第1237回 聖徳太子の時代と、龍の祟り。

 このたび制作したSacred world 日本の古層Vol.3で、古代における幾つかの謎解きを行なっている。

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 古代エジプト文明や古代インカ文明のように、古代日本にも多くの謎がある。

 その一つに、現在でも全国に16万基も残る古墳があり、その規模の大きさ、数の大きさ、石室内の石積み技術の素晴らしさ、石棺作りのため、遠く離れた場所から巨石を運んでいることなど、技術面だけでなく、そのエネルギーや人員動員力に驚かされる。なにしろ、同じ時期に、かなりの数の大古墳が集中的に作られているのだ。

 Sacred world 日本の古層Vol.3では、聖徳太子の時代に焦点を当てているのだが、その時代の大王の古墳が集中しているのが、大阪府太子町だ。ここには、第30代敏達天皇聖徳太子、第31代用明天皇、第33代推古天皇、第36代孝徳天皇の御陵をはじめ、それ以外にも有力氏族と思われる無数の古墳がある。

 当時、王権の中心は奈良盆地にあったが、太子町は、奈良盆地からは葛城山金剛山二上山などを超えた西の地にあたる。

 敏達天皇の在位は572年で、推古天皇の在位が終わるのが628年、そのあいだの50年、蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇を除いた王の墓が、聖徳太子も含めて、ここに集中している。この50年と、この場所とのあいだに何かしらの深い関係があると考えられる。

 それについての考察をSacred world Vol.3では展開しているのだが、その考察のヒントの一つが、この写真だ。

 この写真は、美具久留御魂神社(大阪府富田林市)の境内から二上山を見たものだが、この一直線上のラインで、二上山までの真ん中(3.5kmのところ)に、聖徳太子の御陵がある。春分秋分の日、この場所に立てば、聖徳太子陵の向こうの二上山から太陽が上る。そして、さらにこのラインを東に延長していくと、三輪山大神神社、宇陀の墨坂神社、室生龍穴神社、そして伊勢神宮斎宮跡までつながっている。

 

 逆の奈良盆地ヤマト王権のあった場所からは、二上山の向こう側に太陽が沈んでいくように見える。

 古代エジプトでは、太陽の沈む場所は、新王国(紀元前1570年頃 - 紀元前1070年頃)の首都テーベ(ルクソール)の対岸の王家の谷である。テーベは、古代エジプトで最も重要な太陽神アメンのための都でもあった。

 奈良盆地から見て古代エジプトの王家の谷に該当する場所が、大阪の太子町であり、この場所に集中的に大王の御陵が築かれたのは聖徳太子の時代だが、日本において太陽神の権威づけがなされたのも、この時代だった可能性がある。

 というのは、古代エジプトの太陽神アメンも、最初は重要な神でなかったが、新王国時代に急激に権威化された。古代日本においても、最初の太陽神の名前はオオヒルメであり、この太陽神は、イザナギイザナミが一緒にいた時に生まれた神で、その他多くの神の一員にすぎなかった。

 しかし、イザナミの死という象徴的な出来事があり、イザナギ一人が残り、黄泉の国から逃げ帰って禊をした時に生まれた太陽神が、アマテラス大神なのだ。

 日本の太陽神も、この神話で語られるように質的に転換しており、それはおそらく聖徳太子の時代のことだろう。

 果たして、この時代に何があったか?

 二上山の独特の山容は、奈良盆地のどこからでも目立つのだが、それだけでなく、この山の麓で採掘できるサヌカイトは、神津島八ヶ岳隠岐の黒曜石と同じく、石器時代から重要な交易品として、各地に流通していた。サヌカイトの原石が流通していたのではなく、二上山の西麓の地で石器に加工された上で、石川の水運で各地に運ばれていた証拠が残っている。さらに、二上山石灰岩は、大王の古墳の石棺に多く使われていた。

 そしてこの二上山の稜線は、龍の形に見えるのだが、二上山の東麓の葛城市の長尾神社、大和高田市の石園座多久虫玉神社、三輪山大神神社を、龍の尾、胴、頭とする伝承がある。とりわけ、石園座多久虫玉神社は竜王宮とされる。

 そして、三輪山の神は蛇であるという伝承が多く残り、さらに、墨坂神社、室生龍穴神社も龍神と関わりが深い。

 この写真の美具久留御魂神社もまた、大蛇の祟りがあったとされる場所であり、その時代は、第10代崇神天皇の時代であり、同じ時代に、この東西のライン上の三輪山、墨坂神社でも、祟りに関する神託があった。

 この東西のラインは、龍(大蛇)と、祟りが関係している。この龍(大蛇)の祟りとは何なのか? そして、そのことと、太陽神の復活が重なっている。それは、そんなに大昔のことではなく、西暦500年から600年頃の出来事ではないか。

 といったことを、 Sacred world 日本の古層 Vol.3では、いろいろな角度から事実を取り上げて洞察を行なった。

 

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Sacred world 日本の古層Vol.3は、6月29日に納品されますので、すでにお申し込みいただいている方から順に発送していきます。

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第1236回 将来の歴史の作用に耐える文化、社会、政治、国。

 白川静さんが95歳で亡くなって早くも16年になるが、その実感がまったく湧かない。

 白川さんは、数千年の時代を超えたところで生きておられた。その精神は、風の旅人を作り続けていた時も、 Sacred worldを作り続ける現在も、私にとって常に立ち返るべき重要なメルクマールになっている。

  Sacred world Vol.1の巻頭は、遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。」という白川さんの言葉である。

 Sacred world Vol.2では、わが国の神話は多元的であり、複合的であるといわれている。それはさらに遡っていえば、わが国の民族と文化とが、多元的であり、複合的な成立をもつものであることを、意味していよう。」であり、本の中身も、これらの言葉が軸になっている。

  白川静さんのことを漢字学者とか、古代文字研究者だと思っている人が多い。「白川さんがいなかったら、その分野の研究は200年遅れていた」と、中国本土でさえ考えられているので、その肩書きは間違いではないが、当然ながら、その範疇に収まる人ではない。

