第1271回 わかることと、わからないことの間

 わかることと、わからないことの間の在り方について、色々と思うことがある。

 先週、スタンフォード大学の学生に対する講義を行った。スタンフォード大学の学生は、自分が選ぶ海外の国において、一定期間、授業を受けるプログラムに参加できる。

 私が関わった講義の内容は、「編集」に関するものだが、半年ほど前に私が制作した「The Creation」という本と、写真史の中でも名著とされるエルンスト・ハースの「The Creation 」を題材にしたものだった。

 この2冊の「The Creation」の違いは何なのかを掘り下げながら、東洋と西洋の文化の違いや人類普遍の共通性を確認し、考察し、その考察を形あるものとしてアウトプットする(編集する)うえでの原理や方法論を考えていくという授業である。

 編集というのは、本の編集に限らず、全ての創造行為に通じている。全ての存在物は、何一つ単独で存在しておらず、様々なものの編集物として存在している。生命体にしても、細胞や器官などの総合的集合体であり、それらの部位の連携が全体を機能させているわけで、これもまた編集のうちにはいる。

 「The Creation 」は、「天地創造」という意味で、世界各国の神話の冒頭に必ずといって出てくる物語だが、これは、昔々に実際にあった出来事というより、どのように世界が成り立っているかというビジョンが示されている。このビジョンは、人間特有のイリュージョンという言葉に置き換えた方が適切だ。

 動物行動学者の日高敏隆さんは、様々な動物の行動観察から、「全生物の上に君臨する客観的環境など存在しない。我々は認識できたものを積み上げて、それぞれに世界を構築しているだけだ。」という言葉を残したが、つまり現代科学が作り出した宇宙イメージもまた、現代人特有の認識によって構築されたイリュージョンだということになる。

 近代以降、火薬の利用や蒸気機関など爆発力によって人間世界が大きく変貌することになったが、爆発力こそが最高のエネルギーを生み出す力だという認識の延長上にあるイリュージョンが、ビッグバン宇宙論なのだろう。宇宙の始まりが、限りなく凝縮した一点から究極の爆発によって始まるという説は、20世紀初頭までの近代人の認識が反映されている。

 しかし、ここ数十年で、レーザー放電や放射線など、爆発力ではない力が人間社会に影響を与えるようになってきた。その経験と認識が人類に蓄積されていくと、宇宙構造に対するイリュージョンも変化し、ビッグバン宇宙論は過去のものとなるのではないか。

 近代の宇宙論は、近代人が作り出した神話にすぎない。おそらく1000年後の人たちからは、そのように判断されることになる。 

 いずれにしろ、古代に創り出された天地創造の物語も、客観的事実や史実の記録ではなく、その神話を作り出した人々の時空観と思考特性が反映されている。

 エルンスト・ハースの「The Creation 」は、明確に、「聖書」が元になっており、ゆえに、近代文明を作り上げた西欧の時空観や思考特性が現れている。

 それは、ダーウィンの進化論に通じる考え方で、我々が生きている宇宙の時空は、直線的に、階段を登っていくように変化していくというものだ。

 それに対して私が作った「The Creation 」は、「天地開闢」、「流転」、「陰陽調和」、「縁起」、「無常」、「転生」という言葉を軸に、6つのパートで構成し、最後が最初につながっていく循環的な時空観を表そうとしたのだが、これは、一般的には「東洋思想」の特性とされる。

 西洋思想の表現においては、学問もそうだが、モーゼの十戒のように、明確で厳密であることが課せられるのに対して、東洋思想というのは、その明確さを意識の囚われとして否定するところがあり、ゆえに、空海であれ道元であれ、彼らの言葉の真意は捉え難い。

 「わかる」と断定したり決めつけたりするレベルは、物事を本当にわかっていないということであり、だからといって沈黙していても、「言葉で表現できない」という認識の上にあぐらをかいているだけということになり、禅問答が展開される。

 今回のスタンフォードの学生への授業も、なんとなく、その禅問答のようなものになった。

 この授業に対して、学生からレポートが提出されたが、一人の聡明な学生から、

  I'm really enjoying the space these assignments are creating for reflection. という言葉があった。

 「reflection」は、反響という意味だが、熟考するという意味でもある。反響という熟考は、create (創造)されるものであり、その創造の場は、単なる場所というより、space、つまり「間」であり、宇宙である。

 この聡明な学生の、この一文が、まさに今回の授業でCreateしたかったことを表しており、これだけでも、わりとうまくいった授業だったと感じられるが、こちらもまた、そこからreflectionが始まる。何かを教えているというのはおこがましく、同時に、こちらが学んでいると言った方が相応しい。

 「The Creation 」の制作において、私が苦心したのが、6つのパートの冒頭に掲げた言葉の捉え方であり、それを英語化することだ。

 「天地開闢」や「陰陽調和」を、英語でどのように表現するか?

 この際の英訳は、語学力の問題ではなく、もとの日本語に対する理解と認識の問題となる。

 これらの日本語の一文を、近年、高性能になった自動翻訳機に入れれば、beginning of heaven and earthとか、Harmony of yin and yang という英語が出てくるだろう。

 しかし、この英訳は、状況をわかりやすく整理しているにすぎず、本質には至っていない。

 天地開闢というのは、世界に向き合う際の人間意識の開闢である。つまり、混沌にしか思えなかったものが、意識の開闢によって、どのように捉えられるかということだ。

 カール・ユングは、フロイトとともに歴史的に名を残す心理学者で、人間の無意識の探求者だった。彼は、無意識を、認識言語の形として残しているが、それもまた混沌の秩序化と言えるだろう。

 ユングフロイトには、決定的な違いがあった。

 フロイトは、無意識を性に還元する傾向が強く、無意識を個人の意識に抑圧されたものとして捉えたのだが、ユングは、個人の無意識の奥底に人類共通の集合的無意識が存在していると考えていた。

 しかし、こうしたユングの探求は、個別現象の徹底的分析というやり方が正当となっている20世紀型の科学と逆行していると批判されることもあり、「オカルティズム」と扱われることもあった。

 ユングは、世界各地の神話・伝承ともつながる集合的無意識を、全ての人間が共有していると考えていたが、だからといって、人間がその集合的無意識に固定的に永久に縛られてしまうわけではなく、無意識と意識の調停作業を通した変化の可能性を秘めていると考え、だからこそ、心の治療も可能であるという信念があった。 

 私は、「天地開闢」の英語化として、このカール・ユングの、In all chaos there is a cosmos,in all disorder a secret order.という一文を当てた。

 認識言語の獲得は、意識の開闢であり、それが、(自分にとっての)世界の始まりだと考えたからだ。

 そして、「陰陽調和」の訳に関しては、Harmony of yin and yangとせずに、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.とした。

 これもまた、かなり飛躍した意訳であり、ステレオタイプの解答を当てはめることを正解とする日本の教育システムでは通用しないことは十分に承知している。

 しかし、認識の幅を狭めて正しいか間違っているかを議論することよりも、認識の幅を広げて、自分の存在や世界それ自体を見直すことが、時には必要なことがある。

 現代の世界を支配する価値観や、物事の認識の仕方に、何の問題もなければ敢えてそういう試みは必要ないだろうが、そうとも言えない状況が、政治だけでなく、学問や産業など至るところで見られるのだから。

 陰陽調和に話を戻すと、そもそも世界の様相を二つに分けて整理することが、近代人には理解しやすい思考となる。しかし、陰陽というのは、陰陽太極図を見ても感じられるように別々の二つではなく、一つの様相の光と影であり、一つながりのものだ。陰の極点が、陽への転換点となり、逆もしかりだ。

 

 近代の分析的思考というのは、この一つながりのものを分け隔てていく傾向があり、それが結果的に、今日の学問の分断的状況をもたらしている。

 この分析的思考は、人類がもともと備えていた思考特性ではなく、17世紀前半、最後の宗教戦争とされるドイツ30年戦争に志願しながら、その実態に失望したデカルトが、『方法序説』の中で始めた思考方法だ。

 『方法序説』は、「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法」ということだが、デカルトは、この本の中で、世の中に広まっている色々な考えに盲目的に追従することを否定したうえで、自分の理性の力で、真理を見極める方法を提示しようとした。

 そのために、思考の対象をよりよく理解するために、「多数の小部分に分割すること」が必要だとし、最初は単純な認識であってもそれを複雑な認識へと発展させ、最後に完全な列挙と、広範な再検討をすることが必要であるとした。

 こうした理性の使い方が、その後の学問の方法論となる。その結果どうなっていったかというと、学問の細分化が起こり、それぞれの分野の専門家は増えたが、最後に行うべき広範な再検討のための統合的で巨視的な視点が、どの学問分野でも育まれにくいという問題に直面することになってしまった。

 この流れは、近代にだけ特有の現象ではなく、2500年前の古代ギリシャにおいても同じ流れがあった。

 ギリシャ哲学は、「ミュトス」という空想に対して、「ロゴス」という理性を重視し、神話のように「物語る言葉」ではなく、「論証する言葉」を追求した。その結果、

ソフィストが跋扈するようになり、そこから、ソクラテスの「無知の知」の問答へとつながっていった。

 2500年前というのは、古代中国においても、孔子老子孟子荘子などが出た時代だが、ソフィストと同じく、言葉の論理で正誤のイニシアチブを牛耳ろうとする詭弁家という存在が跋扈していた。

 つまり、理性による客観的分析の思考は、2500年くらい前に著しく発展したが、その矛盾も露呈し、いったんは終焉し、理性を超えた力に重きを置く宗教の時代となった。しかし、理性が重視されないようになると、しだいに盲信や偏見に支配された状況がはびこるようになり、宗教戦争が激しくなった。デカルトが生きた時代は、そうした時代の終末期であり、彼は、再び、理性の力を取り戻そうとした。その試みの延長上に、産業革命があり、近代化がある。

