第1149回 村上春樹氏の SNSに対する言葉について

 村上春樹氏が、 SNSについて言及した言葉が、話題になっているようだ。

「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない」 これについて、茂木健一郎さんが、「ぼくはSNSを文章の質で評価する発想はなくて、もちろんマジメな意義もあるけど、本質的に『気晴らし』や『雑談』の場だと考えている。村上さんはネットの雑多な感じがお苦手なんだろうなあと思う」と述べている。

 茂木さんは、村上氏が、雑多な感じが苦手なんじゃないかと見解を述べているけれど、村上氏は、「人生にとって・・」という答え方をしているので、もっと明確な意思を持っていると思う。

 たとえば、暴力ばかりの映画とか見ない方がいいというレベルで、SNSは心の形成に悪い影響があるという意識を村上氏は持っていて、その思いを間接的に表現しているんじゃないだろうか。

 世界のことを知るために色々と雑多なことに触れた方がいいという判断は、わりと大勢に共感支持されていることだが、世界のことを知るというのは、表層的な現象の移ろいを知るということではなく、その本質を知るということだけれど、洪水のように押し寄せる雑多なことに埋もれているうちに、本質を知る直観のようなものが薄れてしまうことがある。官僚の不祥事などもそうだが、頭もよくて、マトモに見える人が、なんでそんなことを、と思うようなことを平気でやってしまうのも、物事の本質にアクセスする感性を麻痺してしまっているからだろう。

 今ではどうだか知らないが、昔の骨董屋さんは、後継が子供の頃から、いい物、本物しか見せなかったそうな。本物と偽物を色々見て、その違いを理解し、それを覚えることが物を見極める目を育てることにつながるんじゃないかと、おそらく現代人の多くは思っているけれど、実はそうではない。

 そういう理屈分別によって身につけた判断基準は、いざという時に役に立たない。

 本物だけを見て育った目は、偽物が目の前に持ち込まれた瞬間、その物が漂わせている気配を感じ取るだけで、それが偽物だと瞬時に察知できるそうな。目が肥えているというのは、そういうこと。本物のオーラの記憶が自分の中に蓄積されていることで初めてできること。

 これは骨董に限らない。魚のセリの第一線に立つプロも、当然そうだろう。彼らは、うまい魚しか食べていない。

 言葉は人生においてとくに重要な道具だから、人の発する言葉を見極める力は重要だ。村上氏が、上等な文章、とかマズイ文章とか言っているのは、文章が下手か上手かということではなく、内容が本質的か、そこからかけ離れているかということを言っているのだろうと思う。

 本質にそった言葉の経験をせずに、表層的な情報のキャッチボールばかりしていると、たしかに、その取り扱いにも配慮ができず、言葉の取り扱いに配慮できない言葉の使い手によって、SNSは、たちまち暴力的な装置に変身する。

 それにしてもなぜ、SNSの言葉が、まずい文章になりがちなのか?

 それは、「言葉」というものの性質として、言うに言えない微妙な領域を言葉にしようと足掻くプロセスを経て磨かれていくものなのに、SNSにおける言葉は、その葛藤を経ずに放たれるものばかりになってしまうからだろう。その結果、言葉の背後を読みとることで理解するという、人とのコミュニケーションにおいて重要な力が、失われていく。

 そして、一人ひとりは、自分の中の言うに言えないものを抱え込んだまま、その解消のために、わかりやすい共感に逃げ込むが、言うに言えないものがなくなるわけではなく、にもかかわらず言葉は溢れかえっているため、自分は、世界から置いて行かれているような気になり、孤独と不安は深まる。

 たった一つのいい言葉、いい音楽によって慰められたり救われたりするのは、たった一つでも自分の中の言うに言えないものが昇華されるものに出会うことで、自分の中の孤独が、世界の中で完全に孤立したものではないことを実感できるからだろう。それが耐える力にもなる。

 本当の共感は、そういうものであり、その共感は、安易に、いいね!とはできない。

 村上氏は、人生にとって大事なことは、いい文章といい音楽に触れることと、あえて音楽をいうことを持ち出しているけれど、この場での本題は、言葉であって、音楽について触れているのは、言葉だけに限定すると知識分別の領域に狭められてしまうので、音楽をくわえることで、SNSによって悪い影響を受ける可能性のある感性のことを指し示しているのだろう。

 村上春樹がどこまでの思いを持って、SNSに対して言及したのか正確にはわからないけれど、趣味嗜好の問題ではなく、人生にとって大事なことは何なのか?という問いがベースにあることは間違いないと思う。

 

 

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第1148回 民族が積み重ねてきた歴史文化風土

 

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【かんでんコラボアート】 2月26日(金)〜3月3日(水) 平日10:00〜19:00 土日10:00〜17:00 最終日は15:00まで 堂島リバーフォーラム 1階ホール 大阪市福島区福島1-1-17

 10年以上前だけれど、風の旅人の第39号で、日本のアール・ブリュットを欧米で紹介するために、フランス語版を作った。

 障害を持っている人たちが、施設などで絵画制作を行っていることは、様々な国々で見られることだと思うけれど、欧米では、それらを障害者の人の絵という概念ではなく、魂の芸術として評価しようという動きがあった。

 日本では、そういう考えはまだ浸透していなかったけれど、実際に彼らの作品は素晴らしいもので、制作者のバックグラウンドなど関係なかった。

 ただ、「魂の芸術」とか、そういう風にくくっていくと、現代社会では、たちまちカテゴライズされてしまう。

 たとえば、芸術が、商業主義世界の単なる一手段、一素材に成り下がったことに対するアンチとしてポストモダンが登場しても、たちまちポストモダンの寵児のように特定の誰かをもてはやし、その人や作品の露出が増えて作品にプレミアム価値がついて、心にどれだけ訴えてくるかなんて関係なく高額で取引される商品になってしまう。その商業主義に陥ったアート産業の中で新しいとか古いという競争が行われる。さらに、その現象を見て育つ若い人が影響を受けてしまい、そこに仲間入りをしたいという夢を抱いて似たようなものを再生産するというポストモダンの流行と商業化と世俗化が蔓延し、挙句にムーディーズのような企業格付け会社みたいな評論家が登場し、そこに擦り寄る制作者も増えて、アートという看板を掲げた縁故社会ができる。

 アール・ブリュットなどにしても、その物珍しさに目をつける仕掛け人が出てくると、たちまち、商業アート界の一ジャンルのようになってしまう。

 商業アート界とは違ってアール・ブリュットの制作者は、他人の目や世の中の流行などまったく無頓着に、淡々と、制作をし続けているだけなのだけれど。

 私は、風の旅人の第39号で日本の様々なアール・ブリュットを見た時、欧米人が制作したものと、かなり違っていることが、興味深かった。

 アール・ブリュットは、素晴らしい芸術の多くがそうであるように、画面がたとえ静寂であったとしても、ある種の烈しさが漲っているのだけれど、日本人作家のものは、生命の躍動や律動や連続を感じるものが多いのに対して、欧米作家のものは、烈しさが、自我の叫びのように伝わってくるものが多い。

 日本と欧米では、やはり、自我の在り方が根本的に違う。欧米は、個が屹立して生きることが当たり前の社会で、日本は、つながりが当たり前の社会。”当たり前”というのは、暗黙のうちに、そういうものでなければならないという意識がどこかにあって、家族、学校、会社などにおいて、慣習とか仕組みが、そういうことを前提にしていて、その環境の中で人々は生きている。

 なので、欧米の個人主義を、形だけ日本に輸入しても、歪なものになる。

 欧米の影響を受けすぎている社会において、そういう違いは見えにくくなっているのだけれど、アール・ブリュットには、はっきりとその違いが出る。

 それは、アール・ブリュットの制作者が、人の目を気にしたり、世の中の評価を気にしたり、他人の傾向をウォッチしたりとかまったく行っていないからだろう。

 創造的な芸術というのは、本来そういうもので、だから歴史に残る芸術家の多くは、周りから偏屈だと思われてきた。現代のようにサービス精神が旺盛な制作者で、頭に思い浮かぶ歴史上の芸術家は、誰もいない。

 現代のようにコマーシャリズムが発展しすぎて、情報を見て見ぬふりをすることも難しい時代に、時代社会や他人の影響を受けないという表現は、とても難しいのだろう。その結果、最終的に、みんな同じようなものになってしまう。

 地球上の全ての国が、どんどんフラットになって、同じようになってしまうことを良きことだと考える人もいる。

 しかし、人間は、生きている環境世界、自然風土、歴史風土、文化風土によって違って当たり前で、異なる風土を無視すると、日本の俄仕込みの個人主義のように歪なものになってしまう。(欧米の個人主義における”個人”の孤独と、その孤独に対する覚悟は、日本とは比較にならない。砂漠の民と森の民では、その世界観がまったく異なる。)

 アール・ブリュットが、魂の芸術家どうかはどうでもよいが、ただ一つ言えることは、創造における感情の先端部分において、その民族が積み重ねてきた歴史文化風土の凝縮液が出るのではないかと思う。

 日本のアール・ブリュットをずらりと並べて見た時、当時の私が、八ヶ岳に通って縄文土器土偶の野焼きなどを行っていたこともあって、縄文の世界観に通じるものを強く感じた。

 しかし、欧米のアール・ブリュットには、それを感じなかった。

 私は、日本と欧米のものしか知らないけれど、南米やアフリカ、イスラム世界、インド世界、アジア世界など世界中の国々で、他人の評価を全く気にせず、流行には関心を持たない人たちが黙々と作り上げてきたものを並べてみたら、どんな感じになるんだろう。

 個性というものが一体なんなのか?ということと、個性を超えた人間の普遍性というものも見えてくるかもしれない。

 

 

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第1147回 アメリカの横暴と、大統領との関係について思うこと。

 バイデン氏が、第46代アメリカ合衆国大統領に就任した。78歳というのが過去最高齢ということは知っていたが、就任式で歩く姿を見て、お年寄りの雰囲気が漂いすぎていて、少し不安になった。年齢に関係なく元気で、頭も冴えて、適切な判断ができる人もいるだろうが、前任者のトランプ大統領が、あまりにもギラギラしていたからか、バイデン氏には、枯れた印象がつきまとう。
 極度の物質文明で世界をリードしてきたアメリカが枯れていくのは、物質文明が鎮まっていくことにつながりそうで、それはそれでいいのだが、現存するギラギラした輩(軍産複合体など)と、トランプ大統領のように張り合っていけるのだろうか?
 オバマ大統領は、口から出る言葉はノーベル平和賞が与えられるほどの穏健派だったが、実際は、戦争ばかりやっていた。それに対して、過激派のようなトランプ大統領の時代は、アメリカが発展途上国などを新兵器の見本市にすることはなかった。だから、トランプ大統領は、世界中の良識派以上に軍産複合体に嫌われていたことは間違いない。
 私たち日本人は、アメリカ大統領を選ぶ権利がないが、アメリカ大統領は、国際的に大きな影響力を持つので、関心は高い。その際、どうしても、その人の表面化する性格とか言動に意識がいってしまい、トランプが好ましいか、バイデンが好ましいか、という議論になってしまう。
 自分の国の政治家を選ぶ場合、ほとんどの人が、候補者の印象で投票してしまうのは仕方ないが、他国のリーダーを見る場合は、少し違う視点が必要だと思う。
 アメリカのリーダーに対する好感度と、日本や世界への悪影響が、リンクしているわけではないからだ。
 誰がアメリカ合衆国の大統領になろうが、国益を優先するのは当然のことで、アメリカという巨大な国が、その国益を優先した政策をとる時、世界は、大きな影響を被る。その最たるものが、発展途上国などを舞台にした内乱や戦争だ。アメリカは、言うまでもなく世界最大の武器製造国であり、作った武器は、使われなければ商売にならない。とくに新兵器は、実戦こそが、最新技術のお披露目になる。
 そして、現代のアメリカのニューディール政策は、公共事業よりも、海外での戦争だった。アメリカが、世界を不安定にすることで経済復興を遂げてきたのは、歴史を見れば明らかだ。リーマンショック後の経済危機の時だってそうだ。
 これまでのアメリカは、大義名分をふりかざして、けっして悪いことはしていないと饒舌に語りながら、それをやってきた。オバマ大統領のように、善人の顔をしながらそれを実行してきた(圧力に負けてさせられてきた?)。
 また、2001年の9.11のアフガン侵攻からはじまった長期の戦闘などが典型的だが、巨大なアメリカが一枚岩となり、国民の90%以上が大統領を支持するような偏った状況になると、戦争が止まらなくなる。
 そして、そうしたアメリカの戦争の深刻さはあまり伝えられず(それに反発するテロ行為の大々的な報道に比べて)、大衆メディアは、大統領の好印象を伝えながらアメリカの行為を正当化していく。これが、従来のアメリカのやり方だった。
 しかし、トランプ大統領になって、なんだか奇妙なことになった。
 対外戦争がなくなり、メディアは、トランプ大統領を敵にまわし、アメリカは一枚岩ではなく分断された。
 もちろんそれは、トランプが善人とか悪人とか、そういった表層的なことが原因でそうなったわけではない。ただ、もしかしたら、不動産が主戦場だったトランプにとってのニューディール政策は、対外戦争ではなく、国境に壁を築くといった時代遅れの公共事業だったからかもしれない。
 いずれしろ、トランプは、彼独特の性格ゆえか、陰で悪さをするのではなく、表立ってムチャブリをしていたので、誰もがアメリカを警戒をした。
 もし、トランプが、オバマ政権の時のような他国を舞台にした戦闘行為を行ったりしたら、世界中で一斉に非難の声があがったのではないか。「ああ、やっぱりやると思った、なんてヤツだ。」と。
 アメリカで、自分の利益を優先して悪どいことをやりたい輩は、トランプが過激すぎるので、こっそりと悪どいことをやりにくかったのではないだろうか。「しばらくは黙っていてくれ」と言えば、オバマは賢明に従っただろうが、トランプはすぐにツイッターで暴露してしまいそうで。
 それが、トランプの天然なのか、高度な戦略なのかわからないが、とにかく、アメリカの次の一手に対して、世界中が警戒していたことは間違いない。
 トランプというのは、アメリカの横暴を計るためのセンサーになっていた。そして、アメリカは、歴史をふりかえってみても、トランプでなくてもいつも横暴だった。強大な力を持っているのだから、その力を使いたくなるのは当然なことだ。
 問題は、それが、アメリカの正義として誤魔化されてしまうか、アメリカの非道として明らかになるかの違いだけ。
 バイデン大統領になったとたん、アメリカが、自国のことより世界のことを優先するようになるはずがない。それは、どの国の指導者だって同じ。
 温暖化問題への取り組みなどにしても、大統領1人の意思でなんとかなるはずはなく、産業界の意思としてそれができるかどうか。
 大統領が強硬な意思を持って、産業界その他の利益を損なってでも何かをやろうとすると、過去の歴史では、暗殺されてしまった。
 アメリカ大統領について、選挙権を持たない私たちが、自分だったら誰に好感を持ち、誰に投票するかといった視点で、論じない方がいいと思う。
 アメリカの影響を受けざるを得ない状況で、さらにアメリカの国益第一というスタンスがそんなに変わるはずがないとしたら、その悪事がわかりやすい状態であるというのも、警戒を怠らないようにするためには、決して悪いことではない。
 もちろん、それがベストだなんてまったく思わない。しかし、トランプよりも厄介なのは、メディアも一蓮托生となって好イメージだけをふりまき、あげくにノーベル平和賞まで受賞し、にもかかわらず、酷いことをたくさん行ってきたオバマ大統領のような存在なのだ。
 それは、オバマ大統領個人が悪人だからそうなるということではなく、アメリカの軍需産業を含む巨大な産業界にとって、誰が、脅かしやすくて動かしやすいかという違いによるものだと思う。
 トランプは、巨大メディアを敵視していた。その敵視の仕方は極端のようにも見えるが、本質的な部分でもある。巨大メディアの害は、日本でも同じだ。
 これまでのアメリカでも日本でも、あれだけ巨大メディアを敵にし続けて政権運営を行ってきたリーダーは、かつてなかったのではないか。
 トランプ大統領には、オバマやバイデンのような賢明さがない。そのクレイジーぶりが周りに危険な人物であるという印象を与える。
 しかし、暴力団などでも一番恐ろしいのは、凶暴さがはっきりと表に出ている者ではなく、賢明で、したたかで、周りに好印象を与えながら心が冷血動物のような輩だ。
 バイデン大統領がそうだとは思いたくないが、なにせ78歳であり、任期中に80歳を超える。エネルギーも気力もそんなに続かない可能性があり、バイデンが好印象をまわりに振りまいて表に立ち、誰か他の人物が陰で動くということもある。その輩が、したたかな冷血動物でないことを祈ろう。トランプ大統領の時のような、わかりやすさ、見えやすさが無くなるので、より警戒が必要だ。
 

