第1164回 現場を訪れることで立ち上がってくる新たな問い

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三角形の北の頂点が、京丹後市網野町の網野神社、西の頂点が兵庫県宍粟市の伊和神社、東の頂点が、亀岡市の魔気神社である。それぞれのあいだは、76kmで正三角形である。魔気神社と、伊和神社は、珍しく本殿が北向きの神社であり、京丹後の網野神社は、浦島太郎伝説の地で、近くに、日本海側で最大の網野銚子山古墳がある。そして、網野神社と魔気神社を結ぶラインを、同じ距離だけ、東南に行くと、飛鳥となる。

 

 その場所を訪れることで初めて気付くこと、気になることがあるので、やはり、実際にその場所に足を運ぶ必要がある。

 たとえば、神社にしても、現地まで足を運んで鳥居をくぐる時、本殿が北を向いていることに気付く時がある。

 神社は、一般的には、南や東を向いており、北を向くというのは何かしら特別な意味があるので、北に何があるのだろうと気になる。

 そして、別のところを訪れている時、そこでも、めったにない北向きの神社があったりすると、その二つの関係が気になってくる。

 たとえば、京都府亀岡に魔気神社という名前も怪しい神社がある。この神社は名神大社なので、平安時代においても、朝廷から特に重要だと定められた神社だ。

 しかし、祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)という珍しい神様で、これは、Sacred worldVol.2でも掘り下げた大宜都比売神オオゲツヒメ)と同じという説もある。

 この神様は、いわゆる、アマテラスなど天孫系の神様ではない。美味しい料理を提供しているのだが、なぜこんなに美味しいのかとスサノオが見に行くと、食べ物をお尻の穴から出したり、口からゲロのように吐き出したりして作っており、それを見たスサノオが憤慨して、バラバラに切り殺してしまう虐殺されてしまう。 

 なんとも妙なエピソードだが、おそらくこれは、二つの勢力のあいだの価値観や文化の違いを象徴しているのではないか思われる。

 そうした不可思議な神様を祀る魔気神社は、名神大社であるとともに、篠山街道沿いに広がる周辺集落共通の氏神として近世以来「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」と称されていて、歴史的に民衆からも大切にされてきた。

 国家の神社ではないけれど、人々に大切にされてきた神社であり、この神社が、北向きなのだ。

 そして、兵庫県宍粟市に、伊和神社がある。この神社は播磨一宮で、播磨三大社ともされる。

 この神社も北向きである。

 この神社の祭神は伊和大神で、大国主命と同じとされ、播磨国風土記で、国譲りの神話の中に登場する。

 この神社の境内は、とても不思議で、鳥居は、東を向いていて、鳥居をくぐり抜けて参道を行き、左側に曲がると本殿があり、その本殿が北を向いている。そして、右側に曲がると、磐座群がある。しかし、一般的に、境内に磐座がある神社は、神社の案内図にそのことが示されているのが普通だけれど、伊和神社にはそれがない。なので、何も知らない人は、境内の案内図にそって、鳥居から参道、そして左に曲がって本殿でお参りをして磐座群には立ち寄らずに帰っていく。

 伊和神社の本殿が向いている北には磐座群がある。さらにその北には、美しい三角形の宮山がそびえ、その頂上付近に、巨大な岩塊が多く存在している。ここが、伊和神社の元宮であるともされる。

 

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伊和神社の北、ピラミッド型の宮山の山頂付近の巨石群

 

 この宮山を登ると、途中、赤いベンガラの地層があったりして、古代、鉄の山であっただろうことが偲ばれる。兵庫県宍粟市から佐用町にかけては、古代から中世、鉄の産地として重要だった。

 南北朝の時代、鎌倉幕府の打倒と北朝の勝利の立役者である赤松氏は、鉄資源の豊富なこの地を治めていたので、圧倒的な戦闘力を備えていたのだと思われる。

 そして、さらに奇妙なことに、珍しい北向きの本殿を持つ宍粟の伊和神社と、亀岡の魔気神社は、北緯35.09度の東西線上に鎮座しているのだ。

 この二つの神社の奇妙なバックグラウンドを考えると、これは偶然とは思えないので、この二つの神社が向いている北には、いったい何があるんだろうと、さらに気になる。そうして次の探求が始まる。

 実は、この二つの場所のあいだは、76kmほどで、それぞれの地点を結んで正三角形を作る北の場所が京丹後市網野町であり、ここに墳丘201mという日本海最大の網野銚子山古墳がある。

 古墳が築かれている丘陵上では林遺跡・三宅遺跡・大将軍遺跡という弥生時代古墳時代の遺跡がある。

 そして、この近くに網野神社が鎮座している。この神社は、浦島太郎ゆかりの神社だ。

 752年(天平4年)の正倉院文書に「竹野郡網野郷」を記されるのが文献で確認できる古い神社で、当然ながら式内社である。さらに、ここは、白鳥伝説の場所でもある。

 さらにこの神社において、かつての本殿であった境内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)は織物と養蚕の聖域でもあり、亀岡の魔気神社と同じく、大宜津比売神を祀っている。そして、白鳥伝説は、鉄との関係がある場所が多い。

 実に怪しい。この三角形は、いったい何なのだということになる。

 いわゆる国譲りを迫った天孫降臨の神々ではなく、それ以前の、天孫とは価値観や文化的背景の異なる人々が、弥生時代からこの三角形の頂点にあたる場所に拠点を持っていた。そして、ヤマト王権を象徴する巨大な古墳が、その場所を監視するように築かれているのだ。

 さらに、そこに浦島太郎の伝承が関係してくる。

 これは一体何を意味しているのか?