 産業革命は、聖書の中ではバビロンの塔の建設に該当し、その結果、聖書の中で「言葉が乱れた」とあるのは、多言語になったということではなく、産業化で、例えばコンピュータ言語のように言葉がややこしくなり、各分野の専門家と称する詭弁家が増えることも必然であり、それが、言葉が乱れるということだ。

 人類の思考の変化は、階段を上るように過去から現在に向かって整えられていったのではなく、何度も同じようなことが反復され、どうやら循環的に変化してきている。

 ミュトス(空想)は、ロゴス(理性)の立場からはイリュージョンだが、ロゴス(理性)もまた、人間のイリュージョンである。そして、それらのイリュージョンは、環境によって変化する。

 ミュトスの時代、立場の異なる者のあいだで、それぞれの盲信によって戦争が起きたが、ロゴスの時代でも、イデオロギーの違いや、自己都合的な論理的正当化で戦争が起こる。そして厄介なことに、ロゴスの時代の戦争の方が徹底的になってしまうのは、自分の正しさを正当化するために論理武装による強化が起きるからだ。そのため、政府や財界、権力者に迎合し都合のいい説を唱える学者が、重用される。

 このことは、デカルトが、『方法序説』のなかで、「私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと」と考えたとおりになっている。つまり、理性は、対立を防ぐ道具になるように思われているが、実際は、激しい対立を生み出す原理主義につながっていく可能性を秘めていることを歴史が実証している。

 フランス革命共産主義革命の際、掲げられた正義によって、その正義にそぐわないものが疑われ、殺され、破壊されていったことは、人間本能の動物的野蛮さゆえではなく、デカルト方法序説にある「私が明証的に真理であると認めないものは、一切認めない」という頑なな理性を起源として、それが過激化していった結果だ。

 さて、「陰陽調和」の訳語として、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.としたのが正しいか間違っているかはともかく、その意識に基づいて、私は、「The Creation」を作った。

 そして、今回の講義の前、二つの「The Creation」を見て、何の説明も受けずに、どう感じるか、どう考えるかを綴ったレポートが学生から提出された。その中に、ずばり、Take things as a whole,though they manifest in variety of forms.という一文が、二つの本の違いを解く鍵だと指摘している聡明な学生がいた。

 その学生は、私が作った「The Creation」は、本の中の引用文や写真のつながりの在り方じたいが、一つのものが他のものを支配するような世界観ではなく、自然界の生態系のようになっていると述べていた。そして、エルンスト・ハースのように被写体の正面からダイレクトに撮るという方法は、彼個人がどのように対象を見ているのかということを明確に伝えて観るものを誘導するが、私が作った本の大山行男さんの写真構成からは、世界に対する窓が次々と増えていくようで、まるでドラッグをやったかのように世界の見え方そのものが揺らぎ、変化するというようなことを書き添えていた。

 こうした感想を持ってもらえた時点で、私が作った本の本質を直感的に掴んでもらえているという喜びがあった。

 しかし、この感性と思考に優れた学生たちに対する講義は、この二つの「The creation」の違いが、何に由来しているかということと、その違いを形にしていくための方法論を言葉で説明することが主題であった。しかも、日本語のわからない人たちに対して、英語という西欧言語を使って。

 この二つの違いを説明するためには、二つの世界の文化、思想、宗教、風土、そして歴史など全てを包含して説明しなければならず、それこそ、「全体的視点」が必要になる。

 二つの「The Creation」の制作における方法論の違いは、簡単に言うと、エルンスト・ハースの本の場合は、最初に厳密な設計図があり、その設計図に基づいて細部を構成して作り込んでいくというエンジニアリングの手法であり、私の本は、厳密な設計図を用意せず、宮大工や石工が、樹や石を見て、それらがどこに行きたいか、どこに組み合わさってペアになりたいかという声に耳を傾けて全体を統合していくのと同じく、一つひとつの写真に耳を傾けて、全体を整えていくブリコラージュの手法ということになる。

 文化や風土や宗教は、言語による説明が可能だが、このブリコラージュに関しては、日本語で説明するのも難しい。ウィキペディアなどで説明されているような内容では不十分であり、これは一つの奥義みたいなものだ。

 しかし、20世紀において最も信頼できる知の巨人である人類学者のレヴィーストロースは、このブリコラージュが、生態系の本質であり、生物の存在は、神の創造や進化論というエンジニアリング的な展開によるものではないということを指摘した。

 今回のスタンフォードの学生への講義において、私には、強力な助っ人がいた。それは中山慶であり、彼は、おそらく日本国内で最も優秀な通訳者の一人であると私は思う。優れた通訳者というのは語学の達人というだけではダメで、言語力が重要になる。単語を置き換えればいいわけではなく、言葉を組み立てる力が必要なのだ。

 それにくわえて、私が風の旅人を作っていた時、社会に出たばかりだった彼は私のアシスタントであり、私の考え方やビジョン、そして仕事のやり方を、誰よりも詳しく知っている。

 そして、この講義の責任者であり進行役が、写真表現家の荻野Nao之君で、彼は日本生まれメキシコ育ちで、日本語と英語とスペイン語バイリンガルだが、言語的な多様性だけではなく、脳内の思考特性にも多重性が感じられ、彼の作品を風の旅人に掲載する時、彼の思考特性の多重性を引き出そうと思って文章を書いてもらい、何度も何度も推敲を続けたことがあった。多重性の整合性を具現化するための試みでもあり、それは荻野君の中に潜在している欲求でもあった。だから彼は、その延長上で、その後も表現活動を続けている。

 ゆえに、今回の講義のテーマである二つの「The Creation」についての考察は、彼にとっても大変興味深いものであり、だから、講義の内容への没入も強くなって、自分ごとの問題として、ファシリテーターとして積極的に関与することになる。だから、時おり彼が参入することで、講義の内容にドライブがかかる。

 私一人では不可能なことだが、中山慶や荻野Nao之が重なることで、他に取り替えの効かない時間が生まれる。

 もちろん、そうした得難い時間であることが、学生に伝わらなければ意味がない。

 そのため、英語においては中山慶という強力なバックアップ体制のある状況に関わらず、私は、講義の前半の1時間半においては、敢えて自分の拙い英語を中心に話を進めていくという匹夫の蛮勇の選択をした。

 もちろん、ダメだったら途中から中山慶に頼ればよく、行けるところまで行くという気楽な判断である。

 なぜそういう判断をしたのかというと、この難しいテーマの授業において、明確な答えを伝えることが目的ではなく、二つのコスモロジーのあいだに言葉の橋を架ける苦心を見せることも大事ではないかと思ったからだ。英語がうまいか下手かは二の次であり、そもそも言語の起源や幼少期は、言うに言われぬことを、たどたどしく伝えることから始まったはず。言語の本質は、正しい答えを示すことではなく、手探りしながら世界と自分の関係を輪郭づけていくことだと思う。私個人としても、一つの正しい答えよりも、人によって異なる答えに至る思考の流れの方が、興味深い。

 正しい答えを固定的なものだと捉えることが大きな間違いで、答えは常に流動的で、状況によって変わってくる。

 デカルトを起源にする近代思考は、宗教戦争の真っ只中を生きたデカルトが、当時の多くの人々が陥っていた宗教をベースにした旧パラダイムへの盲信から抜け出すための方法論として編み出したもので、その当時ならではの事情が背景にある。

 このことを踏まえず、昨今の日本の教育的状況には、とても不吉なことが多い。生徒一人ひとりの学習状況をデジタル化によって共有化、保存化して、それを生涯教育にも役立てようという教育の管理化などもそうで、教師の事務的作業が増えて本来やるべき教育の時間が奪われるという問題以外に、こうした一元化こそが、「学習」の本来の意義を遠ざけることになる。

 学習は、決まり切ったルール(知識情報)を身につけるために行うのではなく、多元的宇宙に柔軟に対応する知恵を身につけるために行う。鋭い牙や爪や身を守る厚い毛皮を持たないホモ・サピエンスの生存の鍵は、それしかない。ホモ・サピエンスが、環境変化に対応できない硬直した思考しか持たなければ、とっくの昔に滅んでいたことだろう。

 日本の教育界は、学習とは、決まった答えをできるだけ正確に、速く、たくさん身につけることだと思ってしまっており、正しい答えの流動性に対する認識が欠けている。

 社会で必要とされる能力が、今後どうなっていくかもわからない状況で、画一的な思考しかできない人を増やす教育が行われる社会の行く末がとても心配だ。

 スタンフォード大学の聡明な学生たちに対して、エンジニアリングおよびブリコラージュの思考の違いと、その起源を、風土や、歴史や、宗教に遡らせるという日本語でも明晰なる説明が難しい内容のことを、私は、敢えて、稚拙な英語で伝えた。

 正直に言うと、自分でも自分が考えていることが正しいかどうかわからないので、私の発信している言葉の全てを、そのままに受け止めてもらわない方がいいという気持ちもあり、それゆえ、稚拙な英語の方がかなっている。

 そして、15分間の休憩中、案の定、学生たち同士が、「けっきょくブリコラージュって何だ?」みたいな話をしている。

 曖昧で複雑で、そこに歴史や文化の違いや様々なものが関わってくるということはわかるが、明晰なる解答には至っていないという状況だ。

 私の側からは、とりあえず畑を耕したという段階で、そこに種を撒いて苗を育てるのは彼らだ。 

 そして、休憩の後の後半は、学生たちからの質問の時間とした。その質問が難問になることは十分に予測できた。日本語でも答えることが難しい、「今、私たちが生きている現実世界に落とし込んだ時に、どうすればいいのか?」という具体性の質問になることは、前半の講義の展開から読むことができた。

 このスタンフォードの学生に対する講義は、コロナ禍の前にも数年行っていて、その時は、その具体性においては数枚の写真を実際に編集して組んでいくという作業などを通して説明を行った。