 白川さんは、若い頃、万葉集の研究に打ち込むつもりだったが、万葉集は、万葉仮名で漢字が使われている、その漢字の本質を理解しなければ万葉集を創造した当時の日本人の精神も理解できない、そう判断して漢字の研究に打ち込んだ。しかし、漢字は、3500年前の甲骨文字まで遡らなければ、その真相を掴めない。

 結果として、白川さんは、古代人の精神世界に深く向き合わざるを得なくなった。

 そういう意味で、白川さんは、漢字学者というより、プラトンアリストテレスヘーゲルハイデッガーまで合わさったような人類的スケールの哲学者であり思想家である。そのことをわかっている人は数限られているが、小説家の保坂和志氏は、風の旅人の執筆依頼をした際、人類でもっとも尊敬する3人として、プラトンハイデッガー白川静さんの名前を挙げ、同時代に生きているだけでも光栄なのに、同じ誌面に自分の言葉を紡げるのは奇跡的なことだというようなことを言っていた。

 そして、このたび制作したSacred world Vol.3においては、 「われわれの責任というものは、ただ現在に生きるというだけではない。現在に生きることによって、将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える、そういう文化、そういう社会、そういう政治、そういう国でなければならないと、私は思う。」

 という白川静さんの言葉を軸にさせていただいた。

 政治はともかく、学問であれ芸術表現であれ、ここまでの腹を決めて取り組んでいる人が、現代社会に、どれほどいるだろうか。

 今回のSacred world 日本の古層Vol.3   は、聖徳太子の時代に焦点を当てているのだが、西暦500年から西暦700年くらいのあいだに、その後の日本の精神文化の方向性を決定するメルクマールが整えられたと、私は思わざるを得ない。

 当時、中国においては隋から唐の時代なのだが、唐の時代は、中国歴史上、文化も政治も、最高レベルだったとされる。

 実際に博物館の展示物などを見ても、唐の時代のものは圧倒的だ。

 同時代の欧州は、395年にローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン人の南下によって西ローマ帝国が滅んだのが476年で、西暦1000年頃のロマネスク巡礼が始まるまでは、暗黒時代とされる状況だった。

 現在の欧州のルーツは、その暗黒時代にあるかもしれないが、ヨーロッパ文化は、西暦1000年以降、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンスバロックと変遷してきたものの上に築かれていると考えていいだろう。(2000年以上前に遡るローマやギリシャがあるにしても)。

 日本においては、1500年前が、大きな分岐点になっている。当時、隣国の中国文化が頂点に達していたということもある。

 ただ興味深いのは、中国の場合、その後、北方の民族の度重なる侵攻が続いた。モンゴル人による元もそうだし、満州人による清王朝もそうだ。

 なので、現在の中国に、唐の時代の精神が脈々と伝わっていると明確に言えるかどうかはわからない。

 (欧州の場合も、西暦1000年以降、北方からノルマン人やバイキングが南下し、徹底的な破壊を何度も繰り返している)。

 日本の場合、島国で海に囲まれているということもあり、ユーラシア大陸の隅々まで侵攻して破壊を行なったモンゴル人の攻撃さえ防ぐことができて、この1500年間、そうした他国からの侵攻がなく、列島じたいがタイムカプセルのようになっていた。悲しいことに、それらが激しく損なわれていったのは、明治維新以降で、自国民によってである。

 この150年で見失われてしまったものは、とても多いし、精神的にも影響が大きい。

 その結果、社会にも様々な歪みは生じている。しかし、それらへの対応の多くは、明治維新以降に植えつけられた対症療法にすぎず、つまり付け焼き刃的だ。さらに、対症療法の価値観が浸透しているから、いわゆるハウツー、付け焼き刃的な言葉ばかり、追いかけるようになる。

 そうやって、同じところをグルグルと回り続けているので、視界はどんどん狭くなり、近視眼的になる。長い目で物事を考えるという感覚がわからなくなる。ただ現在に生きるだけで、「将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える」など、自分とは関係のない世界のこと、ということになる。

 しかし、それでも、聖徳太子空海への信仰が、この国には根強く残っている。

 おそらく、意識の表面では、現在に生きるだけで精一杯だが、意識の深いところで、自分でも自覚できない何かの力によって、生かされているからだ。

 日本人は、生きているのではなく、何ものかの力によって生かされているという感覚を持つところがある。それが単に受身的になってしまうと、精神的に怠惰になるだけだが、自分のエゴに執着して結果的に身動き取れない生き方からの解放につながることもある。 

 太古の昔から日本列島に生きることとなった人間が、長い時間をかけて育んでいった心は、人間の理解を超えた世界を素直に受け入れ、身の程を知ることであり、この国の文化や宗教は、その死生観の上に築かれてきた。

 対立を調和に転換させる力が日本文化の中には秘められており、その復活は、日本だけでなく人類史的にも、鍵になっていると思う。

 

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第1235回 聖徳太子の時代との不思議なつながり。

 昨年の春から四国、山陰、伊豆、畿内大和川、石川、京都の桂川周辺などを個別に探索し続けていて、その都度、取材メモとしてブログなどで記事を書いてきた。

 今回、Sacred world 日本の古層Vol.3 https://www.kazetabi.jp/

 を制作するにあたり、それらの記事を見直したりして作っていけばいいと思っていた。

 しかし、今年の春、聖徳太子の御陵のある太子町周辺を探索した後、聖徳太子の時代について色々と考えて文章を書いていると、この1年、探索し続けていた場所のことが全てつながってしまった。

 それらの地を取材していた時は、そういう意識はなく、その都度、心のおもむくままに次の場所を決めて訪れて、今回の制作にあたっても、別々のパートとして扱うような感覚だったのに、全ては必然であったかのように一つながりで、自分でも驚いた。

 そして、ゴールデンウィークの頃から書き始めて、一挙に全部、書き上げてしまった。それまで1年間、コツコツと書き溜めていたこととは別に。

 作り始めたのがゴールデンウィークなので、完成は9月くらいでいいと思っていたのだが、不思議なほど、文章も構成レイアウトも、あっという間にできてしまった。最初からそう決まっていたかのように。

