第1230回 月読神と、古代海人との関係

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 京都の松尾大社の近く、桂川西芳寺川が合流するところが月読神社の旧鎮座で、比叡山愛宕山を同時に望む絶景の地だ。ここは今も吾田神という地名で、アタは、古代の南九州の海人のこと。

 京都の月読神は、5世紀の末に壱岐島から勧請されて、その時に亀卜という亀の甲羅を用いた占いが持たらされ、これが日本の神道儀礼において朝廷主導で物事の吉兆を占う大切な手段となった。

 月読神と亀卜を畿内にもってきたのは、アタの海人と壱岐の祭祀者だった。

 月読神はよく知られている神であるが、謎は多く、この神を祀っている神社の数も少ないし、古事記日本書紀でもエピソードがほとんどない。

 唯一、日本書紀において月読神が保食神を殺す物語があり、これは、古事記においてスサノオが大宜津比売を殺すエピソードと同じだ。

 「陸を向いて口から飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し」て料理を作っていた保食神に腹をたてた月読神が、保食神を殺してしまう。すると、頭からは牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦と大豆と小豆が生まれた。

 これについて、専門家による色々な解釈があるが、どの解釈もうまく説明できていない。

 私が思うに、このエピソードが伝えている事実は明確だ。保食神は、人間が手を加えていない原野から取れるもので料理を作っているが、月読神によって殺された後、あきらかに肥沃な存在となって、そこから様々な食物が生まれている。

 それをアマテラス大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とし、その種は秋に実ったとエピソードの続きがあるので、この物語は、多くの人々が養えるようなしっかりとした生産体制ができた状況を示している。

 これが一体何を示しているかというと、おそらく洪水氾濫であり、古代エジプト文明のように、ナイル川の氾濫によって土地が豊かになっていく物語と重なっている。

 スサノオは、水と風に関係する神なので、嵐を起こすこともある。そして月は、満月と新月のあいだで大きな干満差を引きおこし、洪水を起こすのだ。

 アマゾンのボロロッカが有名だが、雨季に川の水量が多くなっていると、大量の水が満潮になって押し寄せる海水と衝突し、逆流し、内陸にも洪水による甚大な被害がもたらされる。現在はダムによって川の水量が減っているので、あまり実感できないが、古代において、こういうことは珍しいことではなかった。

 京都から桂川を遡ると、亀岡に月読神の聖域がいくつか残っている。

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 桂川のほとりに建つ小川月神社は、何度も洪水に流されてきたが、あえてそういう場所に鎮座している。現在は小さな祠しかないが、ここは名神大社であり、その歴史は、近くにある名神大社出雲大神宮より古く、氏子総代保管の「丹波国桑田郡小川月神社之事」では、「神代よりの旧地なり」と記されている。

 京都の桂川流域や亀岡が秦氏との関係が深い土地なので、この神社も、秦氏との関係を指摘する人が多いが、それは間違っていると思う。

 というのは、この小川月神社から桂川の対岸にも月読神社が鎮座するが、この西北場1.5km、亀岡盆地北西部の丘陵南斜面に拝田古墳群があり、前方後円墳1基(16号墳)・円墳16基の計17基が存在する。このうち、前方後円墳の16号墳は、石棚付きの石室を備えている。

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 石棚付きの石室は、和歌山県の紀ノ川河口域に特徴的に見られるものだが、瀬戸内海を取り囲むように豊後、安芸、讃岐、伊予、播磨、淡路にも築かれ、それ以外の地域では、亀岡と福井の敦賀だけに存在する。この分布は、明らかに、海人との関わりが考えられるが、日本書紀ヤマトタケルによって征伐されたとされる蝦夷(東北の住民とは限らない)の配置先で、その蝦夷たちが、あまりにも”さわぐ”ので、さえぎとなり佐伯部となったという記述の場所とも重なる。今でも、豊後や安芸にも佐伯の地名が残るが、讃岐は空海の出身地で、空海も佐伯氏である。兵庫の播磨町も佐伯姓が非常に多い。そして、亀岡で保食神主祭神とする稗田野神社周辺が佐伯郷であり、この神社の祭である女夜這いの佐伯灯篭祭りは、中世時代から有名だった。

 稗田野神社の本殿の背後は、弥生時代の祭祀場であり、3年ほど前、この周辺で、巨大な古代都市遺跡が発見された。

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稗田野神社の本殿背後。ここは弥生時代の祭祀場だった。

 そして、この佐伯郷にある稗田野神社の真北1kmのところの山中に鹿野古墳群があり、ここからも6つの石棚付石室が見つかっている。

 鹿野古墳群は、1872年にイギリスのウィリアム・ゴーランドが調査しており、首飾りや馬具や剣や土器の欠片まで、大切にイギリスに持ち帰っている。

 さらに不思議なことに、鹿野古墳群から真北の小金岐(こかなげ)古墳群は、行者山の東斜面に200基以上の古墳が分布する京都府最大の群集墳だが、ここからも石棚付石室が見つかっている。

 この小金岐古墳群の真北1.5kmが、上に述べや拝田古墳群であり、石棚付石室のある三つの古墳群と稗田野神社の4箇所が、南北に、1.5km、1km、1kmの間隔をあけて並んでいる。

 しかも、この南北のラインは、この西4kmの出雲大神宮と鍬山神社という亀岡を代表する大国主の聖域を結ぶラインと平行である。

 この二つの出雲系の神社の近くにも古墳があるが、出雲大神宮は元出雲とされ、鍬山神社は、泥湖であった亀岡盆地の開発と関係があり、この二つの聖域が、秦氏大国主を助けて国づくりを行なったスクナヒコを祀っている)とつながっている。

 そして、さらに不思議なことに、この鍬山神社の東10kmのところが、上に述べた京都の月読神社なのである。この周辺は、弥生時代から古墳時代後期まで600年間続いた松室遺跡でもある。

 そして、この東西のライン上、京都の月読神社の真西1kmほどのところには、京都盆地で最大の群集墳がある。

 また、月読神社の旧鎮座地の北800m、桂川の対岸が梅宮大社であり、この神社は、藤原不比等の後妻である県犬養三千代が、木津川流域の綴喜郡井手町に祀っていたものを、平安時代嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子が、ここに遷座したものであるが、「橘」というのは県犬養氏が賜った姓である。

 実は、亀岡の佐伯郷にある稗田野神社の真南2.4km、犬飼川の河岸に、犬飼天満宮が鎮座しているのだが、このあたりに、犬飼衆がいたと考えられている。

 犬飼衆とは何なのか?