 一般的には、「 言うは易く行うは難し」だが、ブリコラージュは、「言うよりも行って見せた方が易し」ということがある。これは、武術などにおいてもそうだろう。説明は難しいが、見せることの説得力はある。

 しかし、今年の講義では、既に二つの「 The Creation」という物が存在していて、それを見れば、違いはわかる。その違いはどこから来ているのかという説明を、長々と前半の授業で行った。後半は、それを、どういう方法で行っているのかという学生の素朴な疑問に、言葉で答えなければならない。

 ここからは、私と一緒に仕事をして、私の仕事を客観的に見ていた中山慶の言語力に大きく頼ることになった。

「ブリコラージュとエンジニアリングの方法論の違いはよくわかった。しかし、そのブリコラージュに基づいて制作するという時、やはり、エンジニアリングと同じようにゴール設定があるのではないか? ないと言えるのか?」という類の禅問答のような質問が続き、答えなければいけないのだが、それに対して、まずは、どう答えるべきか考えなければならない。でも私は、英語で思考ができず、日本語で思考する。そして、その思考を、沈黙した状態ではなく、日本語を外に発しながら行った。

 考えたことを喋るのではなく、考え中のプロセスを、そのまま喋る。

 その私の日本語を中山慶が受け取って、そこに風の旅人を制作していた時の私の方法論を、中山慶が客観的情報として認識したものを、当意即妙に織りこんで、すばやく英語で伝えていく。

 学生は、私が学生の質問に対して何か一生懸命に考えているというプロセスを、私が発する日本語で感じながら、その思考の中身を、中山慶の英語によって知るという展開となった。

 中山慶は、私が口にしている日本語だけを英語にするのではなく、私との経験で記憶しているものを、次々とexampleとして多投できる言語力と英語力を備えており、そのexampleの幅が説得力を持つ。

 しかし、それは唯一絶対の答えではない。そこが肝心なところである。唯一の解答は得られないけれども、「なんとなくわかった」と感じてもらえれば授業は成功であり、後の余白は、学生たちの領分となる。

 表現や情報の発信者が、いくら準備を整えて、頭を働かせ心を尽くして行ったアウトプットでも、その受け手側が、非常に偏狭で偏った視点を持っていたり、自分がわからないことや知らないことに対する心の耐性が強くなければ、一方通行になってしまう。しかし、その場にいたスタンフォード大学の学生たちは、コンピューターサイエンス専攻の学生も多かったのだが、歴史、文化、風土、宗教といった内容も、自分ごとの問題として受け止める真摯な姿勢を持っていることが感じられた。

 彼らの優秀さといってしまえばそれまでだが、アメリカでトップレベルと言われる大学の学生たちの顔ぶれは、アジア、中南米、アフリカなど、出身地が全世界的だし、なかには移民家族や貧困層出身もいた。

 数十年前までならアメリカは、白人とそれ以外の差別が当たり前だったが、もはやそんなことは言っておられない。

 トランプ大統領を強烈に支持する白人層も多いが、アメリカという国を一つに束ねていくミッションを自分ごとだと意識している人々は、差異を排除するのではなく、差異への理解を深めることが、大事だとわかっている。 

 そして、差異を自分に引き寄せることが、自分の仕事を、より豊かにするだろうと認識している。

 30年以上前、世界中に日本製品が溢れ、日本人自身が日本人を優秀だと思うようになってしまった。

 しかし、その当時の製品づくりは、まさにエンジニアリング的な方法で、正しいゴールを一つ決めて、その一つの価値観を皆で共有して、規則正しく、ミスが起こらないように、ゴールに向かって無我夢中で走り続けるというスタイルであり、日本の教育制度は、そうした人材つくりに特化している。

 だが、この20年で、世界の状況は一変した。日本が得意としてきた規格品の大量生産は、他の国でも簡単にできるようになった。

 西暦2000年以降、多くの日本人が気づいていないところで、世界の何が変わってきているのか。

 日本人の賃金が上がらないことなど、この20年の日本の停滞の原因が色々な角度から語られているけれど、実際のところ、何が一番問題なのか。

 私は、差異に対するスタンスにおいて、日本は、大きく立ち遅れてしまったのではないかという気がする。

 欧米などと比較して、亡命者や移民などの外国人受け入れにおいて、日本国があまりにも少ないことは知られているが、日本は、同じベクトルに向かって歩調を合わせるという国民意識が浸透しすぎたためか、人と異なることに対して尻込みする人が多いし、自分の知らないことやわからないことに対して、心を閉じてしまう人も多い。

 戦後日本は、同質化の環境での共同作業に集中して世界一の物作り大国となったが、現在は、それだけだと強みにはならない。

 現代社会の電子化技術において半導体の存在が重要だということは誰でも知っている。

 そして、1980年代、日本の半導体生産は、世界一だった。

 その半導体生産において日本の優位性がなくなってからは随分と立つが、それでも、半導体製造装置においては、2000年くらいまでは日本のキャノンやニコンが世界の圧倒的シェアを占めていた。

 半導体装置さえあれば、人件費の安いところならどこでも大量の半導体を製造して輸出できたわけで、その意味で、日本はイニシアチブを握れていた。

 しかし、現在は、オランダのASMLという企業が、世界で圧倒的なシェアを持つ存在となり、日本企業は太刀打ちできなくなっている。

 半導体製造装置のなかでは、半導体露光装置というのが重要で、この技術は、レンズ性能によるところが大きいので、かつてはニコンやキャノンという日本の光学メーカーが世界最強だった。

 しかし、ニコンやキャノンは、その自社の強みをもとに、それ以外の部品も自社周辺で行おうとした。

 それに対してASMlは、レンズ技術においてはドイツのカールツァイスという写真好きなら誰でも知っている伝統企業と組んだ。そして、それ以外の部品もオランダの電気機器関連の多国籍企業であるフィリップスなどとの連携で、半導体製造装置を製造している。

 設立は1984年という若い会社だが、16カ国に60以上の拠点を有し、世界中の主な半導体メーカーの80%以上がASMLの顧客という急激な成長を遂げている。

 まさに、この会社の存在の仕方じたいが、ブリコラージュ的と言っていいだろう。

 20年以上前は、コアコンピタンス(企業の強み)をシーズ(種)として事業を展開して発展する会社モデルがエコノミストから賞賛されていたが、その方法でキャノンやニコンが、半導体製造装置部門で世界一であったのは2000年代初頭までなのだ。

 かつて日本は大量生産の規格品の輸出で貿易収支を黒字にしてきた。そして、その後、中国や韓国などが大量生産の規格品で優位に立つと、半導体製造装置など、電子・電気機器が、日本の輸出収入の柱となった。今は、この分野での落ち込みが激しく、それに取って変わるものが見当たらない。

 移民の流れをはじめ、世界の情勢が、急激に同質化を許さないベクトルに向かっており、北朝鮮など一部の国が、その流れから完全に取り残され、捨て鉢の生存方法を取る構えでいる。

 島国日本は、その変化に取り残されずに、やっていけるだろうか?

 古代から日本の神というのは、世界の設計者ではなく、個のものを他のものとつないでいく縁起の力に宿っていた。だからこそ、出会いは神の恩恵であった。

 デカルト方法序説で示した明晰で一元的な真理によって性急に問題解決をはかろうとするのではなく、多元的な道理によって成り立つ世界の実態を踏まえ、真摯に問題に向き合い続けるうちに巡り会う邂逅を自分の糧とすることで自ずから開かれていく道があると念じること。決して投げやりにならず、この世界の幅と奥行きをキャッチできるアンテナを準備して、直線的でなくスパイラルな行程を、少しずつ歩んでいくしかない。

 

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第1270回 日本の神話と火山の関係

浅間山の「鬼押出し」 。1783(天明3)年の噴火の際に、浅間山の山頂から流れ出た溶岩流。


 全国に約1,300社の浅間信仰の神社があるとされるが、浅間神社は、現在、富士山への信仰の神社とされる。さらに、浅間神というのは、ニニギと結ばれて山幸彦と海幸彦を産んだコノハナサクヤヒメとされる。

 浅間神とコノハナサクヤヒメが同一視されているのは、コノハナサクヤヒメが、火の中で出産したからだとか、コノハナサクヤヒメは、桜の美しさを体現している神様とされるので、火山灰と桜の散る様を重ねたなどという説もあるが、それらは推測の域を出ない。

 「浅間神社」は、現在、「せんげんじんじゃ」と発音するが、それは中世からで、もともとは、「あさま」だった。

 ならば、ふつうに考えて、軽井沢に聳える活火山の浅間山が、なにかしらの鍵を握っているのではないかと想像できる。

 浅間山は、現在でも活発な活動を続ける火山だが、記録に残るものでは、684年、南海トラフ巨大地震と推定される地震としては最古のものである白凰大地震の翌年に、信濃で灰が降り草木が枯れたとする記述があり、これが軽井沢の浅間山の噴火の可能性があるという意見もある。

浅間大滝

浅間大滝のそばの魚止めの滝


 この時代は、天武天皇の時代であり、古事記日本書紀の編纂が進められていった時期だ。

 古事記の中では、ニニギの妻となるコノハナサクヤヒメが、富士山や、火山活動と重ねられて記述されているわけではないので、おそらく、これよりも後の時代に、その重ね合わせが行われたのだろうと思う。

 正史での富士山噴火の初見は『続日本紀』(781年)で、それ以前は穏やかな山で噴火は起こっていなかったと考えられている。

 富士山の噴火が凄まじかったのは、864年の貞観の大噴火であり、これが、記録に残る最大の噴火だったとされる。

 『日本三代実録』によれば、この大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、865年に甲斐国八代郡浅間神社を建てて官社としたとある

 864年の貞観の大噴火以降は富士山が活動を活発させ、それに対して浅間山は、685年以降は1108年の噴火まで記録されていない。

 927年に成立した『延喜式神名帳』では駿河国甲斐国浅間神社名神大社となっているが、平安時代においては、富士山こそが火山の象徴となり、この時代に、古事記編纂の頃までは活発な噴火活動を行っていた軽井沢の浅間山と、置き換えられたのではないだろうか。