  浦島太郎の物語の原型は、亀を助ける話ではなく、男が一人で船を出して漁をしていると、海神(わたつみ)の娘と出会い、語り合い、そして結婚し、常世にある海神の宮で暮らすという設定だ。

 つまり、異なる文化背景を持つ集団の娘との婚姻である。

 そして、自分の郷里に戻ってきたら、まったく別世界になっていた。

 これは、自分自身の価値観が大きく変わったとも理解できる。私も、20歳の時、2年間の海外放浪を終えて日本に帰ってきた時、自分がまったく異星人のように感じられるという経験をしたことがあり、もう元のようには生きられなかった。

 正しい理由はわからないが、浦島太郎の伝承の地と、北向きの本殿を持つ、亀岡の魔気神社と、西播磨の伊和神社という、いずれも古代から大社が、正三角形で結ばれている。

 さらに不可思議なのは、丹後と網山と、魔気神社を結ぶラインを、同じ距離だけ逆に伸ばすと、飛鳥である。

 これは、偶然なのか計画的なのか、それとも天命のようなものなのかはわからない。

 ただ、亀岡の魔気神社をはさんで、丹波王国という旧世界と、飛鳥を中心にした新世界が、対極に位置していることは、地理上で、間違いないことだ。

 このように、一番最初に気になった、「北向きの本殿」の謎を追っかけていると、新たな大きな問いが立ち上がってくる。

 いずれにしろ、現場に足を運ぶことで、考えることの奥行きと広がりが、大きくなっていく。そして、それらを追いかけていると、その問いは果てしなく連なり、目眩がしそうなほど、大きな時空が立ち現れてくる。

 西播磨の伊和神社も、亀岡の魔気神社も、飛鳥も訪れて取材をしているが、京丹後の網野町は、京丹後の他の地域を取材した時に、通り過ぎただけで、じっくりと取材していない。

 なので、次は、ここに行かなければいけないと思う。そして、行くと必ず、次の問いが立ち上がってくるだろうと思う。

 

 

2021年7月5日発行  sacerd world 日本の古層 vol.2   ホームページで販売中

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第1163回 古代から現在、そして未来への連続性

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 昨年の夏、自分の故郷の明石に長く滞在したこともあり、明石から播磨にかけての地域をじっくりと取材していた。

 私は、18歳まで明石で育った。明石原人や明石象の発見地ということもあり、その現場で考古学のママゴトをしていたが、明石周辺が歴史的に重要なところだったと、若い頃は思いもしなかった。

 

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 しかし、実は、これは明石に限らないことで、日本というのは、どこに行っても、神社があるだけでなく、古墳や縄文遺跡や弥生遺跡があり、歴史的な重みがあるところばかりなのだ。にもかかわらず、その地の人々と話しても、ほとんどのケースで、自分の地元にそのような重要で深い歴史があるなんて思ってもみなかったと言う。

 歴史の痕跡は、奈良や京都だけでなく、日本中、至るところにある。

 これはどういうことなのか?

 近代というのは、東京など数カ所の大都市が中心になっていて、文化は大都市にあり、地方は、何もないところというイメージを植えつけられている。

 けっきょくのところ、近代というのは、文化は、都市文化のことだけを指している。

 しかし、古代は、現代人が想像している以上に地方分権の世界であり、その自律分散した全ての場所が、文化の中心なのだ。その中心は、数え切れないほど多い。

 車や列車があれば、数十キロ離れたところに買い物にでかけるが、そういう交通手段がなければ、日々の生活で、そこまで遠出しない。なので、生活圏ごとに文化が育つことは自然なことだと言える。

 しかし、だからといって彼らが閉鎖的だったわけではなく、現在、地球の裏側と交易を行なっているように、東北と九州のあいだでも交易が行われており、古代人もまた、新しい知見を得ることで、自分たちの文化をより豊かにしている。

 そういう目で自分が住んでいる場所を見つめ直すと、新たな発見がとても多い。

 過去の歴史は、過ぎ去った遺物ではない。過去の人間の世界に触れ、その考え方や感性を想像し、現代へ至る連続性を探ることで、現代から未来への連続性もイメージできる。その結果として、現在の我々の暮らしの周りに溢れかえっている情報や物の中から、本当に必要なものを大事にすることができ、そうでないものに気持ちが乱されることも少なくなるような気がする。

 

 

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第1162回 ピンホール写真と、祈り。

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高性能のデジタルカメラは、撮影者が狙うような絵を作り出すために非常に有用なツールとなっている。

 それは、撮影者の満足度を高めるために適しているかもしれないが、そのアウトプットが、自分と世界のあいだの作法として相応しいものかどうかは別問題だ。

 世界には、自分の努力で何とかできることと、自分が努力したところでどうにもならないことがある。

 自分が努力したところでどうにもならないことに目をつぶって、それについて何も考えずにすめば心の安定を保てるかもしれないが、この世界で生きていくかぎり、そういうわけにはいかない。現在のコロナウィルスの問題もそうだし、近年、ますます酷くなっている自然災害においてもそうだ。