 隼人は、犬吠という邪霊を払う呪術を行なっており、朝廷警護の際に、犬を用いていた。

 また、日本書紀垂仁紀・石上神宮の件に次のような文章がある。

「昔、垂仁天皇の頃、丹波国桑田郡の人に甕襲(みかそ)という人物がいた。甕襲の家には足往(あゆき)という名の犬がいた。この犬は山の獣のむじなを食い殺した。獣の腹に八尺瓊の勾玉があり、それを献上した。この宝はいま石上神宮(現奈良県天理市)にある。」

 丹波国桑田郡というのは亀岡であり、ここに書かれている場所が、犬飼天満宮あたりだと考えられる。 

 この日本書紀の記録は、犬を使った狩猟(犬山)の日本最古の記録と説明されるが、たぶんそういうことではなく、八尺瓊の勾玉という言葉からわかるように、祭事の変化のことを抽象化している。

 甕というのは、須恵器の祭祀器であり、高貴な人が亡くなった時の殉死の代わりに埴輪が埋められたように、洪水などの禍に対する人身御供をやめて、新しい祭祀に切り替わった時期があった。

 須恵器は5世紀前半に伝わった陶器製造技術であり、それまでの陶器と違って水が洩れない硬い器であり、酒や食物などを神に供える祭祀道具として用いられることが多かった。上に述べた石棚付きの古墳などの副葬品としても大量に出土している。

 そうした新しい文化知識を日本に伝えるうえで海人の活躍があったが、犬飼衆もまた、そうした人々のなかで、特定の祭祀の役割を担っていたのだろう。

 亀岡に月読神の聖地が多いのは、この地が、石棚付きの石室に見られるように、瀬戸内海を活躍の場にした海人が、淀川から桂川を遡って入り込んできたからだ。

 (石棚付石室のある拝田古墳から真西に6.4kmの薮田神社も月読神を祭り、周辺には古墳がある)

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薮田神社

 瀬戸内海は、太平洋との干満の時間差が潮汐に大きな影響を与えるので、月を読まずして航海はできない。

 隼人とか犬飼、石棚付き石室と関わりの深い紀氏、宗像氏や和邇氏など後になってからの役割分担で名前が様々に派生していったものの、起源は、南九州の「あた」と呼ばれる海人だったと思われる。

 海人の宗像氏と和邇氏の祖は阿田片隅で、同じである。

 この「あた」の女神が、神吾田津姫という別名を持つコノハナサクヤヒメであり、天孫降臨のニニギと結ばれた。

 ニニギは、新たな祭祀を日本にもたらした存在であり、「あた」という海人の女神と結ばれて、その新しい祭祀が様々な地域へと広がっていったのだ。

 そして、新しい祭祀というのは、国譲りの神話のなかで、タケミカズチが大国主に伝える言葉のとおり、「ウシハク」から「シラス」への変化だ。

 「ウシハク」というのは、強いものが全てを独占することで、「シラス」というのは、知らしめること、すなわち、みなで共有すること。

 なぜ、亀岡が、神話と深いところでつながっているかというと、古代、亀岡は極めて重要な場所だったからだ。

 桂川を通じて瀬戸内海につながる亀岡は、北部に由良川が流れており、丹波、丹後、若狭湾へとつながっている。

 また、西は平坦な道で篠山、西脇、播磨、生野、宍粟・佐用へと抜け、このルート上には鉱山資源が豊富にあり、西南に向かうと、多田銀銅山から宝塚、神戸へとつながる。また桂川の源流の花背から琵琶湖へも抜けられる。

 まさに、瀬戸内海から日本海、京都や奈良、琵琶湖方面全ての地域にアクセスする立地にある広大な盆地が亀岡だったのである。

 

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亀岡の黒い点が月読神を祀る神社で、西端の赤い点を結ぶ南北のラインは、上から拝田古墳群、小金岐古墳群、鹿野古墳群で、いずれも石棚付きの石室を持つ古墳がある。その南に稗田野神社(月読神に殺された保食神が祭神)、犬飼川沿いの犬飼天満宮。この南北のラインは、出雲大神宮と鍬山神社という大国主の代表的聖域と平行で、さらに京都の月読神社の旧地、梅宮大社、梅ヶ畑の銅鐸埋納地、沢山の西、沢の池周辺の旧石器時代からの祭祀場を結ぶラインとも平行。さらに、西の端にあるのが薮田神社で、ここも月読神を祀っており、周辺に古墳がある。

 

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第1229回 思考停止の正義よりも大事な自らの眼差し

 河瀬直美氏の東大入学式での祝辞に噛み付いている人々の意見って、テレビの芸能人コメンテーターの意見とさほど大きな違いがあるわけでなく、東大生にとって、とくに頭を使って考えさせられるような内容ではない。

河瀨直美監督の東大入学式での祝辞、国際政治学者から批判相次ぐ。「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ない」 | ハフポスト NEWS

 河瀬直美氏の言葉の真意は、そうした思考停止状態の危険性を遠回しに説いているのであって、東大生という社会で最も優秀であるかのように位置付けられている人たちに向けての祝辞としては、彼女なりに考えたうえでのことだったのだと思う。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学

 河瀬氏が語った「小さくても自らのまなざしを獲得すること」は、自分に向けられた課題でもあるし、小さくても自らのまなざしで生きている人への敬意を育むことでもある。学者の中には、自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人が多い。

 自らの眼差しの大切さよりも、正しいとされやすい側についておけば保身が保たれると計算しがちな人は、河瀬直美氏の言葉の一部を恣意的に切り取って、真意を曲げて噛み付くという論法で、自分の正当性を強化する。こういう人たちの方が、いざという時に信用できないし、束になった時に怖い。

 ただSNSで河瀬氏が述べているようなことを発信するだけでも、その一部を切り取って文脈無視の思考停止の正義を振りかざして噛み付いてくる人も大勢いる社会において、それを承知で、こうした言うに言われぬ領域のことを、なんらかの形でアウトプットしていくのが、表現者であり、本来は学者もまたそうあるべきなのだ。