 そして、コノハナサクヤヒメが浅間神とみなされるようになった理由については、全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社静岡県富士宮市)の神職世襲してきた富士氏が、その系図によると和邇氏の後裔であることが関係しているのではないかと思う。

 和邇氏は、奈良県天理市に拠点があったが、この地に鎮座する和邇坐赤坂比古神社の祭神は、和邇氏の祖神である阿多賀田須命(あだかたすのみこと)である。

 阿多というのは、鹿児島の大隅半島周辺地域のことであり、この地の女神が神吾田津姫で、神吾田津姫は、コノハナサクヤヒメの別名なのである。

 富士山本宮浅間大社神職世襲してきた和邇氏は、鹿児島の阿多の地をルーツとし、阿多の地の女神が、コノハナサクヤヒメだった。ゆえに、和邇氏が、富士山とコノハナサクヤヒメを結びつけた可能性が高い。

 和邇氏というのは、記紀において、天皇以外では最も多く登場する氏族であり、天皇の妃に和邇氏出身が多い。そのあたりの背景も、コノハナサクヤヒメが、天孫のニニギと結ばれて、その子孫が皇統となるという記紀の記録に反映されているのだろう。

 ちなみに、記紀の編纂を命じた天武天皇の皇后となったのは後の持統天皇であるが、持統天皇天武天皇に嫁いだのは657年であり、天武天皇の長男の高市皇子は、それ以前に生まれている。その母は、北九州の宗像氏の娘の尼子娘(あまこのいらつめ)であるが、日本書紀において、宗像氏の祖神もまた、阿多賀田須命とされており、和邇氏と同じである。

 そして、阿多の地(鹿児島)には、日本を代表する火山の桜島がある。

 記録によれば、桜島の噴火は、奈良時代の700年代前半にとても多かったが、766年から1468年までは、比較的穏やかだった。

 つまり、古事記日本書紀が書かれた頃は、火山といえば、コノハナサクヤヒメ(神吾田津姫)のルーツである鹿児島の桜島や、軽井沢の浅間山だった。

 だから、おそらくその当時の浅間神というのは、桜島浅間山を象徴とする火山の神であった。しかしながら、その後は、桜島浅間山が比較的穏やかになり、富士山の方が活発化し、火山の神である浅間神が、富士山の神になっていったのではないだろうか。

 そのように洞察していくと、富士山信仰なのに「浅間神」という名称で、コノハナサクヤヒメが浅間神である理由説明が可能になる。

 そして、まことに不思議なことなのだが、富士山と桜島を結ぶライン上に、伊勢神宮(外宮)が築かれており、伊勢神宮の禊場である二見浦もまた、このライン上にある。

 さらに、このラインは、冬至夏至)のラインであり、夏至の日にラインの東から太陽が上り、冬至の日に、ラインの西に太陽が沈む。

 二見浦には有名な夫婦岩があるが、夏至の日、二つの岩のあいだに富士山から上る太陽が見られることが、よく知られている。

 桜島と富士山が、冬至夏至)のライン上に位置しているのは、自然界の出来事であるが、そのライン上に、伊勢の聖域が位置しているのは、人為的な行為である。

 この人為的行為は、たまたまそうなっただけなのか、それとも意図的なものなのだろうか?

 

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第1269回 ロシアとウクライナの戦争で巨額の利益をあげているのは!?

ウクライナが史上初めてアメリカから原油の輸入開始」。 

 現在のことではなく、2019年のニュースだ。

www.jetro.go.jp

 現在、世界的な原油高の状況が、とてつもなく深刻になってきているのだが、この引き金になったのは、もちろん、ロシアとウクライナの戦争だが、この紛争の前に、きな臭い動きは生じていた。

 2019年7月12日の記事で、ウクライナが、史上初めて、アメリカから原油の輸入を始めるという動きだ。

 そして、このアメリカ産の原油シェールオイルだ。

  シェールオイルは、2000年代初頭に水圧で岩盤に亀裂を入れる採掘技術が確立され、米国で生産が急増した。

 これは、従来の中近東の産油国とはまったく異なる採油方法で石油資源を獲得する方法だが、現在判明している範囲では、アメリカが最大の埋蔵量を保有している。

 それで、アメリカ国内でシェールオイル開発がブームになったものの、採掘コストが高いために、原油価格が下がると赤字になってしまい、倒産する会社が増えてしまった。

 資源としては膨大にあり、かつては世界最大の原油輸入国だったアメリカが、世界最大の原油生産国となり石油の輸出が可能になったのは、このシェールオイルのおかげだが、そのためには、石油価格が安くなりすぎないことが重要で、今回のロシアとウクライナの戦争で石油価格が上がれば、おそらく莫大な利益をあげているはず。

 プーチン外交政策によって、ロシアは欧州向けの石油や天然ガスの輸出を拡大させてきた。その結果、ウクライナ戦争前、2020年の段階で、ドイツは、石油34%、天然ガス55%、石炭45%がロシアからの輸入だった。

 だから、ロシアのウクライナ侵攻の段階では、欧州の態度は煮えきれないところがあった。

 欧州の中心であるドイツが、自国内で消費する化石燃料のうち半分をロシアに依存するという状況を、アメリカはどう思っていただろう。

 なぜ、ウクライナNATOに加えようという動きが発生して、ロシアの孤立化を促進するような展開が生じたのか。

 その背後で、アメリカが何もしていないとは思えない。

 ロシアとウクライナの戦争は、2019年の段階で、ロシアの隣国でパイプラインが通っているウクライナが、アメリカからの原油輸入を初めていることからわかるように、戦争開始前から、きな臭い動きは起きている。

 2021年1月23日に、バイデン氏が第46代アメリカ合衆国大統領に就任したことについての不吉を、ブログに書いた。

 

kazetabi.hatenablog.com

 

 穏健派に見えるオバマ大統領の時はアメリカは戦争ばかりしていたが、タカ派のようにしか見えないトランプ大統領の時には、それがなくなった。

 バイデン大統領になったとたん、アメリカが、自国のことより世界のことを優先するようになるはずがない。それは、どの国の指導者だって同じ。

 アメリカのスタンスは、大統領のリーダーシップで変わるというより、アメリカの巨大な産業界にとって、どの大統領が、脅かしやすくて動かしやすいかという違いにすぎない。

 トランプ大統領というのは、アメリカ産業界にとって、むしろやりにくい大統領で、なぜかというと、トランプ大統領の言動が、アメリカの横暴とすぐに結びついてしまうからだ。

 現在、バイデン大統領は、アメリカの石油産業に対して価格の高騰を抑えるよう働きかけているなどとアピールしているが、産業界にとって、バイデン大統領というのは、そのようにアメリカの良心の振る舞いを演じる役割にすぎず、トランプのように平気で産業界をも敵にまわして何をしでかすかわからない存在ではないから、扱いやすい大統領なのではないだろうか。

 バイデン大統領のもとでは、アメリカ産業界は、自分たちのエゴのために様々な手を打って、そのためには紛争が起きる原因さえ作り出すかもしれないが、こっそりと隠れて誰にも気づかれないようにできる。

 実際に、現在、ロシアとウクライナの紛争で、アメリカの石油産業がどれだけ儲けているかという報道は、ほとんど見られない。

 トランプ大統領というのは、アメリカのエゴのためにやっていることを、平気で、アメリカのエゴのためにやって何が悪いと宣言してしまうような人で、それでアメリカのエゴが世界中から注目を浴びてしまうので、こっそりと悪事がやりにくい。

 考えすぎかもしれないが、ロシアとウクライナの戦争の背後にも、中近東の紛争の時からもずっとそうだったけれど、巨大石油産業の利権が絡んでいるような気がしてならない。

 プーチンが、なぜこれほどまでに長期政権を維持できたかというと、ロシア経済を立て直して、賃金アップと失業者減少を実現したからで、それが可能になったのは、巧みな外交政策によってロシアの石油や天然ガスを欧州向けに売ることができるようになったからだ。

 その結果、アメリカの石油産業にとって、ロシアは、目の上のたんこぶになった。

 アメリカの石油産業にとって、シェールオイルの採掘コストより原油価格が安くなっては困るという歴然たる事実がある。そうなってしまっては宝の持ち腐れなのだ。

 だから、彼らにとっては、ロシアの石油や天然ガスの西側諸国への輸出を止めておきたい。

 紛争が長引けば長引くほど彼らの利益は莫大になり、さらに戦争が終わっても、ロシアと欧州の関係が断絶されることが、望ましいはずなのだ。

 

第1268回 日本の全ての場所に、古代の聖域がある。

 ここ数ヶ月に取材を行なった岐阜や四国、房総や常陸の写真をくわえて、「ピンホールカメラで撮る日本の聖地」のサイトを更新しました。

https://kazesaeki.wixsite.com/sacred-world

 このサイトでは、これまで撮影してきた場所を地図で確認できるようにしているけれど、これを見ると、まだまだ隙間だらけ。

www.google.com

 2016年10月から、ほとんどこのプロジェクトにかかりっきりだけれど、日本全体から見れば、まだ一部でしかない。

 当たり前のことだかれど、日本の全ての場所に、古代の聖域がある。

 それ以前、風の旅人を作っていた時には、北海道や東北、九州、沖縄周辺の離島など、日本のほとんどすべての地域を訪れてはいる。

 そのなかには、恐山、三内丸山、久高島、屋久島、宮古島大神島阿蘇桜島、高千穂、国東半島など、もう一度必ず行かなければならないところも多くある。

 けっきょく、かつて訪れることは訪れてはいるものの、何も理解できていないところばかり。

 海外もそうで、20歳の時より、ヨーロッパの全て、アフリカや中南米、中近東、中国辺境、バヌアツやパプアニューギニアなどの太平洋の島々、北極圏に至るまで訪れることは訪れているが、けっきょく何も理解できていない。

