り)は、この甘南備山の真北にあたる。

 つまり、西賀茂大将軍社、大極殿羅生門、甘南備山は、一直線に並ぶ。

 

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甘南備山山頂から北を見ると、右手に比叡山、左に愛宕山が見え、その中央部が平安京であり、甘南備山の真北が朱雀通りで、そのライン上に、羅生門大極殿、西賀茂大将軍神社が並ぶ。

  そして、甘南備山の北麓は、鹿児島の大隅半島のオオスミの地で、大極殿までの一直線のライン上に月読神社が鎮座する。

 この場所は、隼人舞発祥の地で、大隅半島出身の隼人の居住地だった。

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京田辺市の月読神社。隼人舞発祥の地

 隼人は、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)で皇宮衛門の守護や行幸の護衛を行っていた。その声には悪霊退散の呪力があると信じられたため、儀礼において、官人入場のさい、隼人が立ち並び、そこを官人が通り、吠声を受けていた。 

 さらに、延喜式」の「隼人司」の項目の記録では、国の境界や、山川・道路が曲がっている所を通過する時にも、隼人の吠声が行われた。

 隼人の吠声は、祓いの儀礼と関係している。隼人が、異なる風習、異なる世界に生きている人たちであるという認識が持たれていたからこそ、その犬吠えが、境界を守る力になると考えられていた。

 東国の蝦夷が征伐された後、俘囚として連れてこられた蝦夷の民が、朝廷警護の役割を担っていたことも同じだろう。

 冒頭の白川静さんの言葉のように、もっとも強力な呪力を用いたのである。

 鬼退治された鬼が、守り神になるという構造が、ここにある。

 そして、平安京の真南の甘南備山の真西(34.81度)、15kmほどのところに、茨木童子貌見橋がある。

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 この場所は、第1135回のブログで書いたように、茨木童子が、川の水面に映る自分の姿を見て、自分が鬼だと覚ったところとされている。

 そして、この場所の南1kmのところが、第1135回のブログでも詳しく書いたように、東奈良遺跡の銅鐸の鋳型が出土した場所で、茨木童子貌見橋のあたりは、銅鐸の鋳型が35点も出土した日本最大級の銅鐸製造場所だった。

 さらに、茨木童子貌見橋の真北1.5km、パナソニックの工場敷地内だが、これまた日本でも最大級の規模、弥生時代の140基の方形周溝墓が出土した倍賀(へか)遺跡がある。

 伝承によると、茨木童子は16ヶ月の難産の末に生まれた時には歯が生え揃い、生まれてすぐに歩き出して、母の顔を見て鋭い目つきで笑ったため母はショックで亡くなり、父はその赤子を持て余し、隣の茨木村の九頭神(くずがみ)の森近くにある髪結床屋の前に捨てたということになっている。

 赤子で捨てられた茨木童子を世話したのが髪結床屋というのも象徴的で、髪結いの道具は、古代、若い女性を人柱にした習わしを象徴しているし、には生命が宿り霊力があると信じられていた。

 そして、赤子の茨城童子が捨てられたところ、九頭神の”クズ”というのは何か?

 古代、吉野には、国栖(クズ)と呼ばれる人たちがいて、神武天皇がヤマトに入る時も、壬申の乱の前に天武天皇が吉野の地に隠れている時も、”クズ”の人たちが支援している。”クズ”の人たちは、食生活など異なる文化を持っていた人たちとして記録されている。

 そして、吉野から奈良にかけて、たくさんの九頭神社が鎮座しているが、その多くの祭神は天手力雄命(タヂカラオ)である。

 天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る神社として有名なのが、長野県の戸隠神社であるが、ここは、もともと九頭龍大神が祀られていて、伝承では、九頭龍大神が、天手力雄命を迎え入れたとされている。