 しかし、河瀬直美発言に噛み付いている学者たちのように、学者が、正しいことと間違っていることを見極める専門家のように勘違いしている人たちが多い。

 日本の学校教育における査定がそうなっており、大学教師は、教育界の一員にすぎないからだ。

 だから、この種の学者の発信する言葉を聞いても、脳が刺激されたり触発されたり、考えさせられたりすることが、ほとんどない。

 そして、学者も、自分の発信するものが、いいね! そうだね!と多くの人に同意されるかどうかを競うだけの存在になる。

 脳が動いていないから、いいね!とか、そうだね!と簡単に反応しているだけなのに。

 河瀬直美氏の祝辞を聞いた東大生は、そのメッセージに対して、いいね!とか そうだね!と、簡単に反応できないだろう。

 自分の想像の範囲の言葉であれば、そう反応できるのだが、メディアを含め、想像の範囲を狭めてしまう言論が溢れかえっている状況のなかで、河瀬直美氏の言葉を耳にして、「ああ、私の思っていたとおり」と感じた若者は少なかったはず。

 脳を刺激し、動かす言葉というものは、そのように、簡単に、いいね! そうだね!と同意できないものだ。自分の脳で動いていなかったところが刺激されて、もごもごと何か考えさせられるようなものとなる。そうした脳の深いところの刺激と触発が、学問や表現活動の本質であるはずだ。

 こうした思考の発動がなければ、脳のなかで動いている領域は知らず知らず狭まっていく。そうなると、河瀬直美氏の言葉の文脈など伝わらず、「何を言いたいのかよくわからない」とか、「どっちもどっちの相対論にすぎない」とか、文学的な機微の失われた判断しかできなくなる。

 そういう人は、話を聞いてもツイッターの発信内容を見ても、味も深みもない。

 もしも、河瀬直美氏が、これらの学者レベルのことを東大入学式の祝辞で述べていたら、彼女の映画を見たいなどと思わない。だって、映画を見る前から、彼女がどんな映画を作るか内容が透けてみえてしまう。

 その人が信用できるかどうかの判断は、言っていることの正誤よりも、その内容の深さによる。

 

 

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第1228回 パンデミックの後にくるもの

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 松尾大社のそばの桂川の河岸では、バーベキューをする若者たちが群れている。 

 さすがに自粛生活も2年になると、我慢の限界であり、人との接触は増える。そのため新型コロナの感染者数が減らず、専門家が、また警鐘を鳴らしている。

 新型コロナについて語る時、過去のスペイン風邪などを持ち出す人がいるが、大きな違いがあり、今回のパンデミックは、病原体の問題というより一種の社会病のような気がする。

 スペイン風邪は、大戦と重なって環境が劣悪で栄養状態が悪い若者の多くが亡くなったが、今回は高齢者や成人病の人の犠牲者が多い。もしかしたら過去にも同じようなウィルスが登場していたかもしれないが、現在のような超高齢社会でなければ、誰も気づかないうちに終わっていた可能性がある。

 また、たとえば奈良時代に流行した天然痘や、ヨーロッパ中世のペストは、人口の半分から三分の一を奪ったが、今回の新型コロナウィルスの主な問題は、死亡者数ではなく、医療崩壊によって助かる命も助からないんじゃないかという、漠然とした不安現象だった。

 なので、戦争など、もっと目の前の危機や厳しい現実に追われている社会ならば、問題視すらされないものだろう。社会の混乱をさらに悪化させる病というより、社会が混乱してしまうと、後回しになるような問題だということだ。

 ただ、どんな形であれパンデミックというのは、社会に大きな変化をもたらす。ヨーロッパのペストは、神頼みの限界を知り、医療をはじめとする科学の発展へとつながる転機となった。

 そして、奈良時代天然痘の大流行は、日本人特有の信仰のあり方につながるきっかけとなった。

 大阪府柏原市に、石神社が鎮座しているが、ここは、かつて智識寺があったところで、奈良時代以降の精神革命のきっかけになったところだ。

 智識寺は、日本の歴史文化を考えるうえで、とても重要なところなのだけれど、そのあたりが、うまく伝えられていない。

 現地の説明書きにも、「仏教を信仰する知識と呼ばれる人々が建てたお寺です。」という何とも浅すぎる内容になってしまっている。

 この智識寺は、奈良時代聖武天皇がここを訪れた時に目にした盧舎那大仏の素晴らしさと、人々の信仰心に心を打たれ、東大寺の大仏を造立しようと心に決めたところだった。

 しかし、「知識」を仏教信徒と説明してしまうと、大きな誤解が生じる。

 なぜなら、奈良時代の前半まで仏教は、国家鎮護の宗教で皇族や貴族のためのものであり、一般民衆が仏教に関する宗教的活動をすることは禁じられていた。

 そうした一般民衆の信仰の中心にいたのが行基であり、行基は、信仰の力と社会事業を結びつけ、貧民救済や架橋や溜池づくりなどの事業なども行っており、行基を崇敬する人々は、行基集団として活動していた。その中には修験道者たちも多くいて、彼らは特殊な武術も用い、行基を守っていた。

 なぜ、これらの人々を朝廷が弾圧したのかというと、律令制というのは、人間が土地に根付くことを基本としており、社会事業のためといえども人々が自分の土地を離れてしまうことは、認めがたいことだったからだ。

 しかし730年代、天然痘の猛威が吹き荒れ、人口の3分の1から半分が亡くなったとされる非常事態が起きた。そうしたなかでも、行基集団の活動は衰えることなく、むしろ勢いを増し、そんな彼らが作ったのが、智識寺と、盧舎那大仏だった。

 国家の力とはまったく無縁に、信仰心ある人たちの財物及び労力によって、素晴らしい寺と盧舎那大仏が作られていたのを目にした聖武天皇は強く心を動かされた。

 そして、この精神こそが、天然痘で壊滅的な打撃を受けた社会を救う道だと確信した。

 おりしも、聖武天皇がこの智識寺を訪れた時は、九州で藤原広嗣の乱が起きた740年だった。

 この乱にしても、九州に左遷された藤原広嗣が起こした反乱と一般的には説明されているが、乱の鎮圧のため、東海道東山道山陰道山陽道南海道の五道の軍1万7,000人が動員されており、九州に左遷されて間もない藤原広嗣が、これだけの規模の朝廷軍に匹敵するような兵を簡単に集められるはずがない。

 朝廷への反乱は、藤原広嗣の左遷とは別に準備されていたはずである。九州では、律令制が始まった頃から、たびたび隼人が反乱を繰り返していたが、隼人に限らず、律令制に抵抗する氏族が、多く存在していたのだ。律令制というのは、先祖代々守ってきた土地を朝廷に差し出して、それを借受ける仕組みであり、当人たちの意思を無視して急激に共産主義社会にするようなものであり、抵抗する人たちがいて当然だ。

