第1301回 500年を区切りに起きる人類のコスモロジーの転換。

 そもそも私は、古代のことについて、どの時代に何が起きたとか、誰がどうした、これこそが真実であるという類の、過ぎたことに対する一つの正しい答だけを求める原理的思考で、古代のフィールドワークを行なっているのではない。

 蘇我馬子藤原不比等の陰謀がどうのこうの、邪馬台国が九州か畿内かの論争、極端なところでは日本人のルーツが古代ユダヤ起源だとか古代エジプト起源だとか、そんなこと、どうでもいいと思っている。

 歴史的状況が一人の偉大な人物を生み出すことはあると思うが、一人の人物の登場で、時代状況とは関係なく歴史が変わるわけではなく、あくまでも、その時代の状況が先にある。だから、その人物がいなくても、他の誰かがいただろう。

 また、古代日本のなかに、古代イスラエル古代エジプトとの類似があるからといって、日本人ユダヤ(エジプト)起源説など暴論を展開する人もいるが、古代においても遠方地域と交流があるのだから影響を受けていても当たり前のこと。もしくは、同じ人類であり、似たような物を作り出しても不思議ではない。

 猿だって、今西錦司さんたち京大の霊長類研究において、「100匹目の猿」として知られる芋洗いの共鳴現象が報告されている。

 1匹の猿が始めた芋洗いを、少しずつ他の猿も真似を始めたが、頑固に真似をしない猿もいた。しかし、ある臨界点に達した時、一瞬にして全ての猿がそれを行うようになった。話はそれだけでなく、その時、遠く離れた地域の猿も、同じ行為を同時多発的に行うようになった。異なる地域の交流があったわけでなく、「情報」だけが遠隔地に飛び火するという現象が、50年前、猿の世界に起きた。

 人間だって、同じことが起こらないはずがない。

 しかし、古代エジプト古代イスラエルと古代日本との関係いうのは、数千年の時を隔てており、同じような形態が見られるという程度のことは、猿に起きた奇跡的なシンクロニシティというほどでもないし、シルクロードを通じた交流その他の学習など、要因はいくらでも説明できてしまう。

 1000年後の日本で発掘された物にアメリカ的なものがたくさん発見されて、その時代の人間が、日本人アメリカ大陸起源説を主張しても、意味がない。

 大陸などから日本列島にやってきても、何世代も繰り返しているうちに血統の違いなど関係なくなる。それは、アメリカでもヨーロッパでも同じ。その国の文化のかたちを作っていくのは、地理や地勢も含めた風土や、その場所での暮らしのスタイル、地理的条件が反映された対外的な関係など諸要素の組み合わせである。

 私の関心は、過去における歴史的事実の究明ではなく、「コスモロジーの転換」ということに向いている。

 言い換えればパラダイムシフト。これは、『風の旅人』というメディア媒体を作っていた時も同じで、2001年9月11日のアメリカ合衆国テロをきっかけに嵩じた「原理主義」の対立は、一つのパラダイムへの傾倒が強まった現象という認識が私にはあり、パラダイムシフトが起こらないかぎり、こうした世界の状況は変わらないだろう思った。その考えのもと、原理主義とか、原理主義的な思考に基づくカテゴライズとは無縁の媒体を作り続けた。

 何かの専門雑誌というのは、原理主義的な思考の延長で、何か一つの評価を高めようとしたり、アピールすることが主目的である。賞の設定なども同じで、私は、多くの写真家から優れた写真に対して「風の旅人賞」を作るようアドバイスを受けたが、やりたくなかった。

 私にとって、その写真への尊重と評価は、権威づけではなく、丁寧に編集を行い、その力を最大限に引き出すことだ。

 だから、時折、風の旅人の中身を見たこともないのに写真を売り込んでくる人がいたが、そういう人とは仕事をしなかった。写真が上手いか下手か、目のつけどころが良いかどうかで競いあっていたり、世間で注目されたいとか、自分の名を売りたいだけか、掲載料が欲しいだけの人はそうなってしまう。そういう人は、被写体をも自分の競争や売名行為や商売の材料にしている。

 写真は、被写体に秘められた魅力を引き出すものと弁えている人は、メディア媒体が、自分の写真の力を引き出すうえで相応しい場であるかどうかを意識する。媒体の特徴を知らずに写真を売り込むようなことはしない。

 私は、近代の発明である写真の力を最大限に引き出す媒体の作り方をしても、「写真」だけを中心にして、写真評論家などを使って写真カテゴリーを補強するという作り方をしたくなかった。

 世界の本質にアクセスするための様々なアプローチ方法の一つとして写真が存在している。その写真が、人類学、惑星物理学、生物学、動物行動学、霊長類学、脳科学など様々な思考や他の表現アプローチ方法と連携することによって、より力を発揮できる場を作る。それが、風の旅人という媒体であり、だから、カメラ雑誌のターゲットである写真を趣味にしている人よりも、ふだんは写真とは縁のない人の方が読者は多かった。

 そして、カテゴリーがはっきりしていないために、特定の目的のために雑誌を買う人にとって、購入対象ではなかった。

 それでも50号まで続けてこられたのは、「生活や仕事において、直接的に役立つわけでもない」物を大事だと思う人が存在し、買い続けてくれたからだ。

 今、「Sacred world」を毎年1冊出しているのも同じだ。

 私が写真を重視しているのは、「写真」は、近代において初めて登場したメディアであり、それゆえ、「近代的思考」の良いところと悪いところの両方を併せ持っているという認識からだ。 

 そのことに自覚的でないと、写真は、近代的思考の悪い側面を強化するだけのツールに成り下がるだろう。

 なので今も私は、古代のコスモロジーに深く潜入していくにあたって、「写真」というメディアも活用している。その際、最新のテクノロジー武装されたお手軽なカメラは、「写真」というメディアが備えている本質というか、人類がはじめて写真というメディアを持った時に感じたであろう”新しい世界との出会い”の感覚を、わかりにくくしてしまう。だから私は、あえて、ピンホールカメラという原始的な方法を採用している。

 話をコスモロジーの転換(パラダイムシフト)に戻すと、人類のパラダイムシフトは、まず第一に、新しい「技術」による環境変化によって起きたであろうことは、誰でも納得できる。

 中世ヨーロッパで、コペルニクスガリレオによって地動説が唱えられた時、望遠鏡という道具の発見があったし、それ以前、地球が平ではなく球体であることは、羅針盤の発明で到来した大航海時代によって認識が深まった。 

 現代にもつながる視点は、ヨーロッパルネッサンス以降に創造された技術の発展上にあるが、この技術が、限りなく発展していくと、それが新たにコスモロジーの転換を引き起こす可能性が出てくる。

 たとえば望遠鏡は、現在、太陽表面や彗星の表面、雷が雲から地上までの距離の10倍の長さで宇宙空間(電離層)へと伸びている画像もとらえるようになった。

 

 その結果、彗星研究の権威が主張してきた彗星の帯が氷であるという説は、疑わしいものになった。
 雷が、積乱雲の中の氷の摩擦で生じる電気であるという説は、バカバカしいものになってきた。

 太陽の中心部で核融合反応が起きて、そのエネルギーが四方八方に広がっているという説が、現代社会では「常識」とされているが、太陽フレアの爆発の際のニュートリノの地球への到達時間など、その説と矛盾する観測結果が増えてきた。

 現在の宇宙研究は、天文学と数学の権威によって支配されているが、彼らが思考のもとにしている「重力」とか「爆発」を宇宙構造の基本とする考えは19世紀の社会状況を反映したもので、20世紀の中旬以降に急速に社会のなかに浸透してきた「プラズマ技術」を専門とする研究者は、従来の宇宙論は、天動説と地動説の関係のように、まったく「逆」ではないかと主張を初めている。

 実際に、最新の映像が捉えた画像では、これまで火星の運河だと信じられていたところは、水などによって削られた跡ではなく、地面が盛り上がったものだし、宇宙空間から雷の写真を撮ったものを見ると、積乱雲から雷が生じているのではなく、はるか上空の電離層(高度10万km)と地球の地表とのあいだの放電現象のように見える。

太陽黒点は、磁場の通り抜ける穴で、その周辺でプラズマ爆発が起きている。

 

 太陽に関しては、太陽の中心部ではなく、外側で核反応が起きていると考えた方が、太陽爆発の際のニュートリノの地球への到達時間の矛盾が解消できる。そして、太陽コロナの温度が100万度で、太陽の表面温度は6000度でしかないという温度差の矛盾も同様だ。