 まあ、これらの旅を通して、一つだけはっきり言えることは、人間というのは、氷点下50度になるような場所でも、標高3000mでも、密林の中でも砂漠のオアシスでも、海の上でも、よくもまあこんなところに住んでいられるなあ」と感嘆するような場所でも、生き続けているということだ。

 適応力というのか、慣れというのか、耐性というべきなのか、他の生物と人間が大きく異なるところは、この生存領域の広さだろう。

 そして、どの場所にも、人間の歴史がある。

 人間を理解するためには、この歴史の理解を避けて通るわけにはいかない。

 世界中を訪れていても、理解の不足が大きいと感じるのは、それぞれの地域の歴史を通した人間のリアリティが、不十分だからだ。

 今そこにある現象は、突然そこに現れているのではなく、過去から連綿と続いている歴史の上に重ねられて現れている。

 

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第1267回 筑波山と、采女と、国産み神話。

 今回の旅で最後に訪れたのが筑波山

 筑波の地は、東国の神々を神話的に統合していく拠点だったのではないかというのが、私の仮説。

 筑波山は、標高877m、男体山と女体山の二つの頂きを持つ双耳峰だが、広大な関東平野のどこからでも、その印象的な山容が見られる。

 また、筑波山の麓に立てば、天気の良い時には富士山が見える。この二つの山は古代から聖なるランドマークであり、例えば武蔵一宮である埼玉の氷川神社は、筑波山と富士山を結ぶライン上に鎮座している。

 畿内の場合は、筑波山のような双耳峰で奈良盆地のどこからでも印象的な姿を確認できるのが二上山奈良県葛城市と大阪の太子町のあいだ)で、筑波山のような裾広がりの美しい姿を遠くから望めるのが近江富士の三上山(滋賀県野洲市)だ。

 そして、三上山の麓からは日本最大の銅鐸が出土し、二上山の麓の石灰岩は、大王の石と称されるように畿内の大王クラスの古墳の石棺に使われていた。

 三上山も、二上山も、古代世界における祭祀と深い関わりがある山だということになるが、筑波山も同じで、古墳時代終末期における常総地域の古墳で、筑波変成岩が使われた箱形石棺が多くみられる。

 古代、筑波地域の中心は、筑波山の東麓の石岡市で、この場所には、墳丘長186mという関東地方で二番目の大きさを誇る舟塚山古墳をはじめ、数多くの古墳があり、国府もまたここに築かれた。

 また、奈良時代から平安時代にかけての武器製造拠点だと考えられている鹿の子遺跡も、石岡にある。

 石岡という地名の由来はわからないらしいが、筑波山というのは、古代から、「石」が重要な意味を持つ山である。

 筑波山は約8000~6000万年前に地下深くでゆっくりと冷え固まったマグマが岩石となって隆起した山で、山頂から中腹にかけては風化や浸食に強い斑れい岩、中腹から山麓は花こう岩でできており、南に連なる山々は、海底にたまった砂や泥がマグマの熱で変質を受けた変成岩でできている。

 このうち変成岩は、上に述べたように箱形石棺で用いられているが、筑波山系の花崗岩は、「真壁石」とよばれ、近代でも良質の石材として迎賓館や国会議事堂などに用いられた。

 石岡の地は、今から1万年以上も前の旧石器・縄文時代から弥生時代にいたる数多くの遺跡があり、筑波山の石で作られた数々の石器も発見されている。

 筑波山の東麓の石岡は、霞ヶ浦に面しているが、古代、このあたりには、大きさが東京湾に匹敵するくらいの内海があった。

 香取神宮鹿島神宮は、この巨大な内海の太平洋への出入り通路を両側から挟むように鎮座している。

 国譲りの主役の二神が、この位置に祀られているのだから、この内海が、国の治世にとって、いかに重要な場所だったかがわかる。

 この内海は、現在の霞ヶ浦のように内陸部に触手を伸ばすような形になっており、この水路が、物資輸送の大動脈であった。

 さらにこの内海は、鬼怒川など多くの河川が流れ込んでおり、その上流には、西沢金山をはじめ、鉱物資源の豊かな山々があった。

 これらの地を、古代、ヤマト王権が武力によって支配したとするのが、歴史の通説なのだが、果たしてそんなことが可能だろうか?

 相手は、船を操ることに長けた人々であり、複雑な地勢を利用して、どんな戦いでも仕掛けられる。仮に、畿内から兵が送り込まれたとして、簡単に勝てるとは思えない。

 石岡に築かれた巨大な舟塚山古墳は、5世紀前半に作られた畿内前方後円墳と形が似ているので、ヤマト王権の影響が、この地に届いていることは間違いないだろう。

 しかし、それが武力による支配だったとは限らず、別の角度からも考察する必要がある。

筑波山神社。ここは拝殿であり、本殿は、男体山と女体山の山頂に1棟ずつ鎮座している。そして、海抜270メートルの線(拝殿)以上を社地としている。

筑波山 大御堂境内のスダジイ。推定樹齢400年。真言宗の寺である大御堂は、明治の廃仏毀釈までは筑波山神社神仏習合により信仰されてきた。左背後に見えるのが筑波山男体山


 筑波の地が、なぜ筑波という地名になったのか? 

常陸国風土記』によれば、昔は「紀の国」だったこの場所の国造となった筑箪命が、自分の名前を使って「筑波国」と改めたとしている。

 この時期は、第10代崇神天皇の時とする記録もあるが、はっきりはわからない。というより、崇神天皇というのが、何世紀のことなのか、史実なのかどうかもわからない。

 ただ、この筑箪命という人物は、采女氏(うねめうじ)ということになっている。

 采女氏を、古代豪族の中で有名な物部氏と同族としている文献もあるが、正確には、穂積氏である。穂積氏も物部氏と同族だという意見もあるが、それは、遠祖がニギハヤヒで同じだから一括りにしているだけで、大事なことは血統よりも氏族の役割だ。

 物部氏は、とくに軍事的な役割の大きな氏族だった。

 それに対して穂積氏の祖は、古代祭祀と関わりの深い大水口宿禰の子の忍山宿禰だが、この人物は、ヤマトタケルの妃となった弟橘姫(おとたちばなひめ)の父である。

 三重県亀山市に忍山神社が鎮座するが、忍山宿禰は、この神社の神主となり、その子孫の穂積氏が神主を世襲してきた。

 ヤマトタケルは、東征の途中にここに立ち寄り、この場所にいた弟橘姫を伴って東国に行く。しかし、相模から房総に渡ろうとする時に嵐が起きて、海神の怒りを鎮めるために弟橘姫が犠牲となって海に身を沈めた。嵐はおさまり、ヤマトタケルは房総に上陸し、大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の地に入ったとされる。

 玉浦を九十九里とする説もあるが、葦浦や玉浦がどこかはわかっていない。しかし、「葦」が生えているのだから外海ではなく、筑波山の南麓に広がっていた古代の内海かもしれない。

 その移動の時、ヤマトタケルは大きな鏡を船に掲げていたとあるが、鏡は、ヤマト王権のシンボルであり、一種の宗教的啓蒙を意味しているのではないだろうか。

 神話の中のヤマトタケルは、従者はいるものの軍勢を率いているようには描かれておらず、征服戦争のことが記録されているのではないように思う。

 弟橘姫がいたとされる三重県の忍山神社から東に15kmほどのところに今も采女という地名がある。

 采女というのは、一般的には、古代、朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など身の回りの庶事を専門に行った女官とされるが、采女は地方豪族の出身者で、容姿端麗で高い教養力を持っていたため天皇の妾として子を産んだり、政治力を発揮する者もいた。

 いずれにしろ、采女は、大王(天皇)と地方の豪族が一つの共同体となる仕組みであり、地方の祭祀を朝廷が吸収統合していく過程で成立していったと考えられ、ヤマトタケルの妃となった弟橘姫も、采女の一つの象徴だろう。

 そして、この采女の統括を担当した氏族が采女氏であり、筑波の地の国造になった筑箪命が、采女氏の出身だった。

 その歴史背景として考えられるのは、この筑波の地を拠点として、東国の豪族をヤマトの朝廷と結びつけるために、采女氏が役割を果たしたということではないだろうか。

 采女のことを、江戸時代に江戸城に集められた大名の妻や娘のような人質だとする説もあるが、紐帯と考えた方がいいのではないかと私は思う。 

 結びつくことによって、お互いにメリットがある。支配による略奪や搾取ではなく、交換。

 しかし、奉じる神が異なり死生観が異なると、対立の原因にもなりかねない。

 そのため、宗教的な統合は重要だが、だからといって一つの絶対神を強要することは難しい。

 そうした事情があって、日本の神々は、複雑な体系で表されるようになった。

 そして、その複雑さが、カオスとならないよう神話のストーリーが作られた。

 それが、イザナギイザナミによる国産みと神産みなのだろう。陰陽の二神によって、この世の様々な神々が生み出されていくという物語が創造されたのだ。

 そして、この創造の二神は、いつまでもメインの神としてこの世界に留まるのではなく、イザナミは黄泉の国へ、イザナギは、幽宮(かくれみや)に隠れた。

筑波山神社。随神門の前の夫婦杉。随神門の左側に倭健命(やまとたけるのみこと)像が設置されている。

 筑波山に鎮座する筑波山神社の社伝(『筑波山縁起』)によると、『古事記』にあるイザナギイザナミによる国産みで産み出された「おのころ島」が筑波山にあたるという。

 そして、双耳峰である筑波山男体山と女体山に、イザナギイザナミが重ねられて、現代の祭神となっている。

 東国の神々の統合は、この筑波山を軸にして、国産みと神産みの物語と重ねられて、行われていったのではないだろうか。

 