 しかし、聖武天皇に限らないが、律令制を整えてきた持統天皇元明天皇元正天皇などの女帝は、自分が、日本の土地を支配するなどという気持ちを持っているわけではなかった。

 律令制の理念は明白であり、それは、古事記などの国譲りの神話で語られるウシハクからシラスの国への移行だ。

 神話のなかでタケミカヅチは、大国主に言う。

 汝の国はウシハクだ。これからは、シラスの国にしようと。

 ウシハクというのは、強いものが全てを牛耳る国であり、シラスというのは、知らしめるということ、すなわち共有する国であるということだ。

 それまでのように豪族が土地を所有すると、その所有をめぐって争いが起きて、より強いものが、より大きな土地を支配していき、それを奪おうとする者とのあいだに、新たな争いが起きる。もうそういうことは辞めにしようよ、というのが国譲りの本意だ。国譲りの神話というのは、はるか古代に、大国主国津神)に該当する存在がいて、タケミカヅチ天津神)に該当する存在に国を侵略されたということではなく、8世紀、律令制が整えられて行く時に作り出された神話に違いない。

 こうした律令制のビジョンと理念はあるものの、具体的にどうしていけばいいのかという難問にぶつかっていた時、天然痘が猛威をふるい、九州で大規模な反乱が起きた。

 そのタイミングで、聖武天皇は、智識寺で、「これだ!」という体験をしたのだ。

 聖武天皇が「これだ!」と思ったのは、行基の精神と実践だった。

 律令制の理念とビジョンを具現化するための精神と実践とは何だったのか?

 行基集団の活動は、自らが菩薩になるために努力し活動し続けることが、結果的に衆生救済につながり、この世をよくするだけでなく、自らの魂の救済につながるという精神をもとに行われていた。

 衆生救済というのは、権力者や宗教的なカリスマ、救世主などによって実現するものではなく、一人ひとりが菩薩の心で活動することで実現するものであるということ。

 行基を中心にして広がっていたこの救済のビジョンは、その後の日本人の精神にもはかり知れないほど大きな影響を与えている。

 日本人は、今でも、そういう考えの人がけっこう多い。人のために尽くすことが、人を助けるだけでなく自分の救いにもつながるという考え方であり、救世主の到来を待ち、政治の専門家に幸福な社会の実現をまかせるのとは、かなり違う。

 日本人も西欧化によって、そういう受け身の救済を求める人が増えているが、そうでない人も多く残っている。

 これまで朝廷が弾圧していた行基集団であるが、聖武天皇は、行基を、仏教界の最高位である大僧正に任命した。これは日本の歴史で初めてのことだった。そして彼に東大寺大仏を作るための協力を依頼する。

 同時に、聖武天皇は、大仏造立のために詔を出す。

 「人々を無理やりに働かせるのではなく、この事業に自らの意思で加わろうとする者と一緒になって、ともに悟りの境地に達したい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを認めよう」と。

 聖武天皇は、行基に深く信頼を寄せ、行基行基集団の力を得て、 のべ260万人が工事に関わったとされる東大寺盧舎那大仏を完成させた。

 その時、九州のローカルな信仰だったヤハタ神(8世紀初頭、隼人の反乱を鎮圧した際に起きた殺戮後、その魂を鎮めるために始まった)が、藤原広嗣の乱の鎮圧と重ねられ、さらに大仏造立の支援をするという神託で人民を奮い立たせ、大仏完成の時、神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。

 これを機会に、八幡信仰という神仏習合による国家の守護神が誕生し、日本ならではの神仏のあり方が、明治維新まで続くことになった。

 聖武天皇は、740年に智識寺を訪れた後、各地を転々とし、平城京から恭仁京に遷都するなど不思議な行動をとり、これが古代の謎の一つとされているが、おそらく、伊賀から始まるそのルートを見ると、聖武天皇は、行基集団および修験者たちと行動をともにしていたに違いない。

 智識寺以外の行基集団の活動を実際に目にし、行基やその支持者たちとの対話を通じ、東大寺大仏造立と、仏の加護による律令社会の構想を、より練りこんでいったのだろう。

 2020年から始めるパンデミックは、病になることの怖さを感じている人の数よりも、自分が病になることで周りの人たちに迷惑をかけてしまうことの不安を持っている人の数の方が大きいという奇妙な特徴がある。

 経済対策も大事には違いないが、このパンデミックをきっかけに、過去のパンデミックのように何らかの精神的変化が起きる可能性があるのかどうか、ということも気にかけておきたい。

 

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第1227回 奈良時代のパンデミックと、衆生救済の思想

f:id:kazetabi:20220331104759j:plain宝山寺の背後の岩壁にある般若窟は、捕らえた前鬼・後鬼を閉じ込めて改心させた場所だという。

 生駒山は、修験の祖、役小角ゆかりの地。7世紀の中ごろ、山中に鬼が住み良民を苦しめていた。これを役小角(えんのおづぬ)が捕らえて改心させ、その後は、役小角の家来となった。

 宝山寺の背後に聳える火成岩の岩壁にある般若窟は、捕らえた前鬼・後鬼を閉じ込めて改心させた場所だという。

 一般的に、この鬼たちは、後の修験者たちで、奈良時代前半に行基の活動を支えた。役小角行基は、空海ほど有名ではないが、後世の日本宗教にもっとも大きな影響を与えた人物だと思う。

 飛鳥時代後半の役小角奈良時代行基、そして平安時代初期の空海、この3人の宗教家の特徴は、宗教活動と社会活動が一体化していることだ。

 さらに、この3人には特殊な神通力があったようで、数々の伝承が残されており、役小角行基は菩薩として崇められ、空海は、弘法大師として、ほとんど仏と同等に崇められている。

 最澄法然親鸞道元日蓮など、日本の歴史のなかには有名な高僧が何人もいるが、役小角行基空海は、伝説の彩られ方も含めて、別次元の存在である。

 それはいったい何故なんだろう?