 自分が努力したところでどうにもならない試練が続く時の苦しみを、どう受け止めるべきなのか。この問いを、人類は、何千年も考え続けてきた。

 どれだけ便利な時代になったとしても、この問いから人間は自由になれない。

 そして、祈りというのは、その問いから生まれた。そして、祈りは宗教となった。

 世界には多くの宗教があり、その宗教を原因とする争いや残酷な事態も生じており、現代人は(とくに日本人は)、宗教に対してアレルギーを持っている人が多い。

 それでも日本人は、正月には神社や寺に初詣に出かけるし、旅先に神社があれば、ごく自然に参拝する。自分は無宗教だと言いながら、祈りを捨てていない日本人は多い。

 つまり、日本人は、宗教団体に所属していないというだけで、祈らない民族ということではない。

 気をつけねばならないことは、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならないことを受容できない心理に陥った時、邪悪なものに変容する可能性を秘めている。

 その時、宗教も祈りも、自分の願いの実現という欲の手段となってしまうからだ。

 本来は、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならない物事を受容するための、心を調える作法だった。

 芸術もまた、同じだった。

 努力しても思うようにならないのなら、努力する必要がないと考える人は、この世界を自分の欲の実現のための場と考えている。

 この世界を自分の欲の実現の場と考えない人にとって、努力することは祈ることと同じであり、それは、自分の心を調えるためのものだ。その努力や祈りは、欲の実現につながるのではなく、世界の理解と受容へとつながる。

 自分が努力したところでどうにもならない試練に満ち溢れた世界の中で生きていくうえで、本当の救いは、無聊の慰めで気を紛らわすことではなく、その世界を理解して受容することでしかない。

 世界を理解することは、科学的に証明されている事実を、いろいろ覚えるということではなく、世界を構成する様々な関わりを認識し、自分がその関わりの一つであることを納得することだろう。その関わりは、過去も未来も含め、どこまでも続いていく、目眩がしそうになるほどの連鎖だ。

 そして、受容というのは、その重さを受け止めて背負うことである。

 努力するところは精一杯の努力をするが、努力してもどうにもならないことは、その宿命を受容して、しっかりと備えをする。備えは、運命に翻弄されない確率を高めるためのもので、万全な状態を作るものではない。だから、備えをしてもダメならば仕方がない。生命の原理は、そうなっている。

 話が冒頭に戻るが、実は、高性能のデジタルカメラと違って、ピンホールカメラというのは、この生命原理と近いものがある。

 

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 撮影するにあたって、光の状態とか、風の強さとかを読み取り、どこに三脚を立てるか、判断する。針穴を開いているあいだも、そろそろ穴を閉じるかどうか、集中して、葛藤する。

 暗いとまったく映らないとか、写っている範囲が明確にわからないとか、長時間露光なので、同じ場所で一回しか撮影しないなど制約が多いために、思うようにはならない。なので、ダメなら仕方がない、という気持ちを常に持っている。

 しかし、経験を重ねていくうちに、備え方が向上し、精度は高まってくる。

 この写真行為は、祈りと共通するところがある。根本のところにあるのは、自分を超えたものの受容である。

 ピンホールカメラで撮った聖域の写真は、遥かなる古代からつながる歴史の重みを受け止めて背負う気持ちを、自分の中に生じさせる。大それたことであるが、そういう感覚が自ずから生じる。

 私たちは、制約の多い肉体に縛られた存在であるが、「魂」という言葉でしか表現できない自分に働きかけてくる力を感じることがある。

 私は、幽霊とか霊魂などは実際に見たことがないので、それらのことについて詳しく知らないが、植物であれ、岩であれ、魂が宿っていると実感することはある。その魂は、具体的に取り出して科学的に分析できる物ではなく、交流もしくは往還するエネルギーのようなものであり、一方に備えがなければ、その交流や往還は起こらない。

 写真もまた、古代の宗教や芸術と同じように、自分と世界のあいだの敬虔なる作法であると考えて撮影行為をしている人がどれだけいるかは知らない。

 写真に限らず、「アート」が金融商品のようになっている現代社会において、「アート」の性質をそう捉えている人が、どれだけいるかは知らない。

 しかしながら、いくら世の中が変わろうとも、人間と世界の関係の本質は、古代から変わっていない。

 変わったのは、世界の理解と受容における人間の真摯さだけかもしれない。

 

 

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第1161回 有為転変の出来事そのものではなく、この世を司る理。

 

 

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 Sacred world 日本の古層 vo.2の最後の14ページは、ピンホール写真と、上嶋鬼貫の俳句のコラボレーションになっている。

 上嶋鬼貫は、芭蕉と同じ時代の俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫と高く評価されていたものの、芭蕉ほど知名度が高くない。しかし、リルケなど、近代文明に対して批判的な目を持っていた欧米の抒情詩人に、少なからず影響を与えている。

 実は、Vol.2の最後を俳句とピンホール写真のコラボにしようと決めた時は、鬼貫の俳句だけにしようとは思わず、歴代の俳人の句に目を通した。俳句の場合は、著名な俳人の全ての句に目を通しても、そんなに時間がかからない。