 古代エジプトの壁画で描かれている太陽は、二層になっている。

 近代的思考だと、太陽の真ん中で爆発するエネルギーが外に放射されているだけという認識なので、太陽は一つという目で太陽を見ている。

 鉄砲や大砲などを持っていなかった古代エジプト人は、ビッグバン宇宙論のような「爆発力」が宇宙構造の要にあるなどという思考のバイアスがなく、ありのまま太陽を観察していた。そして、太陽の丸い形の外側に、強いエネルギーを発している部分があるということを知っていた。だから古代エジプト人にとって、太陽の二層構造は、当たり前のことだった。

 このように世界の見え方は、世界の認識の仕方に支配され、世界認識は、技術変化によって変わってくる。

 遠近法などという物の見方も、欧州ではルネッサンス以前にはなかったし、日本においては、明治以前にはなかった。

 ざっくりとした捉え方だが、どうやら人類は、500年くらいの間隔で、新しい道具や文化の創造による新しい環境を作り出し、もしくは新しい環境が新しい道具や文化を生み出して、コスモロジーの転換を繰り返している。

 欧州では、2000年前のローマにおいて、500年続いた共和制が帝国となり繁栄と享楽のピークとなるが、それから約500年後の西暦476年、西ローマ帝国は滅ぶ。その時からの500年の欧州は暗黒時代と呼ばれ、ほとんど変化が見られない。そして西暦1000年、ヨハネ至福千年を祝い、サンチャゴ巡礼が始まり、各地の交流が生まれ、宗教熱が高まって十字軍遠征を行い、イスラム圏の文化に触れる。この流れがロマネスク、ゴシック、ルネッサンスという時代を作る。

 次の転換点は、その約500年後の大航海時代だ。1492年、コロンブスアメリカ大陸発見や、マゼランの世界一周などによって、欧州の領域は世界全体へと広がり、それから約500年後の1945年、第二次世界大戦終了時点が、そのピークとなる。

 これまでの500年単位の変化を踏まえると、20世紀後半から、新たな500年の変化が始まっているということになる。

 ガガーリンの「地球は青かった」という台詞が象徴するように、宇宙空間から地球を見る眼差しの獲得。核という一瞬にして全てを破壊する最悪の道具を獲得したこと。そして、コンピューター、インターネットの普及による、現在進行形の様々な革命的変化。

 日本においても同じで、約500年前の15世紀末から戦国時代に突入する。約1000年前には、班田収授が行われなくなり、課税対象が人間の頭数から土地に変わり、人頭税を基本とする律令制は終わる。その結果、土地と税を管理する権限を持つ受領が封建領主化していく。(清和源氏の勢力拡大など)。土地を離れることも自由になり、各地のあいだで交易が活発化していく。また、それまでの中国の影響を受けた文化ではなく、国風文化が花開く。

 そして1500年前は、第26代継体天皇が即位するタイミングだが、この天皇は、それまでの天皇と血統が変わっており、実質的に、現在の天皇の血統を遡る最古の天皇である。この当時、今来という渡来人が大挙してやってきて、日本の諸制度づくりや、訓読み日本語の発明を行った。

 それより500年前、西暦0年頃、弥生時代中期からの大きな変化は、高地性集落が増えていくことだ。

 弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらした環濠集落が主であり、これらは水田に近いところに形成されていたが、約2000年前頃から、山地の頂上をはじめ、「狼煙台」なども備えていたりする軍事目的の集落が増えていき、倭国大乱の気配が濃厚になる。しかし、その分布は偏っており、瀬戸内海、近畿、山陰、北陸から新潟にかけてに集中し、九州では発見されていない。同じ時期に、銅鐸が巨大化し、鳴らす銅鐸から見る銅鐸に変わる。

 そして、現在でも全国に膨大に残る日本特有の前方後円墳前方後方墳という形の古墳は、この時期に集中して作られている。

 また王の埋葬方法の変化も、死んだ王をどのように捉えるか示す重要なコスモロジーの変化だが、竪穴式石室が横穴式石室に変わるのも西暦500年頃である。

 そして、弥生時代の開始が、約2500年前。日本においても革命的な変化は、おおよそ500年単位で起きている。

 日本は、東方の島国であるが、それでも世界の他地域の影響を受けており、コスモロジーの変化は、世界の変化とも連動している。

 2500年前の弥生時代の始まりは、中国の春秋戦国時代の大陸の混乱が影響を与えており、その時は、中国文化の源流である老子孔子が生きていた時代で、ヨーロッパ文化の源流のソクラテスプラトンも同時代だ。

 2000年前は、古代ローマと中国の漢が安定的な帝国を築き、東西の技術や文化が交流したシルクロードが賑わった頃であり、シルクロードは陸の道だけでなく海の道もあり、ローマと中国を行き交う移動力を持っていた人々が、日本に来られないはずがない。

 1500年前は、欧州では西ローマ帝国が滅んだが、中国では、三国時代五胡十六国時代の戦乱を終結させた北方の鮮卑族華北を統一して北魏王朝を打ち立て、雲崗や龍門といった巨大な石窟寺院を築き、唐の時代と並ぶ中国仏教の最盛期を迎えた時期である。そして、少数部族の鮮卑族が、多数の漢人やその他の諸民族を束ねた北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされ、年号・皇帝諡号・制度において、北魏と日本に共通するところが多い。

 そして、1000年前、日本の律令制の崩壊は、日本国内の事情によるものだが、中国において、唐の衰退から滅亡(907年)を経て、五代十国時代の分裂時代が続いた時期である。

 その日本への影響は遣唐使の廃止であり、そのことが国風文化を花開かせ、中国文化の影響から離れた日本的な美や、女性の感性が文化表現に影響を与える機会となった。

 500年前は、欧州の大航海時代の影響を日本も受けた時期であり、鉄砲が伝来し、戦闘が大きく変わったが、天文学や暦学、数学、地理学、航海術、医学などコスモロジーの変化につながる実用的な知識文化も西欧から入ってきた。

 こうした500年の周期で変化してきたコスモロジーは、2000年を境にして新たな段階に進んでいくが、今後もっとも大きな影響を与える技術がコンピューターであることは、多くの人の共通認識だろう。

 コンピューターの使用におけるパラダイムシフトは、まずはIBMの中央集権的なシステムがパソコンを連結させる分散型になったことで、インターネットが、そのコスモロジーを拡大した。

 次のパラダイムシフトは、現在話題になっている「チャットGPT」などの人工知能技術だろうが、部分を0か1かで確定させて数珠繋がりで全体を把握しようとする思考方法は、デカルトに始まる近代的思考の範疇であり、この思考パラダイムからの本当の転換は、たぶん、素粒子コンピューターの完成によって成し遂げられると思う。

 素粒子コンピューターについては、以前にも書いたが、簡単に言うと、部分を0か1に確定させていくことで全体に到るという古典的コンピューターの方法から、まずは全体を無条件に受け入れて、目的に応じた条件付けによって部分を確定させていくことで改めて全体像を整えていくという思考への変化だ。

 たとえば石組みを作る時、設計図を作って、その設計図に合うように石材を切りそろえて、それらのピースを集めて組み合わせるのがエンジニアリング思考による古典的コンピュータのコスモロジー。それに対して、とにかく様々な石を集めて、形や大きなの違う石が、どう組み合わされば最適化となるか、石の特性に応じて積み重ねていく石工の仕事は、ブリコラージュ思考で、量子コンピューター的なコスモロジーということになる。

 世間で頭が良くて優秀だとみなされる肩書きの人たちを集めておいて、プロジェクトを立ち上げればうまくいくわけではなく、人それぞれ持ち味があるということを前提に、プロジェクトに応じて、異なる持ち味をもった人たちの力の組み合わせの最適化を行った方がうまくいくと考える組織が、量子コンピューター的な組織だ。

 量子コンピュータは、こうした組み合わせ最適化に力を発揮するコンピュータであり、社会の様々な分野において、古典的コンピュータの発想よりは健やかな状況を作り出してくれる可能性がある。

 人間づきあいにおいても同じで、高学歴など三高といわれる世間で高評価の条件を集めれば、幸福な結婚生活や人生が送れるわけではなく、組み合わせの最適化が重要であるということ。これもまた、コスモロジー(死生観、幸福観)の変化である。

 コスモロジーの変化というのは、天動説が地動説になるように、180度、その向きがガラリと変わるのである。

 

 そして、人類のコスモロジーが500年サイクルになっていることとの関連で、ある地域で一つの文字を実用的に使い始めた人間は、少しずつその文字を使った思考を深め、500年ほどでピークに達しているという歴史的事実がある。

 具体的に言うと、3000年前にフェニキア人がアルファベットを使って、地中海世界における異なる地域での交易に活用を始めた。このアルファベットは古代ギリシャ語となり、古代ギリシャ人もまたアルファベットを使って地中海交易に発展させた。そして、アルファベットが使われ始めてから500年ほど経過した紀元500年頃、ペルシャ戦争に勝利する頃のアテネは全盛で、プラトンピタゴラスソクラテスといった古代ギリシャ哲学の時代になる。