 もちろん、この3人は他の僧侶に比べて時代が古く、明確な記録が残っていないことが伝説化の大きな要因になっているが、他の僧侶が仏教という枠組みの中の偉大な僧侶であるのに対して、役小角行基空海は、仏教という枠組みにおさまりきらない。

 神々と仏が渾然と溶け合った日本独自の神仏習合の宗教ビジョンは、この3人によって打ち立てられ、それが、明治維新廃仏毀釈まで続く日本の宗教のメインストリームとなった。

 なので、明治以降に区別された神社と寺を見ているだけでは、日本の宗教のリアルが伝わってこない。

 この3人の共通点は、山岳修行だ。やはり日本という国は、国土の60%以上が山であり、山々がタイムカプセルのように古代からの神々の世界を保存し続けている。

 そして、この3人は、山岳宗教のイメージばかり強くなっているが、実は水運との関わりも深い。

 空海は、讃岐の佐伯氏の出身で、幼名が佐伯真魚である。佐伯氏は、瀬戸内海の水上交通の要に拠点を置いていた古代氏族だ。

 役小角は、賀茂氏の出身で、京都の賀茂川源流の志明院から活動をはじめ、箕面や生駒、葛城、吉野に足跡を残すが、いずれも水上ネットワークの重要な場である。

 行基の場合、江戸時代に伊能忠敬が精密な日本地図を完成させるまえに使われていた行基図という地図があるように、全国的な足跡があるのだが、その行基図は、山城を中心にした水上ネットワークがもとになっている。

 そして、行基の墓がある平群の地は、竜田川大和川に合流するポイントであり、三輪山から伊勢、平城京、大阪を結ぶ水上交通の要だった。

f:id:kazetabi:20220331120639j:plain生駒山の東麓の竹林寺にある行基の墓。

 さらに、この3人の特徴は、当時の政権との関係が深いこと。禅などのように権力者によって保護された宗教や、浄土教のように政権によって危険視された宗教もあるが、役小角行基空海は、その神通力と組織動員力が、当時の政権によって頼りにされている。

 嵯峨天皇の時代、朝廷の空海に対する信頼は絶対的だったし、天武天皇の頃は役小角、そして、奈良時代聖武天皇の時代は、行基が、その力を求められた。

 行基の場合、その活動の初期段階においては朝廷の弾圧を受けた。その理由は、律令制というのは人頭税を基本としているから、人々が土地から離れるようなことがあっては困る。しかし、行基を崇敬する人々は行基集団となり、行基と一緒に行動し、各地に、橋を作ったり溜池をつくったりするなど様々な社会活動を行なっており、それは律令制の秩序を揺るがすものだった。

 朝廷の行基に対する対応に大きな変化が生じたのは、730年代後半の天然痘の大流行だった。この疫病によって、当時の人口の半分から3分の1が失われた。そして、740年、九州で藤原広嗣の乱が起きた。

 この乱は、九州に左遷された藤原広嗣の朝廷に対する不満が原因で起きたと説明されることが多いが、それは違う。

 なぜなら、この乱の鎮圧のため、東海道東山道山陰道山陽道南海道の五道の軍1万7,000人を動員するよう命じられており、左遷された一貴族が、赴任して間もない九州の地で、それほど大規模な反乱軍を組織化できるわけがない。

 しかも、藤原広嗣は、狼煙を合図に九州の兵を徴収しており、事前に細かく打ち合わせができていたということだ。

 普通に考えれば、この乱の背後の問題は明確であり、律令制を全国に広げていく過程の中で、九州において、律令制を受け入れられない勢力が多く残っていたということだろう。

 藤原広嗣は、その勢力を利用したのだ。

 学校教育などで、日本が唐にならって律令制を導入したなどと覚えさせられるが、公地公民政策というのは、それまで先祖代々守ってきた土地を朝廷に差し出して、それを借りるという制度であり、現代でいえば、ある日突然、共産主義社会になるということだ。

 そんなに簡単にすむことではないだろう。

 645年に乙巳の変があり、その時から紆余曲折を経て、少しずつ実現にこぎつけていたわけだが、奈良時代前期には隼人の反乱のように九州南部での抵抗が記録に残っているし、平安時代の始まりにおいては、坂野上田村麻呂の蝦夷征伐を行われている。

 701年に大宝律令が施行されてすぐ日本全土が律令社会になったわけではないことは明らかだ。

 ゆえに、740年の藤原広嗣の乱も、律令化の過程において発生した九州での大規模な抵抗だろうと思う。 

 興味深いのは、その時に、聖武天皇がとった行動だ。

 天然痘の猛威があり、九州での反乱があった740年、聖武天皇生駒山の麓の知識寺を訪れ、行基集団の人々が作りあげた僧院と盧舎那大仏に感激する。

 国家権力とは無関係の自由意志による信仰の力を思い知った聖武天皇は、この力こそが、厳しい局面にある国の運営に必要不可欠の力だと悟った。

 その後の聖武天皇の行動、伊賀から伊勢方面、近江方面への移動と、恭仁京への遷都などは古代史の謎だが、聖武天皇が辿ったルートは、壬申の乱の時の天武天皇と同じであることが、さらに謎を深めている。おそらく、この両天皇に付き従っていたのが、山岳の道と水上の道に通じる修験者たちだったのだろう。

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生駒山中、役行者が開いた寺で、行者の母親も入山修業したとされる千光寺

 聖武天皇は、彼らと行動をともにしながら、行基集団の力を借りて、東大寺の大仏造立のアイデアをまとめ、行基を、僧侶のトップの地位の大僧正に任命する。

 そして、聖武天皇は、東大寺の盧舎那大仏を作るにあたって、朝廷の権力によって民を酷使して作るのではなく、誰でも構わないから、たとえ1本の草、ひとにぎりの土でもこの事業に協力したいという者は無条件でそれを許すことを決め、その場合、事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。という内容の詔を出した。

 つまり、聖武天皇を中心とする律令政府は衆生救済のための大仏作りのために、人民が自分の土地を離れて参加することを許可したわけだが、行基にとっても、自分たちが弾圧されてきた活動を朝廷が公的に認めるということで、両者ともに望むところとなった。

 結果的に、のべ260万人が工事に関わったとされる東大寺盧舎那大仏は完成するが、その際において、おそらく行基たちのアイデアだろうが、八幡菩薩神によって大仏が守護されるという物語が創造される。

 九州のローカルな信仰だったヤハタ神(8世紀初頭、隼人の反乱を鎮圧した際に起きた殺戮後、その魂を鎮めるために始まった)が、藤原広嗣の乱の鎮圧と重ねられ、さらに大仏造立の支援をするという神託で人民を奮い立たせ、大仏完成の時、平群の地から神輿にのって平城京入りをする大セレモニーが演出され、人々の前に八幡菩薩神の存在が植えつけられた。