 スサノオの狼藉があり、アマテラス大神が岩戸にこもってしまい、世の中は暗闇になってしまった。そのアマテラス大神の手を引いて外に連れ出したのが、タヂカラオである。

 タヂカラオは、闇から光への復活と深く関係している。

 茨木を代表する茨木神社は、奥宮として鎮座する式内社天石門別神社が創建された時に始まるのだが、天石門別神社の祭神は、天手力雄命(タヂカラオ)だ。

 この天石門別神社は、茨木童子貌見橋の北、500mのところである。

 茨城童子と、九頭が、ここでもつながっている。

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右の縦のライン。西賀茂大将軍神社から、織姫社(今宮神社境内)、大極殿羅生門京田辺の月読神社、甘南備山と、南北に続く(東経135.74)。 甘南備山の真西(北緯34.81)が、茨木童子貌見橋。その真南が東奈良遺跡。真北(東経135.56)が、天石門別神社、倍賀遺跡、耳原の地の阿為神社御旅所、阿武山。その西北に茨城童子が妖術の修行をした竜王山があり、竜王山の真東が、茨城童子と同一とされる鬼女、橋姫を祀る宇治橋がある。

 

 ちなみに、第1135回のブログの記事で、茨木童子は、宇治の橋姫と重ねられていると書いたが、宇治の橋姫が、嫉妬のあまり愛して男を殺したいと考え、自分を鬼にしてくれるようにと祈るのは、貴船神社の丹生大明神である。

 丹生は、水銀関係の土地と関わりが深いが、特に吉野の地にこの地名は多い。貴船の大明神に仕える鬼たちも、吉野の鬼たちだ。そして、吉野は、上に述べたようにクズの地である。ゆえに、九頭神と関わりの深い天手力雄命(タヂカラヲ)を祀る天石門別神社のそばに、茨木童子貌見橋があるのも不自然ではない。

 天石門別神社の真北5.3kmのところに藤原鎌足の墓ではないかと騒がれた阿武山古墳が発見された阿武山が聳え、その南麓に阿為神社が鎮座する。

 藤原鎌足の勧請で創建されたと伝わるが、祭神は、天児屋命アメノコヤネノミコト)である。

 アメノコヤネノミコトは、タヂカラオとともにアマテラス大神の復活に関わっており、アメノコヤネノミコトは、アマテラス大神が岩戸に閉じこもってしまった時、岩戸の前で祝詞を唱える。

 阿為神社の真南1.6km、タヂカラオを祀る天石門別神社の真北2.5kmのところに阿為神社の御旅所がある。

  御旅所というのは、祭りの時に神輿が立ち寄ったり、神輿が向かう目的地である。神輿は、祭りが終わるまでそこにとどまり、祭りの終わりに神輿は元の神社に戻ってくる。御旅所は、その神社と関係の深い土地であり、もともとの鎮座地であることも多い。つまり、茨木童子貌見橋の近くに、アマテラス大神復活と関わりの深いタヂカラオアメノコヤネノミコトの聖域があることになる。そして、阿為神社の御旅所が鎮座する場所は、今でも、耳原という地名で、耳原古墳なども存在している。

 ミミというのは、『古事記』および『日本書紀』では、和泉地方に陶津耳(スエツミミ)、丹波地方に玖賀耳(クガミミ)、また但馬地方に前津耳(マサキツミミ)、三島の摂津地方に三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)が記録されているが、いずれもその地方の首長と考えられている。

 茨木童子貌見橋のあるところは三島地方であり、この地の首長、三嶋溝咋(ミシマミゾクイミミ)の娘の玉依姫が事代主(古事記では大物主)と結ばれて、神武天皇の皇后のヒメタタライスズヒメを産む。

 谷川健一は、『青銅の神の足跡』のなかで、ミミの人は、もともとは南方系の海人で、漁労に長けていただけでなく、稲作農耕や金属精錬技術も習得していたと記している。

 そして、ミミの人たちは、鬼退治される側でもあった。

 第10代崇神天皇の時、 丹波大江山は「陸耳御笠(くがみみのみかさ)が支配していて、が日子坐王(ひこいますのきみ・崇神天皇の弟)に退治されたという話が古事記などに残っている。

 三島の”ミミ”の人たちも、歴史のある段階において、鬼という立場になった可能性がある。

  しかし、その三島の地は、銅鐸の鋳型が35点も出土し日本最大の銅鐸工房の一つとされる東奈良遺跡や、140という日本でも2番目の数を誇る方形周溝墓の倍賀遺跡などを見ればわかるように、弥生時代、日本でも有数の先進地帯を築いていた。

 ならば、この弥生時代の先進地帯を築いた人たちが、ミミの人たちで、この人たちと、後からやってきた人たちとのあいだに、血なまぐさい抗争があったのだろうか?