 けれども、多くの俳人の句は、私が撮っているピンホール写真と響き合わない。

 たとえば、日本における俳句の近代を開いたとされる正岡子規は、やはり近代の目というのか写実的で具体的で、ピンホール写真ではなく、普通のデジタル写真に添えるのにちょうど、ということなってしまう。

 

  雪残る 頂きひとつ 国境     (子規)

  柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺   (子規)

 

 松尾芭蕉小林一茶とともに、江戸時代の三大巨匠とされる与謝蕪村は、写真表現には不可能なビジュアルを、俳句で表現している。

 

  菜の花や 月は東に 日は西に  (蕪村)


 一瞬の光景を切り取って静止させるという写真の特技を、写真では不可能な情景において、写真の代わりに行なっているのだ。

 また、

 牡丹散りて うち重なりぬ 二三片  (蕪村)

 

 のように、蕪村は画家でもあったので、非常に絵画的な俳句も残している。

 ただ、蕪村は、その光景を見ている当人の主体性が明確で、これは、一般的な撮影行為のshoot(意識的に狙い撃つ)という性質が強く、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となるピンホール写真とは、合わない。

  また、小林一茶は、素直で親しみのある句が多いので人気がある。

 

 名月を 取ってくれろと 泣く子かな  (一茶)

 やせ蛙 負けるな一茶 これにあり   (一茶) 

 

 しかし、現代のような消費社会においては、テレビドラマや映画などで人情に訴えるだけの似たような娯楽コンテンツは非常が多い。俳句のカルチャーセンター仲間なら、こうした俳句を話題に酒でも飲めるかもしれないが、他の人はどうなんだろう。

  俳聖の芭蕉は、さすがに他の俳人を超えた境地がある。なので、最終的には、芭蕉と鬼貫の二人の句で構成しようと思って、丁寧に芭蕉の句も確認し、実際に選んで、デザインもしてみた。

 でも、芭蕉の句は、鬼貫の句に比べて、どうにも合わない何かがある。 

 

 あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ   (芭蕉

 あのくもは いなずまをまつ たよりかな   (芭蕉

 いきながら ひとつにこおる なまこかな   (芭蕉

 

 芭蕉の句は、子規の句のような目の前にある風景の写実ではなく、その前後左右への想像と体感の広がりがある。

 この芭蕉の句の世界は、素人がデジタルカメラで撮った写実写真ではなく、風の旅人で掲載してきたような、優れた写真家の写真に通じる。

 つまり、私が撮っているピンホール写真は、その境地に至っていない。だから、芭蕉の句と響き合わない。

 もしくは、鬼貫の句やピンホール写真は、優れた写真家の写真や芭蕉の句にはない何かが含まれている可能性もある。

 松尾芭蕉は、物事を凝視しており、凝視しているのに単なる写実にならず、世界に奥行きが展開される。これは、私が出会ってきた優れた写真家の写真と同じだ。

 それに対して、鬼貫の目は、凝視ではなく、どちらかというと眺めている風で、最初から、物事の向こうを見ているようなところがある。

 

 木も草も 世界皆花 月の花         (鬼貫)

 むかしやら 今やら うつつ 秋のくれ    (鬼貫)

 花雪や それを尽くして それを待つ     (鬼貫)

 咲くからに 見るからに 花の 散るからに  (鬼貫)


 鬼貫は、有為転変の出来事そのものではなく、この世を司る理というべきものを視界に招き入れている。

 芭蕉が凸ならば、鬼貫は、凹である。

 そして、ピンホール写真も、凹なのだろう。

 そして、文化というのは、この凹凸の両柱によって成り立っている。

 新たな展開を生み出していく凸と、生み出されたものを調えていく凹。

 凸は、時代を動かしている。だから、その後継者が続く。結果として、芭蕉は、パイオニアとして著名になる。

 凹は、展開してきた世界を、どこかに着地させる働きがある。そこから時代が動いていくわけではないので、後継者も続かない。結果として、鬼貫は、あまり知られていない。

 けれども、時代を隔てて、展開より調えることが必要になる時、凹の力が、再発見される。

 今という時代が、とくに凸を必要とする時代なのか、それとも、凹を必要とする時代なのか?

 とかく、「新しさ」というのは、凸の側面にばかり目が向けられる。

 世の中の激しく移ろう状況は、凸の力によって作り出されている。しかし、その凸がマンネリ化する時、有象無象の現象世界のなかで、文化も停滞する。

 そして、そういう状況にもかかわらず、文化というものが凹凸によって成り立っているということをわかっていない似非文化人が、凸表現のちょっとした作為の差異を「新しい」と持ち上げることによって、ますます文化は停滞する。

 凹の表現は、凸の延長にはなく、まったく別の、まったく逆のところからやってくる。

 凸レンズは、部分を拡大するのに用いられるが、凹レンズは、近視の目の屈折力を弱めて矯正する時に用いられる。

  近視というのは、目の前のことしか見えず、遠くがわからなくなっている状態である。

 

 

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第1160回 風の旅人と、Sacred worldのつながり。

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 日本の古層を探りはじめると、とめどなく謎が続いていく。

 何か一つのことがわかっても、それが新たな疑問のきっかけとなる。しかし、その謎解きに精力を傾けて集中していると、いろいろな関連事項が自分の中に蓄積していき、つながりができてくる。