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ピンホール写真で旅する日本の聖域。

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第1266回 北九州と常陸と四国をつなぐ国づくりの糸

大洗磯前神社茨城県大洗町

 たった一つの場所のことを書くだけなのに、その一つの場所は無数の事柄と関わってきてしまい、手短に書けなくなってしまった。あまりにも長い、一つの場所に関する取材メモ。

 今回の旅で房総半島から茨城の鹿島灘を北上し、辿り着いた茨城県の大洗の海辺。

 鹿島灘のこの聖域が、菅原道眞の怨霊騒ぎともつながってくる。

 鹿島灘は、北から流れてくる親潮と、南から流れてくる黒潮がぶつかり合う潮目である。そのため、この場所が水産資源の宝庫であることはよく知られているが、エンジンのなかった時代の船の航海においても、二つの潮流は重要な意味を持っていた。

 黒潮などの流れは、一方向のように思われているが、勢いよく流れる一方向の潮の外側には、ゆるやかだが、逆向きの潮が流れており、それを熟知していれば、潮に乗って行き来ができる。

 鹿島灘鹿島神宮の真北40km弱のところに大洗磯前神社が鎮座している。この神社の創建は古く、式内社であり、そのなかでも特別な名神大社である。

 この神社の存在が特別な意味を持っているのは、平安時代清和天皇の時、貞観13年(871年)に編纂された歴史書である『日本文徳天皇実録』に、次のような記事が載っているところにある。

「ある夜、製塩業の者が海に光るものを見た。次の日、海辺に二つの奇妙な石があった。両方とも一尺ほどだった。さらに次の日には20あまりの小石が怪石の周りに侍坐するように出現した。怪石は彩色が派手で、僧侶の姿をしていた。神霊は人に依って、われは大奈母知(おおなもち)・少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきたと託宣した。」

 この記事にある大奈母知=オオクニヌシと、スクナヒコナの降臨の場所が、今回、ピンホールカメラで撮った大洗磯前神社の神磯の鳥居であり、この岩礁の上は現在でも禁足地となっているが、江戸時代にも、この風景を見るために多くの人が訪れていたという。

 この神磯への神の降臨が、地方の伝承ではなく、中央政府が作成した公式の歴史書に記されていることに深い意味がある。

 海辺に石が出現し、それが増えているという記述は、地盤が隆起したことを表しているのだろう。最初に光が出てくるが、これは、大地震の時に発生する地震発光現象のことだと思われる。

 房総半島でも、関東大震災など大地震の時に隆起した場所が多く見られるが、房総から鹿島灘宮城県沖合にかけての一帯は、海底プレートの影響を強く受けるところであり、2011年3月11日の東北大震災の記憶も生々しい。

 この東北大震災で起きた原子力発電所の事故の検証において、どの規模の津波が想定されていたかという議論が起きた。そして平安時代貞観の大地震で起きた津波のレベルまで想定するかどうかという判断で、東電が、それを行わなかったために大惨事が起きたという話になった。

 貞観地震は、869年に、2011年の東北大震災の時と重なる地域に津波の大被害をもたらした地震であるが、大洗磯前神社の神磯に言及している『日本文徳天皇実録』は、この大地震の2年後に編纂されている。

 そして、次に気になるのは、大洗磯前神社の神磯に降臨したことになっているのが、オオクニヌシスクナヒコナで、「昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた。」と託宣していることだ。

 これは一体何を意味しているのか?

 貞観時代というのは、大津波だけでなく、864年(貞観6年)から866年(貞観8年)までにかけて発生した富士山の大規模な噴火活動も記録に残されており、これは有史に残る富士山の最大の爆発で、この時に、青木ヶ原の樹海などの溶岩地帯も形成されたとされる。

 つまり貞観というのは、極めて深刻な天変地異が連続的に起きた時代だった。

 そして、『日本文徳天皇実録』という正史の編纂は、菅原道眞の父の菅原是善が主要メンバーであるが、菅原道真が父に代わって序文を執筆したとされている。

 大地震や大噴火など凄まじい天変地異が続いた貞観の時代の混乱の後、天皇の血統に大きな変化が起きる。

 源氏の身分にあった宇多天皇の突然の即位だ。宇多天皇の母は、渡来系の東漢氏に連なる当宗氏の血を受け継いでいるが、天皇になるはずのなかった宇多天皇の即位の背後には、当然ながら、何かしらの力が働いている。

 宇多天皇は、菅原道眞を抜擢して政治改革に乗り出すが、改革の反対派によって道眞は九州に左遷されてしまう。

 しかし、道眞の死後、怨霊騒ぎが起きて時代は動く。

 菅原道眞の祟りについて考えるためには、道眞の怨霊騒ぎの後に何が起きたかを考えればいい。

 怨霊騒ぎの中、病気がちの醍醐天皇にかわって宇多上皇は、道眞と親しかった藤原忠平を中心に改革を進めた。そして醍醐天皇の死後に即位した朱雀天皇の母は、道眞の祟りを極端に恐れていたとされるが、この朱雀天皇の時代から、道眞を左遷した勢力によって行われた班田収授は一切行われなくなった。つまり、人頭税を柱にした律令制は崩壊したのだ。

  日本史の中に刻まれるべき宇多天皇と菅原道眞のミッションは、ここにある。

 ところで人頭税というのは、人の数に対して税金を課す税制である。

 しかし、この税制は、重い課税から逃れるための農民の逃亡につながり、朝廷の税収は減少するが、逃亡農民を抱え込むことで荘園経営を行なっていた一部の貴族だけが潤うという状況になった。

 朝廷に仕えながら荘園を持たない一般貴族は、収入が減少したためか、地方にくだって受領(地方の行政責任を負う筆頭)になるものが増えた。これが後に武士になっていくが、かろうじて人頭税が維持されているあいだは、中央から地方に派遣される貴族官僚が、それらの受領の上の立場であり、税に手心を加える見返りに賄賂などを要求し、腐敗の温床になっていた。

 平将門の乱(935年)は、こうした中央官僚の賄賂要求を武蔵国が跳ねつけたことが、最初のきっかけである。

 人頭税に変わるものが地頭税であるが、これは人頭税より複雑な税制のため、土地の計測や収穫高の管理は、地方行政を行なっている者に委ねざるを得なくなる。そのため、地方の豪族の権限が大きくなるし、灌漑その他に力を入れることで、自分たちが豊かになる道が開ける。中央官僚の時代から地方分権の武士の時代への転換が、税制改革によってもたらされた。

 その引き金が、宇多天皇の突然の擁立であり、菅原道眞の抜擢と改革であり、この歴史的転換を最終的に成就させる力となったのが道眞の怨霊騒ぎだろう。

 この流れの背後にいた勢力は、人頭税を軸にした律令制に代わる体制を望む者たちや、この時代の流れに逆らえないことを弁えていた人たちということになる。

 彼らが、天皇になる予定ではなかった宇多天皇の擁立のために力を結集し、菅原道眞の改革を支援し、人頭税時代の維持を目論む反対派によって道眞が死に追いやられた後は、祟りという騒ぎのなかで、反対派を滅ぼしていったのだろう。

 菅原道眞が亡くなった903年、道眞の子の道武が、自ら道眞の像を刻み、廟を建てて祀ったのが東京都国立市谷保天満宮の創建とされる。

 901年に菅原道眞が太宰府に左遷された時に、道眞の邸宅があった京都の亀岡北部の園部で、道眞と深い交流のあった園部の代官・武部源蔵が、道眞の邸内だったとされる場所に小祠を作り、密かに道真の像を安置したのが日本最古の天満宮とされているのだが、国立市谷保天満宮も、それと変わらず古い菅原道眞の聖域であり、919年の太宰府天満宮や、947年の北野天満宮に比べて、はるかに古い。

 なぜ、菅原道眞の息子が、東京の国立にいたのか? 

 この谷保天満宮は、武蔵国の中心だった府中の国府があった所から僅か3kmほどの所であり、武蔵国が、菅原道眞の左遷によって立場が危うくなっている息子を保護していたのではないか。

 この後も、武蔵国の武蔵武芝が、中央から派遣された官僚の源経基の賄賂要求を拒み、これが後の平将門の乱へとつながっていくが、興味深いのは、武蔵国を治めていた武蔵国造は、日本書紀によれば、天穂日命アメノホヒ)を遠祖としていることだ。

 というのは、土師氏の出身である菅原道眞の遠祖も、天穂日命アメノホヒ)なのである。

 アメノホヒという神様は、タケミカヅチなどよりも早い段階で高天原からオオクニヌシの元に遣わされたが、オオクニヌシを説得しているうちに、心を変え、オオクニヌシの元で働くことを選択した神様だ。(その時点で国譲りは、時期尚早だったことを意味している。)。

 そして、この武蔵国造が関東に多い氷川神社を祀っていたのだが、氷川神社の祭神は、スサノオクシナダヒメとオオナムチ(オオクニヌシ)という出雲系の神々である。

 ここで、話を冒頭に戻すが、菅原道眞が序文を書いたとされる『日本文徳天皇実録』において、鹿島灘大洗磯前神社の神磯の岩礁に、大奈母知(おおなもち)と少比古奈命(すくなひこなのみこと)が降臨して、昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」と託宣したという内容と重なってくる。

 宇多天皇と菅原道眞による改革の前、人頭税を軸にした律令体制は崩壊しつつあったが、特に貞観の時代に起きた富士山の大爆発や、東北から千葉にかけての太平洋側に大被害をもたらした大津波によって、東国の人民の暮らしは窮地に追い込まれたはずであり、それらの地方の治世者は、中央政府の管理下に置かれた状態ではなく、自立的に、状況を立て直す必要に迫られていたのではないかと思われる。

 それまでの人頭税に基づく中央集権的な官僚体制では、危機を乗り越えられなかった。

 『日本文徳天皇実録』に「大奈母知(おおなもち)と少比古奈命(すくなひこなのみこと)が降臨して、昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」と託宣したとあるのは、その危機を乗り越えるための改革と結びついている。