第1146回 新年の誓い

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 去年の1月3日、年のはじめに、年内にこれだけはやり遂げることを決めようと考えていて、年末に鬼海弘雄さんを見舞いに広尾の赤十字病院に行った時のことを、ふと思い出した。

 その時、ピンホールカメラで撮っている写真を鬼海さんに見せたところ、「本にしろよ」と言われた。「まだ早いでしょ」と答えると、「もう十分、このあたりで本にまとめないと整理がつかなくなるぞ」と、さらに背中を押された。 もちろん、「やります」とは答えず、そのまま、その時のやりとりは忘れていたけれど、年が明けて、一年の誓いを考えている時、鬼海さんのことを思い出した。

 鬼海さんの病は進行していたので、鬼海さんに本にしろと言われた以上、鬼海さんが元気なうちに本を完成させたいという気持ちが高まった。それですぐに制作を開始した。ほぼ毎日、朝から晩までかかりっきりだったので、3月末には印刷も完成して、すぐに鬼海さんに送った。けっこう文章も多かったのだけれど、鬼海さんは、文章も読んで感想をくれた。 一度の電話だけでなく、なんども電話をくれて、そのたびに、色々と感想をくれた。

 鬼海さんは、6月ごろからは文章を読むのも辛くなっていたので、間に合った、という感じだった。 鬼海さんに言われたように、このタイミングで本にしたことは正解だった。本にすることで、自分がやろうとしていることが、より明確になり、そのうえに、さらに取材を重ねることができた。 鬼海さんのアドバイスを真摯に受け止めて本にすることをしなかったら、その後の取り組みも、もう少し薄っぺらいものになっていたかもしれない。

 本にしろよ、というのが、鬼海さんの遺言であるので、今年も続けて、Sacred World 日本の古層を本にすることを年初めの誓いとする。 世の中の誰がどう評価してくれるかなどというのは二の次で、天国にいる鬼海さんに向けて、Sacred world VOL.2を作ること。

 風の旅人の時は、日野啓三が亡くなった後に始めたけれど、作りながら、これを日野さんが見たらどう感じるだろうか? ということだけを考えていた。何やってんだよという恐い顔か、なかなかいいね、と満足そうに微笑んでいる顔か。

 自分にとって一番確かな指針は、自分が尊敬する人にどう受け止めてもらえるか、ということを想像すること。たとえその人が、すでにこの世から去っていたとしても。この指針さえあれば、軸がブレることはない。

 忘れもしない、今から10年前の2011年の正月、私は、年末から高野山にずっとこもっていた。高野山は、何十年ぶりかの大雪で、その雪量は凄まじいものがあった。そして私は、早朝、大雪で参道が埋もれた高野山奥の院に、空海廟まで、毎日のように足を運んだ、1000年以上続いている、空海に朝食を奉仕する儀礼に参加するためだ。その時は、高野山の僧侶と私以外、奥の院空海の霊廟には誰もいなかった。

 その儀礼に参加するため、真っ暗闇のなか、奥の院の参道を30分ほど歩き続けるのは、心底、恐ろしかった。参道の周りには、高名な戦国武将の墓を含め、数千の墓が立ち並んでいたからだ。 冗談抜きに、私は、恐怖で涙まで流していた。そして今でもはっきり覚えているが、途中の参道があれほどまで恐ろしかったのに、一番最奥の空海廟に近づいた時、ふわりと空気が和らぎ、恐怖が消え去っていた。

 そして、高野山の僧侶は信じ続けている生き仏の空海に朝食を奉仕した後、30分ほどの勤行。ひたすら祈るような思いでその声を聞き続けていたが、あの時、いったい何を祈っていたのだろう。個人的には色々な思いがあったかもしれないが、大した悩みなどなく、悩みがないのが悩みなどと惚けたことを口にしていたのに。

 しかし、高野山の大雪のなかで、数日こもって風の旅人の第43号の企画を構想した。テーマは、「空即是色」だった。下山してその内容にそって制作を進め、発行は6月1日だったから、デザイン作業はほぼ終了していた。その時、3.11の東北大震災が起きた。私が準備していた風の旅人の第43号は、表紙も含め、東北大震災を心の深層で予感していたような内容だった。私は、すぐに東北に飛び、取材をして、ほぼ完成していた43号の最後の10ページに、3.11後の取材を付け加えて、印刷を行った。あまりにも、高野山で構想したことがシンクロしていた。正確に言うならば、43号の内容は、震災後の祈りとシンクロしていた。

 非科学的なことを、科学万能の現代社会で口にしてもあまり意味がないが、風の旅人の43号という本が、3.11の震災前に企画構想されていたことは事実であり、でも多くの人は、その内容を見て、3.11の震災の後に企画されて作られたと思うかもしれない。

 人がどのように受け止めるかなんて、どうでもいいが、あれから10年が経ってしまった。この10年は、自分でも、これまでの人生で一番キツイ10年だった。

 私は、誕生日が1月1日で、10年単位の2011年、2001年、1991年、1981年が、私にとって、20代、30代、40代、50代になる直前の年で、なぜかそれらの年において、その後の私の10年に多大なる影響を与える出来事があった。 そのたびに私は、それ以前の10年には、まったく想像もしていなかったことを始めたり、それまで一生懸命にやったことを無にしてしまうドロップアウトを繰り返してきた。 大学を辞めたり、会社を辞めたり、会社を始めたり、風の旅人を作ったり、風の旅人を辞めたり。10年の始まりの年は、まさに、始まりと終わりが一つになる境目だった。

 1981年には、イスラエルイラク原子炉攻撃やエジプトのサダト大統領が暗殺された。エイズという新しい病が世の中に出てきたのもこの年だった。私は、大学を辞めてしまい、2年間の海外放浪に出た。  1991年は湾岸戦争があり、そして、突然、表舞台に出てきたゴルバチョフによって、なんとソビエト連邦が終焉した。まともな就職をしたのがこの時だった。  その後の10年は、毎日、深夜12時まで、働き続けた。

 2001年は、9月11日、貿易センタービルに飛行機を衝突させるという前代未聞のテロ。その後、恩師である作家の日野啓三さんが亡くなり、運命に導かれるように、編集未経験の私が風の旅人を創刊し、編集長をやることになった。

 そして、2011年が、巨大津波原発事故。

 これらのことが起きた時、単細胞な私は、それまでと同じ人生を繰り返し続けることなどできないという衝動にとらわれてしまった。 さすがに、4度もそれが繰り返されてきたので、精神的な免疫はできている。 備えあれば憂いなし。

 2011年の正月は、大雪の高野山で降りてきた自分の着想がその後の世界とシンクロした。それは、他の人には関係なく、まったく自分個人の問題だが、自分としては、そうした経験は無視できるものではない。 私にとって10年単位の区切りである2021年も、きっと、何かが起きるだろうと思う。何が起きても、動じることがない覚悟はできている。

 

 

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第1145回 この国の祈り

 以前から気になっていることがあります。『古事記』や『日本書紀』の国譲りの物語の解釈についてです。

 国譲りの物語は、苦労して国をまとめあげたオオクニヌシに対して、天孫といわれる神様たちが国譲りを迫るものです。

 大陸から渡ってきた勢力(後のヤマト王権)を高天原天孫とみなし、それ以前から存在していた出雲国葦原中国)の王がオオクニヌシで、国譲りというのは、ヤマト王権出雲国葦原中国)を帰順させたというのが基本的な認識になっています。

 そして、出雲国の場所としては、これまでは島根県出雲大社が鎮座する場所と考えられていましたが、あの出雲大社は7世紀以降に造られたものであることがわかり、周辺に古墳なども存在せず、さらに『出雲国風土記』には国譲り神話も天孫降臨神話も記されていないゆえに、出雲大社のある場所は、7世紀以降、記紀の神話にそって人工的に作り出されたものだと考えられるようになってきています。

 ならば本来の出雲はどこにあったのか?という疑問が生じますが、古事記日本書紀で描かれる国譲りに似た物語は各地に残っており、代表的なものとして、『播磨国風土記』の中に、渡来系の天日槍(アメノヒボコ)と土着の伊和大神の確執の物語があります。この2神は土地争いをしますが、なかなか勝負がつかず、周りのものに迷惑をかけるだけだと悟った2神が、妥協案を決め、伊和大神は播磨、天日槍は但馬を開発することになったというものです。

 こうした新旧の対立は、日本中どこにでも見られたはずで、それらが記紀の編者に影響を与えた可能性もありますが、記紀の国譲りの物語というのは、古代に起きた地上の土地争いのことを単純に伝えているだけなのだろうか?と、私は疑問に感じるのです。

 記紀のなかの国譲りの場面を振り返ると、天孫の神々が高天原から葦原中国を見た時、蛍火のように勝手に光る神や、ハエのように騒がしい邪神が多くいて、草や木さえも言葉を話せる状態であり、アマテラス大神やタカミムスビ神を中心に「葦原中国の邪神達を平定するために誰を派遣すべきか」と、議論がなされています。

 そして、最初に派遣されるのがアメノホヒという神ですが、この神は、オオクニヌシに心服して高天原に戻りませんでした。

 アメノホヒというのは、第11代垂仁天皇の時、それまで行われていた殉死の風習に代えて埴輪を用いることを考案し、土師臣(はじのおみ)の姓を賜った野見宿禰の祖神ですので、古代の祭祀に影響を与えた神と言えると思います。

 国譲りの前の状態である、”ハエのように騒がしい”という表現は、記紀のなかでは、これ以前に二回出てきます。

 一つ目は、スサノオが、母の国である根の堅洲国に行きたいと願って、泣きわめき、その声があまりにも激しく、青々とした山は枯れ、川や海はすっかり乾ききった時で、「是を以ちて悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 二つ目が、アマテラス大神が天の岩戸に籠ってしまった時で、高天原も葦原中國も暗闇になり、「是に万の神の声は、狭蝿那須満ち」て、あらゆる禍が起こったとあります。

 「さばえ‐なす」というのは、万葉集でも騒ぐとか荒ぶるにかかる枕詞ですが、一般的には、”さばえ”を、五月蝿と書いて、五月頃、群がり騒ぐ蝿だと解釈されているのですが、果たして、その程度の解釈でいいのでしょうか?