 中国においても、殷の時代に神官など一部の者だけが神との対話に用いていた甲骨文字を実用化したのは、殷を滅ぼした周であり、フェニキア人によるアルファベットの使用とほぼ同じ時期だ。それからわずか500年の紀元前500年頃、孔子老子荘子といった思想家が世に現れている。古代ギリシャ哲学の絶頂期と同じ時期である。

 日本においては、訓読み日本語が創造されたのは、今から1500年前、今来という渡来人が大挙してやってきた時である。

 それから500年後が国風文化の時代で、源氏物語など、後世に大きな影響を与える日本文学が完成している。

 面白いことに、どの地域も、文字の表現活動は、詩や神話が先行していることだ。

 古代ギリシャにおいては「イーリアス」や「オデッセイア」、古代中国では「詩経」であり、ともに紀元前8世紀とか7世紀の同じ時期のものであるが、もともとは口承で伝播していたが、後に書き留められた。

 日本の場合も、もともとは口承で、語りと歌で構成されている「古事記」がホメロスの神話と同じような位置付けにある。

 古事記源氏物語の300年ほど前だから、古代ギリシャや古代中国における詩経ホメロス神話の創造と、文字文化のピークから遡る歳月が、だいたい同じだ。

 わずか500年のあいだに、人間は文字を使いこなして、抽象的なものから具体的なものまで表現可能にし、まずは神話や詩を生み出し、後に、深い文学や哲学思想を生み出す。

 しかし、その表現は、その文字の特性の影響を受け、その表現が人間の思考や感性に影響を与える。

 ピークに達するというのは、行き詰まり感が伴うことでもある。

 一つのコスモロジーに行きづまり感を感じ始める時が、人間の精神が新しいコスモロジーへと動き出すタイミングとなる。

 ちなみに、私たちの近代的思考についてだが、近代的思考の特徴である標準的世界観(世の中の動向や、大勢の人の関心事を気にする感性もそこに含まれる)の普及は、大量印刷技術の発展によるところが大きい。

 この大量印刷は、1450年頃のグーテンベルクによる金属活字を用いた活版印刷技術の発明によって始まった。

 それまでの少数印刷とは劇的に違う情報共有の方法が生まれてから、500年経ち、この標準的世界観に心を蝕まれる人も増えている。

 大量印刷からインターネットへの切り替えまでの期間もまた500年であり、インターネットを使うことが当たり前の時代に生まれ育った人たちは、それまでと違う思考を発展させていく可能性がある。つまり、後世の人間は、西暦2000年を境に、コスモロジーの転換が始まったと、判断することになるだろう。

 

____________________________________________________________________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/

第1300回 古代のコスモロジーと、国譲りの神話との関係

伊豆下田の伊古奈比咩命神社)

 1月31日に東京から京都に移動する時、前から気になっていた岐阜の大垣あたりを探求し、東海と福井と近江から京都や神戸にかけて、古代、深いつながりがあり、そこに前方後方墳が関係しているらしい、ということを、前回と前々回のブログにまとめた。

 その中で、神戸の巨大前方後方墳の西求女塚古墳の近くから、縄文時代、東北地方から多く出土している宇宙人のような遮光器土偶の特徴的な目と石棒が出土していることを書いた。

 遮光器土偶は、アラハバキ神とも重ねられることが多いのだが、神戸の西求女塚古墳は、以前にも紹介したけれど、冬至のラインで、諏訪を通って、福島第二原発がある場所の天神原遺跡までつながっており、このライン上に、縄文時代の重要な遺跡が数多く存在する。

 そして、福島の天神原遺跡は、弥生時代における東日本最大の集団墓である。

 この天神原遺跡からまっすぐ北にラインを伸ばすと、奥羽山脈を通り、北海道の余市に達するが、このライン上にも、ストーンサークルが集中するほか、縄文時代の重要な遺跡が並んでいる。(国宝の中空土偶なども)。


 そして、この地図上の紫のマークが、遮光器土偶が出土した場所で、そのなかで宮城県大崎市の恵比須田遺跡は、日本最北端の前方後方墳である京銭塚古墳(水色マーク)のすぐそばで、その南の黒いマークが、多賀城の荒脛巾(アラハバキ)神社だ。

 地図上の水色のマークが前方後方墳だが、福島の海岸部でもライン上にそって幾つか存在し、天神原遺跡と、伊豆の伊古奈比咩命神社(白濱神社)をつなぐラインにおいては、筑波山のところに前方後方墳が集中している。

 筑波山は、古代、その麓まで海であり、現在の霞ヶ浦は広大な内海で、その出入り口が、現在の鹿島神宮香取神宮のあいだだった。つまり、筑波山も、古代は、海上ルートの重要拠点だった。

 そして、天神原遺跡から筑波山を通るラインの終点、伊豆の伊古奈比咩命神社には、縄文時代からの祭祀遺跡が残る。

 伝承によると、三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至り、白浜に宮を築いて伊古奈比咩命を后として迎えた。その後、島焼きによって、神津島、大島、三宅島、八丈島など合計10の島々を造り、三宅島に宮を営んだ後、下田の白浜に還ったとされる。

 興味深いことに、この伊古奈比咩命神社は、神戸の西求女塚古墳の真東で、その距離は340km。そして、古代の海上交通の拠点だと思われる福島の天神原遺跡から、下田の伊古奈比咩命神社までも340km。さらに天神原遺跡の真西が、能登半島の有名な縄文遺跡である真脇遺跡となるが、その距離も340km。真脇遺跡から神戸の西求女塚古墳までも340kmで、この4点を結ぶと正確な菱形になる。そして、その対角線を結んだところが諏訪湖なのだ。

諏訪湖

 諏訪湖は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本列島を東西南北に引き裂く大断層の交差する場所でもある。

 諏訪の御柱は、いったい何を象徴しているのか謎であり、様々な説があるが、能登半島真脇遺跡は環状木柱列が有名で、その形状から諏訪の御柱とつながっていると指摘する学者もある。この真脇遺跡からは、大量のイルカの骨が発掘されている。

 そして、真脇遺跡と神戸の西求女塚古墳を結ぶラインの福井の海岸線に、前方後方墳が、数多く建造されており、古墳群の場合は、もっとも古い古墳が、前方後方墳となっている。

 昨日、紹介したように、諏訪と西求女塚古墳を結ぶライン上で、岐阜から神戸にかけても、極めて古い前方後方墳が建造されており、前方後方墳は、この幾何学模様と深い関係がありそうな気がする。(前方後方墳は、水色のマーク)。

 こうした規則性が、偶然なのか、それとも計画的なのかはわからないが、地図を見るだけで明らかに一つのコスモロジーを表していることが、歴史の専門家でなくても感受できる。

 弓なりの日本列島の真ん中に、正確な菱形図形が描かれ、そこから一本のラインが真北に伸びて、奥羽山脈にそって東北を縦断し、北海道の余市に到る。もう一本のラインは、冬至の日没ラインで本州を二つに分断し、福島から九州まで伸びているが、なんとドンピシャで高千穂神社に到っている。

 高千穂は、日本神話ではニニギの天孫降臨の地とされる。

 おそらく、ニニギという存在が九州の高千穂の地に降臨した史実があったわけではないだろう。

 ニニギは、日本という国を秩序化していくにあたっての象徴であり、その起点として、高千穂が選ばれた。つまり、古代人は、ここに示している秩序的な地図が頭の中にあったのではないかと思われる。

 ニニギは、まず最初に、コノハナサクヤヒメと結ばれるが、コノハナサクヤヒメというのは、記紀のなかで、別名が神吾田津姫(かみあたつひめ)とあり、これは、鹿児島の海人勢力の女神ということである。

 そして、吾田片隅命(アタカタスミ)の末裔が、宗像氏や和邇氏(後の小野氏)だ。

 また、コノハナサクヤヒメは、オオヤマツミの娘だが、オオヤマツミは三島神と同じで、伊豆の伊古奈比咩命神社の伝承の通り、海と関わりが深い。

(山の名がついているが、それは山の森林資源との関わりであり、オオヤマツミを祀る聖域の代表として愛媛の大三島があるが、ここもまた海上交通の要である。)