 残念ながら、現在の学問は分業制なので、古代のことについて全体像を示してくれる書物には、なかなか出会えない。考古学、文献、神話、祭祀、技術、宗教、それらのことがバラバラで提示されているので、大学などに残ってその専門家を志す人でもないと、興味を持ちにくい。知的好奇心につながっても、自分事として引き寄せにくいからだ。

 書物を通してそれらの情報知識を得たとしても、以前より少し物知りになるだけのことで、本当に知りたいことに近づけるような気がしないし、本当に知りたいこと、切実に理解したいことでなければ、すぐに忘れてしまう。

 本当に知りたいこと、切実に知りたいことの解は、自分で探し求めるしかない。

 しかし、その謎解きに関しては、遥か彼方のことだとしても、宇宙の探求より古代の探求の方が、より自分ごととして引き寄せやすい。

 なぜなら、宇宙のことに関しては、書物などを通して専門家の意見を聞くことしかできず、それらの専門家も、実際に自分がその場で体験したわけでなく主に計算を通して分析しているだけなので、彼らの話を聞いてもリアリティを感じにくい。

 それに対して、古代のことは、その気になれば、自分でその場所を訪れて何かを感じ、洞察し、想像し、思考することができる。この違いは、とても大きい。

 私は、若い頃、日本国内のことはそれほど興味がなく、世界各国の秘境や古代文明を頻繁に訪れていた。

 大学に入学して、いろいろなことが厭になって日本の北をヒッチハイクで旅をしていた時、福島のユースホステルで若者数人と話をする機会があった。その場にいた25歳の男性が、海外の旅の話をして、それがものすごくカッコよく映った。「海外は、やっぱり違うよ。海外を見た方がいいよ」と、今耳にすれば「青い」と感じるかもしれない台詞が、当時の自分にとっては、新たな次元への扉に感じられた。

 それからの9ヶ月、毎晩、夜遅くまで居酒屋で働き、70万円ほど蓄え、パキスタン航空のチケットとか寝袋とか旅の準備に20万ほど使い、50万円だけ持って、当初は1年計画で海外に出たが、縁あっての各国の放浪や滞在は続き、髪を肩まで伸ばし、髭ぼうぼうになって2年後に帰国した。予算は限られているから、ユースホステルは三日に1回、あとは野宿、移動はヒッチハイク、昼食はポケットに詰めた生の人参とかを齧りながらの旅だった。 

 そのようにハングリーの状態で旅をしていた時に見た各地の光景は、今も脳裏に鮮烈に焼き付いているが、その後の20年間、世界中の様々な秘境を訪れているうちに、神経が慣れて麻痺してしまったのか、あまり何も感じなくなっていった。

 北極圏でオーロラを見ようが、パプアニューギニアの熱帯ジャングルで全身に化粧をした人間に出会おうが、コモド島の大ドラゴンに囲まれたり、ウガンダのマウンテンゴリラを観察していても、もはや、自分にとって、新たな体験でなく、単なるビジュアルだった。

 100年前、ヘディンやスタインが死を賭して探検したタクラマカン砂漠楼蘭遺跡に、ラクダの隊商ではなくジープで行き、1週間くらい砂漠の中でテント暮らしをしたのだけれど、その時の光景と体感は凄まじかった。どうやら、あれをきっかけに、その後、海外のどこに行っても、あまり何も感じなくなった。

 けっきょく、人間というのは、その場限りのことは飽きてしまうようにできている。マウンテンゴリラの研究者になれば、何度もその場所に通って観察を行い、その都度、いろいろな発見があり、関心が深まっていくうちに、ウガンダルアンダ以外の場所に行くのは時間がもったいない、と思うようになるだろう。

 表層をなぞるだけでも新鮮に感じられるのは、経験が乏しい時だけだ。

 今でもよく覚えているが、ジンバブエのビクトリアフォールズを2度目に訪れた時、滝を落ちる水がザーザーと流れていて、それを見ている時、昔、テレビが深夜に終わると画面がザーザーとなっていたのだけれど、あれを見ているような白けた気分になった。

 海外は、もういいかな、と思った瞬間だった。

 しかし、だからといって、 他に探求するものを持っていない私は、風の旅人という場を創出して、自分では表面的にしか関われていない世界のそれぞれの領域において、マニアックなほど深掘りしている人たちの力をお借りして、世界全体を伝えていくことをやろうとした。

 世界の限られた領域を扱う専門誌ではなく、領域を世界全体に広げた総合誌を志向した。

 世界全体に広げるといっても、世界全体の豆知識を断片的に扱うということではない。

 一人ひとりが当事者となり、その魂の深いところと世界全体がつながっているという体験を与えられるようなものでなければ、作る意味がない。しかし、そういう大それたことの実現は一人では無理なので、尊敬する人々の助けが必要だった。

 2002年の冬、風の旅人の創刊号の企画書を作って、一番最初に手紙とともにお送りしたのが白川静さんだったが、クリスマスに手紙を送って5日後、手紙が届いたかどうかだけの確認のためにお電話をしたのだが、その時、電話口でいきなり、「あんた、こんな大それたこと実現するのか?」と問われた。