 スサノオが天をも揺らすような大声で泣き喚いた時は、山も枯れ、川も干上がってしまい、アマテラス大神が岩戸にこもった時は、世界中が暗闇になってしまいました。そういう状況ですから、昆虫の蝿が群がり出てきたというよりは、もっと深刻な現象を表しているに違いありません。

 活火山の桜島のある鹿児島では、蝿と火山灰は同じ”へ”と発音するそうですが、空中を漂う無数の黒いものというイメージが、蝿と火山灰で一致するのでしょう。

 山も枯れ、川も干上がり、世界が暗闇になった時、黒い火山灰が空中に舞い続けているイメージは、リアリティがあります。これは、古代から火山の大噴火の後に繰り返されてきた現象でしょうし、空中に漂い続ける火山灰によって深刻な日照不足となり、その後、作物への影響など様々な災禍が続けて起こったことでしょう。

 このことは、火山国の日本だけでなく、たとえば紀元前1500年頃、エーゲ海サントリーニ島が大爆発した時、津波地震、噴火に伴う雷鳴、空から降り注ぐ焼けた岩、そして数年にわたって空中を漂い続けた火山灰によって太陽光線が遮られたことによって、クレタ島、新王朝のエジプト、トルコのヒッタイトなど周辺諸国に壊滅的な被害が発生し、その混乱に拍車をかけるように、海の民という新勢力による大規模な移動と侵略行為が重なり、地中海周辺の文明圏の姿を一変させました。その潜在的な記憶は、後の様々な神話や聖書などに伝えられています。

 古代日本において、”さばえ”が満ちた状況は、アマテラス大神が天の岩戸に籠った時にも、国譲りの前にも起きていました。そして、アメノタジカラヲが岩戸を開いてアマテラス大神が岩戸から出てくると世界が一変するのですが、国譲りもまた、単なる土地争いのことではなく、何かしらの大きな出来事の後のパラダイムシフトだと想像することは可能です。

 国譲りにおいて最初に派遣される神はアメノホヒであり、この神が象徴している役割を踏まえると、祭祀の変化が考えられます。すなわち、火山噴火や地震などの天災を避けて通れないこの島国の環境で、人間社会の秩序をどう整えていくべきかという大きな課題が、国譲りの物語の背後にあるかもしれません。

 ここでまず考えなければいけないことは、日本という国の治め方の特殊性です。日本の歴史を天皇抜きに語ることはできません。天皇は、他国の王様とは少し違う存在の仕方をしています。 

 現在でも、天皇な莫大な公務を行っておられますが、テレビなどで伝えられる天皇の姿とは別に、一般の人々には知られない大切な仕事があります。

 それは、祈りです。

 2019年4月30日を持って退位された上皇明仁は、退位の前に、天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました。」という言葉を述べられました。このたびの譲位も、体力が落ちている状態で公務の負担がかかりすぎると、日々の祈りに支障が出てしまうという真摯な思いからです。

 歴代の天皇は、宮中にて、国の安泰と国民の幸福、さらに世の中の平和を祈念した祈りを、人知れず、連綿と続けておられ、その秘儀の中の秘儀は、天皇から天皇への口伝で伝えられています。 

 世俗的な権力者ではなく、祈りの存在である天皇が、内閣総理大臣最高裁判所長官の任命や、国会の収集を行うことに深い意味があるのです。

 日本における天皇による権威づけは、個人の世俗的な我欲を超えたものであるということが前提になります。もちろん、その大きな説得力が、権力者による天皇の利用につながり、実際に、歴史の中で、そうしたことが繰り返されてきました。

 春・秋のシーズンで約4000人ずつ、褒章は約700人ずつが受章している叙勲にしても、その名簿と功績調書に天皇陛下が目を通され、天皇陛下から授与される形がとられていることが重要で、それは、その叙勲が、世俗的な我欲を超えた価値という意味を持つからでしょう。(現実的には、世俗的な現実の中で他人に自慢できる栄誉を獲得したという矮小化が起きているだろうとは思いますが。)

 いずれにしろ、神話というものが、天皇の権威を高めるために作られたとしても、その権威とは、権力者の世俗的なポジションのためではなく、天皇の祈りの意義を高めるためのものです。それゆえ、古代日本における神話の創造は、侵略戦争などの戦いの勝利を正当化するためのものである必要はないのです。

 天武天皇古事記の編纂を命じたことや、藤原不比等の関わりについて、”当時の体制の正当化のため”と解釈することは、あまりにも現在の我々の価値観に当てはめすぎているように思われます。知ったかぶりの人たちが口にする藤原不比等の陰謀説においても、古事記の中に、それほど藤原氏を優先化するような記述は思い当たりません。

 ところで、日本という国において、天皇が祈りを行う際、いったい何に重きが置かれるのでしょうか?

宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬う」といった天皇の基本姿勢が、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著した『禁秘抄』の冒頭に書かれていますが、それが日本の天皇の普遍的な姿であり、日本社会がすっかり西欧的価値観に覆い尽くされた現代でも、天皇陛下は、その姿勢を受け継いでおられます。

 天皇が宮中で行っている宮中祭祀について、原初の姿を知る術もありませんが、701年に制定された大宝律令から927年に制定された延喜式のあいだに、今日の体系的な祭祀の基礎が完成されています。律令時代には、祈年祭月次祭新嘗祭が重視され、また大嘗祭も最大の祭儀として成立しています。

 大嘗祭は、新しい天皇陛下が初めて行う新嘗祭で、新穀を神に奉り、その恵みに感謝し、国と民がいつまでも安らかであるように祈る祭りです。

 大嘗祭儀礼は秘儀ですが、その中でも根幹にあるのが、繒服(にぎたえ)と麁服(あらたえ)という布織物であるとされます。この二つは、神衣(かみそ)と呼ばれ、神の依代(よりしろ)として神聖視されているのです。

 この二つの織物の使い方は明らかにされていませんが、通説では、即位する皇子が儀礼が行われる深夜に、これらの布を身に纏い、祖霊である神々とひとつになることで、本当の天皇になると言われています。

 織物は、過去から連綿とつながる時間を織る事の象徴で、それを自分の身にまとうことが、世の災いを鎮める力につながるということなのかもしれません。

 麻の麁服(あらたえ)は、古代から阿波国忌部氏が奉織することが定められており、鎌倉時代頃からは、忌部氏の子孫である三木家が調進を行い続けてきました。

 一方、絹の繪服(にぎたえ) は、古来から東三河豊橋市豊川市の周辺)のもので、その理由として、はっきりしたことはわからないとしたうえで、東三河の絹の質が高いからと説明されていますが、本当にそれだけの理由なのか疑問です。

 この二つの地域は、当時、都のあった近畿圏に隣接する西と東で、ともに中央構造線の上にあるのですが、そのことと、神の依り代となる布織物との関係は、どこにも説明されていません。

 私は、この中央構造線というのが、日本の祭祀の根幹において、重要な鍵を握っているのではないかと思っています。

 中央構造線上には、伊勢神宮をはじめ日本を代表する聖域がズラリと並んでいます。

 そして、記紀の中の国譲りの神話で、最終的に雌雄を決するのはタケミカズチとタケミナカタの力比べですが、この二つの神を祀る聖域の代表が、茨城県鹿島神宮と長野県の諏訪大社であり、これらの地も中央構造線上なのです。

 国譲りの神話なのに、鹿島や諏訪の聖域は、邪馬台国ヤマト王権の拠点である九州や近畿に比べて、随分と東に寄っています。

 また、アマテラス大神が岩戸に隠れてしまう前、スサノオが横暴に振舞っていても、アマテラス大神は、理由あってのことだろうと寛容です。しかし、アマテラス大神が機屋で神に奉げる衣を織っていた時にスサノオが機屋の屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を落とし入れ、驚いた1人の服織女の陰部に横糸を通す道具が刺さって死んでしまった時、アマテラス大神は、天の岩戸にこもってしまうのです。

 つまり、スサノオは、織物を神に捧げるという行為を冒涜し、そのため、昼も夜も区別のない暗闇の世界になってしまいました。

 すると、アマテラス大神の復活は、当然ながら、織物の復活も意味します。

 だからかどうか、伊勢神宮の内宮では、誰でも知っているアマテラス大神だけではなく、天の岩戸からアマテラス大神を外に導き出したアメノタヂカラヲと、織物の神である栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメノミコト)も一緒に祀られています。

 栲幡千千姫命は、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の母親ですが、ホノニニギノミコトが天孫降臨の後に娶ったコノハナサクヤヒメもまた、機織りをしていたところ、声をかけられました。

 織物にはそれだけの深い意味があるのです。

 新しい天皇が即位する時の大切な儀礼である大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の産地である阿波(徳島)と、絹織物の産地の東三河が、中央構造線上にあり、国譲りの主役であるタケミカヅチの聖域の鹿島神宮タケミナカタの聖域の諏訪大社中央構造線上です。

 鹿島神宮奥宮近くに、三十センチほどの石を祀る小さな祠がありますが、この石は、地表に出ている部分は全体のごく一部で実際は地中深くまで達する巨石であり、地震を起こす原因となる巨大なナマズの頭を押さえていると伝えられ、要石と呼ばれます。つまり、タケミカヅチの聖地は、明らかに、大地の下のエネルギーと関係しているのです。

 そして、天の岩戸の神話で活躍するアメノタヂカラヲは、伊勢神宮に近い佐那神社で古くから祀られており、さらに吉野に多く見られる九頭神社などにも祀られていますが、伊勢神宮から吉野、高野山のラインは水銀の鉱脈のあるところで、中央構造線上です。

 さらに、アメノタヂカラヲの聖域として長野県の戸隠神社がよく知られていますが、戸隠神社諏訪大社の真北に位置しており、日本海に面した糸魚川から、諏訪大社、太平洋に面した静岡市を結ぶ糸魚川・静岡構造線に接しています。糸魚川・静岡構造線は、西側のユーラシアプレート、東側の北アメリカプレートというプレートの境界線なのです。

 日本列島は、四つの巨大なプレートが重なる複雑な地殻構造の上に存在していますが、その重なりの一つが、ここにあります。

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世界屈指の巨大な断層である中央構造線にそって、西から東まで重要な聖域が並ぶ。東から茨城の鹿島神宮、長野の諏訪大社、そこから南に曲がり、ゼロ磁場で知られる分杭峠東三河の霊山の本宮山、その麓の砥鹿神社、愛知の豊川稲荷、三重の伊勢神宮、奈良の吉野離宮高野山、和歌山の日前神宮、淡路島の南でオノゴロ島の候補である沼島、徳島の大麻比古神社、愛媛の石鎚神社、熊本の阿蘇神社、鹿児島の新田神社。そして日本海糸魚川から太平洋側の静岡市までが、糸魚川・静岡構造線というプレートの境界。中央構造線糸魚川・静岡構造線の交わるところが諏訪。日本の真ん中、南北にのびる赤い垂直のラインは、東経138.07度で、北からアメノタヂカラヲを祀る戸隠神社諏訪大社(下社)、南アルプスを経て、アメノタヂカラヲの娘の和魂を祀る阿波々神社、荒魂を祀る事任八幡宮

 糸魚川・静岡構造線の西は、5億5,000万年前 から6,500万年前の古い地層なのに対し、東は2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物で出来ており、東と西で地層構造がまったく異なるものになっており、この糸魚川・静岡構造線と、中央構造線が交わるところが、国譲りの主役の1人、タケミナカタの聖域である諏訪ということになります。

 また、戸隠神社諏訪大社の真南に南アルプスがあります。北アルプスとともに南アルプス日本の屋根と呼ばれますが、北アルプスには火山がたくさんあるのに対し、南アルプスには火山が一つもありません。地質的にも、火山の噴火でできた火成岩ではなく、地中深くでマグマが冷えて固まった花崗岩が隆起してできた山脈が南アルプスなのです。

 東日本の火山帯は、北海道から東北を通り抜け、八ヶ岳や富士山のところで南へと進路を向け、伊豆半島、伊豆諸島へと続きます。

 南アルプスは、その火山帯に向き合うように連なる、別の地質で形成された巨大な壁なのです。

 その南アルプスの真南に、静岡県掛川市の阿波々神社と事任八幡宮が鎮座します。

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南アルプスの南端、粟ヶ岳の山頂に鎮座する阿波々神社。

 

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阿波々神社の真南に鎮座する事任八幡宮


 阿波々神社と事任八幡宮の場所は、戸隠神社諏訪大社と同じ東経138.07度です。 

 阿波々神社の祭神は、阿波比売(アワヒメ)ですが、社伝によれば天津羽羽神(アマツハハノミコト)の別名であり、この神は、アメノタヂカラヲと同じとされる天石戸別命(アマノイワトワケノミコト)の娘です。

 また、事任八幡宮の祭神は、日本でここだけに祀られている己等乃麻知媛命 (コトノマチヒメノミコト)という神ですが、この神は、阿波比売(アワヒメ)の荒魂です。

 つまり、アメノタヂカラヲの娘である天津羽羽神(アマツハハノミコト)の和魂が阿波々神社に祀られ、荒魂が事任八幡宮に祀られていることになります。

 日本列島の火山帯は、東と西に分かれ、東は北海道から伊豆半島、西は、南洋諸島から九州、そして山陰へと抜ける構造になっており、この二つのあいだ、近畿を中心に東は東三河、西は四国において、火山は存在しません。

 

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洞爺湖有珠山ジオパークのホームページより)

 

 火山国日本のなか、火山が存在しない近畿を中心にしたエリアの東西の端で、中央構造線上にある場所が、大嘗祭で重要な役割を果たす麻織物の阿波と、絹織物の東三河なのです。

 そして、東日本の火山帯を遮る壁のようになっている南アルプスの東経138.07度のラインに、世界の暗闇を終了させたアメノタヂカラヲとその娘が鎮座しているのです。(西の火山帯の壁は島根県の出雲)。

 中央構造線や、糸魚川・静岡構造線は、日本の大地を引き裂く巨大な断層です。当然ながら、地下のエネルギーは凄まじいものがあり緊張を孕んでいますが、火山は、大地が引き裂かれる断層の上にできるのではありません。火山は、プレートの下に沈み込んだ海のプレートからの水の働きによって上部マントルの一部が融けて上昇していき、マグマが形成されて、それが地表に噴出することで生じますので、プレートの境界などの断層の近くに、断層と平行して並ぶ傾向があります。

 そして、地殻のエネルギーが高まれば大規模な噴火になりますから、巨大な断層の中央構造線糸魚川・静岡構造線は、火山噴火や、それと連関する大地震などをもたらす地下活動の変化をキャッチする重要なセンサーだと言えるでしょう。

 それゆえ、そこに聖域があり、神が祀られるというのは、理由があってのことと思われます。

  中央構造線上で、直接的に政治とつながる場所としては、吉野離宮があります。

 律令国家の体制を築いた天武天皇は、古代最大の内乱とされる672年の壬申の乱の時、吉野離宮で挙兵を行いました。吉野離宮があった場所と考えられている宮滝遺跡は、中央構造線の緑色変岩の断層崖に面しています。

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吉野離宮のあった宮滝遺跡。

 そして、壬申の乱の勝利の後、天武天皇は、679年、皇后となった鵜野皇女(後の持統天皇)や草壁皇子ら6人の皇子を連れて吉野離宮を訪れ、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせた吉野の盟約を行っています。

 また、持統天皇は、在位中に31回、文武天皇への譲位の後も2回、吉野離宮行幸を行っています。

 吉野は保養地でリフレッシュのために訪れていたのかもしれないという意見もありますが、季節に関係なく行幸を行っていますので、保養のためといより、天皇の大切なつとめを果たすために吉野離宮を訪れていたと考えた方がいいのではないでしょうか。持統天皇の後、文武天皇元正天皇聖武天皇の時も、吉野宮への行幸が行われています。