 時間をかければ良いものができるわけではない。

 私は、風の旅人を作っていた時も、2ヶ月に1度、新しい企画を作り続け、その企画にそった写真家や作家と連絡をとり、趣旨を伝え、膨大な写真から選び、構成し、執筆者の文章もチェックし、それを全て一人でやっていたので、速さには自信がある。

 というより、ゾーン状態における速さ、その極度の集中力が、自分の力以上の何かを引き寄せるために必要ではないかという気さえしている。

 今回、Sacred world3の制作を終えて、これだけ必然的に全てが繋がったものと同じものを、もう一度作れと言われても絶対に無理だと思う。

 そして、さらに不思議なのが、私は、兵庫県明石市藤江という場所で小学校3年から中学3年まで育ったのだが、この藤江が、自分でも驚くほど、非常に重要な鍵を握っていると、制作している途中でわかったこと。

 大阪の四天王寺には、鳥居があって、この鳥居が、境内の伽藍などの配置とはまったく関係なく西を向いて立っており、空海をはじめ、古代から色々な聖人と縁のある場所だった。

 なぜ西を向いているのか? というのが謎とされているが、この鳥居が指している方向に、明石の藤江の浜がある。

 藤江の浜というのは、住吉神の流れ着いた場所で、ここが住吉神発祥の地。

 源氏物語では、落ち目となった光源氏が流れてきたのが、明石であり、住吉神の加護を受けて、復活していく。

 明石というのは、地理的にも瀬戸内海の際なのだが、運命的にも、瀬戸際の場所で、源氏物語以外にも、新羅遠征から戻ってきた神功皇后忍熊皇子との戦いなど、それに類する物語が多くある。

 明石は、淡路島に面した場所だが、この淡路島がもっとも大きく美しく見える場所が、藤江だ。

 淡路島の横長の腹の部分が藤江に面している。だから藤江からは、島という見え方ではなく、陸地の対岸に見える。私は、海のすぐそばで育ったのだが、子供の頃、外国だと思っていた。

 そして、朝刊に、大型船が明石海峡を通過する時間が出ており、毎日チェックして、海を眺めていた。

 当時、日本は世界最大のタンカーの製造地であり、超大型のタンカーが、明石海峡を通過していた。

 そして、藤江のそばの海岸には、明石原人とか明石象の発見の地があり、子供の頃は歴史のことはよくわからなかったが、化石でも落ちているんじゃないかと、何度も探しにいった。

 同じように、時々、潜り込んで何か落ちていないか探していた古墳が、今回、Sacred world3で書いた、聖徳太子の時代の当麻皇子新羅遠征と大いに関係のある場所だったことを、この歳になって初めて知った。

 そしてこの聖徳太子の時代の当麻皇子新羅遠征が、昨年の春に、私がピンホール写真を始めるきっかけとなった鈴鹿芳康さんを訪ねた愛媛の今治と深い関係があった。

 鈴鹿さんと愛犬と一緒に散歩した時、たぶん古墳だと思われる高台が墓地になっていて、その墓地で、鈴鹿さんと愛犬の写真を撮ったら、不思議なオーラが写っていた。その周辺の墓は、すべて、伊予の海人、越智氏の末裔の人たちのものだった。この越智氏が、当麻皇子新羅遠征における明石での出来事と関係していた。

 まあ、こういうことは、”気にせい”ということにしておけばいいのだけれど、今治でもそうだが、いろいろな場所で、気になったところをピンホール写真で撮っていた。計画的ではなく。訪れる前に、重要な場所だとわかっていたのは、ごくわずかで、そのほとんどが、たまたまだった。でも、そのたまたまが、必然だと後からわかったものばかりだった。つまり、その場所に、無意識の何かが呼ばれていた。この無意識が一体何なのかと、最近少し気になるようになってきた。

 

 

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第1234回 和を以て貴しとすること。

聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭。

 「和を以て貴しとし、忤(サカフル)ことは無いように。人には皆、党(タムラ)があり、悟っているものは少ない。よって君父(キミカゾ)に従わない。また、隣の里とも違うだろう。しかし、上と和し、下と睦まじくして、事を論じて話し合って、諧(カナウ)するなら、物事は自然と上手くいき、なんでも成せるだろう。」

 少し意訳になるが、「人は、それぞれ所属するところがあるし、生きている場所によっても色々異なっており、その範疇のことしか考えない傾向があるが、異なるものに対して無闇に反発するのではなく、それを調和させることが最高に素晴らしいものだと悟るべきだ。上も下も分け隔てることなく本質にそって対話を行い、その結果として調和に導くことができれば、物事は自然と上手くいき、何事も成就していく。」ということが、述べられている。

 はるか1400年前に、日本人の精神は、こういう境地に達していた。ここに述べられていることは、現代人が直面している深刻な事態にも通ずる普遍性がある。

 「和」というのは、同じ性質のもの同士の閉鎖的な予定調和ではなく、異なるバックグラウンドを持つもの同士が、お互いを生かすように組み合わさること。

 日本文化、日本の芸術表現は、ずっとそこを目指していた。

 絵画で言えば、動と静を一枚の絵の中に見事調和させる。俳句は、一瞬にして、目の前の小さな光景を森羅万象に広げる。そして、能は、彼岸と此岸を溶け合わせる。

 動きに関しては、ゆったりに見えるのに速い。軽やかなのに重厚。おっとりとしているのに凛としている。

 そして、物事の裁定においては、「いき」なはからい。

 誰かが決めたことを拠り所にしたり、前例に固執するのは、野暮。白を白と言い、黒を黒と言うだけなら、風流がない。

 日本人の美意識では、冬枯れの景色も趣がある。逆もまたしかりなのだ。

 聖徳太子が、実在していたかどうかなんて、どうでもいい。聖徳太子という人物像を創造した、いにしえの日本人の心に思いを馳せればいいだけのこと。

 大阪の富田林市にある美具久留御魂神社の境内に立つと、鳥居の向こうに二上山が見える。そして、美具久留御魂神社と二上山のちょうど真ん中3.4kmのところが、叡福寺境内の聖徳太子の陵墓であり、この二つを結ぶラインを東に伸ばしたところが三輪山大神神社である。