 企画書という紙切れしかない状況で実現を保証するのは難しいが、「やってみなければわかりません」などという中途半端な返事をしてしまったら、その流れからして、「実現しそうになったら、また連絡してくれ」とか言われて、おしまいになる。しかし、最初に白川さんを説得しなければ、後がつながらないという予感はあったので、「できないことを白川先生にお願いするわけがありません」と、はったりで即答した。

 すると白川さんも即答で、「実現するんやったら、協力するわ」と答えてくれた。今でも、あの白川さんと電話でそんなやりとりをしたことが、なんだか不思議体験としか思えないが、その後の流れも本当に不思議なもので、次に電話したサル学の河合雅雄さんは、いきなり、「白川さん、やる言うとんのか?」と尋ねてきた。なので、私も即答で、「もちろんです、一番最初に承諾いただいています」と。

 作家の保坂和志さんは、「人類史のなかで三人尊敬する人を挙げるとすれば、プラトンハイデッガー白川静で、その白川静と、同じ時代に生きているだけでも有難いことなのに、同じ誌面に参加するなんて、そんな光栄なことはない」と言いきった。

 前田英樹さんも、「これは白川さんの遺書みたいなもんだよ」と、震撼するような畏ろしいことを口にした。

 人類学者の川田順造さんは、海外に飛び立つ前の成田空港から電話してきて、「今は雑誌の仕事を受けていられるような状況でないけれど、これは絶対にやるからね」と早口でまくしたてた後、ガシャっと電話を切った。

 白川さんに電話した後、トントン拍子で事が進み、あまりにも現実感が乏しくて、原稿の締め切り日が近づいた頃、本当にみなさんから原稿が届くのかしらんと落ち着かず、1週間以上前から土日も含めて、オフィスに通って、朝から夕方まで、原稿を待っていた。

 その時も、一番最初に届いたのが、白川さんの神々しいまでの手書きの原稿だった。白川さんの生原稿は、今でも大切にしているが、言霊が漲った物体だ。

 そうやって始めた「風の旅人」は、節目の50号の巻末に掲げる次号の告知で、「もののあはれ」とした。

 2011年の大震災の後も風の旅人を作ってきた流れで、そろそろ、「もののあはれ」と真摯に取り組まなければならないという思いがあったからだ。第48号の「死の力」という特集で、石牟礼道子さんのロングインタビューを行なったことも、そういう思いを強くさせた。

 しかし、そうやって自分の中で決めて読者に発表したにもかかわらず、その後、「もののあはれ」の誌面での実現は難しいという気がしてしまった。

 写真家、学者、作家、いろいろな専門家のことを思い浮かべたり、新たに探したりしたけれど、自分のなかでしっくりとくる人はいなかった。

 「もののあはれ」だけでなく、わび、さび、幽玄などにおいて専門家の数は多い。しかし、それらの多くは、伝統文化研究とか、趣味教養のようなもので、本質的なものとして心に迫ってくるものは、ほとんど見当たらない。

 写真にしても、「わび」とか「さび」とラベルを付けることができるものならいくらでもあるが、それらの多くは、概念化された雰囲気を伝えるものでしかない。

 それまで、風の旅人で、世界の全体像を掘り下げることを試みていたので、「もののあはれ」という日本の風土と文化の関わりの全体像も、同じように掘り下げる試みが必要だった。

 模倣する対象がなければ、自分で創出するしかない。 

 20歳の放浪の頃から、大勢の人が歩いている道を行くことは好まなかったし、すでに存在している道からどれか一つを選んで、それ一本で突き進むことも苦手だった。

 私は、どうやら道を決めることじたいができない。彷徨いながら、後で振り返ると、それが自分の道だったのかと認識するだけ。

 若い頃は、彷徨いの場所は、日本ではなく世界各国だと思い込んでいたが、日本という国の歴史的時空も、複雑な迷路であり、曠野であり、未踏の領域だらけだ。

 

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 それでも、日本に限るならば、その探求は、自分でできる。なぜなら自分は日本人だし、自分の足元に日本の風土、地理、歴史、文化の蓄積があるし、無意識の記憶が、それら全てとつながっている。

 世界の全体像を志向する風の旅人から、日本の古層の全体像を志向するSacred worldへの転換となったものは、「もののあはれ」というテーマだった。

  どちらも、私の中では、意識を全体に向けるものだが、なぜか世間では、こうしたアプローチは、ニッチということになる。

 今の世の中は、全体ではなくカテゴリーに閉じた限定的なことで、関心を持つ人が多ければ、それが、「一般的」とされる。

 漫才であれ、野球であれ、生活雑貨であれ、ファッションであれ、生活趣味の一アイテムでしかないが、通りすがりの興味を持つ人も含めて、集まる人が多ければ、一般受けするもの、ということになる

 集まる人が多いと普遍性があるように勘違いしている人がいるが、代用品の数も多いものは普遍にはならない。

 普遍は、一時的な共感物や共有物ではなく、人間の理を超えたものでありながら、人間の中に行き渡っているもので、他に取り替えのきかないものである。

 

 

2021年7月5日発行  sacerd world 日本の古層 vol.2   ホームページで販売中

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第1159回 ピンホールの眼と、日本の古層

 

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 Sacred world 日本の古層」に掲載されている写真は、全てピンホールカメラで映したもの。