 これらの天皇が吉野離宮に何度も通っていた時は、まさに『古事記』や『日本書紀』が編纂された頃です。吉野離宮には、いったいどんな意味があったのでしょう。

 『日本書紀』には応神天皇雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、離宮が築かれたことを明確に示している記事は、656年、斉明天皇の時です。

 斉明天皇は、天智天皇天武天皇の母親ですが、49歳という高齢で皇極天皇として即位し、乙巳の変大化の改新)の後に弟の孝徳天皇に譲位しますが、孝徳天皇の死後、62歳の時、再び斉明天皇として重祚するという異例の天皇です。

 この皇極天皇斉明天皇)の時代、日本書紀には、天変地異のことが数多く記録されています。

 即位1年6月、日照りがある。7月、客星が月に入る(不吉)。蘇我蝦夷が仏教儀式を行っても雨は降らず、8月、天皇が拝むと雨が降る。即位1年10月、8日地震、9日地震。11月、大雨と雷。12月、春のような気候。即位2年1月 五色の雲が立つ。大風が吹く。4月、大風と雨。即位2年5月、日食。即位2年8月、茨田池の水が藍の汁のような色になり、虫が浮かび、水が凝固し、魚が死んだ。斉明天皇即位1年5月、空に竜に乗るものが見える。即位6年、ハエの大群が現れたので、救援軍が敗れる予兆と考えた。

 ハエに関しては、推古天皇が亡くなる前も、

 即位34年、蘇我馬子が亡くなって、長雨で飢える。即位35年にハエが大量に発生、即位36年 推古天皇が病気になり、日食で太陽が消え、推古天皇が亡くなる。

 という記録があります。

 この場合の”ハエ”も、上に述べたように、単なる昆虫の蝿でなく、火山噴火による火山灰など、より深刻な影響を与える不吉なものだと思われます。

 天変地異が頻発した時代、祈雨の拝みで結果をもたらす神がかった能力を発揮した斉明天皇は、吉野離宮を築きました。

 そして、天武天皇も、神がかった力を備えていたようで、『日本書紀』の天武天皇の巻において、冒頭、天皇の出自や幼名などが紹介されたあと、いきなり「天皇は天文や遁甲(とんこう)の術をよくされた」という文章が見られます。そして、その実例として、壬申の乱の際のエピソード、「横川に着こうとするころ、黒雲が現れ、広がって天を覆った。天皇はこれを怪しんで、式(ちょく)を執り、『これは天下が二分されるという天象だが、最後には私が天下をとるであろう』と占った」とあります。

 この神がかった力を持つ天武天皇が、吉野離宮で、子供達に争わずに協力してやっていくように盟約を結ばせ、持統天皇は、その吉野離宮に33回も行幸を行っています。

 これらは、吉野離宮という場所が中央構造線上にあることと無関係とは思えません。上に述べたように、麻の麁服(あらたえ)と、絹の繪服(にぎたえ) を準備する場所、諏訪大社鹿島神宮伊勢神宮日前神宮など、重要な聖域の多くが、中央構造線の上に鎮座しているからです。

 日本は、4つのプレートの境界ということもあり、地下にエネルギーがたまり、地震や噴火が頻発します。こうした環境下において国と民の安らかさを願ううえで、大地の下の状況に無関心でいられるはずがありません。

 ならば、地下のエネルギーの問題への対応と、国譲りがいったいどういう関係を持つかについて、さらに考える必要があります。 

 絹の繪服(にぎたえ) を準備する東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河国一の宮で、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神とする砥鹿神社の奥宮が鎮座しますが、この奥宮も、里宮も、中央構造線上にあります。

 そして、砥鹿神社の奥宮にも里宮にも、荒羽々気(アラハバキ)神社が鎮座します。また、アラハバキ神は、本宮山の登り道にあたる新城市の石座(いわくら)神社にも祀られており、この神社は、弥生時代の遺跡の上に作られ、すぐ近くには、石器時代から縄文時代にかけての遺物が出土した大ノ木遺跡があります。

 アラハバキ神というのは、主に東北や北海道で祀られており、本州では、東三河の地に多く祀られています。

 もともとは、古代先住民の祖神、守護神だと考えられていますが、非常に複雑なプロセスを経ており、この神の歴史は、日本の複雑な古代史を解く鍵とも言えます。

 民俗学者吉野裕子氏が古代の蛇信仰と関わりがあるとし、谷川健一氏は、塞の神であると説明しています。それ以外、製鉄と関係しているという指摘もあります。

 いずれにしろ、アラハバキ神は、客人神(まろうど神)で、これは、外部からやってきたマレビトの神が、その土地に定着することもあれば、その逆に、外部からやってきた側が主力になって、その土地のもともとの神をそのまま取り入れて残しているケースがあります。

 宮城県多賀城は、ヤマトの王権が、東北の蝦夷を制圧するために築いた拠点ですが、このすぐ近くにもアラハバキ神を祀る聖域があり、谷川健一氏は、朝廷が蝦夷から多賀城を守るためにアラハバキ神を祀ったとしています。

 このあたりの事情は複雑ですが、谷川氏によれば、ヤマト王権蝦夷統治は、「蝦夷をもって蝦夷を制す」というもので、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたということです。

 この発想は、後の時代、怨霊を手厚く祀ることで守り神になるという御霊信仰にもつながり、菅原道眞などに代表される怨霊神の起源が、アラハバキ神だとも言えます。

 しかしながら、谷川氏の仮説とは逆に、もともとのアラハバキ神の聖域に、多賀城を作った可能性があります。

 というのは多賀城の真北、岩手県奥州市に、巨大な磐座を聖域とする磐神社があり、東北の安倍氏が、この大岩をアラハバキ神として尊崇していたからです。アラハバキ神は、遥かなる古代から、この南北のライン上に鎮座していた可能性が高いのです。

 この磐神社のすぐ近くには、奥州安倍一族の城郭だったとされる安倍館跡があり、安倍氏は、あえてアラハバキ神の聖域の近くに城を作ったのではないでしょうか。

 安倍氏は、謎の多い氏族です。陰陽道で有名な安倍晴明や、飛鳥時代、大規模な船軍を率いて蝦夷を討ち、さらに白村江の戦いでも将軍として朝鮮半島に向かった阿部比羅夫や、蘇我入鹿を暗殺した大化の改新乙巳の変)の後に左大臣となった阿部内麻呂など中央で活躍した者も多くいます。

 「あえ」 は「饗(あえ)」であり、天皇食膳奉仕をすることです。それが阿部氏の役割でした。安倍晴明は、陰陽道で有名ですが、父の安倍益材も安倍晴明自身も、大膳大夫という饗膳を供する機関の官僚を勤めています。

 饗膳の仕事は、祭祀や外交などにおいても重要な役割を果たし、さらに天皇の側近に仕えるため、朝廷警備も担当するので、必然的に情報力と軍事力を備えていきます。

 そのようにして7世紀の阿部氏は、政権内で大きな力を持っていましたが、もともとは、東北地方においてヤマト王権によって制圧された蝦夷で、俘囚だったという説もあります。

 俘囚の中から俘囚を管理する俘囚長が選ばれ、彼らが、中央でも活躍するようになっていったと考えられます。

 その阿部氏が、平安時代岩手県北上川流域に城砦を築き、半独立的な勢力を形成することになり、1051年から1062年、朝廷と激しく戦い、最終的に滅ぼされます。奥州12年戦争、もしくは前9年の役と言われています。この阿部氏が、飛鳥時代、中央の有力豪族だった阿部氏とどういう関係になるのかが詳しくわかりません。

 いずれにしろ、この阿部氏が、岩手県奥州市の磐神社でアラハバキ神を大切に祀っていたのです。

 そして、磐神社から真北に伸びるライン(東経141度)に岩手山があり、その北麓に釜石環状列石があり、さらに真北の青森の夏泊半島下北半島最北の大間に縄文遺跡があり、函館の大船遺跡、伊達市の北黄金貝塚と、世界最古の漆や刀剣などが出土した重要な縄文遺跡が続きます。そして、その最北が余市で、ここに三つの環状列石が集中し、そのそばに、日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社があるのですが、この奥宮にアラハバキ神が祀られています。

 そして、この東経141度のラインは、実は大規模な火山帯のラインと一致しているのです。

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余市地域にある三つの環状列石の一つ、西崎山環状列石。

 

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北海道の余市には日本最古の龍神を祀るといわれる金吾龍神社が鎮座し、この奥宮にアラハバキ神が祀られている。この神社の近くに三つの環状列石があり、この東経141度のライン上に、環状列石や縄文遺跡が並ぶ。  余市の真南は、室蘭岬のそばの北黄金貝塚。その南、内浦湾を超えて函館の大船遺跡、その南、津軽海峡に面した戸井貝塚津軽海峡を越えて大間のドウマンチャ貝塚、その南、陸奥湾を越えて夏泊半島の付け根の平内町の60の縄文遺跡、そこからまっすぐ南に奥羽山脈が伸びて、岩手山の北麓に、釜石環状列石がある。  日本最大の環状列石である秋田の大湯環状列石群は、ラインから少し西にずれているが、奥羽山脈の西の花輪盆地にある。そして、岩手山の真南、岩手県奥州市に磐神社があり、ここは阿部氏がアラハバキ神を祀る聖域。さらにここから真南が多賀城で、この地にもアラハバキ神の聖域ある。

 縄文遺跡は、東国をメインに日本の至るところに広がってはいるものの、主に北海道と東北、そして、長野と山梨に遺跡が極端なほど集中しています。

 新潟も火焔土器が有名ではありますが、たとえば土偶は、日本の各地で発見されてはいるものの、北海道、青森、岩手、長野、山梨が、圧倒的な数を誇っています。

 そして興味深いことに、これらの地域は、火山の集中地帯なのです。

 縄文文化が、火山地帯において特に発達しているのに対して、ヤマト王権のあった近畿は、火山がまったくありません。これはいったいどういうことなのでしょう。

 日本の火山地帯の分布を、もう少し詳しく見ていくと、さらに興味深いことがわかります。

 日本には主に二つの連続する火山地帯があり、一つは、北海道、東北、関東から静岡県に至り、そこから愛知県や関西方面には向かわず、南に進路をとり、伊豆半島、伊豆諸島に続いていきます。

 そしてもう一つは、南洋諸島から九州、そして山陰の出雲へと続くものです。

 なかでも、通常の噴火とはスケールがまったく異なる超巨大噴火は、日本列島では過去12万年間に18回、発生したようですが(火山学者の早川由紀夫群馬大学教授が、噴火時の噴出物の総量を基準としてシミュレーションを行った)、その多くは、北海道、東北、九州の火山で、そこに鳥取県の大山、島根県の三瓶山がふくまれています。

 これらの場所は、北海道の余市から東北の奥羽山脈へと続くアラハバキ神の聖域であり、さらには天孫降臨出雲神話の舞台です。 

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が天孫降臨した場所は、高千穂ですが、そのひとつの候補が鹿児島と宮崎の県境の高千穂峰で、これは霧島連山の第二峰であり、七千年まえから八千年前の噴火によって出現した成層火山です。

 霧島は、日本の代表的な火山地帯で、火山や、火口湖が二十ほど集まっています。その中の新燃岳は、2019年11月から火口直下を震源とする火山性地震が増加するなど、現在も、いつ噴火してもおかしくない活火山です。2011年にはマグマ噴火があり、2018年にも爆発噴火があり、噴煙が8000メートルまで上がったと推定されています。

 天孫降臨神話のもうひとつの候補地は宮崎県高千穂町で、阿蘇山の超巨大噴火で形成された火砕流台地の一画です。

 いずれにしろ、高千穂は、霧島や阿蘇といった日本有数の火山地帯であり、そこに火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)が降り立ったことになっています。

 これは史実ではなく神話であり、その神話が秘めたメッセージは、この国の火山活動を鎮めることが期待されての天孫降臨だったということではないでしょうか。

 火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)の”ニニギ”は、親和的であるとの意味ですが、”ホ”は、天孫降臨の際にアマテラス大神から稲穂が授けられたために、一般的には稲穂のことと解釈されていますが、火という漢字を使っているのに、それは不自然です。

 また、ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメは、一夜の契りで身篭ったことを疑われた時、産屋に火をつけて、ホノニニギノミコトの子であれば無事に生まれるはずと言い、火照命(海幸彦)・火須勢理命火遠理命(山幸彦)という、”火”がつく三柱の子を産みました。

 この話からすれば、ホノニニギノミコトの”ホ”も、文字通り、稲穂ではなく火そのものの意味で問題ないはずで、それゆえ、ニニギは、火に対して親和的な神ということでいいのではないでしょうか?