 それとも、この場所に、もしかしたら縄文時代から活動していた人たちがミミの人たちで、後からやってきた東奈良遺跡や倍賀遺跡を築いた人たちが、強力な武器をもって鬼退治を行ったのだろうか。

 いずれにしろ、アマテラス大神が岩戸に隠れ、タヂカラオの手によって外に導き出されるのだから、アマテラスで象徴される太陽神は、もともとミミの人たちの神様で、鬼退治で象徴される出来事の後、いったんは、その霊威を失うが、後に復活させられたと考えることが自然だ。

 アマテラス大神が岩戸隠れをする原因は、スサノオの暴力であるが、具体的には、丹生都比売と同一とされる稚日女尊(わかひるめ)が機屋で美しい布を織っている時、皮を逆さに剥いだ天斑馬(ふちこま)を投げ入れて驚かせ、殺してしまったことがきっかけとなる。

 これは、いったい何を意味しているのか?

 古代において布は非常に神聖なもので、機織りは、巫女の仕事だった。

 神の降臨において、巫女が自ら織った神布を捧げ、神の一夜妻となる。

 このビジョンは、七夕祭りにも流れている。

 日本では古来より、民間信仰のなかに「棚機津女=棚機女(たなばたつめ)」という行事があった。

 それは、水辺につくられた棚機(横板の付いた織機)で乙女が布を織り、神を迎えることを行事化したもので、巫女が神の降臨を待って人里離れた水辺の小屋で一晩過ごし、翌日に笹竹の飾りを川や海に流して穢れも流す。この「棚機女」の信仰と、中国から伝わった「織女伝説」と結びついて、今日の七夕の風習ができた。

 川に流すことで浄めるという発想は、祓いの神、瀬織津姫に重なる。

 宇治の橋姫は鬼女として伝えられるが、もともと川にかかる橋の神は、外敵の侵入を防ぐ守護神である。そして、この宇治橋は、祓いの神、瀬織津姫が祀られていた。

 鬼の橋姫を祀る宇治川宇治橋は、第1135回のブログでも書いたように、茨城童子が妖術の修行をした茨木市の北に聳える竜王山の真東(北緯34.89)である。

 伊勢神宮の内宮に渡るところにも宇治橋がある。

 この宇治橋は、中世、鎌倉時代から室町時代に架けられたもので、もともと橋はなくて、五十鈴川の浅瀬を直接渡っていた。そして、今でも同じだが、御手洗場まで行って清めてから参拝を行う。この場所が、川の神を祀る聖地だ。

 この川の神が、もともとの伊勢の大神で、それが瀬織津姫だった。

 瀬織津姫は、皇大神宮の内宮のすぐ後ろに「荒祭宮」にアマテラス大神の荒魂として祀られている。

 内宮には、別宮が10社あるが、その中で、内宮神域にあるのはこの荒祭宮だけで、内宮と同格の扱いを受けている。

 そして、皇大神宮には、アマテラス大神が祀られていることは誰でも知っているが、実は、皇大神宮の祭神はアマテラス大神ではなく、相殿神として、左に、アマテラス大神を復活させたタヂカラオ、右には、織物の神であり天孫降臨のニニギの母親である栲幡千千姫命たくはたちひめのみこと)が祀られている。