 この東西のラインは、大物主(大国主)の祟りと関係している。

 美具久留御魂神社の御神体は、出雲の神宝とされていた生弓と生太刀なのだが、これは、大国主が、スサノオの館から逃れる時に持ち出したもので、この弓と刀が国づくりにおいて大いに力を発揮した。 

 第10代崇神天皇の時代、美具久留御魂神社周辺で大国主の祟りがあり、これを鎮めるため、出雲の国からこの刀と弓を獲得して、大国主御神体としたという伝承がある

 祟りには疫病や自然災害も含めた国内秩序の乱れが集約されているが、重要なことは、そうした厄災における対処方法だった。

 古くは、そうした厄災において人柱などが実際に行われていた。

 しかし、崇神天皇の時に起きたとされる大物主の祟りでは、従来の方法ではうまくいかなかったと古事記日本書紀では記され、天皇の夢枕に現れた大物主が、大田根根子に自分を祀らせるように指示をして、そのようにすると鎮まったことが伝えられている。その場所が三輪山だった。

 大田根根子は、賀茂氏の祖だが、その祭祀の方法は、須恵器を用いることだった。

 1100度以上の高温で焼く須恵器は、それまでの低温で焼く陶器の土師器と異なり、水漏れがしづらく、液体の貯蔵などに向いており、主に酒器をはじめ祭祀器として用いられた。酒や食物をこれに盛って、供えるのである。

 日本社会においては、昔も今も、同じものを飲食することで、立場の異なるものが調和をはかろうとする習慣がある。だからビジネスでは接待が欠かせないし、外交においても必ず饗応がある。

 この慣習は、古代、神と人間とのあいだでも行われた。今でも神社の祭祀の最後に、直会(なおらい)が行われる。神霊が召し上がったものを参加者が頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するとともに、同じものを食べた人間のあいだに調和が生まれる。

 太子町の聖徳太子の御陵には、太子が一緒に埋葬されることを望んだ妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が合葬されているのだが、彼女の実家の膳氏は、こうした食膳を管理する一族だった。

 大田根根子によって大物主の祟りが鎮められる話には続きがあり、高橋邑の活人という者が、大物主にお神酒を捧げさせたという記述がある。高橋邑の活人は膳氏であり、膳部菩岐々美郎女の祖先が、大物主の祟りを鎮めることに関わっていたのだ。

 だとすると、聖徳太子の御陵が、大物主の祟りと関わる三輪山と美具久留御魂神社を結ぶライン上にあるのは、妃の膳部菩岐々美郎女が合葬されていることも、理由の一つになってくる。

(太子町にある聖徳太子の御陵。太子の妃の膳部菩岐々美郎女と、太子の母、穴穂部間人が合葬されている)

 そして、この東西のラインを美具久留御魂神社から13kmほど西に伸ばすと、和泉黄金塚古墳があるのだが、この周辺が、古代、大物主の祟りを鎮めた大田根根子と関わりの深い須恵器製造場所だった。

 この和泉黄金塚古墳もまた、神秘に彩られた古墳である。築造は4世紀末から5世紀前半とされているが、被葬者は3名、真ん中が女性で、両隣が男性である。さらに、多くの副葬品が出土したが、2世紀末〜3世紀中頃という古い時期の青銅鏡が6面も出土し、その一つに、景初三年(239年)という、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡百枚を賜った年が刻まれている。

 古墳の被葬者のうち真ん中が女性というのは、時代は異なるが、この女性が卑弥呼のような宗教的リーダーであったことを示している。

 実は、2012年、奈良盆地の西の端、二上山から東北4kmの上牧町の丘陵で、三世紀後半の古墳が見つかり、銅鏡が出土したのだが、これが、和泉黄金塚古墳から出土した景初三年(239年)と同型だった。

 この上牧久渡古墳群は、古墳時代初期から終末期まで一つの丘陵に6基の各時代の墳墓が有る珍しい古墳群で、さらに、弥生時代の祭祀道具である銅鐸が出土した所でもある。

 つまり、上牧久渡古墳群は、弥生時代から祭祀と関わる場所であり、それが古墳時代後期まで続いていた。そして、この場所で最も古い古墳から出土した銅鏡が、三輪山、太子町を結ぶラインの一番西に位置する和泉黄金塚古墳の、宗教的指導者と思われる女性の被葬者の副葬品になっている。それが、景初三年(239年)という卑弥呼と関わりの深い年号なのは、偶然ではなく、極めて計画的に深い意味がこめられている。つまり、大物主の祟りを鎮めるという象徴的な儀礼のために、過去との調和もはかられているのだ。

(東から、三輪山の麓の大神神社二上山、太子町の聖徳太子の陵墓、美具久留御魂神社、和泉黄金塚古墳)

 当時の政治の中心は奈良盆地にあったが、その場所に立てば、太陽は双耳峰の二上山の向こうへと沈んでいく。そこは死後の世界である。聖徳太子の御陵をはじめ大王の墓が集中している太子町は、まさにその場所にある。

 天津神は、大国主に対して、力のある者が全てを所有物と見なすウシハクの国ではなく、他の者と共有化し、役割を定めて治めるシラスにしようと、国譲りを迫る。その提案を受け入れた大国主は、幽冥界の主となり、人の世が不穏になると、祟りという警鐘を鳴らした。

 大国主は、天津神によって侵略されて排除されたわけではなく、役割が変わっただけであり、その声を尊重して、様々な方法で祭祀が行われた。

 大国主(大物主)の祟りにおける祭祀とは、人間が、自らの驕りを省みる機会である。人と人とのあいだだけでなく、人と神とのあいだも、それが幽冥界の主であれ、和を以て貴しとするのが、いにしえの日本人の目指すところだった。

 

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第1233回 古代から人間は同じことを繰り返している。

 ロシアとウクライナの戦争が、このまま続けば世界はどうなってしまうのか?