 ホノニニギノミコトと結ばれたコノハナサクヤヒメも、富士山や浅間山などの火山で祀られている神様です。

 そして、東征を行う神武天皇の実名も、彦火火出見(ひこほほでみ)であり、ここにも”火”が関係しています。

 その神武天皇は、『日本書紀』の中で、東征にあたって、兄達や子供達に語りかけます。

昔、火瓊々杵尊ホノニニギノミコト)は天關(アマノイワクラ)を開き、雲路(クモヂ)をかき分け、先駆けの神を走らせて、地上に降りました。その時はまだ世界は開けていなかった。その暗い世の中で、正しい道を養い、この西の偏(ホトリ)の土地を治めた。

 しかし、遥か遠くの地はまだ恩恵を得られていない。境界をつくって分かれて、互いに侵し合っている。

 ところで鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたのだが、

『東に美(ウマ)し国がある。青い山を四方に囲まれて、その中に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛んで降りた者が居る』とのこと。思うに、その土地は必ずこの大きな事業を広め、天下に威光を輝かせるに相応しい場所だろう。六合(クニ=国)の中心となるだろう。

 その飛び降りた者とは饒速日ニギハヤヒ)だろう。その土地へと行って、都にしようではないか

 

 この話の中で、ホノニニギノミコトの天孫降臨の際、アメノタヂカラヲのように天關(アマノイワクラ)を開いたというのが興味深いですが、いずれにしろ、新しいコスモロジーに基づいた恩恵を広げるためにホノニニギノミコトが降臨し、そのコスモロジーに基づく国の中心に相応しい場所としてヤマトの地を選び、神武天皇が東征を行ったという内容です。

 そして、神武天皇は幾つかの試練を経て、奈良盆地畝傍山の東南の麓に、宮を築きます。その橿原宮の位置は、火山が存在しない近畿の真ん中で、さらに、日本を代表する火山である阿蘇山と富士山を結ぶライン上になります。

 橿原宮が実際に存在したかどうかは別として、神話の中で定められているところが、阿蘇山と富士山を結ぶライン上であることは紛れもない事実で、その近くに飛鳥の宮や藤原京が建設され、祭政一致のまつりごとが行われていたことも事実です。

 神話がフィクションであっても、神話を作った人々の意識の中に、富士山と阿蘇山があったことは間違いないでしょう。なぜなら、橿原宮の位置だけでなく、イザナミイザナギが国産みによって最初に作ったオノゴロ島の有力候補である沼島(淡路島の南)の位置は、阿蘇山と富士山を結ぶラインのちょうど真ん中であり、この場所に降り立って、イザナミイザナギは、次々と島を産んでいくのです。

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富士山と阿蘇山を結ぶライン上に、神武天皇が最初に宮を築いたとされる橿原宮がある。さらに、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。

 これほどまで神話が、火山との関係を踏まえて創造されていたとすれば、神武天皇に激しく抵抗したナガスネヒコが何ものであるかということも考えなければなりません。

 ナガスネヒコを、「スネの長い」異族のこととする説もありますが、ナガスネは、長背嶺で、つまり長く伸びる山脈と捉える説もあります。

 すると、東北の火山地帯である奥羽山脈などが頭に浮かびますが、実際に、東北では、ナガスネヒコと、脛(すね)につける服装品である脛巾(はばき)という言葉をもつ荒脛巾神(アラハバキ)を同一視するところもあります。

 神武天皇の東征神話がフィクションであったとしても、荒脛巾神(アラハバキ)は、古代から現在まで実際に存在しており、記紀の編纂において、神武天皇とのあいだに軋轢が生じた存在として、荒脛巾神(アラハバキ)のことが念頭にあった可能性はあります。

 上に述べたように、アラハバキ神は、東北の奥羽山脈という火山帯にそったところに多く祀られています。

 そして、東日本の火山帯が途切れたところに急激に隆起した南アルプス(火山の多い北アルプスに比べて火山が一つもない)を壁にするように東三河の聖域があり、そこにもなぜかアラハバキ神が集中的に祀られ、ここが、大嘗祭で準備される聖なる二つの布、麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)のうち、絹織物の繒服(にぎたえ)の産地なのです。

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東三河の古くからの霊山、本宮山の山頂には、三河の国の一宮である砥鹿神社が鎮座するが、すぐ傍にアラハバキ神を祀る聖域がある。この写真の場所は国見岩や岩戸神社という聖域で、砥鹿神社の奥宮の、さらなる奥の院ということになる。

 ”あら”と”にぎ”、すなわち、荒魂(あらだま)と和魂(にぎだま)は、神の霊魂が持つ2つの側面のことであり、この神の御魂の二面性が、神道の信仰の源となっています。

 荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、和魂は優しく平和的で、仁愛、謙遜、運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きがあるとされます。

 そして、荒魂として現れた霊魂は、鎮め祀られることによって和魂となります。

 天皇の祈りというのは、この二つの魂が示す森羅万象の有様を、ともに大事なものとして受容し崇めながらも、時折、人間の営みに破滅的な災禍をもたらす荒魂を鎮め祀り、和魂に転換させ、国と民の安らかさを願うものなのでしょう。

 おそらく、縄文時代から祀られてきたアラハバキ神は、火山との関わりが強い荒ぶる神だったのではないでしょうか。縄文人は、荒ぶる神を身近なものとすることで、自然を畏れる気持ちを常に維持し続け、そのことが自然との調和均衡を崩さない暮らしを続けさせる力となり、人間社会においても長く平和が維持されていたのだと思われます。

 これはとても不思議なことで、東北だけでなく、長野から山梨にかけても、八ヶ岳と富士山という巨大な火山を結ぶライン上に、千を超える縄文遺跡が集中しています。

 縄文人は、狩猟採取をするのなら移動生活を送っていてもおかしくないのに、なぜか数千年以上にわたって火山帯の上に集落を築いています。八ヶ岳から富士山につながる火山帯から横に外れたところに、縄文の集落は、ほとんど存在しません。そして、八ヶ岳周辺の火山帯の上に集中する縄文集落からは、それと平行するように連なる火山のない南アルプス雄大な景観が眺められるようになっています。

 しかし、弥生時代となり、大陸から入ってきた新しい知識や技術によって、人間の自然観は少しずつ変容していきます。たとえば洪水対策などにおいても、自然の脅威の前にただ怖れおののいて生贄や人柱を捧げるなどといった行為は消えていき、人間の知恵と技術で食い止めるということを始めます。

 その結果、自然を畏れる気持ちも希薄になり、傲慢になった人間と人間が争い続けるようになります。弥生時代倭国大乱などの状況が、そのようなものでしょう。

 国譲りや天孫降臨という神話は、古い勢力を支配した新しい勢力の正当化というよりは、後には戻れない人間社会の変化において、再び、人間と自然のあいだを調和させようとする精神的な創造行為であり、その要に天皇の祈りを位置付け、天皇の祈りの意義、その正当性を伝えるためのものだったのではないでしょうか。

 そして、その祈りの中心として火山のない近畿が選ばれましたが、大地の下のエネルギーを敏感に感じられる場所として、中央構造線上の吉野に離宮が築かれたのです。

 天孫としての天皇陛下に求められたことは、一般の人々がともすれば忘れがちになる荒魂と和魂という森羅万象の二つの側面を、ともに受け入れながら、人間社会に活力と平和を賜るよう祈り続けることなのでしょう。

 日本の信仰が、森羅万象の和(にぎ)と荒(あら)をともに尊重する心構えに基づいているため、アラハバキ神に代表される天孫降臨以前の神様たちも、決して消滅させられることなく、隠れていながら大切な場所で、共存し続けているのではないかと思われます。

 なぜなら、それこそが、この国の祈りの形なのですから。

 

 

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第1144回 邪馬台国とは何か? 日の本、阿蘇山と富士山をつなぐもの。

 

 女王卑弥呼邪馬台国がどこにあったかというのは、いつになっても多くの人の関心を集める。

 邪馬台国があったのは近畿か九州かという議論は、長く続いてきた。

 初期ヤマト王権が宮を築いた奈良盆地の纒向にある箸墓古墳は、今でも卑弥呼の古墳だと思っている人が多いし、木津川沿いの椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した時は、この場所こそが邪馬台国だと主張する人もいた。近年では、淡路や近江などで弥生時代の大規模な鍛治工房が発見され、さらに2年ほど前には、徳島の阿南にある古代の水銀鉱山が弥生時代のものであるとわかり、それは、これまでの日本の鉱山の歴史を一挙に500年も遡らせ、邪馬台国のお国自慢が1箇所増えた。

 九州や近畿に限らず、日本全土から出土する弥生時代の遺物は、これまでの弥生時代のイメージを覆すほど、かなりの先進性を伝えている。少し前までは、日本の鉱山は奈良時代が最古で、それまでの時代は、鉄をはじめとする金属は輸入に頼り、日本国内でそれを加工する程度だったとされていたが、そうした歴史学者の設定だと説明つかない規模の金属製品が、日本中から出土している。

 もはや、はっきりとしていることは、弥生時代の先進地域は、九州と畿内に限らないということだ。そして、弥生時代以降、金属の武器も大量に作られたわけだから、争いも激化しただろう。

 肝心なことは、中国の歴史書に残る卑弥呼邪馬台国というのは、そうした争いを勝ち抜いて全てを統一した国ではないということ。

 弥生時代に、九州か畿内にあった国が日本全土を侵略して巨大な国を治める野心を持っていたとは、とても思えない。いったんは侵略することができても、それを維持管理することは大変だ。山や谷が多い日本は、地形が複雑で、地図で見るよりも広大な世界なのだから。

 九州、畿内、東国などの地域において、小さなクニに分かれて頻繁に争いが繰り返されていたことは十分に想像できる。死者も多く出て、クニは荒れるわけだから、いかにして争いを減らし、お互いに連合できるかを真剣に考えた人物はいただろう。その人たちが集まって、一つの秩序的な形を作り上げた。それが、倭国大乱の後の卑弥呼邪馬台国なのだろうと思う。女性の巫女を中心に置くことで、クニとクニが連合する新たなシステムが整えられた。

 それが、たとえどこかローカルな場所に限定される出来事であったとしても、中国の歴史書に記録が残ったことは、後世において大きな意味を持った。

 一つの集団が新しい秩序的世界を作ろうとする時、周りのものたちへの説得力を強めるために、その正当性を示す必要がある。これは、中国の長い歴史においても繰り返し行われてきたことだ。

 中国の場合、古くは秦の始皇帝の時から日清戦争の清に至るまで、ほとんどの統一王朝が、西や北からの騎馬遊牧民の侵攻によるものだが、それらの勢力は、自らの系譜を、古代中国の夏や殷や周につなげようとした。そして、賢人は、古代国の治世を理想的なものとして崇めた。

 夏や殷や周などは中国大陸のごく一部だけを治めていただけで、他の地域では他の勢力が凌ぎを削っていたが、中国王朝の歴史の中に、夏や殷や周の記憶が特別に深く刻まれた。それは、やはり、文字による記録がしっかりと残されていたということが大きい。

 日本の邪馬台国の場合も、これと同じだと思う。

 日本の歴史において、邪馬台国がどこにあったかということが、現代の我々が想像している以上に大きな意味を持つ時代があった。

 それは6世紀から7世紀、第26代継体天皇から飛鳥時代にかけてだった。この時代は、朝鮮半島において、高句麗の南下や、新羅の勢力が拡大するなど日本の周辺が緊張を孕んでいた。日本から朝鮮半島への出兵は、それまでは1000人程度だったのに、6世紀になって同盟国の百済などから派兵が求められ、継体天皇の21年には、6万人が筑紫まで行ったと記録されている。

 日本もまた、この時期、一つのまとまった国として朝鮮半島や中国に対応しなければならないという状況になっていたのではと思われる。

 その時に、急遽、天皇に即位することになったのが、北陸の豪族で、尾張の海人たちと連合していた継体天皇だった。

 当時、中国や朝鮮半島から多くの渡来人がやってきて、政治や軍事においても重要な役割を果たすようになってきており、日本は、国としてのアイデンティティを再構築する必要があったのではないかと思われる。

 卑弥呼の時代は、邪馬台国がどこにあったとしても、それとは関係なく日本各地で様々な勢力が凌ぎを削っていたことが考古学的にも証明されている。

 しかし、卑弥呼邪馬台国は、倭国の中心であると中国が記録に残したところであり、その継承者であるということは、新しいリーダーたちにとってはとても大事なことであった。

 古墳中期の大古墳の世紀が終わり、5世紀後半から6世紀にかけて、畿内の有力な豪族が拠点とする地域で、古墳の内部に奇妙な変化が起こる。それまでの代表的な棺であった長持形石棺とは形も材質も違う新しい棺が登場するのだ。阿蘇のピンク石を使った家形石棺である。

 それまで、兵庫県加古川の竜山石や、奈良県葛城市と大阪府太子町のあいだの二上山の凝灰岩など、畿内の石が有力者の古墳の石棺として切り出されていたが、遠く離れた阿蘇の地から、わざわざ巨岩を運んできた。

 このことについては、第1139回のブログで、古代の復活をテーマに記事を書いた

 高槻の継体天皇の古墳とされる今城塚古墳の阿蘇のピンク石の石棺は、わりと多くの人に知られているが、それ以外に、物部氏、大伴氏、阿部氏など、6世紀以降、重要な役割を果たした豪族の拠点とする場所の古墳が阿蘇のピンク石の石棺を使っており、畿内で10箇所が発見されている。しかも、奈良市天理市桜井市橿原市藤井寺市羽曳野市と、ぐるりと奈良盆地を取り囲む重要な拠点に配置され、さらに、琵琶湖の水上交通の要衝である三上山の麓、日本最大の銅鐸が出土したところの2つの古墳もそうだ。阿蘇のピンク石の石棺は、これ以外、吉備に2つほど見つかっているだけで、6世紀頃の近畿の主要勢力と関係ある石棺ということになる。

 6世紀のはじめに即位した第26代継体天皇は、第16代仁徳天皇から第25代武烈天皇までとは血がつながっていない。

 武烈天皇が子供を残さなかったので、大伴金村物部麁鹿火が、過去に遡って第15代応神天皇の血を受け継いでいるのではないかという理由で見つけてきた豪族が継体天皇だ。そして、継体天皇は、即位した後も20年もの間ヤマトの地には入らず、クズハ(現在の枚方市)、ツツギ(京田辺市の甘南備山の麓)、オトクニ(向日市)など、淀川から木津川の河川近くに宮を築き、死後も、奈良ではなく、淀川近くの今城塚古墳に葬られた。

 このことについて、通説では、新しく天皇となった継体天皇が、旧勢力が多く残る奈良の地を警戒したからとされているが、阿蘇のピンク石の石棺の配置でもわかるように、高槻と、畿内の重要な拠点はネットワークが形成されており、高槻の周辺の三島地域が、琵琶湖と瀬戸内海と奈良盆地からちょうど等距離にあり、淀川、木津川、宇治川桂川の河川交通を有効に使える場所で、それが、国のまとまりと、外敵に備えるうえで最適だったと考えた方が自然だ。

 そして、阿蘇のピンク石の石室で結びついているからといって、当時の有力者が九州出身だったということではなく、中国の歴史書に記された邪馬台国が九州の阿蘇の地だという共通認識を彼らが持っていて、それを統一のアイデンティティにしたのではないかと思われる。邪馬台国の時代は、彼らの時代とは300年ほどしか違わないし、中国から多くの知識人が渡来している状況でもあり、邪馬台国の情報を共有することはさほど難しくはなかっただろう。