 一般的な写真撮影は、被写体を探して狙い撃つ性質があり、「撮影する」を英語にすると、shootとなる。カメラのシャッターは拳銃の引き金に等しい。

 しかし、私たちは、いつも獲物を狙うような目で風景と向き合っているわけではない。

 どちらかというと、私たちは、風景を見るのでなく眺めるように暮らしている。そして、無意識のうちに、そこに漂うものや蠢くものを感知して、記憶化している。

 フランス語のデジャ・ビュ(既視感)のように、わけもなく懐かしいと感じることについて、フロイトは、自分では実際に体験していなくても、夢の中ですでに観ているからだと説明した。しかし、理由はそれだけとは限らず、人生の中で、無意識のうちに記憶化している情景が膨大にあるからだとも言える。

 私たちの意識は、個人の自我や社会の常識と強く結びついているが、無意識は、自分個人の生涯には収まりきらない人類の潜在的記憶と呼ぶべきものと結びついて反応している。

 ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく、0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写す道具なので、意識的に何ものかを撃つのではなく、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となる。

 その結果、有名でフォトジェニックな歴史的建物ではない当たり前の自然物が、とても懐かしく、かけがえのないものだと実感される。

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 水の流れ、岩、大樹、森、湖、山々、そして海。姦しい人の世よりも、悠久の時を刻む地球のリズムが、私たちの記憶に働きかける。

 ピンホールの眼は、忘れたもの、見えないものを考えさせる古くて新しい扉。

 現代社会で物事を判断する時、数かぎりない分別の尺度で選別するが、森羅万象は互いに優劣はなく、等価に連関して存在している。そして歴史は単なる過去の記録ではなく、私たちを育み、私たちが還っていくところである。そんな当たり前のことすら私たちは忘れているが、何かしらのきっかけで森羅万象の摂理と歴史の摂理が重なって見える時、私たちは、自分という存在もその一部であることを、それとなく察することができる。

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 Sacred Worldというのは、天国のような特別な場を指すのではなく、世界の普遍性を反映する根源的な場のことであり、その根源性は、森羅万象の中を生きる全てのものに等価に行き渡っている。

 Sacred world 日本の古層 Vol.2が完成しました。

 書店流通には通さず、ホームページだけで販売しています。

 

 

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第1158回 熱海の土石流と、地球環境問題と、エネルギー問題の関係。

 このたびの大雨によって起きた熱海伊豆山の土石流災害。

 テレビニュースなどでは、数十年前に行われた盛土が原因であるかのような報道が続く。

 もともと、熱海地方は、火山性の硬い黒土に覆われているが、高度経済成長時の人口増に対応するため、山間部の土を削り取ったり盛り上げたりして住宅建設が可能な平坦地に改造した。それらの宅地造成地の利便性をはかるために道路も建設され、その際にも、盛土が行われた。その盛土は柔らかい赤土で、その部分が、このたびの大雨で一挙に土石流となって流れてしまったという説明になっている。

 昨今の異常気象による集中豪雨と組み合わせた説明だから、多くの人が納得してしまう。

 しかし、太平洋側の山の南斜面の地域は、熱海にかぎらず、九州から関東の房総半島まで広がっており、この数十年のあいだに、台風をはじめとする大雨に何度も襲われてきている。

 なので、今回、こうした大規模な土石流が起きた理由について、災害の引き金になるような原因を、近年、新たに作り出しているのではないかと考えることも必要だろう。

 熱海に家を持つ友人から連絡があった。

 幸いに、彼の家は土石流現場からは離れているものの、安心というわけにはいかない。

 というのは、彼が懸念しているのは、メガソーラーだ。

 被害の深刻さが多くの人々に共有されるようになって、ネット上でも、メガソーラ犯人説が出て来た。

 今回の崩落起点から南西に20~30メートル離れたところに太陽光発電施設があり、その場所からの水が崩落方向に流れ、土石流の原因になったのではないかという指摘が出ており、その施設を作った業者側は、「根拠がない」と反論している。

 「犯人探し」を、特定の企業に求める動きは、本質的な問題から目を背けさせることになる。

 静岡の川勝県知事は、太陽光発電事業に積極的で、伊豆半島の至るところに太陽光発電パネルが進出している。

 これは、伊豆半島だけに限らず、日本全国で進行中の深刻な事態だ。

 日本の黒土は70%が山岳地帯であり、1億3000万の人口のほとんどが30%の平野部に集中している。

 平野部の土地は、サラリーマンが生涯にわたるローンを組まなければ手に入らないが、山間部の土地の値段はタダ同然である。

 なぜなら、お金にならない荒れた山は、維持管理するだけで大きな出費となるので、相続においても問題になっているからだ。

 もともとは、日本の山々は広葉樹の森で、落葉は養分となって土地を豊かにし、多くの生物を育み、多様な生態系を作り出していた。

 しかし、戦後、戦争で荒れた国土を復興させるためという大義名分で、国家プロジェクトとして、杉の植林が行われた。日本の山々は、あっという間に画一的な杉林になってしまった。にもかかわらず、その後パプアニューギニアなどから安価な木材が輸入されるようになると、日本の森林は需要がなくなって放置され、荒れ果てた。そしてこれが深刻な花粉症の原因になった。 