 単純化してしまうことに慎重でなければならないと思うけれど、こうした戦争は、けっきょくのところ男性原理が突出した形で現れた結果ではないだろうか。

 強い方が偉くて立派だと思い込んで勝つか負けるかに頑なにこだわり続けること。

 もちろん、今日の世界は女性の社会進出も著しく、社会の中で勝ち抜くことにこだわり続ける女性も増えているだろうが、勝つことだけが全てではない、ということを弁えている人の数は男性よりも女性の方が多いのではないだろうか。

 日本という国は、卑弥呼の時代から、男がトップに立つと国中が争って乱れ、女性をトップに立てることで治ったという歴史があった。

 また、律令制が整えられていく飛鳥時代から奈良時代の前半まで、女性天皇が続いていた。第35代皇極天皇、第37代斉明天皇(皇極天応の重祚)、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第46代孝謙天皇、第48代称徳天皇孝謙天皇重祚)だ。

 現在の日本は、皇位継承権を「男系男子」に限定していることの問題に直面しているが、答えを決定していくメンバーの大半が男性だから男系にこだわっているだけであり、過去において、女性天皇は不自然でも何でもなかった。

 そして、古事記日本書紀が編纂されたのは、持統天皇から元明天皇といった女性天皇が中心の時だった。

 古事記日本書紀の記述内容について、藤原不比等の陰謀による歴史の書き換えなどと、陳腐なことを主張する歴史好きとか、自称歴史専門家がいる。彼らもまた、男性原理が強すぎて、歴史の動きが、陰謀も含めて勝ち負けの論理だけで決まっている思いこみすぎている。

 彼らは、古事記日本書紀に書かれていることの真意をまるでわかっていない。

 陰謀論の好きな人は、たとえば出雲の物語や国譲りにおいても、侵略戦争のことを伝えていると思いこんでいる。

 そして、遠い過去において、一度、そういうことが起きたと思っている。

 実際は、国譲りの物語は、一度起きた史実ではなく、人間社会の法則を象徴的に伝えている。

 大国主に対して国譲りを迫るタケミカヅチが、述べている言葉は、

 汝之字志波祁流 此葦原中國者 我御子之所知國

「汝のウシハケる この葦原の中つ国は 我が御子のシラス国なるぞ」である。

 ウシハクというのは、力のある者が全てを所有物と見なす国のことであり、シラスというのは、「知らせ」を聞いた者が他の者と情報を共有化し、役割を定めて治めるところだ。

 古事記や日本書記が書かれた頃は、律令制を整えていく段階だった。

 律令制というのは、学校の教科書で習う時は、そういうことがあったと教えられるだけだが、それまで先祖代々受け継いできた土地を、いったん朝廷に差し出して、それを借用するという形をとることであり、急激に共産主義社会にするようなものである。法律や制度を変えるだけで人々が簡単にそれに従うはずがない。

 そういう体制を維持するためには、まずは新しい思想の創造が必要だった。

 ウシハクではなくシラスの国にしようという国譲りの宣言は、そのことを表している。そして、この思想の確立の段階で、女性天皇が続いたのも、たまたまではなく、必然的なことだっただろう。こうした体制転換、つまり、国譲りの歴史は、一度きりではなかった。

 飛鳥時代蘇我氏物部氏の戦いがあった後、女帝の推古天皇が長期にわたってトップに立ち、聖徳太子がそれをサポートしたという、卑弥呼の時代と同じような統治体制が伝えられている。

 蘇我と物部と戦いも、仏教をめぐる対立のように教科書で教えられるが、それは、後の時代の仏教教化の流れに重ねられただけであり、実際は、物部守屋が後ろ盾になった穴穂部皇子が、ウシハク=(力のある者が君臨する)の王になろうとして、それを蘇我馬子が阻止したことが背景にある。

 大国主の国づくりの歴史も一度きりの話ではなく、これは、人間社会に何度か起きている発展の法則を伝えている。

 国譲りの主役は大国主だが、鍵を握っているのは、大国主をサポートするスクナビコナだ。この神は、新しい知識や技術の神であるが、その親は、造化三神の一柱であるカミムスビだ。カミムスビは、高天原にいるのにかかわらず、出雲系の神々を支援する特殊な神であり、高天原の神々にとって出雲の神々が敵ではないということを、カミムスビが示している。

 カミムスビが何なのかを考えるためには、造化三神の中で重要な役割を果たすタカミムスビのことを理解しなければならない。

 天孫降臨の際に、アマテラス大神とともに重要な司令塔の役割を果たすのが、このタカミムスビで、この神は、天の磐座で、指令を出す。

 タカミムスビというのは、この世界に、あまねく行き渡っているエネルギーのようなものであり、人間が手をくわえる前の資源だ。水や空気、鉱物など、すべては、何ものかになりうる可能性に満ちた存在であり、私たちは、そうした世界の中で生きている。縄文人にとって、そうしたエネルギーそのものが神であった。

 その神は人間の意図とは関係なく、何かしら次に起きることの気配を人間に伝えた。気圧が変われば天気が変わるように。そのお告げを読み取る能力のある巫女が、古代世界には現実に存在した。そして巫女は織姫であった。そして、その神託を受ける場所は磐座だった。磐座学会は、磐座を人工的なものと定義しているようだが、それは極めてナンセンスな考えであり、人間の手を介さない領域のことを受信する場は、非人工的なものであるから、天然の巨石の方がふさわしい。

 後の時代、水田耕作がはじまった後、祈雨とか止雨など人間の願望を神に伝えるために、臨時の神霊を招き降ろす場を作った。 それが神籬(ひもろぎ)だが、榊などの常緑樹を立て、周りを囲って神座とした。なかには、岩を結界で囲むなど、人工的な手を加えることもあった。それらは、人間の分別や意図がくわわっているものであり、縄文時代の磐座とは異なる。

 そして、あまねく行き渡ったエネルギー(タカミムスビ)を、何らかの形に結実していく力が宇宙には働いており、それが、カミムスビである。

 たとえば、泥沼が乾いて煉瓦になったり、木と木がこすれ合って火が起きたり。

 人間以外の生物たちは、そうした自然現象に対して、自然のまま対応している。

 人間だけが、その自然現象からヒントを得て、手を加え始める。カミムスビの子のスクナビコナが表しているのは、そうした力だ。

 そのスクナビコナの協力を得て大国主の国づくりが行われる。これは、人間社会が、様々な工夫を凝らしながら産業を発展させていく段階のことを示している。

 この段階での人間は、世界をありのまま受け入れるのではなく、分別によって、より良いもの、より優れたもの、より強いものを目指していく。だから、当然ながら、競争があり、戦いが生まれる。競争や戦いが、人間社会の発展と、切っても切れない関係になる。