 阿蘇のピンク石は、有明海側の宇土の馬門というところに石切場が残っており、そこから船で畿内へと運ばれたと考えられている。

 宇土の馬門の真東には、阿蘇山の近く、日神を祀る幣立神宮がある。その東西のライン上に沈目遺跡があって、3万年前の日本最古の石器が出ている。

 阿蘇山から西の平野には、数多くの古代の史跡が発見されている。

 ただ、こうした古い遺跡は、日本国中、至るところにあるので、ここが邪馬台国だと決める理由にはならない。

 邪馬台国論争をする人たちのあいだで、混迷の原因になっているのが、魏志倭人伝に残された邪馬台国までの道程だ。

 書かれた道程をそのまま当てはめると、どんどん南になって南洋諸島になってしまうという人もいたり、近畿こそが邪馬台国だと主張する人は、南ではなく、東の書き間違いだとしている。

 この道程の記述に関しては、その距離や日数を単純に足していくと、南洋諸島になってしまうけれど、戦後、東京大学榎一雄氏が発表した興味深い説があり、それは伊都国を中心にして、そこから放射線状に各地域のことを記載しているというものだ。確かに、魏志倭人伝の文章を見ても、この説が妥当ではないかという気がする。その内容は、以下のようになっている。

 

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。

また南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。

また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。四千余戸ある。

 

ここまでの文章は、「また南に」、「また一海をわたる」と、”また”という言葉がついているので、その距離を足していけばいい。

しかし、次からは、”また” という言葉がなくなる。 

 

東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。

東南の奴国(なこく・ぬこく。博多付近)まで百里

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里

南の投馬国に行くには水行二十日。

南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。女王が都とするところで、水行十日・陸行一月

 

 これは見ると、邪馬台国や投馬国は、伊都国からの距離や日数で示しているようにも見えるし、伊都国の前の末廬国からの距離や日数で示しているようにも読める。ただ、末廬国は佐賀で、伊都国は福岡とされるので、いずれにしろ、九州の北だ。

 九州の北から邪馬台国まで「水行十日・陸行一月」となるが、 これは、南に船だと10日だが、陸路ならば1ヶ月ということだろう。

 投馬国の場合は、船で20日。陸行の記述はない。おそらく陸路だと困難な場所だからで、それは霧島など高い峰々を超えていかなければならないからだ。

 そうすると、北九州から、投馬国までの距離の半分が邪馬台国ということになる。そして、投馬国は、「官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という」と説明されている。つまり、ミミの人たちが治めているということで、ミミというのは、谷川健一氏が指摘しているように南洋系の航海を得意とする人たちであり、日本各地にその足跡を見ることができるが、鹿児島の大隅半島薩摩半島を拠点とする人々だと思われる。

 そうすると、北九州と鹿児島のあいだが邪馬台国ということになり、阿蘇山周辺がちょうどいい。

 熊本と宮崎のどちらかという細かな議論は専門家に任せるが、邪馬台国阿蘇山が、特別な意味を持つ関係であるのは間違いないだろうと思う。

 そして、歴史認識や神話解釈において間違いやすいポイントが、邪馬台国が九州なら、九州の王権が東に進んでいって近畿を征服したのか、という話になるやすいことだ。

 事実、神武天皇の東征など、そういう物語になっているし、天孫降臨の場所が九州の高千穂なら、そこが日本国家のルーツで、天孫降臨というのは渡来人で、渡来人の国がそこにあったのか、という話になる。

 しかし、そうではなく、6世紀の新国家にとって、自分たちが正当であるというアイデンティティが必要で、そのアイデンティティの獲得のために、中国の歴史書に記録が残っている邪馬台国の存在が重要だった。それは、阿蘇の地の邪馬台国だった。だから、その史実と自分たちを結びつける神話を構築した。さらに、阿蘇のピンク石の石棺は、古来から続いている政権であるというアイデンティティを共有するシンボルになった。

 これは何も特殊なことではなく、日本に限らず、世界中の多くの地域で同じようなことが行われている。中国の歴代王朝でもそうだったが、わかりやすいのがエチオピアだ。

 エチオピアは北部アフリカ諸国のなかで、唯一、イスラム教の侵攻に耐えてキリスト教国家として存続し続けた国だ。キリスト教の求心力があったからこそ、イスラムの侵攻を防いだ後も、ヨーロッパ列強のアフリカ進出に対抗できた。イギリスやフランスは、アフリカの各地域を民族間で分断させ、その分断を利用して巧みに統治を進めて植民地化を行ったが、唯一、エチオピアだけは独立を守り通した。

 そのエチオピアは、イスラムの侵攻にさらされている時代、国の起源に関わる神話を創造した。エチオピアの起源が、紀元前1000年まで遡り、ソロモンとシバの女王の息子、メネリク1世にあるとするものだ。そして、メネリク一世が、エルサレムのソロモン王の宮殿にあった「失われたアーク」(モーセ十戒が刻まれた石版を収めたとされる契約の箱)をエチオピアの地に持ち帰ったする神話。失われたアークは、その後もアクスムのシオン・マリア教会の礼拝堂の中に大切に守られているということになっている。

 この神話を伝えているのは、13世紀に編纂されたエチオピアの歴史書「ケブラ・ナガスト」なのだが、当時は、イスラム世界の猛攻を受けている時期だった。

 実際にエチオピアキリスト教が伝わったのは、エチオピアの北部にあたるエジプトのコプト教を通してであり、それはローマ時代後期のこと。当然ながら紀元前1000年のソロモンの時代ではない。

 しかし、エチオピア人は、シバとソロモンの末裔と称する王によって一つにまとまり、イスラムの侵攻を防いだ。

 この「失われたアーク」は、ふだんは見ることができないが、年に一度のティムカットの祭りの時に、神輿に担がれて人々の前に姿を表すなどという間違った情報も出ているが、祭りの時に出てくるのは、エチオピア各地の教会に大切に保管されている失われたアークのコピーである。コピーであることは、エチオピア人も了解している。しかし、そのコピーは、本物がアクスムにあると信じられているからこそ、意味のあるコピーなのだ。

 本物の「失われたアーク」が、実際にエチオピアアクスムにあるかどうかは、本当は誰も知らない。しかし、そこにあると信じられたうえでコピーが作られ、そのコピーが各地の教会に置かれ、それらの教会が各地の人々の求心力になっているという構造がある。

 20年ほど前、私がエチオピアを訪れた時、不謹慎な質問でも大丈夫だという人物に、もしも研究調査で、アクスムのシオン・マリア教会に「失われたアーク」がないとわかったらどうなるか? と聞いたら、青ざめた顔で、そんなことになったら、一挙に国民のアイデンティティが失われ、国は崩壊すると言っていた。

 白か黒かはっきり決着をつけることが科学の進歩だと信じている人は多いが、グレーのままだから守られている秩序もある。エチオピアという国は、そのようにして、神の力で守られてきた。

 このエチオピアの神話作りは、日本の6世紀から7世紀の状況と共通するところがある。

 当時のリーダー達は、中国の歴史書に書かれた邪馬台国がどこだったのかを知っていた。

 だから、その時点では畿内を中心に国を一つにまとめる努力がなされていたが、自分たちのルーツを九州にして、九州を起点にするような神話世界を構築した。

 そして、国をまとめていく時には男の力が必要だとしても、その後、男同士のエゴで乱れた場合は、女王を国の中心にした方が治るという教訓も、邪馬台国から受け継いでいた。

 6世紀から7世紀を俯瞰してみると、邪馬台国と同じような皇位継承が行われている。

 継体天皇の孫にあたる女帝の推古天皇が即位したとされるのが593年。その直前、前回のブログで書いたように、海部氏の力を背景に穴穂部皇子の横暴があり、穴穂部皇子物部氏と組んで国が二分された。崇峻天皇にも、不穏な動きがあった。

 その2人が蘇我馬子に殺害されて擁立されたのが推古天皇であり、推古天皇は39歳という高齢で即位し、35年もの長きにわたり国の治めている。そのあいだに、冠位12階や17条憲法などが、次々に制定された。そして、推古天皇のもと、後世に横暴だと烙印をおされた蘇我馬子を含む豪族たちの勢力の均衡は保たれていた。

 推古天皇の後、男の舒明天皇皇位を継ぐが、それとほぼ同時に他の男性と結婚していた宝姫王(後の皇極天皇斉明天皇)が、37歳という高齢で舒明天皇の皇后になる。

 そして、現代でも高齢出産で大変な年齢なのに、天智天皇天武天皇、間人皇女を産んだことになっていて、在位12年で舒明天皇が亡くなった時、49歳という高齢で天皇になる。再びの女帝だ。

 その後、大化の改新乙巳の変)が起こり、皇極天皇は、史上初めて譲位を行ない、皇極天皇とは同父同母である弟の孝徳天皇が即位するが、その孝徳天皇が9年後に亡くなると、皇極天皇は、61歳で再び斉明天皇として皇位に復活する。

 その女帝の斉明天皇が亡くなったのが661年。推古天皇の即位から斉明天皇が亡くなるまでの68年のあいだの男帝は、舒明天皇在位が12年、孝徳天皇が9年にすぎない。

 この傾向は、古事記日本書紀が書かれた奈良時代まで続く。

 女帝の斉明天皇の後、天智天皇の在位はわずか4年で、その後、壬申の乱をはさんで天武天皇が即位して13年。そこからまた女帝の持統天皇が7年、男の文武天皇が10年の後、女帝の元明天皇が8年、その娘の元正天皇が9年。次の男の聖武天皇は25年(実際は光明皇后の影響が大きかった)だが、その後にまた女帝の孝謙天皇が9年、男の淳仁天皇(女帝の孝謙天皇上皇として権限を持ち、淳仁天皇は実質的な力がなかった)が6年、淳仁天皇が淡路に流されて、孝謙天皇が再び称徳天皇として復活して6年。

 推古天皇が即位した593年から称徳天皇が亡くなる770年までは177年だが、そのうち女帝の期間が86年、男は79年。女帝が8代、男帝は7代だが、孝徳天皇淳仁天皇などは権限を持たせてもらっておらず、実質的に国のトップといえる男の天皇は、天智天皇天武天皇の2人に、聖武天皇を加えるかどうかという程度だ。

 現在、今上天皇 徳仁に男の子供がいないということだけで、世継ぎがどうなるのかと議論になるが、過去に遡れば、当たり前のように女帝が続いていた。

 アマテラス大神というのは、日本人なら誰でも知っている太陽の女神で、皇祖神として崇められている。

 しかし、この太陽神は、古事記日本書紀で、描かれ方が異なる。

 古事記の方は、よく知られているように、イザナギが黄泉の国から帰った後、禊をしている時に生まれる。

 このアマテラス大神が生まれる時は、すでにイザナミは亡くなっている。

 それに対して日本書紀においては、イザナギイザナミが、山とか木とか草の神を産んだ後、天下を治めるものが必要なのではないかと判断して、大日孁貴(オオヒルメノムチ)という太陽神を産む。その後、月の神が生まれ、太陽神の支えになるだろうということで、この2神を天に送る。太陽神は、アマテラス神と表記されていない。

 その後、なぜか、古事記においては国生みで一番最初に生まれたものの不完全であったために流された蛭子が生まれ、さらにその後にスサノオが生まれるが、スサノオはその時点から我慢がきかず、いつも泣き喚いて、そのため人間は死んでしまい、青い山々は枯れ果てたので、イザナギイザナミは、根の国に追放する。

 そして、その後にカグツチが生まれるのだ。

 それからは、古事記と同じような展開となり、カグツチが生まれて全身が焼かれて死んだイザナミに会うために、イザナギが黄泉に行くが、醜く姿の変わったイザナミに恐れをなして地上へと逃げ帰り、穢れを落とすために禊をする。

 その時、左目を洗った時に天照大神が産まれる。

 イザナミイザナギが一緒に産んだ太陽神は、大日孁貴(オオヒルメノムチ)と呼ばれたのに、イザナミが死んだ後、禊によって生まれた太陽神は、天照大神となっている。これが、私たちのよく知っている皇祖神、アマテラス大神だ。すると、太陽神は、イザナミの死の後、禊を通して別の名前で復活したことになる。

 これをどう解くか?