 そして、二束三文になってしまった山を金脈にしようとする動きが太陽光パネル事業であり、その背景に再生可能エネルギーの固定価格買取制度がある。

 国は、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス再生可能エネルギー源を用いて発電された電気を、国が定める価格で一定期間電気事業者が買い取ることを義務付ける制度を作った。

 このお金は、私たち一人ひとりが支払っている電気料金の上に載せられている。

 もちろん、2011年3月11日の東北大震災による原子力発電所の爆発事故があり、それまで日本の総電気量の40%を供給していた原子力発電が使えなくなり、天然ガスや石油などを大量に使うことで、なんとかエネルギー危機に対処してきたものの、地球温暖化の弊害を過激に非難する運動が続き、太陽光発電が地球を救うもののように喧伝されてきたこともある。(グレタ・トゥーンベリが、国連気候変動サミットに出席するため、ソーラーパネルを備えたヨットで大西洋を渡った)

 ガソリン自動車が電気自動車に変わることが、「地球に優しい」などと宣伝されているが、ならばその電気はどうするのだという深刻すぎる問題は、棚上げにされている。

 水力発電は、大規模なダムの建設が必要であり、環境問題に直結し、反対運動も凄まじくて実現には時間がかかる。

 現状では、一番手っ取り早い方法が、太陽光発電になっている。

 しかし、アメリカや中国など砂漠的気候の平坦な大地が広がっているところは、太陽光発電パネルを設置するのも、管理するのも簡単だろうし、人々の生活への影響も多くないかもしれない。

 それらの国に比べて、日本には、太陽光発電パネルを設置する場所は限られている。限られた面積の日本で、他に使い道のない山の斜面地が、その設置場所になっている。

 なので、地方を旅していると、突然、緑の森が切り取られて、太陽光パネルが一面に敷き詰められているというおぞましい光景が出現する。

 当然ながら、その山は、禿山のように保水力を失って、大雨の時に降り注いだ水は、一挙に斜面を流れる。その大量の水が、盛土になった部分に集中的に集まってくると、持ちこたえられるはずがない。太陽光パネルが設置されている斜面での土砂崩れも、頻発している。

 今回の土石流の問題は、単一の犯人探しをしても、解決にはならない。原因は複合的であり、この原因は、利権問題だと単純化することもできない。

 問題の底に横たわっているのは、エネルギー問題だ。

 原発はダメ、化石燃料もダメ、水力発電ダムはダメ、太陽光発電パネルもダメというのなら、いったいどうやって電気需要に応えるのだということになる。

 電気自動車が勧められ、熱中症対策として、エアコンを使うことも推奨される。

 夏の平均気温が25度のカナダにおいて、現在、50度に迫る気温が続いており、山火事が発生している。これまでもアメリカのカリフォルニアやオーストラリアなどで大規模な山火事のニュースが伝えられてきたが、それらの地域は、乾燥した土地で、気温が高くなっても不思議でないところだった。

 しかし、カナダの森は違う。カナダの森の火災は、北極圏ですら気温が30度を超えているという異常に超がつく事態のなかで発生している。

 カナダの気温が、50度に迫るというのは、想像を絶する。

 私は、これまでの人生で、もっとも暑い経験をしたのは、1982年、北アフリカサハラ砂漠に近いチュニジアでの摂氏50度だった。この年の7月から8月、アラビア語を勉強しようと思って滞在していたが、授業は朝の7時からで、午前中には終わった。午後は、息もできないほど暑かったからだ。10分も外を歩くと、20歳の私でも、頭がクラクラとした。

 そして、もっとも寒い経験をしたのは、マイナス50度で、それがカナダのハドソン湾に面したチャーチルだった。冬のオーロラを見るために訪れたのだが、身動きとれないほど着込んでも、痛みのような寒さがあったし、顔の頰とか、空気に触れるところは、激痛を感じた。なので、やはり、10分と外に出ていられなかった。

 私の人生における気温差は100度だが、サハラ砂漠と北極圏だったから納得できるが、同じカナダで、いくらカナダが大きな国だとしても、マイナス50度と、プラス50度という100度の気温差が生じているというのは、異様すぎる。

 温室ガスだけが原因とは、とても思えない。

 実は、こうした大きな変化は、地球史においては珍しくもなんともない。

 日本の石器時代、瀬戸内海は陸地だったし、山陰から隠岐、そしてユーラシア大陸までも陸続きだった。

 それは、極北の氷面積が大きく、海水面が低かったからだ。

 しかし、10,000年前から暖かくなっており、海水面がどんどん高くなり、瀬戸内海は海になり、隠岐も島となり、九州とユーラシア大陸は切り離された。

 日本の縄文時代は、北海道においても、海岸線はかなり内陸部まで入り込んでいて、内陸部に残された貝塚からは、暖かい海に生息するハマグリなどの貝殻が大量に見つかっている。その後、海岸線は山から遠ざかっていき、それに伴って貝塚も移動するが、その貝塚からは、寒い海に生息する帆立貝などが多くなる。

 つまり暖かくなると、海岸線は内陸に入り込み、寒くなると、その逆になる。

 化石燃料の使用に関係なく、地球環境は、このように変化し続けている。

 化石燃料にも問題はあるが、化石燃料を目の敵にして、太陽光発電パネルを礼讃することにも問題はある。

 だからといって、代替エネルギーがなければ、どうしようもないという現実がある。

 

 

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