 次に、ニニギの子、山幸彦は、綿津見の娘である豊玉姫と結ばれる。

 綿津見の聖域は、北九州の志賀島で、ここは古代海人族の安曇氏の拠点である。

 山幸彦と豊玉姫のあいだの子がウガヤフキアエズで、ウガヤフキアエズと、豊玉姫の妹の玉依比売のあいだに生まれた子が神武天皇という設定になっている。

 つまり、神武天皇が史実かどうかはともかく、記紀が作られた時、日本の秩序化は、海人の存在を抜きにはありえなかったということだ。

 イザナミが死んで、イザナギが黄泉の国から逃げ帰り禊をする時もそうで、禊によって生まれたのが、綿津見三神住吉三神という、ともに海人と関わりの深い神で、その後に、アマテラス、月読神、スサノオが生まれている。

 古代日本には、二種類の海人が存在した。そして、この島国の秩序化には、海人の存在が欠かせなかった。

 諏訪湖は、中央構造線と、フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本を東西南北に分断する大断層が交差する場所でもあるが、不思議なことに、上に述べたように、重要な縄文遺跡や、古い前方後方墳が並ぶ福島の天神原遺跡と神戸の西求女塚古墳を結ぶ冬至のライン(600km)のちょうど真ん中であるとともに、日本神話の「国譲り」の舞台と関係する各聖域のあいだの距離においても、偶然とは思えない不可思議な事実が地理上に刻まれている。

 古事記には、アマテラス大神の命令で、フツヌシとタケミカヅチが葦原中國に使わされて大国主に国譲りを促し、大国主命は承諾したもののタケミナカタが最後まで抵抗するという内容が描かれている。日本書紀には、この記述がないので、おそらく古事記の描写は、史実ではなく何かしらの歴史的象徴を示していると思われる。

 そして、フツヌシよりもタケミカヅチが有名だが、当初、任命されたのはフツヌシであり、それに不満を訴えたタケミカヅチが副将として派遣されたことになっている。

 さて、フツヌシの最大の聖域は、霞ヶ浦に近い千葉県の香取神宮だ。古代、霞ヶ浦は、今よりも巨大な内海であり、香取神宮と、茨城のタケミカヅチの聖域の鹿島神宮のあいだが、その内海と太平洋海を結ぶ出入り口だった。

 次に、国譲りに最後まで抵抗したことになっているタケミナカタの聖域が、諏訪だ。

 古事記のなかでは、タケミナカタがもともと諏訪にいたわけではなく、タケミカヅチとの戦いに敗れて逃亡し、諏訪に辿り着いて、諏訪の地から出ないことを条件に許されるという展開になっている。

 この「諏訪から出ないことを条件に」というのが、いったい何を示しているのか、以前から気になっていた。

 そして、アマテラス大神の聖域は、言わずと知れた伊勢神宮だが、伊勢神宮諏訪大社のあいだは215kmで、諏訪大社香取神宮のあいだも215kmで同じなのである。

 さらに、大国主命の聖域である出雲大社から伊勢神宮までの距離が380kmで、伊勢神宮から香取神宮までの距離も380kmで同じである。

 国譲りの物語の主役である大国主命、アマテラス大神、タケミナカタ、フツヌシの聖域が、偶然とも思えない距離関係で結ばれている。

 出雲大社は、実は奈良時代以降に建造されたというのが学会での認識となっている。

 出雲大社周辺には、古墳をはじめとする古代遺跡が発見されていない。「出雲」という地名は、たとえば本州最南端の潮岬や、京都の下鴨神社付近とか亀岡とか全国的に見られるが、多くの人が「出雲国」だと考えている島根県で古代から栄えていた地域は、出雲大社より東の鳥取との境界の大山のあたりから松江にかけてで、このあたりに弥生時代からの史跡が数多く集中している。

 神社も、島根県松江市八雲町熊野に鎮座している熊野大社が、出雲地域を治めた出雲国造にとっての奉斎社だった。

 だから、おそらく、有名な「出雲大社」というのは、古事記が作られた後、神話の内容に基づいて、象徴的な位置決めがなされて建造されたのだろう。

 出雲大社の位置は、伊勢神宮との関係だけでなく、よく知られているものとして、房総半島の玉前神社を起点として富士山を通って東西にのびる「太陽の道」の西の端でもある。

 また、伊勢神宮の位置も、7世紀後半、天武天皇の時代、アマテラス大神を国家神とする際、政策的に決められた可能性が高い。

 というのは、数十年前に、NHKが近畿を横断する太陽の道として紹介した太陽のラインで、二上山三輪山といった古代の聖域を横切るラインの東の端の「伊勢」が、伊勢神宮だと思っている人が多いのだが、伊勢神宮よりも北の伊勢の斎宮跡にあたるからだ。

 三輪山二上山というのは古代からの聖域で、二上山縄文時代に各地に流通したサヌカイトの産地、三輪山の山頂には古代の磐座跡が残る場所なので、これらと結ばれる伊勢の斎宮跡こそが、古代からの聖域なのだろう。

 伊勢斎宮跡というのは、律令時代以降は、伊勢神宮のアマテラス大神に仕えるために派遣された皇室の女性が暮らした場所だが、この場所の北の四日市には現在も「采女」という地名が残るように、祭祀において女性が重要な役割を負っていた古代に、伊勢斎宮跡あたりが聖域で、それが、律令時代になってから、アマテラス大神に仕えるための場所になった可能性がある。

 伊勢神宮の入り口にあたる宇治橋は、冬至の日に真ん中から太陽が昇る場所として知られ、多くのカメラマンや観光客がその一瞬をシャッターに収めようと集まるが、この宇治橋よりも京都の宇治市宇治橋の方が歴史が古いことがわかっている。

 おそらく、現在の伊勢の聖域は、天武天皇以降、律令時代の始まりにおいて、新しいコスモロジーを整えるために神話がつくられ、それに基づいて、出雲大社と同じく場所決めがなされ、整えられていったのだろう。

 それに対して、諏訪は、縄文時代からの重要な聖域であったことが考古学的にもわかっている。

 だとすると、国譲りに関わりのある神々の聖域である伊勢神宮出雲大社などの配置は、諏訪を意識して決められたのかもしれない。だから、それぞれの距離が等しくなっている。

 諏訪は、律令時代のはるか前、能登半島真脇遺跡、福島の天神原遺跡など縄文や弥生に遡る聖域を結ぶ菱形図形の対角線の交わる場所であるとともに、福島の天神原遺跡から神戸の西求女塚古墳までの冬至のライン(600km)の真ん中であり、このライン上には、縄文時代の重要遺跡が多く存在する。

 つまり、律令制の始まりにおいて、日本地図の上に、出雲大社伊勢神宮など、新しいコスモロジーに基づいた聖域が刻まれたわけだが、諏訪というのは、縄文に遡る時代から続くコスモロジーの要に存在しており、律令の時代においても、そのことは認識されていた。

 だから、国譲りに最後まで抵抗したタケミナカタは、諏訪の地から出ないことを条件に許された。

 これが意味するところは、新たな征服者がタケミナカタを諏訪の地に閉じ込めたということではなく、諏訪の地を、律令時代以前からのコスモロジーを連綿と伝えていく場所として、尊重していたということだろう。

 国譲りの神話というのは、新勢力による制服戦争を伝えているのではなく、コスモロジーの転換を伝えている。

 タケミカヅチ大国主に国譲りを迫る時の台詞は、「ウシハクという一人の強いものが全てを牛耳る世の中ではなく、シラスという、知恵を共有する世の中にすべきだ」であり、これは、はるか古代に起きた出来事ではなく、推古天皇の時代に施行された憲法17条の第1条と第17条で、念押しをするかのように強調されている独断の禁止や、党派を作らず、話し合いよって物事を決めていくべきだという精神と同じである。

 古事記には、推古天皇の時代までの出来事が書かれている。

 そして、初代神武天皇の即位は、「辛酉年1月1日」とされている。

 この1月1日は旧暦であり、現在にあてはめると2月11日で、だからこの日が建国記念日と決められた。

 辛酉というのは、古代中国にはじまる暦法上の用語で、60年単位となる。

 甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干と、干支の12支の組み合わせだが、辛と、酉の組み合わせの年は革命的な年とされ、推古天皇9年の西暦601年が、その辛酉の年である。

 そして、この60年サイクルの21回目の繰り返し(1260年)で大革命が起こるというコスモロジーにしたがって、推古天皇の時代の西暦601年から1260年遡った紀元前660年が、神武天皇即位の「辛酉年1月1日」ということになった。

 そう決めたのは明治政府だが、現実的には、紀元前660年は縄文時代末期であり、神武天皇より以前の大国主命やスクナヒコが行った国作りの描写が、縄文時代ではなく弥生時代以降の社会の変化を示しているように思われるので、紀元前660年に日本国が建国されたというのは、ありえない。

 そしてヤマトの時代とされる西暦3世紀後半以降も、文字もなく、法的整備もなされていない状態ゆえに、ヤマト王権という統一王朝が実現されたとする考えには賛同しずらく、各地域を治める実力者が、中世の戦国時代のように覇を競い合っていたのではないかと思われる。