 私は、邪馬台国の時に、卑弥呼が祀っていた日神が、大日孁貴(オオヒルメノムチ)に該当するのではないかと思う。

 その後、九州に限らず日本各地で、カグツチイザナミの死で象徴される凄惨な事態となり、それはおそらく様々な地域で強力になった武器による戦乱を意味しているのだと思うが、その乱れた状況をとりあえず終結させたのが、6世紀の継体天皇以降の時代なのではないか。

 その時、かつて邪馬台国で祀られていた日神が、あらたに天照大神として復活した。元からあった太陽神ではなく、穢れを祓う禊を通して、新たに現れた太陽神のもとで国を一つにまとめ、新秩序を作り上げようとしたのだ。

 その努力は、もちろん継体天皇1人の力ではなく、継体天皇の子の欽明天皇や孫の推古天皇の時代にも引き継がれ、いくつかの混乱を経て、天武天皇の時代まで続けられたのかもしれない。

 日本という国名は、日の本(ひのもと)からきているが、そのことについて、一般的には「やまと」が日出ずる国だからと説明されるが、その程度の意味だろうか。

 中国に使者を送る時は、日が上るところからやってきました、ということで構わないが、中国との関係より大事なのは、日々、生きている国内のことだ。

 

 日の本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも

                      (万葉集 巻3・319 作者不詳)

  (日本の大和の国の鎮護としてまします神よ。宝ともなっている山よ。駿河国の富士の高嶺は、見ても飽きないことだなあ。 )

 

”ひのもと”は、やまとの枕詞だ。大和の枕詞は、そらみつ、秋津島、敷島など他にもあるから、”ひのもと”という言葉を響かせて、大和ときて、神ときて、富士とくると、”ひのもと”の”ひ”は、火を連想させる。

 この歌の場合、火のもとの大和の国の鎮護の神は富士山だが、邪馬台国阿蘇山の関係も同じだ。やまとの鎮護の神は、火の山だった。

 どこまでが偶然で、どこまでが必然かはわからないが、阿蘇山と富士山を結ぶと、そのラインが、ちょうど現在の橿原神宮、初代神武天皇が最初の宮を築いたと神話に記されるところを通る。

 そして淡路島のすぐ南の沼島も通るが、ここは、オノコロ島の有力候補の一つだ。日本書紀によれば、イザナギイザナミは、最初に産んだオノコロ島に降り立って、ここを国中之柱(クニナカノミハシラ)とした。その後、イザナギは左に、イザナミは右に、柱をまわって出会ったところで陰陽を合わせ、まず初めに淡路島を産んだ。それは、吾恥(=アワジ)だった。*第1140回のブログで、「恥」と、神に奉斎する巫女の関係を書いた。

 イザナギイザナミは、アワジの後、オオヤマト、イヨ、ツクシ、オキノシマ、サドノシマ、コシノシマ、オオシマ、キビコジマと産み、この8つが、オオヤシマグニとされた。それ以外の、イキや、ツシマは、潮の泡や水の泡が固まってできた。(つまり、イザナギイザナミは直接関与していない)。

 不思議なのは、下のラインのように、オノゴロ島を淡路の沼島とすると、イザナミイザナギが産んだ8つの島というのは、オノゴロ島の東にオオヤマト、東回りに西にイヨ、その後、ツキシ、オキ、サド、コシまで、法則性のある図形の上を辿っていくことになる。(その次のオオシマとキビコシマが、どこかわからない)。そして、富士山と阿蘇山のあいだは約750kmで、そのちょうど真ん中の375kmのところが、淡路のすぐ南の沼島になる。これは、単なる偶然なのか必然なのか。

 この話は、イザナミイザナギが日本の国土を作ったというより、この神話が作られた時の国家、阿蘇と富士をつなぐアイデンティティを共有して連合する勢力の範囲を示しているのかもしれない。

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阿蘇山と富士山を結ぶライン上に、ヤマトの中心と、オノゴロ島候補の沼島が位置する。沼島は、阿蘇山と富士山のあいだ750kmのちょうど真ん中である。

 そして、機内のヤマトの地において、このラインから南1kmのところに、日本の古墳の中で、もっとも奇妙な古墳がある。

 それは、丸山古墳である。この古墳は、天武天皇持統天皇の陵の候補ではあるが、被葬者は、継体天皇の息子、欽明天皇ではないかという説もある。

 墳丘の長さが318mもあり、日本で6番目に大きな古墳だ。しかし、この古墳は6世紀後半のものとされており、古墳が巨大化した5世紀前半から中旬から150年近く経っている。また、天武天皇持統天皇の治世は7世紀後半なので時代が合わない。

 さらに、5世紀の巨大古墳が縦穴式の長持型石棺であるのに対し、この古墳は、家形石棺で、横穴式の石室が28.4mもあり、日本の古墳全ての中で最大なのだ。

 そして、通常の石室は円墳の中央に置かれるが、この丸山古墳では中央から20mほどずれてしまっている。

 その理由はわかっておらず、私の想像では、6世紀後半に活躍した有力者のために、5世紀に作られた巨大古墳に、日本最大の横穴式の石室を設置しようとしたためではないだろうか。

 さらに不可思議なことは、この古墳の400mほど東に植山古墳があり、この古墳が、阿蘇のピンク石の石棺を用いており、推古天皇と竹田皇子の古墳と推定されている。

 しかし、この南800mの平田梅山古墳を、宮内庁欽明天皇陵としているが、欽明天皇の古墳が丸山古墳か植山古墳で、平田梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目ではないかという説もある。 

 いずれにしろ、6世紀から7世紀にかけて、新体制を築くために努力していた者たちの中で最高位の人物の陵墓が、九州の阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに集まっているのである。

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阿蘇山と富士山を結ぶラインのところに、6世紀から7世紀のヤマト王権の中枢が集まる。ラインの真上が神武天皇橿原宮が築いたとされる畝傍山、右上は藤原京(ラインから1km以内)、左下が飛鳥の宮、三角形の三つの点が、日本最大の石室を持つ丸山古墳(左)、阿蘇のピンク石の石棺を持つ植山古墳(右)、欽明天皇陵(下)である。

 天孫降臨のニニギとコノハナサクヤヒメが、上に述べたエチオピアのソロモンとシバのように、日本の天皇家の起源ということになるが、2人が出会ったとされる場所は、いろいろな説があるものの、神話上の人物の話なので、事実かどうかわからない。そんなことより、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として崇められてきているということについて、もう少し考える必要がある。

 コノハナサクヤヒメと富士山がつながっている理由について、納得できる説明は見られない。父親が山の神だからといって、娘が富士山の神様になる必要もないだろう。

 また、コノハナサクヤヒメは、はかない命の象徴でもあり、富士山の堂々たる様とは結びつかない。だから、コノハナサクヤヒメは、一般的に桜を重ねてイメージされる。

 しかし、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の木花は、本当に桜なんだろうか? 木花は、現在でも、樹氷とか樹霜のことを指す。実際の花ではなく、木についた霜とか凍った水滴が花のように見える状態。

 コノハナサクヤヒメが、富士山の樹氷とすれば、それはそれでつながるし、はかない命を象徴する理由にもなる。しかし、コノハナサクヤヒメは、浅間山などでも祀られているし、樹氷ならば、わざわざ富士山である必要がない。

 だとすると、樹氷ではなく、やはり火山と関係しており、花咲か爺さんの物語のように、火山の灰が霜のように樹木に積もって、花に見えるイメージを表しているのではないか。

 つまり、コノハナサクヤヒメは噴火の神様で、富士山の噴火は、遠く離れた場所でも火山灰を運び、木花を咲かせたのだ。しかも、火山灰によって太陽の光が遮られ、夜のように暗くなった状態で。木花之佐久夜毘売には、”木花”と”夜”という言葉がついているのだから、この説明で、大きな矛盾はないはずだ。

 富士山は単独峰であるため、かなり離れたところからも美しい姿を拝める山だが、噴火の時に立ち上る噴煙は、近いところだと凄まじい迫力だったろうが、遠く離れたところから見ると、神がかった美しさがあったのではないか。

 コノハナサクヤヒメが、吹き上がる噴煙や火山灰の神様であるとすると、浅間山で祀られている理由も納得できる。

 ニニギが、阿蘇山の近くに天孫降臨し、富士山を象徴するコノハナサクヤヒメと出会い、結ばれる。この二人の末裔が”やまと”であるのだから、阿蘇山と富士山を結ぶライン上に新たな国の中心を置いたことは必然だった。

 そして、邪馬台国の日神を復活させることで、やまとは、古代と一つながりになる。

 やまとは、火と日のもとにある国なのである。

 

 

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第1143回 古代は未来への架け橋となりうる。

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丹後の竹野の海岸に立つ穴穂部間人と聖徳太子の母子像。

 

 現代社会で他者との競争に明け暮れて生きる私たちは、私たちの意識というものは、自分の言動を管理している自己意識が全てだと思いがちだ。

 そして、社会での色々な不安や悩み、他人と比較した優越感や劣等感、確執や争い、喜びや満足も、この自己意識の基準の上に生じている。

 脳の専門家の説明では、右脳は感情的な部分を担い、左脳が論理的な部分を担って、そこから人間意識が生じるとされる。

 それに対して、ジュリアン・ジェインズが、『神々の沈黙』という著書の中で、私たちの意識は、古代において大きく変わった時期があったと述べている。

 彼は、その意識の変化は、アルファベット文字を使い始めた紀元前1000年頃と判断した。その根拠として、ギリシャ最古の叙事詩ホメロスの神話において、書かれた時期の異なるイリアスオデッセイアの二つの物語に着目し、イリアスが書かれた頃と、オデッセイアが書かれた頃の言葉の使い方の違いから意識のあり方の変容を見出し、それを、右脳言語から左脳言語への移行というふうに捉えた。

 その言語野の変化によって、人間意識の変化が現れ、それまで自分と世界が一体化されていたのに次第に分断され、社会の変化として、巫女の減少と消滅のことが挙げられていた。

 アルファベットの登場以前、人間の言語野が右脳にあった時は、巫女が、社会の中に当たり前のように存在した。しかし、アルファベットの登場後、言語野が右脳から左脳に移行していくにしたがって、巫女は少なくなり、しかし巫女の重要性は認識されていたため、巫女な素質のある者をデロス島などに住まわせ、世俗的な穢れに染まらないように隔離して育てた。しかし、さらに時代が下り、ローマ時代になると、その努力すらほとんど効かなくなってしまったようだ。

 アレクサンダー大王は、アリストテレスを家庭教師に持つ理性的な人物であったが、東征前に、デロス島の巫女の神託を受けていた。それほど、巫女の存在が重視されていた。それは迷信とかではなく、実際の世界においても、不可欠な力だったようだ。

 そして、ジュリアン・ジェインズは、フェニキア文字以前の未解読の文字言語、ヒッタイト文字やミケーネ文字などが詳しく解読できるようになれば、人間は、現在の自己中心的な意識ではない方法で世界とアクセスすることが可能だと覚ることになるだろうと預言した。

 ジュリアン・ジェインズは、ただの知的好奇心で、このような研究と考察を続けていたわけではない。彼は、我々の左脳言語に偏重した意識が、今日の様々な歪みを生み出していると認識していた。

 たとえば幸福感なるものは、満たされた感覚を得られればそれで幸福なはずなのに、左脳意識のロジックが介入すると、人と比較したり、社会的な体面とか色々な分別で、それを計ろうとして、せっかくの喜びを損なってしまう。

 優劣とか不安とか焦燥とか猜疑心などという幸福感を蝕むものは、左脳意識のお得意な分別から生まれている。この不幸な状況を抜け出すための意識の回路を、ジュリアン・ジェインズは見出そうとしていたのだと思う。

 左脳意識よりも右脳意識が思考回路の軸になるような思考というものはどんなものか。それを知るために、左脳言語を主体にした思考(科学的分析)で、フェニキア文字以前の文字言語を解釈したとしても、意識の構造が異なるから、真の意味で理解できない。理解したと思っていても、それは左脳意識の思考の癖でそう決めつけているだけのこと。

 これは、左脳言語と右脳言語のあいだだけでなく、文学作品などの翻訳でも起こる問題だ。いくら外国語の単語の意味を多く記憶していたとしても、文脈を読む力、書かれている内容の背後を読む力が弱いと、その真の意味を捉えて翻訳することはできない。

 欧米言語の場合は、アルファベットの使用が、意識の変化に大きな影響を与えた。ならば、日本の場合はどうなのか。

 日本の場合は、ヒッタイト文字などのように3000年以上前に遡らなくても、2000年から1000年前に、そうした変化があったのではないか。

 長く平和に続いた縄文時代は、それ以降とはまったく異なる世界観があったのではないかと想像できるが、おそらく意識の在り方も、それ以降とは異なっていたのではないか。

 しかし、弥生時代が始まってからは、急激に島国以外からの人々が増え、異なる文化背景を持つ人々が、この狭い島国で争うこともあっただろうし、そのことによって凄惨なことになったため、まとまって生きていくためにはどうすればいいのか、ということも真剣に考えざるを得なかっただろう。

 そして、国を束ねていく人たちのあいだで、共通文字として漢字が導入された。その漢字を、島国で古くから育まれてきた意識との調和を実現するために、様々な工夫が重ねられ、古事記日本書紀万葉集をはじめとする多様な表現も創造された。この時代が、古代ギリシャでは、ホメロスの神話の時代にあたるのではないだろうか。

 その後、ギリシャでは哲学が発展し、その強固なロジックをもとに、民主制が敷かれる。

 日本も日本ならではのロジックを獲得し、律令制を強化していく。

 しかし、日本の古代の特徴的なところは、おそらくそれ以前の時代がとても豊かで長く続き、その蓄積が大きかったからだと思うが、漢字という中国から輸入した言語に重きを置く意識に抵抗する別の意識が膨らんでいった。そして、仮名文字を、豊かに育んでいく道が、表現分野において実践された。

 石川九揚氏が、二重言語国家・日本という見事な書物で、漢字とひらがなという日本語の二重構造から浮かびあがる日本文化および日本人の意識の深層を、鋭く解いていく試みを行ったが、まさに、日本という国、日本人の意識を考えるうえで、この二重構造に対する認識は不可欠だ。

 私は、漢字と仮名文字を調和させていく試みが、日本の長く平和に続いた古代の記憶を、タイムカプセルのように現代まで伝える箱舟になったのではないかと思っている。

 そして、その揺籃期において、紫式部をはじめとする女性が力を発揮したということ、また、女性にそれを可能にさせる社会構造が、長年の歴史的蓄積によって整えられていたことも大きかったと思う。

 古代日本は、この部分において、きわめて成熟を遂げた社会だった。 

 古代、地方から選ばれて宮中に仕えていた采女と呼ばれる女性も、今日の基準で言うところの美人とか、スタイルがいいとか、そんな下卑た基準ではなく、教養や品格が大事だった。

 宮中に仕えるといっても、単に夜の相手をしたり、お手伝いさんだったわけではなく、大王の話相手や、幼い姫や皇太子の教育係でもあったのだから。

 社会において、女性の文化的地位が高かったのは、おそらく、それ以前から、その基礎が準備されていたからだろう。このことが、日本文化において、とても大きかった。

 というのは、やはり、男性に比べて女性の身体の方が、月経や出産など、自然の摂理に即してできており、自然に基づいた身体に宿る意識は、左脳の自己都合的なロジックに勝るものだからだ。

 1000年ほど前、紫式部などの女性を中心にして、新しい日本の文学が創造された。その文学は、今日では単に文学部、絵画部、音楽部などに分断された専門的部門の一つにすぎないものになってしまったが、言語を使うことで意識を整えていく人間の精神にとって、文学は骨格である。もしも、文学は自分には無縁だと鼻で笑って他分野の表現活動に勤しんでいる者がいたとしたら、時代の風潮のなかで人に受けたりそうでなかったりすることはあっても、古代から箱舟に乗せられて伝えられてきた人間精神の普遍性を、未来へとつなぐ仕事とは、また別のものだろう。

 紫式部たちが創造した文学の中に宿る精神は、その後の様々な表現者や為政者に影響を与えた。本来の詩人は、ホメロス(1人とは限らない)のように言葉の力によって精神の箱舟を生み出すものであって、単に詩と呼ばれる定型の言語活動をする人のことではない。だから、詩人は、画家や音楽家や写真家と違って、詩家とはならず、詩の人であり、名刺の肩書きとなる業界や専門ジャンル、ましてや社会的ステイタスではない。