 現在の八幡神社には神功皇后応神天皇も祀られているが、この両神は、のちに新羅との関係が悪化し、八幡神が対新羅の国家守護神になる過程で三韓遠征の神功皇后伝承が重ねられたものであり、もともとあったものではない。

 いずれにしろ、現在、日本の神社のなかでもっとも多い八幡神社の歴史は、この時に始まった。

 日本書紀古事記に出てこない八幡神というのは、神道の神ではなく、八幡菩薩という名のとおり神仏習合の神であり、まさに、その後の日本の宗教ビジョンを象徴する神様となる。

 それはまさに、天然痘の大流行という奈良時代パンデミックから生まれた再生のビジョンの過程で創造された守護神だとも言える。

 この八幡神は、860年、平安京守護のために京都の石清水八幡宮に勧請されたが、木津川、桂川宇治川が合流するこの場所は、紀氏の領地であり、紀氏が、石清水八幡宮の歴代の神職世襲してきた。

 その後は、清和源氏が東北を鎮圧する際、八幡神を守護神とし、源頼朝が鎌倉の地に鶴岡八幡宮を築くのだが、初代から明治維新までの神職を大伴氏が世襲してきた。

 大伴氏は紀氏と同族であり、紀氏というのは、古代、瀬戸内海の海上ネットワークに関係していた有力氏族だ。その水軍力によって、各地の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の戦いにも主力部隊として参戦している。

f:id:kazetabi:20220331155437j:plain平群の三里古墳。

 行基と縁の深い平群の地に、三里古墳があるが、すぐ近くに紀氏の祖神を祀る平群坐紀氏神社が鎮座する。三里古墳は、石室の中に石棚が設置されており、このタイプの古墳は、和歌山の紀ノ川下流にある総数800基という日本最大の群集墳である岩橋千塚古墳群に特徴的に見られ、それ以外では、瀬戸内海を取り巻く地域に集中的に存在している。いずれも6世紀中旬から7世紀中旬のもので、これらの地域を結ぶ海人ネットワークと関係があると考えられる。

 大仏造立と八幡神の創造のきっかけとなった藤原広嗣の乱が起きた時、紀飯麻呂が副将軍に任命されるなど、紀氏は、この乱の鎮圧に大きな役割を果たしているのだが、紀氏の祖は竹内宿禰という神功皇后三韓遠征の時の参謀である。しかも、八幡神が神輿に乗って東大寺入りを果たす出発点が紀氏の拠点である生駒山麓の平群なので、八幡神の創造の背後には、平群に墓がある行基とともに紀氏(大伴氏)も関わっており、それゆえ、宇佐八幡宮鶴岡八幡宮という日本を代表する八幡神社神職を、この氏が担い続けてきたのかもしれない。


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第1226回 古代、海人の拠点だった京都

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月読神の旧鎮座地から愛宕山を望む

 京都の松尾大社駅から桂川沿いを上流に向かうと観光客で溢れる嵐山だが、松尾大社から下流に500mくらい歩くだけで、京都でもっとも風光明媚な場所に至る。桂川が大きく蛇行するポイントで川幅が広く、空の広がりも素晴らしく、比叡山愛宕山雄大な景色を望むことができる。

 この場所は、桂川西芳寺川が合流する場所で、現在の松尾中学校の建設時に、弥生時代から古墳時代後期まで600年もの長きにわたる松室遺跡が発見された。

 そして、この合流時点には、かつては月読神社があった。

 月読神社は、現在、松尾大社から松尾山に沿って南に400mくらい歩いたところに鎮座しており、観光客はあまり訪れないが、神社めぐりの好きな人にとっては隠れスポットだ。

 松尾大社の創建は701年で、平安京ができる100年ほど前から存在していたが、月読神社の創建は5世紀末で、日本でも最古級の神社である。

 月読神社は、九州の壱岐島から勧請され、その時、亀卜という亀の甲羅で吉兆を占う専門の神職もやってきて、日本の神祇官制度の中で重要な役割を担うようになった。弥生時代は、鹿の肩甲骨を使った占いを行っていたが、5世紀後半に入っていた亀卜がそれに取ってかわり、重要な政策決定で重んじられた。

 なので、この月読神社は、日本の祭政一致の要である神道儀礼の始まりにおいて重要な役割を果たした神社ということになる。

 伊勢にも月読神を祀る二つの神社があるが、伊勢の月読神は、古事記日本書紀が完成した後、皇祖神のアマテラス神の弟神としての月読神が位置付けが決まってからのものであり、畿内においては、京都の月読神社が先である。

 今でこそ隣の松尾大社に比べて小ぶりな印象しかない月読神社だが、ここは名神大社であり、古代において特別の聖域だった。

 現在、月読神社が鎮座する場所を訪れても、その重要性のリアリティを感じられないが、本来の鎮座地に立つと強く実感できる。

 月読神社は、856年以来、現在の地に遷座されたのだが、その理由は桂川の氾濫だった。

 しかし、桂川は、たびたび氾濫していたはずであり、神の聖域は、流されれば再建することを前提に作られていたと思う。

 熊野大社もそうで、明治以降に遷座された現在の熊野大社を訪れても古代の息吹は感じられないが、かつて社殿が鎮座していた熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)に立てば、そこが神の聖域だったことは強く感じられる。

 松尾大社から桂川を遡った亀岡の地にも月読神を祀る小川月神社がある。ここは、広大な河川敷の中に小さな社が鎮座しているだけだが、その空間が素晴らしい。社殿の立派さよりも、その場所が醸し出す空気の方が重要であり、その空気が、聖域の神聖さを高める。

 京都の月読神社の旧鎮座地は、今でも吾田神町という地名で、吾田というのは阿多隼人の”あた”であり、この場所もまた、隼人舞発祥の地、京田辺の月読神社と同じく隼人の居住地だったと思われる。

 そして、この吾田神町から西芳寺川を遡っていくと、苔寺で有名な西芳寺がある。

 西芳寺は、鎌倉時代は浄土宗、室町時代から臨済宗の寺になったが、もともとは聖徳太子の別荘で、奈良時代行基が寺にあらため畿内49院の一つだった。

 この西方寺川沿いを遡っていくと、まさに秘境で、吉野の山中を訪れているような雰囲気がある。そして、この川をさらに遡ったところに四十三基の墳群があり、京都盆地の群集墳のなかで最も密集度が高い地帯となっている。