 菅原道眞の使命も、そこにあった。

 そのように仮定すると、国譲りが何であったのかも、わかりやすくなる。

 国譲りは、タケミカヅチオオクニヌシに対して投げかける言葉、「汝がうしはける葦原中国は、我が御子のしらす国である」に象徴される。

 すなわち、力のある者が全てを牛耳るのではなく、全ての者に平等に、知恵の恩恵が行き渡るようにすべきだということであり、それは律令制の精神であった。

 しかし、そうした理想的な状況というのは、生産力などが十分に高まった状態であることが条件であり、生産力を高めるためには、自分がやった分だけ見返りがあるという個々のモチベーションが重要で、それは結果的に競争の世界、すなわちウシハクとなる。

 オオクニヌシとスクナヒコが象徴しているのは、そういう競争世界での切磋琢磨であり、それが、神話の中の「国づくり」であった。

 だが、その結果として争いごとも増えた。力のある者が独占する「ウシハク」の時代だからだ。その争いごとを終焉させるために「シラス」の国の秩序世界が作られた。それが律令制であり、その過渡期である奈良時代には各地で抵抗があったが、平安時代となって、しばらく戦争はなくなっていた。

 しかしながら、その律令制の矛盾が各方面で噴出していた。

 そして、9世紀、貞観時代の天変地異が起こり、もはやその矛盾に蓋をすることができなくなった。

 菅原道眞の時代は、まさにそういう時代であった。

 鹿島灘大洗磯前神社の神磯にオオクニヌシスクナヒコナが降臨したという記録は、その転換点を象徴している。

 そして、この2神の降臨の場所が、なぜここなのかと考えるためには、貞観の大津波の被害地域であったからかもしれないが、ここが、那珂川の河口域にあることが気になる。

 那珂川というのは、北九州の博多を流れる川と同じ名であり、博多は、日本最古の湊で、太古の昔から、大陸との交易や外交の中心であった。

 そして、表記は異なるが、徳島県南部にも那賀川があり、この流域は、卑弥呼の時代に遡る若杉山の辰砂の採鉱遺跡がある。

 これまでのエントリーで何度か書いているように、辰砂(硫化水銀)は、海人との関わりが深い。辰砂は、防水効果と防腐効果があり、船体に塗るために使われ、辰砂の赤い色が血液とつながるのか、魏志倭人伝に書かれている倭人たちは、辰砂で文身(刺青)をしていた。

 魏志倭人伝では、「卑弥呼のクニでは辰砂が採れる」と、敢えて書かれている。

 上に述べたように、鹿島灘は、黒潮親潮が出会う場所で、古代、日本各地から海人がやってきた場所だった。

 そして、茨城県大洗磯前神社が鎮座する場所の那珂川を遡っていくと、「ゆりがねの里」として知られる黄金の産地へと至る。

 この地では今でも砂金取りのイベントが開かれるが、那珂川町那珂川と合流する武茂川(むもがわ)流域の黄金が奈良の大仏などにも用いられたとされるなど、ここは、古代から有数の黄金地帯だった。

 しかし、この地域は、黄金だけでなく辰砂を豊かに産出する所でもある。

 那珂川町の陶芸で小砂焼(こいさごやき)が知られているが、これは那珂川町小砂の陶土を使った焼き物であり、黄色の金結晶や、辰砂のほんのりとした桃色の色どりが有名である。

 そもそも、辰砂と黄金は、親銅元素に分類される似た性質の鉱物で、地下のマントルからの熱水鉱床として地表近くまで上昇して鉱脈を作るが、その鉱脈がさらに隆起するなどして地表に現れることがある。辰砂や砂金は、そのような場で採取される。金と辰砂の産出は重なっていることが多く、茨城の那珂川の上流域は、まさに黄金と辰砂の産地なのだ

 さらに、茨城の那珂川中流域にある坪井上遺跡は、縄文時代中期(BC2000年頃)から奈良・平安時代までの複合遺跡だが、ここからは富山県糸魚川のヒスイを使った大珠が8点も発見されており、これは1箇所で発見された数としては国内最多である。しかも、この遺跡からは、新潟の縄文土器の特徴である火焔式土器も出土している。

 この場所は、縄文時代に遡り、日本各地とつながっていたのだが、それは黄金や辰砂の産地であるとともに、黒潮親潮がぶつかるところなので、日本の東西南北から潮流に乗った海人が辿り着きやすい場所であったからだろう。

 茨城の那珂川下流域の虎塚古墳は、7世紀初頭に作られたものだが、東日本では代表的な装飾古墳である。

 装飾古墳は、北九州や熊本に集中的に見られる古墳で、石棺や石室などに彩色によって文様や絵画などの装飾を施したものだが、虎塚古墳の赤色で描かれた装飾の色素は、ベンガラであり、九州に多く見られる装飾古墳と同じである。

 埋葬施設の作り方は、死生観などが反映されるために、装飾古墳を作ったのは共有の文化を持つ集団である可能性が高く、同じ那珂川という名を持つ九州と茨城のつながりが想像できる。

 すると、茨城の那珂川の河口域の海岸に、天変地異が相次ぎ律令制が崩壊しつつある9世紀、オオクニヌシスクナヒコナが、再び、国づくりのために降臨したという伝承は、かつての国づくりにおいて、同じ那珂川那賀川)の地名を持つ北九州と徳島と茨城を結ぶ勢力が軸になっていたということを反映しているのではないだろうか。

 その勢力は辰砂とも深い関係のある海人であろう。

 平安時代の海人の反乱は、平将門の乱と同じ頃に起きた藤原純友(939)の乱に象徴される。

 藤原純友は、海賊の征伐のために派遣された人物だが、海賊の頭領になって、朝廷に反旗を翻した。

 しかし、藤原純友の乱の前、まさに860年代の貞観の大噴火や大地震があった頃から、海賊に関する記録は多く残っていた。

 貞観四年(862)5月に、海賊によって備前国の官米80石が略奪され、貞観九年(867)、伊予国宮崎村に海賊が群居して盛んに略奪を繰り返すので、公私の航行が途絶えてしまう状態だという情報が朝廷に伝えられている。

 律令制の崩壊につながる農民逃亡だが、逃亡した農民で海賊になる者も多かった。

  894年、菅原道眞は、遣唐使の廃止を提言し、それ以降、遣唐使は行われなくなったが、遣唐使の船が海賊に襲われる可能性が非常に高くなっていたのではないだろうか。

 朝廷は、地方の行政担当者達に、自国内の警備に徹するだけでなく、各国が連絡をとりあい共同して海賊追捕にあたる必要があることを布告したようだが、律令制の軍事ネットワークでは、神出鬼没で離合集散する海賊の動きに対応できず、コントロールができなくなっていた。

 税制だけでなく軍事面においても、律令制による治安維持は、もはや限界にきていたのだ。

 こうした状況の中、菅原道眞の怨霊騒ぎの真っ只中の936年、伊予の国の守となった紀淑人の海賊に対する策は、懐柔策だった。

 彼は、海賊たちに田畑と種子を与えて農業につくことをすすめた。

 また、耕作地の狭い土佐の話として、自分たちが住んでいる浦に種を蒔いて苗代を育て、これを船に載せて運び、苗を植える人を雇い、鎌や鋤などの道具も船に積んで、耕作に都合の良い場所へと移動し、栽培を行なったという話も記録されている。

 これらの記録から、もはや、律令制の秩序維持の方法である農民を土地に縛り付けるという発想では、対応できない時代環境になっていったことが、よくわかる。

 逃亡農民を囲い込んで荘園経営を行なっていた一部の有力貴族を除き、朝廷が、人頭税ではなく、その土地の生産能力に応じた税制にすべきだと考えるのは自然なことで、菅原道眞や宇多天皇は、そうした改革を進めていたのだろう。しかし、この改革は、生産力を高めることにつながるが、同時に自立した各地域の力を強めることにつながる。そうなると、中央集権的な体制は維持できなくなり、群雄割拠の戦乱の時代となる。つまり中世の武士の時代は、激しい天変地異のあった9世紀後半、突然、源氏の身分から天皇に抜擢された宇多天皇と、菅原道眞の改革および道眞の怨霊騒ぎによって準備されたということだ。

 タケミカヅチが、「あなたの国は、強いものが全てを牛耳るウシハクの国だからダメなんだと」と表現したオオクニヌシの国づくりの流れは、歴史の中で繰り返されるのである。

 9世紀の後半、菅原道眞が序文を書いた『日本文徳天皇実録』における、「大洗磯前神社の神磯にオオクニヌシスクナヒコナが降臨し、人々を救うために再び帰ってきたと託宣した」という記述は、その歴史の転換点を象徴している。

 ちなみに、源氏の身分だった宇多天皇と結ばれて後の醍醐天皇を産む藤原胤子は、山科の豪族、宮道列子の娘だが、この同母同父の兄弟が藤原定方で、彼の娘が、紫式部の父方の祖母である。

 紫式部は、父を通じて、その歴史変化を学んでいるはずであり、「源氏物語」を深く読み解くうえでも、そのことが重要な鍵になってくる。

 源氏物語というのは、全体で54帖もある壮大な物語だが、これを全て読んだことがない人は、光源氏に象徴される貴族の栄華が主題だと思っているが、41帖で光源氏が幻のように消えた後に、播磨地方の受領であった明石入道の一族が繁栄して終わる物語であり、この明石一族は、海人の崇敬を集める住吉神の加護を受けていた。 

 源氏物語というのは、華やかなる貴族の時代の終焉に対する鎮魂を、「もののあはれ」で表現し、海人の神に守られた新たな勢力の興隆が示されているのである。

 北九州の那珂川の河口域には、筑前国一宮の住吉神社が鎮座している。航海守護神の住吉神社は、全国に2,300社以上あり、大阪府住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、筑前住吉神社が始源とされる。