 

 「詩は志の之くところなり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。」

                             (白川静 字統より)

 この意味において、詩心が、過去と未来の紐帯となってきた

 源氏物語」を、実際に読んだこともないのに、漫画や、流行の早わかり本からの断片的情報で、プレイボーイの女性遍歴だと思っている人がいたら、それは非常に残念なことだ。

 「源氏物語」は、ホメロス神話のように、古代の精神と次の時代の精神をつなぐ役割を果たしており、それは、紫式部に、そういう志があったからだ。だから彼女もまた、当然ながら、真の詩人である。

 その紫式部に影響を与えたと思われる竹取物語

 紫式部が、源氏物語のなかで、「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」と書いているように、日本最古の物語といわれるが、成立年も、作者もわかっていない。原本も存在しない。もっとも古い写本でも、室町時代に書かれたもので、それでも原本の時代から300年が経っており、しかも、この写本はほとんど流通しておらず、多くの人が現代語訳で知っている「かぐや姫」は、江戸時代に活字印刷で出回った「流布本系」を原本としている。

 実際に竹取物語が書かれてから1000年近く経ち、写本を繰り返すうちに、その時々の価値認識にもとずく判断で、文脈は大きく変わっていないにしても表現に修正が加えられていった写本を、竹取物語の原本としているのだ。

 助詞や助動詞の表記も、1000年前と同じかどうかわからない。

 「ぬ」という文字も、否定なのか完了なのか、未然形、連用形、終止形など、学校教育の古文で習う方法論に添って理解しようとしても、そもそも、平仮名一文字が書き換えられていたら、意味が大きく違ってしまうことになる。

 なので、物語の真意は、文脈全体から判断していくほかない。

 しかし、文脈といっても、古典研究に精を出すだけや、物語の中だけを解析してもわからないだろう。文章の背後のことを想像力で補えるだけの時代認識も必要だ。

 上に述べた”巫女”ということについても、時代によってその捉え方がまったく異なる。

 現代で巫女といえば、神がかりをして、時には口から泡を吹いたりして、わけのわからないことを言う宗教家だと思っている人が多いかもしれない。

 それはともかく、紫式部は、竹取物語から、古代から箱舟に乗せられてきた大切な精神のエッセンスを受信している。それが、”もののあはれ”という形でさらに磨き抜かれていく。

 物語の出で来はじめの「竹取物語」」の作者も、自分勝手な想像力で物語を作ったわけではなく、それ以前の時代から伝わっているものから、精神のエッセンスを掬い取っている。

 竹取物語の成立は平安初期と考えられているが、”もののあはれ”の精神の起源はそれ以前にある。とくに、上に述べたように、漢字という新しい思考の様式が入ってきて、それまでの思考の様式との違いに軋轢を感じながら、なんとかそれを分断させずに調和させようと努力していた時代、6世紀頃からの精神文化が、古代と新しい時代をつなぐ架け橋として、非常に大きな役割を果たしたことだろう。

 文学作品は、上に述べたような修正が加えられ、原本に触れることもできず、原本のように信じられている多くの写本も修正が加えられており、古代へとアクセスするためのハードルは非常に高い。

 しかし、造形美術は、ストレートに、私たちの左脳意識以外の意識に働きかけてくる力がある。

 完全な形で現存する造形美術として最も古い斑鳩中宮寺の半跏思惟像や、国宝第一号の京都の広隆寺弥勒菩薩像を愛する日本人はとても多い。

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中宮寺 木造菩薩半跏像 (中宮寺ホームページより)、広隆寺 弥勒菩薩(パンフレットより)

 この二つの像を、仏像のジャンルで分けることにまったく意味はない。

 日本が、まだ仏教を消化しきれていなかった時代に作られた、静かに物を思うあの表情、あの微かな笑み、あの佇まいに心惹かれる人が多いのだ。

 竹取物語の作者もまた、中宮寺の半跏思惟像や広隆寺の彌勒菩薩像によって、古代から伝わってきた精神文化のエッセンスを受け取ったことだろう。

 中宮寺の半跏思惟像は、中宮寺に住み、その場所を尼寺にした穴穂部間人や、聖徳太子とつながっている。そして、物部氏蘇我氏の戦いの時に丹後の竹野に隠遁していた穴穂部間人は、竹野の土地とつながっている。そして、第11代垂仁天皇の妃で、竹野媛の後裔で、竹野の地をルーツに持つ迦具夜比売命かぐやひめ)をモデルにしたとされる竹取物語は、丹後の竹野の地の記憶と無関係であるはずがない。

 穴穂部間人が丹後の竹野に隠遁していたのは、おそらく彼女の母親が、その土地とつながっているのだ。母親とは、蘇我稲目の娘で欽明天皇に嫁いだ2人のうち1人の小姉君(おあねのきみ)だ。

 小姉君の娘の穴穂部間人は、用明天皇の皇后になるが、ともに父親は欽明天皇である。そして、用明天皇の母親が、蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)で、穴穂部間人の母親が、蘇我稲目の娘の小姉君。もしも、堅塩媛と小姉君が実の姉妹だとすれば、用明天皇と穴穂部間人の子供の聖徳太子に流れる血は濃すぎる。

 小姉君は、蘇我稲目の養子と考えるのが自然であり、なぜ彼女を養子にしたのかというと、おそらく、丹後を拠点にする海部氏と同盟関係を結ぶためだろう。

 穴穂部間人が、丹後の竹野に身を隠すことができたのも、母親の実家だからだと考えると筋が通る。

 そして、興味深いことに、蘇我氏が滅ぼされた後に天皇に即位した孝徳天皇の皇后となりながら、難波京において、孝徳天皇と関係を断つようにヤマトの地に帰ってしまった中大兄皇子と行動をともにした間人皇女も、聖徳太子の母親と同じ名前だ。

 彼女は、中大兄皇子の妹とされ、兄妹の間で禁断の恋に落ちたからだとする世俗的な発想の説もあるが、2人を産んだとされるタカラノヒメミコ(後の皇極天皇重祚して斉明天皇)は、他の男性に嫁いでいたのに、37歳の時、突然、舒明天皇の皇后になり、中大兄皇子天智天皇)と大海人皇子天武天皇)と間人皇女を産んだとされる。しかし、37歳以降というのは今でも高齢出産であり、当時だとちょっと考えられない。

 間人皇女は、養子縁組だと判断するのが自然だろう。そして、彼女もまた丹後の竹野の間人と関係している可能性が高い。なぜなら丹後の海部の力は、大化の改新乙巳の変)の後の新政権にとっても重要だからだ。

 丹後の竹野は、羽衣伝説の土地でもあるが、この地域の女性の役割を踏まえることなく、竹取物語の本質にたどり着けないと思う。

 海部氏の拠点である丹後の女性とは、簡単に言うと、神に奉斎する聖なる人であり、さらに同盟関係における紐帯。

 中世の戦国時代において、同盟関係を結ぶ大名同士の間では、妻や子供が人質にとられたが、古代において、同盟の紐帯で人質の役割も負う女性は、時には皇后になり、皇統を継ぐ子供を産む人物でもあった。

 垂仁天皇の皇后となり景行天皇ヤマトタケルの父)を産んだと神話に記録される日葉酢媛(ひばすひめ)も丹後の女性である。

 とくに、丹後の竹野川流域は、古墳の多さや多くの弥生遺跡などの出土品から判断して、古代から栄えた場所であることは間違いないが、飛鳥時代の頃は、海部氏と呼ばれる海人の拠点でもあった。

 海人は、単に漁に勤しむ人ではなく、船舶を自由に操る人たちであり、古代世界において重要な役割を果たしていた。

 古代に限らず、中世においても、たとえば豊臣秀吉は、瀬戸内海の村上水軍を味方にするための懐柔策を駆使しており、水軍が敵につくか味方になるかで、勝負の行方が決まってしまうところがあった。

 海部氏と尾張氏アメノホアカリを始祖とする同族であったとされるが、それは、もしかしたら同盟関係の盟約が結ばれたうえでの同族だったかもしれない。尾張氏物部氏が同祖とされるのも、それと同じかもしれない。

 6世紀のはじめ、突然、天皇に即位することになった第26代継体天皇の最初の妃は、尾張目子媛であり、継体天皇は、尾張氏の力を味方につけていた。

 ある日、突然、福井の王が、歴史の表舞台に登場したわけではないのだ。

 壬申の乱で勝利を収めた大海人皇子天武天皇)は、その名からもわかるように、幼少期に、若狭湾の沿岸で、凡海氏(海部一族の伴造) の養育を受けていた。

 欽明天皇の時代に、蘇我稲目が、突然、頭角を現すようになるが、小姉君を通して、丹後の海部氏との関係が深まったからだろう。

 小姉君は、聖徳太子を産んだとされる穴穂部間人や、その兄弟の穴穂部皇子崇峻天皇を産む。

 しかし、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった時、次の王は自分であると横暴に振る舞い、その後、物部守屋と組むが、蘇我馬子に阻止されて、物部氏とともに滅ぼされる。崇峻天皇も、即位したものの自分の思うどおりにできないと不満をもらし、蘇我馬子に殺害される。

 これらのことについて、歴史の教科書は蘇我氏の横暴を伝える。

 しかし、穴穂部皇子の行動は、かなり問題がある。

 というのは、穴穂部皇子は、敏逹天皇が亡くなった直後、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯そうとして、天皇の死体を安置している神聖なる殯宮に押し入ろうとしたのだ。その時、敏達天皇の寵臣の三輪逆(みわのさかう)が門を閉じてそれを防いだのだが、そのことに怒った穴穂部間人は、三輪逆を殺すように物部守屋に命じ、守屋は軍を率いて実行した。その時、蘇我馬子は、「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えたと記録が残る。 

 こうした記録を見れば、蘇我馬子は、海部の力を背後に持つ穴穂部間人と物部守屋が結びついて、傍若無人な行動を起こしつつあったことを憂いているようにも見える。

 崇峻天皇の暗殺にしても、崇峻天皇が、蘇我馬子を殺害することを暗示したからでもある。もしかしたら蘇我馬子は、様々な勢力の調和をはかりながら国をまとめていこうと、聖徳太子と協力しながら努力していたにもかかわらず、穴穂部皇子崇峻天皇が、自分たちの背後にある丹後の海部の力をもとに、横暴になっていた可能性もある。

 そう考えないと、蘇我馬子物部守屋との戦いの際、聖徳太子蘇我氏と行動をともにした理由がわからなくなる。いくら、聖徳太子の父親(用明天皇)が蘇我氏の血を受け継ぐとしても。聖徳太子は、叔父の穴穂部皇子の粗暴な振る舞いよりも、蘇我馬子の方が、国を束ねるうえで相応しいと判断していたのではないか。

 蘇我氏は最初、強力な軍勢を持つ物部氏の前に劣勢だったが、聖徳太子が、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いを立てたことで、流れが変わり、勝利したとされる。

 これが大阪の四天王寺の起源であるが、単なる神頼みを行ったわけではなく、河内の勢力を味方につける何かしらの根回しがあった可能性もある。

 物部守屋を弓で射た迹見赤檮(とみのいちい)は、物部氏の一族であるという説もあるが、この戦いの後、勝利の殊勲者として、物部氏の遺領から一万田を賜与されており、彼が寝返ったと想像することは可能だ。

 蘇我氏物部氏の戦いの時、穴穂部間人は、母と義母が蘇我氏の出身で、兄の穴穂部皇子物部氏とつながっていたわけだから、その心中は、さぞ複雑なものだったろう。

 日本神話は、悲劇の女性を主人公にするものが、とても多い。

 旅している天皇が、各地で出会った女性に妻どいをするという形をとっているが、同盟関係を結ぶための手続きが、神話化されているのだろう。

 しかし、大切な紐帯役として嫁いでいく女性は、同盟関係が破綻する時、垂仁天皇の皇后、狭穂姫命(さほひめのみこと)のように、兄をとるか、天皇をとるかと迫られて引き裂かれる。

 世の不条理にさらされて、女性は、よりいっそう神話的な存在となっていく。

 紫式部が書き上げた長編小説の源氏物語も、光源氏のまばゆい魅力が、光源氏と関わりを持つ1人ひとりの女性の個性を、より鮮明に浮かび上がらせる。

 女性たちは、実に多様な、個性ある存在として書き分けられている。

 多様社会といわれる現代、実際のところ、源氏物語の登場人物ほど多様な個性を、1人ひとりが持ち合わせているだろうか。

 源氏物語に登場する女性たちの多様性を生み出すものは、いったい何なのか。

 それは、彼女たちが、世間の基準にそって分別を駆使しながらエゴを肥大化させる人物ではなく、関わりを深める他者の隅々まで気持ちを行き届かせることでエゴを滅却し、その結果、世間の基準が無化された、その人自身の色が立ち上がってくるからだろう。ジュリアン・ジェインズの言葉を借りれば、左脳言語による計画や打算ではなく、右脳言語に即した無為の献身によって、時代を超えた個性的な存在となる。

 それに対して、竹取物語において、かぐや姫に求愛し、かぐや姫に試みられる男性陣の、狡いけれども滑稽な顛末となる言動は、自己基準の左脳言語に即した意識による茶番ということになるだろう。

 竹取物語の作者は、丹後の竹野の女性たちが、異なる勢力のあいだで紐帯の役割を果たしながら運命に翻弄されてきた歴史事実をもとに、神聖なるものと穢れた世俗に関する比喩表現を立ち上げたのではないか。

 今から、1000年以上も前に、人間意識の違いを絶妙に書きとめながら、普遍性を追求している姿勢は、とても感動的であるが、それもまた、古代からの蓄積があってのこと。

 そして、それらの文学が、後の時代に多大なる影響を与えているわけだから、まさに、古代は、未来の架け橋となっている。計算高い左脳意識による計画によってではなく、エゴによって分断される世界の紐帯にならねばという志を育む右脳意識と結びつくことで。

 古代に限らず世界というものは、解釈の度合いを人と競い合うだけでは何にもならない。自分に引き寄せて、その根元を解かなければ、どこにもつながらない。

 

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