 そして、最終的に、一番強いもの、もしくは一番優れたものが、全てを手中におさめようとする。(それが可能になるのは、多くの人間が、一番強いもの、一番優れたものに任せることが良いと思うからでもある。)

 これが、国譲りの物語に出てくる「ウシハク」なのだ。

 人間は、こうした歴史発展の段階を何度も繰り返している。

 この「ウシハク」の最終段階に至った時というのは、色々な知恵や技術も、かなり行き渡っているという状態でもあり、だからこそ、改めて、「シラス」の状態へと移行することの大切さが、国譲りでは説かれている。そうしないと、すでに獲得している技術や知恵を活用して、その使い方を間違えて、不幸なことが起きるからだ。技術や知恵が発展していれば、戦いによる破壊も、より大きくなる。

 だから、国譲りの神話では、改めて、宇宙に最初に現れた造化三神タカミムスビが前に出てくることになる。

 そして太陽神も、2度生まれる。

 最初は、人間の分別以前で、イザナギイザナミの陰陽両神によって生まれる。この段階での太陽神は、山や川やすべての自然物と等しい存在であり、オオヒルメノムチと名付けられている。

 2度目の誕生は、イザナミが死んでしまい、黄泉の国からもどってきたイザナギが、禊をする時に、アマテラス大神として生まれる。つまりこれは、陰陽のうち、陰(女性性)が欠けた世界からの新たな秩序づくりである。イザナミイザナギ、つまり、波と凪があってこその宇宙のリズムだが、波(不安定)よりも凪(安定)を優先する心理世界のはじまりである。

 この時期は、遥かなる昔ではない。なぜなら、黄泉という概念が存在しているからだ。

 5世紀の後半までの古墳では、石室は縦穴式であり、前方後円墳の円墳部分の頂上に築かれていた。死んだ人間の魂は天に上っていくと考えられていた。その時、黄泉という概念はなかった。

 しかし、6世紀になって、石室は、古墳の一番下の内部深くに築かれ、地面と同じ高さに入り口を設けた横穴式となった。

 石室を囲んでいる地面の向こう側が黄泉であり、だから、黄泉の旅のために、食べ物なども備えられた。黄泉の概念は、この時から始まっている。

 黄泉という概念が生まれ、禊をして穢れをはらわなければならないことがあって、太陽神が登場する。この時の太陽神は、タカミムスビと同じく、あまねく行き渡るエネルギーを象徴しており、だからこの二神が、国譲りの指令を行う。

 大王の石室が横穴式になったのは第26代継体天皇の時であり、この天皇は、それまでの天皇と血統が変わっている。継体天皇の即位以降、6世紀、日本は、ウシハクからシラスに向けた体制変化の一歩を踏み始める。

 しかし、すぐには簡単にできるものではなかった。

 7世紀、蘇我と物部の戦いがあり、その後、長期にわたった推古天皇聖徳太子に象徴される時代にも、その試みが行われていた。

 晩年の聖徳太子は、古事記日本書紀のもとになる天皇記と国記の編纂に、力を尽くしていたとされる。

 しかし、7世紀中旬の乙巳の変を経て、白村江の戦い壬申の乱など、混乱はなおも続き、ようやく律令制が整えられたのは、持統天皇から元明天皇の女帝時代だった。

 学校の教科書では、奈良時代平安時代は、律令制の時代で、1192年の鎌倉時代から武士による封建時代が始めると教えられるが、すでに900年代の前半、菅原道眞の祟りが吹き荒れた時をきっかけに、律令制の要である班田収授は一切行われなくなったので、平安時代の最初の100年しか律令制は続かなかった。菅原道眞の祟り騒ぎの背後には、当然ながら、律令制を終焉させようとする者たちの動きがあった。

 現代社会の価値観では、国譲りは、侵略戦争としてしか認識されない。

 それは、そう認識する人たちが、強いか弱いか、優れているか劣っているか、勝ちか負けか、損か得かという価値認識に、完全に支配されているからだ。

 なので、侵略戦争について、あれこれ解説する人や媒体のなかでも、勝ちと負けにこだわり、競争が生まれる。

 人間は、同じような歴史を繰り返しており、古代の人々は、私たちが想像している以上に、そうした人間の性質を理解していた。

 西欧社会の価値基盤の深いところに横たわっている旧約聖書にも、それが反映されている。

 アダムとイブが楽園から追放されたのは、分別という果実を手にしたからであり、その時から、恥の意識が芽生えた。

 恥の意識は、優劣を競う心となり、妬みとなり、すぐにカインのアベル殺しが生まれた。

 その後すぐに様々な技術の誕生が紹介され、ノアの洪水という自然災害をきっかけに、人間は神頼みをやめ、ひたすら人間の力だけを信じるようになってバビロンの塔を建設する。

 その結果、言葉が乱れる。これは多言語になるということではなく、産業の発展や社会体制の官僚化によって、記号的で形式的な言語が増えるということであり、そうなると、今でもそうだが、真意を伝え合うコミュニケーションが難しくなる。

 その後すぐ、ソドムとゴモラの時代となり、飽食の世界が滅びる。

 生き残ったのはアブラハムであり、アブラハムは、すべてに対して執着を持たない存在として描かれている。試練の最後には自分の最愛の息子イサクを差し出すように神に求められ、それを実行しようとして、神は、アブラハムの試練をやめる。

 アブラハムが、究極の選択においても、自己意識にとらわれていないからだ。

 アブラハムが創造された2000年後、イエスキリストが創造されたが、イエスキリストが引用するのは、つねにアブラハムがどうしたか、ということだ。

 アブラハムやイエスキリストや、シラスの国を、私たちが実現しなければならないものとして、古代人が伝えているわけではないだろう。

 人間が、そんなに簡単に、そうできるものでないということを、古代人も知り尽くしていただろうし。

 それでも古代人は、今、自分たちの目の前に起きていることも、本質的には、過去から変わらないことであるという自覚を持つことで、冷静な判断を取り戻そうとしたのであろう。