 つまり、源氏物語は、九州の那珂川を起源とする海人の神を、明石入道の守護神としているのである。

 卑弥呼の時代の辰砂の採掘と重なっている徳島の那賀川と、貞観の天変地異後の改革と関係してくる茨城の那珂川と、九州の那珂川が、偶然とは思えない糸でつながっているのが感じられる。

 

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第1265回 人間の流儀

 昨日の夜遅く、テレビをつけたら、京大総長でゴリラ研究で知られる山極壽一さんが出ていて、人間の暴力性の起源と理由についての話を展開していたので、しばらく聞き入っていた。

 山極さんは、ゴリラという生物は暴力的だと思われているけれど実際は平和を望む生物で、平和のための方法論を身につけているという話をし、とくに相手とじっくり向き合うことに特徴があると。それに対して人間は、野生動物の脅威から逃れるための集団化のなかで多数とのコミュニケーションが必要になったために言葉を獲得してしまい、その結果、言葉の性質である対象のイメージの拡張(あいつは豚のように汚い等)によって、憎悪なども大きくなり、暴力的な行動が起こりやすくなるという話を展開し、ネット社会のことなどにも触れながら、暴力性を抑えるために身体的な向き合い方が必要だという話になった。

 つまり、言葉を身につけてしまったことによる身体性からの乖離が、人間の暴力性の理由であるとの考察だが、言葉と身体性のあいだに横たわる問題は、太平洋戦争後の経済優先の社会の中を生きてきた山極さんと同じ世代の有識者が述べてきたことで、とくに新しいものではない。養老孟司さんのミリオンセラーなども、そうした領域のものだ。

 そして、すでに多くの人が、そのことを認識しているので、山極さんや養老さんの言葉によって、その認識が後押しされ、「そうだよな」と納得したり共感したりする人は多く、出版不況のなかでも、この類の本は割とよく売れる。

 しかし、「言葉がそれほど信用に値するものではないから身体性をより大事にするべし」という啓蒙を言葉で行うのは、自己言及のパラドックスになってしまう。「クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言っている」のと同じで、この問題は古代から深く考えられてきて、空海をはじめ、言葉のこの問題を乗り越えるための言葉を創造してきた先人がいる。

 身体性というのは、言うに言われぬ感覚であり、言葉の力によってシンプルな解答に落とし込んで導く行為じたいが、身体性を損なう言葉の悪業だとも言える。

 しかし、シンプルな解答に落とし込んだものでないと、世間ではウケない。とくにテレビメディアでは、短時間で、言葉による結論が求められ、そのニーズに応える者が、賢者ということになる。

 脳の研究者、生物の研究者、歴史の研究者など、その道の専門家という肩書きを使った上で、言葉によるシンプルな落とし込みがなされた人生訓が、身体性を遠ざけるバーチャル空間であるテレビなどでは重宝される。

 本物の賢人、たとえば故白川静さんなどがテレビで出て語っても、多くの人にとっては、何を言っているのかさっぱりわからないだろう。

 しかしそれは、内容が難しすぎるからという理由ではない。

 話を聞く前にすでに意識のなかで準備できているところに向かって言葉が発せられている場合、多くの人は理解できるが、そうでない場合、理解しようとさえしない人が多いのだ。

 けっきょく、テレビや SNSなどで伝えられるような断片的な話を教訓にしてすませる人は、自分の意識にそった内容でないと理解しずらいという状況に耐性が養われていないため、それが不満や怒りに転化する人もいる。わからない自分が悪いのではなく、わかりやすく説明できないお前が悪いのだと。

 言葉の問題というのは、言葉それ自体が悪なのではなく、言葉が、自分個人の現実範囲の処世的なことに重きを置かれて使われる傾向にあることから発生しているように思う。

 人間は、言葉を身につけてしまったのだから、その人間に対して、「言葉よりも身体を優先すべし」と言葉で説得したところで、言葉から逃れられるわけではない。

 問題があるのは、言葉ではなく、言葉の用いられ方だろう。だから、言葉の害を訴える人は、言葉の用いられ方に対して、もう少し気を配る必要がある。

 いくら、世間的には正しい世界平和や温暖化問題を唱えていても、それを唱えている人の意識が、「個人の現実範囲における処世的なこと」に留まっている場合が多い。

 そして、正しいことをしているという自己の満足や充足感のために行われているうちに、正義を唱え、悪と戦うヒーロー像が、自己アイデンティティになると、自己正当化と自己保身という欲求も生じる。そのスタンスが世間に認められたりすると、自分が世界のルールのように錯覚してしまい、そこから様々な暴力が生まれ、とくに自分より立場の弱い者、声の小さな者への暴力を、暴力とも感じなくなる。自分を崇拝してくれる女性への性暴力なども当然そこに含まれる。

 空海の言葉に、「悪平等、善差別」というのがある。

 ほとんどの意見には、それなりの理由があり、その場かぎりでは正当なものだ。その個々の正当は、平等に存在している。しかし、それは、立場変われば正当が変わることを意味し、だから、対立は起こる。ロシアとウクライナの正当の主張も同じ。だからこれは、悪平等ということになる。

 大事なことは、善の顔をしたものの本質を、どう見極めるかということ。

 その判断を身につけるために、空海は、修験という身体的実践を重視した。

 修験の身体的実践を、心身の鍛錬のように捉えている人が多いが、そうではなく、言うに言われぬ世界のリアリティが思考(言葉)の軸になるまで、処世(目の前の現実)を超えて、世界そのものと向き合い続けることだろうと思う。

 言葉の否定では、人間の意識は変わらない。

 現代社会における言葉の問題を意識している人ならば、「個人の現実範囲における処世的なこと」から離れて、言うに言われぬ世界のリアリティが思考(言葉)の軸になるような言葉を発信することに努めるしかない。

 そうした言葉は、言葉の背後にある文脈が重要だから、自ずから、その人特有の文体とならざるを得ない。

 私は、いわゆるサル学では、河合雅雄さんの言葉が好きだったので、風の旅人でも、河合雅雄さんに、「ヒトが人であるため」という連載を依頼した。

 カタカナの「ヒト」というのは、生物学上の種としての存在を意味する。それは、たとえば、鋭い牙や爪の代わりに人間が生存のために身につけた能力を含んでいる。

 それに対して「人」というのは、その生物学上の容れ物に人間精神が入った存在だ。

 だからそれは言葉による思考も含む。

 人間が、人間特有の暴力性をなくすためには、人間が身につけてしまった言葉を捨てるのではなく、言葉を用いて組み立てられた精神によって、それを乗り越えていくしかない。

 しかし、そうした言葉は、多くの人がすでに意識の中で準備できているものではないから、受け入れられにくい。

 私は、河合雅雄さんや、動物行動学の日高敏隆さんという、学問のジャンルでは理系の人に、「どちらかというと文系のテーマを、理系の言葉で書いていただくよう促していた。

 お二人は、難問だと言いながらも、四苦八苦して言葉を編んでくれた。

 そして、この時の日高さんの連載が一冊にまとめられて「生きものの流儀」(岩波書店)という本になった。

 

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 この本の後書きに、日高さんは、次のように書いている。

「知っている方も多いと思うが『風の旅人』という雑誌がある。

 旅行のPR誌ではなくて、要するに「人間とは何か」、「人間と人間以外の世界との関係とは何か」を追究していこうという、美しい写真の入った、しゃれた哲学誌である.

 編集長の佐伯剛氏から、思いがけない手紙がとどいた.この雑誌に書いてほしいというのである。

 ぼくにいったい何が書けるのだろうか? まったく自信がなかったが、とにかく大変深みのある雑誌なので、ついに引受けてしまうことになった.

 一応はいわゆる「理系」、「自然科学系」であるぼくは、かつて京都大学の理学部長もつとめていたこともあったが、いろいろな疑問がふくらんでくるばかりであった.

 「理学部は真理を探究する」と皆おっしゃる。けれど、世の中に「真理」などというものがあるのだろうか? 「大切なのは科学的事実の発見だ」ともよく言われる。では「科学的事実」とは何なのか? そもそも「事実」とは何なのか? 世の中に「事実」なんていうものがあるのだろうか?

 人間は何か「現実」のものを見たり感じたりしたときに、どうやら必ずその「説明」を必要とする動物らしい。そのことをぼくは、ずいぶんと昔から感じていた.

 しかし、その説明とは、その現実に対して人間がもつイリュージョンにすぎないのではないか? けれどそのようなイリュージョンがなかったら、人間は「現実」を認識できないのではないか? 

 結局のところ、「何が現実か」という連載になったとき、佐伯氏からは、毎回無理難題としかいいようのない難しいテーマが与えられた.それは「意識とは」、「愛とは」、「命とは」、「心とは」、「幸福とは」というような問題に至っていった.

 そのたびにぼくは、苦しみ、苦しまぎれにイリュージョンを組み立てて、それらのテーマに応えようとした。」

 日高さんは、苦しみ、苦しまぎれにイリュージョンを組み立てて、それらのテーマに応えようとしたと書いているのだが、簡単な言葉に落とし込めないという状況を認識しながら、それでも言葉を編んでいこうとする時、その人ならではの味のある、独特のユーモアに満ちた文体が生まれる。

 河合雅雄さんは、サル学のパイオニアとされるが、その分、長い間、学会では無視されてきた領域であり、言葉の受け手がすでに準備できているような言葉を編むわけにはいかず、それが結果的に、河合さん特有の文体を育んでいった。

 上に述べた「悪平等、善差別」という空海の言葉の、善の顔をしたものと本当の善の区別は、文体や文脈に包含されているものを見極めることにある。

 言っていることの正しさよりも、言われていることの背後に、どれだけの奥行きや広がりや、様々なつながりが感じられるかだ。

 ゴリラから人間になってしまった以上、言葉を捨てるわけにはいかないが、表に出ている言葉の裏に人の精神を読み取ることが、ヒトが人になるために外せない道だろうと思う。

 

 

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