 4世紀末から巨大化していった前方後円墳の副葬品に、馬具や莫大な数の鉄製の武器が見られるようになるのは、ヤマト王権の支配を示しているのではなく、地域を治め、守る上で、それらの武器を調達し用いる力が重要で、それができる人物がリーダーになったことを示しているのだろう。

 日本という国が一つのまとまりを示していくようなるのは、朝鮮半島の東側の場所にいた勢力が、高句麗を南側から牽制したい中国王朝の支援を受けて興隆し、503年に「新羅」という正式な国号を発表した頃からだろう。

 この「新羅」に対抗するために、突如、天皇に即位することになったのが第26代継体天皇であり、継体天皇は、現在の天皇が血統を遡れる最も古い天皇である。

 即位した継体天皇は、新羅を討伐するために6万という軍勢を送ろうとしたが、九州で磐井の乱が起きる。反乱者とされる磐井の古墳とされるのが、九州最大級の前方後円墳である岩戸山古墳だが、この古墳は全長135mもあり、継体天皇の古墳とされる高槻の今城塚古墳が190メートルだから、同じ時代に対立した二人の王の墓の規模は、そんなに違いはなく、しかも、どちらも前方後円墳だ。

 つまり、前方後円墳は、ヤマト王権を象徴する古墳ではなく、以前にも書いたが、一人の実力者が独裁的な力を持って地域を治めるというコスモロジーに基づく古墳なのだ。

 それに対して、弥生時代、複数の被葬者が埋葬されていた方形周溝墓の発展形と思われる前方後方墳は、独裁的ではないコスモロジーで治められていた地域の古墳なのではないだろうか。

 この違いは、地域の産業の形態の違いによって生じる。同じ農業でも、粗放農業や狩猟採取(日本の縄文時代は、獣を狩ることより魚や貝からタンパク質をとり、森の中から様々な植物を採取していた)を基本とするところは女性が果たす役割が大きく母系社会であるのに対して、放牧や集約農業になっていくと父権社会になっていくという研究報告もある。水の管理や、水をめぐる争いが発生すると、強力なリーダーシップが求められるからだろう。

 複数の古墳が集中する古墳群において、最も古い古墳が、前方後方墳であることが多く、その後、前方後円墳になっていく傾向があるのだが、そのことについて歴史学会は、ヤマト王権の支配地域が広がったからだとする。

 しかし、そうではなく、時代が進むにつれて、粗放農業や狩猟・採取といった営みから集約農業を基本とする社会へと移行していったことによって、地域のリーダー像が変わっていったとは考えられないだろうか。

 こうして全国的に広がっていった前方後円墳は、継体天皇が即位した6世紀になって少しずつ作られなくなり、継体天皇の息子の欽明天皇の時には、近畿の飛鳥に300mを超える巨大な前方後円墳(丸山古墳)が一つだけ作られ、あとは、関東と九州にだけ作られるようになる。

 おそらく、この時になって初めて、一人の王(欽明天皇)の力で治める地域が、関東以東と九州を除く全体に広がったのではないかと思われる。(この頃に、天皇の直轄地とされる屯倉などが増える)

 しかし、6世紀後半、絶対的王になろうとした穴穂部皇子を支援する物部氏と、それを阻止しようとした蘇我氏との対立を経て(教科書で習うような仏教をめぐる対立ではない)、憲法17条が制定された時代以降、前方後円墳は一切作られず、政治リーダーの墳墓は、方形になる。

 推古天皇用明天皇蘇我馬子などの墓は方形だ。このことについて歴史学者は、方形は、蘇我氏関係者の墓だと説明するが、そうではなく、墓制の変化は、コスモロジーの変化を反映している。

 つまり、弥生時代の方形周溝墓の時と同じく、そして憲法17条によって示されているように、「独裁ではない方法での統治」を、推古天皇の治世が志したということだ。

 つまり、これが、大国主に対して国譲りを促すタケミカヅチの言葉、ウシハクからシラスへ、ということになる。

 神話のなかの神武天皇即位の年は、「辛酉」とだけ記されているが、推古天皇の時代の601年も「辛酉」である。

 記紀の編者が、建国の年と考えたのは、奈良時代から1300年も前の出来事に対してではなく、推古天皇の時代を、歴史の転換ととらえたのだろう。

 だとすると、これまでの歴史認識だと、ヤマト王権の前に大国主命の時代があり、その後、国譲りがあって天孫降臨が行われたと思われているが、ヤマト王権の時代とされる紀元3世紀後半から6世紀にかけてが、神話上の大国主命の時代ということになる。 

 大国主命の時代は、強いものが全てを牛耳る社会=ウシハクであり、それゆえ、前方後円墳は、大国主命の時代を象徴する墳墓ということになる。

 前方後円墳が最も多い都道府県は、多くの人にとって意外なことに、大阪や奈良ではなく千葉県であり、群馬県茨城県といったところがそれに続く。

 しかし、関東の前方後円墳は、畿内ではほとんど前方後円墳が作られなくなった6世紀以降に増えている。

 この事実は、6世紀になってヤマト王権の支配が関東で強まったということではなく、前方後円墳に象徴される統治手法=コスモロジーが、その時代に関東に広がったということだろう。

 だからかどうか、関東に特徴的な神社で、東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の祭神は、須佐之男命、大国主命櫛名田比売(くしなだひめ)の出雲系の神様である。

____________________________________________________________________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/

第1299回 古代、東海と福井と近江の関係(2)

余呉

 昨日、東海から近畿にかけての古い前方後方墳のことを書いた後に連絡をくださった人の在住場所が愛知県の新城市となっていて、ふと気になって、「新城」の位置関係を調べてみた。

 というのは、三河の聖山である本宮山の麓の新城は、以前にも訪れているが、このあたりがとても気になっているからだ。

 まず、本宮山の麓は、大嘗祭で用いられる絹織物のニギタエの産地である。

 そして、このあたりには、なぜか東北に多いアラハバキの聖域が多く残る。

 さらに、今では、かなり内陸部のこの場所で、豊川にそって、石器時代から縄文時代の遺跡が非常にたくさん残っている。

 また、新城を流れる豊川は、諏訪から南西に向かって折れ曲がった中央構造線上であり、断層は、伊勢まで伸びて西に進む。

 そして、このあたりは日本でもっとも白鳥神社が集中しているところで、白鳥伝説は、アラハバキと同じく東北地方に多い。

 昨日紹介した神戸の前方後方墳、西求女塚古墳のそばの篠原縄文遺跡から、東北地方で多く出土する遮光器土偶の特徴的な目の部分と、東日本に多い石棒が出土しており、とくに宇宙人のような遮光器土偶は、アラハバキと重ねられて論じられることも多い。

 そして確認してみたら、愛知県新城で、アラハバキを祀る石座神社(縄文遺跡の上に鎮座している)の南1kmのところに、断上山古墳群があり、そのなかの第10号古墳が、従来は前方後円墳だと思われていたのだが、その後の詳しい調査で、かなり古い大型の前方後方墳であることがわかったようだ。

 面白いことに、この断上山古墳10号が、昨日紹介した京都の向日山の元稲荷古墳と、愛知県安城市の二子古墳という、ともに古墳時代前期の大型の前方後方墳をつなぐラインの延長上にある。

 新城を流れる豊川は、ここから下流にかけて前方後方墳が多く築かれているが、全長50mに達する断上山古墳第10号は、その中のさきがけとなるもので、東三河地域において最初期に属する古墳となる。

 そして、この古墳は、弥生時代から続く南貝津遺跡と隣接しており、この遺跡からは、方形周溝墓3基確認されている。

 昨日紹介したように、弥生時代の方形周溝墓の延長に、古墳時代初期、前方後方墳が築かれたことを、ここでも裏付けている。

 以前、新城を訪れた時、なぜこんな内陸部に石器時代縄文時代に遡る遺跡が多く集中しているのか気になったが、この場所は、豊川の扇状地であり、かつては海岸線が、この近くまで来ていたのではないかと思う。

 そして、この断上山古墳第10号のすぐそばが、織田信長の鉄砲が武田軍の最強騎馬軍団を打ち破った長篠の決戦が行われたところだ。

 武田氏は、信濃から甲斐にかけて領土を拡大していたが、天竜川や豊川沿いに、信州と愛知の新城をつなぐルートが開かれていたということだろう。

 一般的には関ヶ原の戦いが天下分け目の決戦とされるが、戦術的に騎馬よりも鉄砲が勝るようになったパラダイムシフトとしては、この長篠の決戦が、大きな歴史的転換だろう。

 新城に白鳥神社が集中しており、白鳥伝説は羽衣伝説とも重ねられるが、羽衣伝説の有名な場所の一つが、琵琶湖の北の余呉湖で、ここは、昨日紹介した東近江の神郷亀塚古墳と、福井の鯖江の王山古墳群を結ぶライン上にある。