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西芳寺

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西芳寺川古墳群

 この古墳は、古墳時代後期の6世紀以降のもので、ちょうど、壱岐から月読神がやってきた時と重なるから、隼人系の海人たちのものではないだろうか。

 西方寺古墳群と、現在の月読神社と、隼人と関連のある地名の過去の月読神社の鎮座地が、東西のライン上に並んでいる。

 隼人は、南九州の海人というイメージがあるが、北九州の宗像大社の宗像氏の祖は、アタカタスミ(吾田片隅)であり、同族である。

 九州の壱岐島から月神畿内に入ってきた5世紀末の同じ時期に、対馬から日神が畿内に入ってきている。対馬には和多都美神社が鎮座するが、わたつみは、海人の安曇氏の祖神である。

 壱岐月神を祀っていた海人は隼人系で、対馬で日神を祀っていた海人が安曇系だったのだろう。

 隼人という呼び名は奈良時代に入ってからのものだ。平安京など古代の都は、東西南北を守るための四神相応というコスモロジーがあり、南を守るのが朱雀である。この朱雀は、古代中国においては鳥隼、つまり隼だった。

 その思想を取り入れた古代日本において、都の南を守るために、海人を配置した。それが隼人ということになった。京田辺の月読神社は、平安京の朱雀通りの真南に位置しており、ここは隼人の居住地だった。

 この海人は、呪力を備えているとされ、朝廷の警護などにおいて活躍していた。

 なぜ彼らが月神を信仰していたかというと、近海を舞台に活動する海人にとって月の引力による干満差が重要だからだ。

 とくに瀬戸内海を航海する場合、太平洋と瀬戸内海の干満の時間が違うため、潮の流れが瀬戸内海から太平洋に向かう時と、その逆の時が生じる。そのことを熟知していないと、船を進めることができない。

 松尾大社主祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)が知られているが、宗像三神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)も主祭神であり、嵐山の渡月橋のところにも、天智天皇の時代に勧請されたという櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ)が鎮座している。

 隼人と名付けられる前、南九州から瀬戸内海、そして大阪湾から淀川を遡り、京都から亀岡に至るまで活動の幅を広げていた海人が存在し、歴史上、大きな役割を担っていた。

 

 

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第1225回 思考特性と、時代との関係

 日本は、この20年か30年、経済的に止まっているとよく言われる。経済だけでなく、学問においてもそう感じる。その原因は色々あるだろうが、根っこの部分に思考方法の問題が横たわっているのではないだろうか。

 学問の場でも、ビジネスの場でも、かなり前から、正しい一つの答を争う議論ではなく、ブレーンストーミングの意義が語られていたように思うけれど、実際に、大学やビジネスの現場ではどうなんだろう。

 誰かが述べた意見に対して、「あなたはまるでわかっていない」と否定するか、「共感します」と賛同するかではなく、そういう考え方もあるのかと留めておいて、こういう考えた方はどうだろうかと、考え方の角度や切り口を変えて、問題に向き合っていく態度。一つの正しい答えがあると決めつけるために議論するのではなく、考え方の幅を作っていくことの重要性。

 もちろん、この時点で何かしらの結論を導かないと前には進まない。しかし、導き出した結論が、必ずしも正解だという保証はない。もし、しっかりとブレーンストーミングがなされていたら、一度導いた答えが違っていたかもしれないと少しでも不吉な予感があれば、慌てることなく冷静にすぐに次の手を打てる。

 大事なことは、一つの正しい答えではなく、少しでも良い答えに近づくための姿勢。そもそも、一つの正しい答えなんか存在せず、やり方次第でどのようにでも変わる可能性があるのが現実世界。

 今の学校教育や、試験制度など、そうしたブレーンストーミングに対応できるものだろうか?

 訓練もできていないのに、大学に入ったり就職した途端、ブレーンストーミングをやれと言われてもできるはずがない。

 そして、ブレーンストーミングの訓練ができていないと、人生に対する心の備えだって違ってくる。選択を間違っていたり、一つのテストに失敗した瞬間、自分の人生は終わりだと思い込んでしまう。

 やり方次第でどうにでもなると思える心の余裕こそ、現在のように先行きの読めない時代には必要なのではないか。

 戦後の高度経済成長期のように、一つの答えをできるだけ多くの人と共有し、疑うことなく突き進むことが良い結果をもたらした時代もあったが、今は、そういう時代ではない。にもかかわらず、学校教育は、当時とさほど変わっていないのではないか。

 生き辛い時代だとよく言われるが、それは、時代に原因があるのではなく、教育や社会環境によって作られてきた自分の思考特性と、時代がミスマッチしているからかもしれない。

 人間は、なかなか考え方を変えることができないというのも、また前時代的な発想であり、そうではないケースを色々と想定したり、検証したりしながら、思考の幅を広げていった方がいいのだろう。

 こういう時代、人の意見に対して、「あなたは間違っている、なにもわかっていない」と噛み付く人は要注意だ。自分の考えを示すこともせず、「お前はバカだ」と唾棄するだけの人もいる。

 しかし、その人から発せられているどんな言葉も、その人の思考と、その人自身を表す。薄っぺらい言葉を使えば使うほど、自分の薄っぺらさを撒き散らしている。

 もちろん、世の中には間違っている考えはいくらでもあるので、これは正さなくてはならないと思う場合は、中途半端な否定の仕方をせず、自分の考えと、そう考える根拠をしっかりと示せばよく、あとは、自分の考えの深さや説得力を増す努力をするしかない。

 問われるべきは、正しいか間違っているかではなく、思考の幅や深さと、その根拠の厚みではないかと思う。

 

 

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第1224回 ウクライナとユーゴスラビアの類似

 個人的な見解にすぎないけれど、ウクライナというのは、かつてバルカンに存在していたユーゴスラビアという国の状況に、非常に似ているのではないかと思う。

 広大な領土の中に、宗教も言語も民族も異なる人々が暮らし、さらに、東側と西側の価値観の違う世界に挟まれた国。しかも、地中海に面する海岸線が長く地政学的に重要な場所に位置していたため、何度も周辺諸国に蹂躙されてきた歴史があった。そして、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件のように、諸民族の独立要求、パン−スラヴ主義とパン−ゲルマン主義の対立など帝国主義の矛盾が集中するこの場所は、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれ、東西の大国は、隙を見つけては入り込もうとしていた。

 大学を中退して諸国を放浪していた時、ユーゴスラビアの端から端まで旅したことがあり、その時の独特の印象が忘れられない。一つは、どこまでも続く小麦畑。もう一つは、時が止まったかのような、まるで中世のような都市。