 すでに偏った分別をもってしまっている人間が、その分別の偏狭さを認識することは、難しい。 

 しかし、自分にとって重大なことで絶対的であるかのようなその分別の尺度が、実は、ただのボタンの掛け違えにすぎないということがある。

 ロールシャッハテストで、黒い部分にしか意識がいかなくて壺にしか見えなかった絵が、白い部分に意識を置いた瞬間、向かい合う二人がそこに在ることに気づく。

 人間の意識分別は、視点を置く場所によって簡単に入れ変わってしまう。

 ここにこうして書いている私の文章もしかりで、こういう視点の置き方も可能であるという明示にすぎない。

 ただ、文章に限らずどんな表現も、正しいことを伝えることに意義があるとはかぎらない。

 黒い部分だけでなく白い部分にも視点を置いてみることを促すことで、世界の見え方が変わってくることもある。そういう役割を果たすアウトプットがなくなってしまうと、人間意識は、ますます偏狭なものになっていく。

 

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第1232回 折鶴を非難する人の偏狭 

 京都の家でテレビは見られないのだけれど、ネットニュースで流れてくる情報では、ウクライナの戦争に心を痛めている人が折鶴をウクライナ大使館に送ろうという活動に対して、現地の人が望んでいるものではないとか、自己満足だとか、だったらお金を送った方がよほど有難がられるなどと、テレビその他で非難する人がいるようだ。そういう非難は、実にくだらないことで、知的を装うその人たちの内面の浅さだけをさらけ出している。

 そもそも、ウクライナの戦争にかぎらず、ちっぽけな自分の力ではどうにもならないという事態は、人生において無数にある。そういう時、どういう手が役に立つかどうかという分別思考で対応できない場合、人は祈るしかない。祈りは、たとえ人のためであっても自分の心を鎮めるものでしかない場合が多いが、それでも祈らざるを得ない状況がある。

 もちろん、通りを歩いている時に呼び止められて、額に手をあてられ、あなたのためにお祈りしますとやられても迷惑なだけだけで、折鶴を非難する人は、それと同じものだという認識があるのだろう。

 しかし、今回話題になっている折り鶴は、直接、ウクライナの人に手渡わすというものではなく、ウクライナ大使館の人がどうするか判断するだけのこと。写真に撮って、日本人にとっての折鶴が何を意味するのか文章を添えてオンラインで伝えるだけでもいいこと。日本固有の文化の押し付けだなどと主張するレベルの低い批判もあるが、私は、苦しい状況に置かれている時、自分の価値観では計れないアフリカの伝統的文化にそった品物を届けられた場合、その意味を伝えられれば、少しは心が救われると思う。ウクライナの人のなかでも、そういう人が、ゼロとは言えないだろう。

 テレビニュースの影響なのかもしれないが、ウクライナの状況を画一的に捉えすぎている。全ての国土が戦火に覆われているわけではなく、ウクライナの人々の苦しみや悲しみも、様々であり、食物や着るものに困っていなくても、危険な状況にある肉親や友人のことを思って胸が塞がれるような思いで、日々を過ごしている人たちもいるだろう。

 また、紛争地で外に一歩も出られないような状況で暗澹たる気持ちで過ごすなかで、たとえば詩集を読んだり、画集や写真集を鑑賞することに何の意味があるのだ、それよりも食い物が必要だろ、と言い切るような人間は、あまりにも想像力が欠けている。人はパンのみに生きるにあらずだ。

 その種の非難をする人間は、文学や芸術作品に救われたという経験がないだけのことであり、その人たちのライフスタイルや人間関係が透けて見える。彼らにとって芸術も投資商品にすぎないのだろう。そうした狭い自分の感覚を、世の中のスタンダードであるべきだと勘違いしている人間が、テレビ世界の中で大きな顔ができるということなのだろうか。

 人がやっていることを、あれこれ分析したり非難することは誰でも簡単にできる。その種の非難は、同じようなタイプの大勢の人間に、いいね!と同意されるだけのことにすぎないし、その大勢の人間を、自分と同じだと安心させているだけのこと。

 安心できたところで、何もならない。それこそ、ウクライナの救いにも自分の本当の救いにもならず、ただ空虚さが膨れるのみ。

 お金や物質だけではどうにもならない現実に対して、人は、人それぞれの方法で、祈るしかない。どちらがいいとか悪いという分別ほど、祈りから遠ざかるものはない。

 

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第1231回 一元化の思考を知の巨人と持ち上げる知の衰退

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 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のことを、現代における「知の巨人」と持ち上げる論調が多いのだけれど、ベストセラーになっている彼の「サピエンス全史」にしても、とくに新しい視点はなくて、他の誰かが書いているようなことを(膨大なウィキペディアの情報も含めて)、整理して装飾的に語っているだけのようにしか思えず、目が開かれるようなことが書かれているわけではない。

 現在進行形のウクライナの問題に対する「緊急特別全文公開」においても、ウクライナのゼレンスキー大統領の全世界に向けたアピール声明としてなら、よく書けた原稿だと思うけれど、「知の巨人」と持ち上げるほどの特に深みのある言葉ではない。テレビのコメンテーターが口にする内容と、それほど大きな違いがあるわけではないし、社会の中で日々消費されている思考の一つでしかない。

 もちろん、現在進行形の戦争を止めるためのメッセージは切実に必要であるから、全員一丸となってロシアのプーチン大統領を糾弾し閉じ込めて押さえ込んでしまうという戦術として、使われているメッセージであるかもしれない。

「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」という彼の言葉は、その象徴的なものだが、この種の言葉に、「知の巨人」という看板を添える事に対して、メディアは、もう少し慎重でなければいけないのではないか。

 メディアがそれほど期待できる存在でないことは誰もが認識していることなので、せめて読者は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の単純化されたメッセージの危険については用心深くあらねばならない。

 彼は、「ウクライナ人が正真正銘の民族」でありと書き、ウクライナ人を一つの民族として英雄物語の主人公に祭り上げているが、広大なウクライナの国土に住む多種多様な人々を、そんなに単純化してしまって大丈夫なのか?