 この余呉湖の真南5kmの琵琶湖北端の丘陵上に、湖に面した形で南北3キロメートルにわたって一列に営造された、全国的にも有数の大規模古墳群、古保利古墳群がある。

 これまで、前方後円墳8 基、 前方後方墳8基、円墳 79 基、方墳 37 基の合計 132 基が発見されているが、この中で最も古いと考えられているのが、全長約 60 mの前方後方墳である小松古墳だ。

 この古墳からは、方格規矩鏡という中国の漢の時代に作られた鏡が発見されている。

 また、竪穴式石室や粘土郭などは確認されておらず木棺直葬となっており、重い石で蓋をして二度と埋葬空間が開けられないようにしている古墳時代の竪穴式石室とは、死生観が異なっており、弥生時代コスモロジーの移行形のようだ。

 古墳時代の琵琶湖は、近畿、東海、北陸地方、さらには海の向こうの朝鮮半島や中国との重要な交通路だった。古保利古墳群は、琵琶湖に面した山々の上につくられており、琵琶湖を利用 した交通・交易に強い影響力を持つ勢力によって築かれたのだろう。

 そして、羽衣伝説のもう一つの地が京丹後の峰山で、峰山は、扇谷とか奈具岡といった弥生時代の最先端遺跡があるところだが、弥生時代では傑出した大きさを誇る方形墳丘墓の赤坂今井墳墓がある。

  この赤坂今井墳墓と、向日山の元稲荷を結ぶラインは、福井の王山古墳群から日本最古の前方後方墳のある上磯古墳群を通って愛知の二子古墳を結ぶラインと平行している。

 ここから出土した玉類・鉄製品・土器類は、他地域との広い交易を示すもので、土器のなかには、東海地域からの影響が認められるものが含まれている。

 東海から近畿、日本海にかけて、白鳥伝説と重なる羽衣伝説の場所が、各地とつながる交通の要所であり、縄文や弥生時代から栄えていた。そこに初期の前方後方墳が関わっており、そのネットワークの中に、アラハバキや遮光土偶といった東北との関連を示すものが見え隠れしているのは、この水上ネットワークが東北まで展開されていたことを裏付けている。

 

 ________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/

第1298回 古代、東海と福井と近江の関係(1)。

 朝7時、うっすらと雪化粧の富士山麓を出発して、高速道路を使わず走り続け、13時間かけ、夜8時に京都に着いた。

 高速道路を使わない方が、それぞれの地域の地理上の関係や、地質的な特徴が掴みやすい。

 車の運転は、ずっと運転ばかりしていると疲れたり眠くなるのかもしれないが、途中で、気になる場所を探検する時、けっこうテンションが高くなり、その後はすっきりした気分で運転ができる。聖地の波長と心身の波長がシンクロすると、エネルギーが高まるのかもしれない。

 今回、気になって立ち寄ったのは、岐阜県の大垣周辺。古代、濃尾平野は海の下で大垣あたりが海岸線だったようで、だとすると、大垣は、太平洋と日本海を結ぶ最短距離の場所となる。

 大垣には、荒尾南遺跡という弥生時代の巨大集落遺跡がある。残念ながら今は、高速道路の大垣西インターチェンジがあり、ループ状の高架高速道路の光景に圧倒され古代をしのぶことは難しいが、この遺跡からは、方形周溝墓74基と、82本のオールを持つ大型船が描かれた弥生土器が見つかっている。

岐阜県庁より

 古代の面影が微塵もない荒尾南遺跡から北側に、異様な形に削り取られた山が見えるが、日本一の石灰石生産地と知られる金生山だ。

 そして、ここには、かつて露頭の赤鉄鉱の鉱脈が、東西200m、幅40m、高さ8m以上の台形状に存在していたが、太平洋戦争の時に日本軍によって採掘され、軍艦などの製造に使われた。

 古代、この地の鉄資源が、壬申の乱大海人皇子天武天皇)の勝利を導いたとも言われる。

 この金生山のすぐそばに岐阜県最大の古墳である昼飯大塚古墳がある。

 墳丘長150mの前方後円墳なのだが、後円墳の頂に、竪穴式石室と、粘土槨と、木棺直葬に被葬者が埋葬されている。大型前方後円墳に3人の被葬者が埋葬され、それぞれ異なる埋葬施設を採用するという例は非常に珍しい。

左:昼飯大塚古墳 右:粉糠山古墳

 この昼飯大塚古墳から西に500mほどのところに、東海地方で最大の前方後方墳の粉糠山古墳があり、この二つの異なるタイプの古墳は、ほぼ同じ時期の4世紀末から5世紀前半に築造されたと考えられている。

 そして、この二つの大型古墳から冬至のラインを東に7kmほど行ったところに、岐阜県揖斐郡大野町の上磯古墳群があり、この中の笹山古墳が、1昨年の調査で、2世紀末~3世紀初めに築造された日本最古の可能性が出てきた前方後方墳だ。

 上磯古墳群には、笹山古墳の後に築造された南山古墳と北山古墳があるが、この二つの前方後方墳は、それぞれ、冬至の日没と夏至の日没の方向に向けられて作られており、冬至夏至が意識されていたことがわかる。

 上磯古墳群のある場所は、濃尾平野の三大河川の一つ揖斐川濃尾平野に入ったところの三角州であり、揖斐川は遡ると冠山に到り、冠山の逆側から日本海に向けて、足羽川福井市日野川鯖江市を通り、この二つの川は九頭竜川に合流して日本海に注ぐ。

 九頭竜川の源流は白山で、油坂峠を越えると長良川に接続して濃尾平野から伊勢湾へと注ぐが、このルートは、織田信長が加賀の一向一揆を征伐するために通ったルートだ。

 福井と濃尾平野は、揖斐川長良川で、深く結ばれている。

 福井県鯖江市に北陸一の古社である舟津神社が鎮座しており、ここは古代において海人と関わりの深い「丹生郡」だったが、この神社の裏に王山古墳群がある。

 ここには49基もの古墳が集中している。この古墳群では、弥生時代の4基の方形周溝墓が調査されていて、3号墳から出土した土器が、東海や近江とのつながりを示している。

 この王山古墳群から真南(東経136.18)に85kmのところが東近江の神郷亀塚古墳であり、この古墳は、上記に書いた笹山古墳の2年前の調査までは日本最古の前方後方墳と考えられていた。この神郷亀塚古墳の近くに、弥生時代の最大規模の鉄工房跡が見つかった稲部遺跡がある。

 この神郷亀塚古墳は、岐阜の上磯古墳群から冬至のラインで西に50kmのところだが、神郷亀塚古墳から冬至のラインで西に50kmのところが京都の向日山で、ここには、弥生時代の高地性集落の隣に、3世紀中旬から後半に築かれた、当時の古墳の中でも最大規模の前方後方墳である元稲荷古墳がある。この向日山は、弥生時代の銅鐸の製造場所や、縄文時代の石棒の製造場所があったところで、後に、継体天皇によって弟国宮が築かれ、桓武天皇によって長岡京が築かれた。

 そして、この元稲荷古墳から冬至のラインで西に50kmのところが、神戸の灘区にある西求女塚古墳で、これは、向日山の元稲荷古墳と同じ時期、同じ大きさ、同じデザインの前方後方墳だ。この古墳の近くには、14個の銅鐸(どうたく)と7本の銅戈(どうか)がまとまって出土した弥生時代の桜ヶ丘遺跡がある。

 さらに、近くの篠原縄文遺跡からは、東北地方で多く出土する遮光器土偶の特徴的な目の部分と、東日本に多い石棒が出土している。

 西求女塚古墳から出土している祭祀用の土器は、山陰地方のもので、古墳の石材は、徳島や和歌山のものが使われている。

 不思議なことに、重要な前方後方墳が、冬至のラインにそって50km間隔で作られており、それぞれ、遠方地域との関わりを示すものがあったり、弥生時代の集落遺跡と隣接している。

 さらに、京都の元稲荷古墳から真東に125kmmほどのところ、愛知県安城市の18基からなる桜井古墳群があり、この中の二子古墳は墳丘長68mを誇る愛知県最大の前方後方墳だ。ここもまた弥生時代の巨大集落と隣接しているのだが、矢作川のほとりに位置している。