 西側ヨーロッパの中世都市が資本主義に毒されていくなか、独自の社会主義路線を進めていたユーゴには、その毒がまわっていなかった。慌ただしいだけの日本の時間感覚とまったく違う、平和で美しく、のんびりとしたところだった。

 ヨーロッパの火薬庫とされた地域で、複雑な民族構成、宗教も言語も異なる人々を、まとめあげていたチトー大統領のしたたかな手腕こそ、優れた政治家の力だろうと思う。

 チトー亡き後、凡人の政治家がのさばるようになると、ユーゴはあっという間に解体して、泥沼の殺し合いが始まってしまった。

 政治家の手腕一つで、その国の運命が劇的に変わってしまうということを、ユーゴスラビアの歴史が示している。

 ハリウッド映画を見て育ったようなゼレンスキー大統領に、チトー大統領のような懐の深さや、本当の意味でのしたたかさがあるだろうか。

 現在、ロシアのプーチン大統領が悪の帝王として印象付けられているけれど、かつてのソ連には、スターリンという史上最悪の暴君がいた。

 チトー大統領は、このスターリンを相手に、堂々と渡り合った。しかしチトー大統領は、NATOの軍事力をあてにするゼレンスキー大統領のように、 虎の威を借るような方法はとらなかった。

 社会主義国家を目指しながらソ連と距離を置くチトー大統領に対して、スターリンの暗殺団が送り込まれていたが、チトーは怯まなかった。

 かといって欧米に頼るわけでもなく、第三世界に接近し、東側でも西側でもない非同盟陣営を確立した。

 そして、複雑な民族構成の国内においては、過激な民族主義を抑え込み、少数民族に配慮した。

 ユーゴスラビアは、社会主義国であったが、野党の存在も認め、体制批判のメディアに対しても寛容な政策をとった。

 当時の東側の社会主義国は、労働意欲の減退から経済を悪化させていたが、チトー大統領は、労働者自主管理という方法で、働くモチーベーションを維持する仕組みを作り、経済成長率6.1%を達成し、識字率は91%まで向上させた。

 この政策は、ユーゴ独自の自主管理社会主義と呼ばれた。

 チトー大統領は、ユーゴスラビアにおいて圧倒的な力を持っていた政治家だが、独裁者ではなく、仲裁者の道を選んだ。

 もちろん、これほどの政治家が生まれた歴史背景もあった。

 チトー大統領は、若い頃から労働者運動に参加する理想主義者だった。

 第一次世界大戦では、徴兵されていたが、反戦運動をして逮捕されて収監された。その後、ロシアとの戦いの前線に送られ重傷を負い、捕虜となり、収容所に送られた。しかし、そこでも戦争捕虜たちのデモを組織化し、また逮捕されたが脱走した。フィンランドまで逃げたが、捕まり、要塞に閉じ込められ、収容所に入れられ、また脱走している。

 第一世界大戦後は、ユーゴスラビア共産主義活動を行なって逮捕されて5年間の投獄。第二次世界大戦中は、ドイツに占領され、抵抗運動の指導者となったチトーは、民主的な臨時政府の設立を宣言してパルチザン活動を行う。

 チトーのすごさは、ここからさらに発揮される。普通ならば、こうしたパルチザン活動においては、現在のゼレンスキー大統領のように、力のある国を安易に頼り、けっきょくその国たちに操られてしまう。

 しかしチトーは、ドイツに抵抗するために支援をしてきたイギリスやアメリカとも距離をおいた。

 これまでの経験で、そうした大国を信用してはいけないことを理解していたのだろう。チトー大統領は、スターリンソ連と、欧米の強国を手玉にとった。その結果、第二次世界大戦が終了した時、ユーゴスラビアに他国の軍隊はいない状態となり、パルチザンたちはユーゴスラビア全域の支配権を確立し、そこから独自路線で、国を整えることができた。

 その後も、西側とも東側とも距離を置き続ける中立的立場を貫いたのに、両側と交流し、両側から支援を受けた手腕は、相当なものだ。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は、テレビ界出身ということもあってか、ポピュリズムにのった演出には長けているようだ。しかし、政治的には、ユーゴのチトー大統領のような経験がないから、おそらく誰かが書いたシナリオにそって動いているのだろう。

 展開と演出、敵と味方を分断して、正義のヒーローを演じる姿が、ハリウッド映画を見ているような気持ちにさせる。

 こうした姿を見て、単純に感銘したり感動したりする人たちは、ハリウッド映画を見てすっきりする感性に、知らず知らず染まってしまっている可能性がある。

 政治家たちが、そうなっていることが、あまりにも恐ろしい。

 彼らに国の運命を委ねると、チトー大統領の亡き後のユーゴスラビアのような状況に、たちまち陥ってしまうだろう。自分の正しさを声高に主張することが世界を分裂に導いてきたことは、歴史が証明している。

 チトー大統領の人生は、長編映画のような底深さがある。20世紀のパルチザンのヒーローは、チェ・ゲバラだが、彼は、長生きしなかったからヒーローになれた。矛盾だらけの政治の中で、老年まで生きていたら、どういう評価になったかは、わからない。

 チトー大統領は、87歳まで生きたから、センチメンタルな層に受けるヒーローにはならないが、彼がしたたかに整えていたユーゴスラビアという国は、とても不思議な時空で、一種のメルヘンのような魅力を備えていた。彼は、ゲバラのような憧憬のアイドルではなく、そのすごさを誰もが認識する敬愛の対象だった。1980年、チトー大統領が亡くなった時、東西陣営や非同盟陣営の世界各国の政府代表団が集まり、かつてないほどの葬儀となった。

 英雄的に潔く死ぬことを選択するのではなく、最後の最後まで調整し続けていく力こそ、政治家に求められると思う。

 ゼレンスキー大統領のNATOへの極端な擦り寄り姿勢が、ウクライナという国の難しいポジションにおいてどうなのかを、ユーゴスラビアを見本に、冷静に判断すべきではないかと思う。

 かりに、ウクライナNATOの支援を受けて形成を逆転させて、世界は平和な状態になるのだろうか。追い詰められたロシアが、どういう行動をとるか、想像するだけでも恐ろしい。

 戦争を終結させる交渉のカードは、ここまできてしまったら複雑でよくわからないけれど、ウクライナは、EUに接近しても、NATOには接近しない、ということをロシアに明確に伝えることなのではないだろうか。

 

 

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