 地理的にも、非常にデリケートな場所に位置しているウクライナは、単一民族国家ではない。 

 少し前にも書いたのだけれど、ユーゴスラビアは、チトー大統領が亡くなったとたん、あっという間に分裂してしまった。

 もちろん原因は色々あっただろうが、その後の内戦の状況から判断すると、国内の複雑な民族構成、宗教の違いなどの対立要因があった。

「チトーイズム」は、このユーゴスラビア国内の複雑な状況をどのようにまとめあげるかという深刻な課題に対応するもので、「緩やかな連邦制」と「非同盟主義」が重要な柱だった。

 多民族国家ユーゴの国家統合を維持するためには、東西両陣営のいずれにも属さず、いずれにも加担しない「積極的平和共存」を掲げて進んでいくしかなかったのだ。

 なぜなら、ユーゴ国内では、対外関係における選好順位は民族ごとに異なり、東方キリスト教の信者の多いセルビアなどは親ソ感情が強いし、カトリック教徒の多いクロアチアなどは西欧、ボスニアなどムスリム人は、イスラム圏の国々に親近感を持っていた。

 なので、海外のどこかの陣営に近寄ることは、国内の不平不満と分断につながりやすい。

 非同盟という戦略は、ユーゴスラビアの国内の秩序維持において重要で、少なくともチトー政権下では有効的に機能していた。

 そのうえで、社会主義国家でありながら、国家全体を一つのイデオロギーで染め上げるのではなく、穏やかな連邦制で、それぞれの主体性と自立を促し、締め付けを行わないようにしていた。

 企業の意思決定も、国家や党ではなく、その企業の労働者集団、あるいは労働者総体からの代表者集団が行なうというユニークな社会主義化によって、当時の共産圏の国々が陥っていた労働意欲の減退はなく、経済成長も果たしていた。

 こうした、当時の世界において他に類がなく前例もないオリジナルの政策は、知的ではない経済や政治の専門家などから、「欠点を見つけ出して批判する」という方法での批判を受けやすいが、チトー大統領の強大な求心力が、それら批判のための批判を圧倒した。

 もちろん、ユーゴスラビア国内の分断と対立は、チトーの死だけが原因ではなく、1980年代、ソ連イスラム圏などを中心に各地で高まっていった民族主義の波を受けたこともあるだろう。

 時代環境も変わっており、また国内情勢も様々であり、いつでもどこでも同じ方法が通用するとは言えない。

 しかし、明確に言えることは、時代が進むにつれて状況はより複雑になっている。にもかかわらず、かなり古いとしか思えない国家論を前面に押し出したユヴァル・ノア・ハラリ氏の論説に「知の巨人」の冠を与えるというのは、むしろ知の衰退現象としか思えない。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏がウクライナ問題において展開している言説は、西欧諸国による植民地から独立を目指して戦った民族の物語と、さほど大きな違いはない。

 彼の言葉の「ウクライナが新しいロシア帝国の下で暮らすのを断じて望んでいない」「一国を征服するのは簡単でも、支配し続けるのははるかに難しいのだ。」という言葉は、植民地からの独立を目指して戦ってきたアフリカなどの国々の歴史と重なる。

 植民地からの独立において、他国の力を借りた国が、その後、どういう状況に陥ったか、私たちは知っている。そして民族主義が、独立後にどのような対立を生み出したかも知っている。

 大国の汚さや、民族主義運動の危険な純粋さを知り尽くしていたチトーは、ナチスドイツに対するパルチザン活動においても、ソ連陣営や、イギリスやアメリカを安易に頼らなかったし、民族の垣根をなくすことを、思想的にも政策的にも重要視としていた。

 なので、本当の知の巨人ならば、そのチトーイズムから、時代の変化に応じたさらなる教訓を引き出して、新しく深い知恵を創造できるはずだ。

 ユヴァル・ノア・ハラリ氏のように、他人から得た情報をうまく整理する人は、テレビ界でも知的タレントとして重宝されているが、そうした情報整理は、ものごとをわかったつもりにさせることに役立つだけで、それは、情報を消化することにしかならない。

 本当に必要な知恵というのは、たぶんそういうことではない。

 時代は繰り返すと言うが、まったく同じ形で繰り返すわけではなく、常に新しい様相を孕んでいる。

 その新しい様相に応じた新しい思考の方法を提示する力こそが、本当の知恵だろう。

  ユヴァル・ノア・ハラリの文章と、これを知の巨人として持ち上げることへの一番の懸念が、その一元化の思考だ。

 国同士の対立に限らないが、すべての対立の根本に、この一元化の思考があるような気がしてならない。その一元化の思考は、硬直して偏狭になればイデオロギーになる。

 多様性尊重とか、ボーダレスといわれる新しい局面に入っている時代において、一元化に変わる新しい思考方法こそが求められるように思う。

 ウクライナのことに関しては、インターネットやSNSの普及によって、まさにボーダレスな状況で情報や考えを共有できるようになっているし、戦いの最中にある人々は、短時間のうちに、世界を味方にしたり敵にしたりすることになる。

 こういう新しい状況のなか、「ドイツ政府は思い切って彼ら(ウクライナ)に対戦車ミサイルを供給し」などという、問題解決の手段として強引に一元化された価値思考の普及は、その価値思考に違和感を持つ多様なものたちへの迫害の可能性を秘めている。

 多様性を尊重する世界ならば、緩やかな統合が求められるはずであり、一元化ではなく多面的で重層的な思考が必要だろう。

 ドイツをはじめ欧州各国がエネルギー資源の問題で、全面的にロシアを敵に出来ないという事情などは、現在の国際関係の複雑で新たな様相を示しており、それゆえに、一元化された性急な問題解決の方法がとれないわけだが、だからこそ、重層的な方法での問題解決の道を探るしかなく、前例のない思考は、そこからしか生まれない。

 ウクライナ対戦車ミサイルを供給することよりも有効的な方法はないのか?

 本当の知の巨人ならば、今、そのことを真剣に考えているのではないだろうか。

 

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