 神話は、物語が重層化して複雑になっているが、構造としてはシンプルである。

 天孫降臨のニニギの母親も織物の神であり、つまり、水辺に作られた織機で布を織って神と交わる巫女である。この栲幡千千姫命は、甘南備山、羅生門大極殿、西賀茂大将軍神社のライン上の、大極殿の北に鎮座する今宮神社境内の織姫社に祀られており、西陣の織物関係者たちが大切に祀ってきた。

  織姫の息子で天孫降臨したニニギは、オオヤマツミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメと出会う。

 日本書紀、一書(第六)において、2人の出会いの場面がこのように記述されている。

天孫、また問ひてのたまはく、「其(か)の秀(さき)起(た)つる浪穂(なみほ)の上に、八尋殿(やひろどの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に、機(はた)織る少女(をとめ)は是(これ)誰(た)が子女(むすめ)ぞ」…

  この記事からもわかるように、コノハナサクヤヒメも機織りの巫女なのである。

 そして、コノハナサクヤヒメは、一夜で身籠もる。まさに、一夜妻である。

 織物の神は、巫女であり、川の流れに穢れを流す祓いの神でもあり、また川にかかる橋の神として外敵の侵入を防ぐ守護神となる。

 川の流れは、龍神に喩えられることもあるが、時に人々に恩恵を与え、時に凶暴な牙をむく。それは、自然現象においてもそうだったが、人間界においても同じだった。つまり、マレビトは、海だけでなく、川をも伝ってやってきたのだ。

 折口信夫は、「客人」を「マレビト」と訓じて、それが本来、神と同義語であるとした。

 外部からの来訪者(異人、まれびと)に、宿や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられるが、その時、一夜妻となる女性がいて、その女性は、神と交わる巫女と同一となった。

 マレビトは、新しい知識や新しい技術を伝える役割も果たしていた。

 そして、マレビトと結ばれて同族化していく人たちもいただろうし、マレビトとはうまくいかない人もいた。

 磐長姫で象徴されるものたちが、後者だった。

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茨城童子が妖術の修行をした竜王山の磐座、負嫁岩。

 イワナガヒメは、名の通り、岩の神の霊威を伝える。それは、古代から延々と伝わってきているものである。しかし、ニニギにとって、それは、異形のもの、異世界のもので、自分のものにはできない畏れ多いものだったのではないか。

 ニニギに拒絶されたイワナガヒメの恨みが、日本書紀に記されている。

 磐長姫、大きに恥じて詛(とこ)ひていはく…故、生むらむ児(みこ)は、必ず木(こ)の花の如(あまひ)に移(ち)り落ちなむ」…。

…磐長姫、唾(つば)き泣(いさ)ちていはく「うつしき蒼生(あおひとくさ)は、木の花の如(あまひ)に、しばらくうつろひて衰去(おとろへ)なむ。

 「生まれる御子は、必ず木の花のようにはかなく散り、この世に生きている青人草は、木の花のごとくしばらくうつろって衰えることになる」と。

 イワナガヒメが激しく慟哭しながら呪詛の言葉を吐いているようにも見えるが、言っていることは、世の無常である。

 これは、まさしく般若の世界である。

 女性の憤怒 (ふんぬ) と嫉妬 (しっと) とを表した般若の面。

 目を見開き、眉間にシワを寄せた恨みの表情は、恐ろしくもあるが、悲しさや、恥ずかしさや、後ろめたさがある。
 その鬼を鎮める祈祷が、般若心経である。
 源氏物語の「野宮」を題材にした能で、鬼の形相になった六条御息所は、般若心経によって鎮められる。

 般若は、仏の智慧であるが、その核は、空の思想であり、それは、「無常」つまり「この世に常なるものはない」と悟ること。

 磐長姫は、鬼の形相で、無常を語っている。その霊威は般若そのものであり、ニニギには、手が出せない畏れ多いものだった。

 娶らなかったというより、神の元に置いたままにした、ということだろう。

 山の中の磐座の神威は、ニニギの時代も、それより遥か前の時代も、そして現在も、神の依り代として永遠の霊威を保ち続けているのである。

                                 (つづく)