 古代、三河湾と信州を結ぶ塩の道は、矢作川にそって伸びていた。

 そして、この桜井古墳群の場所は、福井の王山古墳群と、日本最古の前方後方墳のある岐阜の上磯古墳群を結ぶライン上で、それぞれのあいだは、約68kmである。

 福井の王山古墳群の中の方形周溝墓である3号墳から出土した弥生式土器が、東海や近江とのつながりを示しているが、土器だけでなく、地理上の計画的な配置にも、これらの地域の密接なつながりが確認できる。

 弥生時代につながっていた場所が、前方後方墳でもつながっている。

 そして、神戸の西求女塚古墳の場所は、古代の重要な港で、京都の向日山の元稲荷古墳のところは、桂川宇治川、木津川の合流点に近く、愛知県安城市の桜井古墳群のところは、太平洋と信州を結ぶ塩の道。福井の鯖江の王山古墳のあるところは舟津神社が鎮座し、海人と関わりの深い「丹生」の地。東近江の神郷亀塚古墳のあるところは、なぜか「愛知」と名のつく愛知川のほとりで、愛知川の源流の鈴鹿山を抜けると伊勢湾、また東近江の琵琶湖の対岸は、近江高島で、若狭湾の小浜に通じるルートという交通の要所である。

 このように、弥生時代から初期の前方後方墳とつながるところは、どこも水上交通の要に位置している。

 

 ________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/

第1297回 古代海人のコスモロジー

 前回の記事で、福島第二原発がある場所の天神原遺跡(2000年前における東日本最大の集団墓)が、遠隔地交易の拠点だったのではないかということを書いた。

 そして、この天神原遺跡の位置が、北海道の余市からまっすぐ南に来たところにあり、この東経141度の南北のラインが、北海道から東北の奥羽山脈へと続く火山帯のラインで、その上に、縄文時代の環状列石や重要な遺跡が数多く連なっていることを紹介した。

 その続きなのだが、福島の天神原遺跡から冬至のラインで西に進んでも、日光の男体山、群馬の赤城山榛名山、そして浅間山八ヶ岳を超えて諏訪に至る火山帯が続き、火山帯にそって石器時代縄文時代に遡る重要な遺跡が多く残っている。

妙義山


 福島の天神原遺跡からラインにそって100kmの所にある栃木県那須塩原の槻沢遺跡(つきのきさわ)は、縄文時代中~後期(およそ4,000~5,000年前)を中心とする大集落遺跡で、ここから出土した土器は、東北地方と関東地方それぞれの地域に特徴的な形や文様が見られる。

 ここから西に18km、日光市塩谷町那須塩原市矢板市にまたがる火山の高原山は、黒曜石を産出し、この麓には石器時代に遡る遺跡が残るが、高原山の黒曜石は、縄文時代、関東地方で広く利用されていた。

 また、このラインは日光東照宮や中禅寺のすぐ近くを通るが、日光市内には16カ所の縄文・弥生遺跡がある。

 さらに日光から50kmほどラインにそって行くと群馬の赤城山を通り、赤城山山麓渋川市の道訓前遺跡に至る。ここは、縄文時代中期中葉から後葉にかけての大規模な環状集落で、出土遺物は、新潟県や長野県、南関東、北関東周辺地域との文化交流を示している。

 とくに、ここから出土した焼町土器は、縄文土器の傑作といわれ、カナダやフランスでの展示でも人々に強く印象を与えた。

 さらにラインを進むと、妙義山の北麓、群馬県安中市に坂本北裏遺跡環状列石がある。そして浅間山の南麓、日本最大の縄文時代の石棒のある佐久市を通り、八ヶ岳の星糞峠(黒曜石原産地遺跡)を抜けて諏訪湖に至る。

 群馬県渋川市の道訓前遺跡から諏訪湖までがちょうど100kmである。

 この冬至のラインを諏訪から西に進むと、木曽御嶽山の南麓の王滝口登山道に王滝御嶽神社が鎮座している。ここは、木曽御嶽山への山岳信仰に基づく神社だが、この場所に縄文時代の里宮遺跡が残る。

 御嶽山は、東日本の火山帯の一番西に位置し、ここから西、東海、近畿、四国には火山が存在しない。御嶽山は、独立峰としては富士山の次に高く、標高3,000mを超える山としては、日本国内で最も西に位置する巨峰である。

 そして、冬至のラインを御嶽山から西に向かい、山々を超えて濃尾平野に入ったところが美濃だ。美濃は、古代から現代に至るまで日本の東西回廊の中枢に位置する所であり、「美濃を制する者は天下を制する」と言われ、壬申の乱、関が原の合戦など、幾度となく日本史上の重要な決戦地になった。

 福島の天神原遺跡から諏訪を通る冬至のラインは、諏訪までは火山帯で、縄文遺跡が関係していたが、美濃の地から西にかけては、違った特徴を持つようになる。

 それは、きわめて古い、弥生時代から古墳時代初期に築かれた前方後方墳との関わりだ。これらの前方後方墳は、大和盆地に前方後円墳が築かれはじめた時代と同じか、それ以前のものもある。

福島から諏訪湖を通って伸びる冬至のラインは、美濃から近畿にかけて、古い前方後方墳の配置と重なる。紫色の西から、神戸の西求女塚古墳、向日山の元稲荷古墳、東近江の神郷亀塚古墳、美濃の上磯古墳群は、50kmの等間隔。赤いマークが、弥生時代の荒尾南遺跡で74基もの方形周溝墓が発掘されている。

 まず、美濃市長良川沿いに、美濃観音寺山古墳がある。

 この前方後方墳のサイズは全長20.5mほどだが、この古墳から、翡翠の勾玉や、中国の前漢後漢のあいだの「新」(西暦8〜23年)の時代に官営工房で製作された王莽鏡と呼ばれる銅鏡が出土した。そのため、この古墳は、弥生時代後半の3世紀前半までに築造されたと考えられている。

 この古墳のそばを流れる長良川は、白山の麓を源流とするが、上流部で油坂峠(標高800m)を越えると九頭竜川につながって福井市へと至る。

 このルートは、織田信長が、越前の一向一揆を討伐する際に通った道であり、古代から日本海へ抜ける主要ルートだった。

 そして、九頭竜川が、恐竜の町として知られる福井県勝山市に入ったところに、縄文時代の三室遺跡があり、集落跡や、石を環状に並べて祭祀を行ったと考えられる配石遺構などが発掘され、さらに下流福井市中角にも縄文遺跡が見つかっている。

 現在の天皇の血統を過去に遡った最も古い天皇である第26代継体天皇の母親の振姫の出身は、この九頭竜川下流域で、継体天皇も、即位する前は、この福井を拠点としていた有力豪族だったとされる。

 美濃観音寺山古墳から冬至のラインを西に30kmほど行ったところが大垣市の荒尾南遺跡だが、ここは、東海地方最大級の弥生・古墳時代の遺跡で、船の絵が描かれた土器をはじめ、350万点に及ぶ土器、80本のオール、約600軒の建物、1万点を超える木製品、近畿式銅鐸の飾耳が出土している。

 古代、濃尾平野は、この近くまでが海だったと考えられている。

 この荒尾南遺跡からは74基もの方形周溝墓が発掘されている。

 方形周溝墓は、方形の木棺埋葬地の周囲を幅1~2mの溝で囲ったものだが、弥生時代には、方形周溝墓と、円形周溝墓があった。

 円形周溝墓が一人の被葬者であるのに対して、方形周溝墓は、複数の被葬者が見られることに特徴があった。

 その分布にも違いがあり、円形周溝墓が、瀬戸内海の東に現れ、近畿以外に広がらなかったのに対して、方形周溝墓は、瀬戸内海の西に現れ、東海から関東まで普及していった。

 この弥生時代の墓制の違いに対しては、現時点での学説では意味付けることができていない。

 しかし、方形周溝墓は、後の時代の前方後方墳の普及地域とかなり重なっている。

 前方後方墳前方後円墳も、後方部分や後円部分が埋葬空間で、前方部分は祭祀空間である。だとすれば、弥生時代の方形周溝墓や円形周溝墓という墓制に、祭祀が結びついて発展していったのが、前方後円墳前方後方墳だとみなすことができる。

 荒尾南遺跡に、74基もの方形周溝墓が築かたのは、この方形周溝墓のコスモロジーを持つ勢力が、この地域を拠点としていたということだろう。 

 そして、この荒尾南遺跡から北東8km、根尾川揖斐川が合流するところに、上磯古墳群がある。根尾川の流域は、菊花石で全国的に有名なところだ。

 この上磯古墳群は、笹山古墳、北山古墳、南山古墳と、三代に渡って築かれた前方後方墳と、その後に築かれた前方後円墳の亀山古墳がある。  

 興味深いのは添付の図のとおり、前方後方墳の北山古墳と南山古墳が、冬至夏至のラインを軸に建造されていることだ。

 つまり、前方後方墳が築かれた時代、冬至夏至の方向が意識されていたことを、古墳の向きが示している。

 そして、この古墳群で一番古い笹山古墳は、2021年、発掘調査によって出土した土器の形状や模様から、築造年代が2世紀末~3世紀初めと推測されているが、ヤマト王権の始まりとされる奈良盆地の纒向にある前方後円墳の石塚古墳と、同じか、それよりも古い前方後方墳ということになる。

 それまでは、福島から続く冬至のライン上で、この上磯古墳群から50km西の神郷亀塚古墳(東近江)が、弥生時代後期(西暦220年頃)の土器が検出されていたことから日本最古の前方後方墳と考えられていた。

 この神郷亀塚古墳から北東3kmには、弥生時代最大級の鉄工房跡が見つかった稲部遺跡がある。

 そして、神郷亀塚古墳から冬至のラインを西に50kmのところが、向日山の元稲荷古墳で、この二つのあいだに等間隔で、冨波古墳(滋賀県野洲市)と、皇子山古墳(滋賀県大津市)がある。

 冨波古墳は、大岩山古墳群8基のなかの一つで、この古墳群は3世紀後半から6世紀にかけて築かれた円墳が4つ、前方後円墳が3つあり、冨波古墳は、そのなかで最も古く、しかも唯一の前方後方墳で、3世紀後半に築かれたと考えられている。

 そして、この大岩山の斜面からは24点もの銅鐸が見つかり、そのなかに、高さ134.7cmという日本最大の銅鐸がふくまれている。

 この大岩山から南西に17kmの大津市の皇子山古墳は、天智天皇が近江京を築いた場所である。

 神郷亀塚古墳から、冬至のラインを50km行ったところにある京都の向日山の元稲荷古墳は、3世紀中旬に築造された当時としては古墳のなかでも最大規模の100mに及ぶ前方後方墳だが、この古墳のすぐ隣には、弥生時代の高地性集落があった。

 そして、この向日山を中心に、桓武天皇によって長岡京の右京と左京が築かれたが、それよりも300年前、継体天皇が、ここに弟国宮を築いていた。 

 しかも、この地は、西日本では珍しい縄文時代の石棒の製造地で、さらに弥生時代の銅鐸製造の跡も残っていることから、縄文時代に遡る祭祀と政治の中心だったのではないかと考えられる。

 また、そのことが意識されてかどうかはわからないが、東京の明治神宮は、元稲荷古墳の横に鎮座している向日神社をモデルに設計されている。

 この元稲荷神社から冬至のライン上に西に2.5kmのところの長法寺南原古墳も前方後方墳だが、ここからは三角縁神獣鏡を4面含む6面の銅鏡が出土している。さらにそのうち2面は、同じ鋳型か原型から作られたもので、同じ型の鏡は、兵庫県奈良県、愛知県、岐阜県の古墳からも見つかっており、各地域と交流があったと考えられる。

 そして、この本州を分断するように走っている冬至のラインの陸の端が、神戸の西求女塚古墳で、京都の向日山の元稲荷古墳からちょうど50kmに位置している前方後方墳だ。

 西求女塚古墳が築かれた場所は、古代、重要な港だった。そして、ここから出土した祭祀用の土器は山陰地方の特徴を示し、石材には阿波とか和歌山のものが使われている。さらに、三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡が出土したが、そのなかに、木津川の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などから出土した鏡と同じ型にものがある。

 こうしたことから、古墳の被葬者は、遠隔地を結ぶ水上交通と関わりが深いと考えられている。

 この神戸の西求女塚古墳と向日山の元稲荷古墳は、3世紀の同じ時期、同じ大きさ、同じデザインで作られた前方後方墳だ。

 しかも、この二つの古墳と、近年まで日本最古と考えられていた東近江の神郷亀塚古墳と、2021年の調査で日本最古だとわかった笹山古墳( 岐阜県揖斐郡)は、50kmの等間隔である。

 そして、本州を分断するこの冬至のラインで、福島の天神村遺跡から神戸の西求女塚古墳までの距離が約600kmで、その中間が諏訪湖となる。

諏訪湖

 諏訪湖は、中央構造線フォッサマグナ糸魚川・静岡構造線という日本列島を南北と東西に分断する断層の交わる場所でもあるが、さらに、縄文時代から古墳時代前半にかけての重要な聖域が並ぶ冬至のラインの要にもなっているのだ。

 この冬至のラインは、諏訪から東においては火山帯や縄文時代の史跡と関わりが深く、諏訪から西は、前方後方墳との関わりが深くなっている。

 これらの前方後方墳は、濃尾平野の重要河川、琵琶湖、桂川と木津川と宇治川の合流点、そして瀬戸内海交通に面した港と、すべて水上交通とつながっており、各地を結ぶ方向や距離は極めて正確である。

 福島の天神村遺跡が、古代、阿武隈山地の宝石を運ぶ遠隔地交易の拠点だと想定すると、日本列島の東西を自由に行き来して交流を行っていた人々は、こうした地理関係を十分に把握していたのではないだろうか。

 

 ________________________

ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー

Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。

http://www.kazetabi.jp/

第1296回 日本古代のコスモロジーと、日本の地質。

 日本という国の中を移動する時、列車や高速道路を使ってしまうと気づかないが、古くからの街道、とりわけ河川沿いの道を通ると、この国の地質的な特徴がよくわかるし、そうした地質的な特徴が、文献資料や考古学的成果から見えてこない歴史の真相に近づく鍵を示しているのではないかと思うことがある。

 誰でも知っているように、日本は火山国で、火山の噴火による堆積物の特徴は至るところで見られ、マグマの成分によって玄武岩安山岩流紋岩となっている。

 また、日本列島の位置は、太平洋プレートに強く押しこまれた場所であるため、各地で隆起現象が起きている。

 海岸近くならば砂岩や泥岩や石灰岩ということになるが、もっと深い数千メートルの海底が隆起しているところは、プランクトンの死骸が化石化して石になった硬いチャートである。

 海ではなく大地の地下深くから隆起すると、地中深くでマグマが冷えて固まった花崗岩や、成分の違いで斑れい岩になる。

 私の京都の拠点からは、愛宕山比叡山が見えるが、この京都を代表する二つの霊山は地質的に異なる。愛宕山の頂上付近はチャートのため、風化されにくくてオデキのように膨らんだ独特の形として残っており、そこに愛宕神社が鎮座している。

 一方、比叡山から大文字山にかけては、水の侵食を受けやすい花崗岩で、そのため、長年の侵食で、二つの山の間がすり鉢状のお盆のようになっており、ここに白川の源流があり、花崗岩を削ってできた白い砂を運び、祇園を通って鴨川に合流するが、中世は、この白い砂が、銀閣寺などの石庭で使われた。

 日本の地質でさらに興味深いのは、そのように隆起して形成された大地が、後の火山活動でさらに焼き固められたり、地中でマグマと接して変成岩になって隆起することだ。

 紫式部源氏物語を書き始めた場所とされる石山寺は、石灰岩が熱変成した珪灰石の上に建っている。

石山寺

 日本の地質は、こうした違いが、大陸と違って極めて接近した場所で次々と見られるのだが、中央構造線あたりだと、中央構造線の南側は、海の方から押し付けられて隆起した岩盤(チャート等)で、北側は、大地の下から隆起した岩盤(花崗岩)と、明確に分かれている。

 古代からの聖域を訪れると、必ずといっていいほど、こうした地質的な特徴が印象的なのだが、なかでも特に気になるのが花崗岩地帯で、日本の聖域は、この花崗岩地帯に非常に多い。

 花崗岩地帯は、自然放射線が強いこともわかっており、それは地中にウランやトリチウムなどの放射性物質が多く含まれているからだ。

 こうした放射性物質は、粉塵として大気中に出てくると内部被曝を起こして人間に深刻な害を与える。

 しかし、ラジウム温泉が古くから湯治に使われていたように、放射能を浴びた水(ラドン)と気体そのものは、人間を元気にする。

 地中深くからジワジワと滲み出てくる自然放射線もまた同じなのだろう。

 アメリカの先住民の聖域では、ウラン鉱の上にあるところが多くあり、そうした場所では、長老が、決して地面を掘り返すな、掘り返すと人間に災いが起きると言い伝えてきた。

 第二次世界大戦後、核の時代となり、大量の原爆を作るため、地中に眠るウランが掘り返されるようになり、アメリカ先住民地域では健康被害が出ている。

 日本では、ウランに関しては大きな鉱脈があるところは限られており、鳥取人形峠や岐阜の瑞浪が知られているが、採算が合わないという理由で、採掘は続かなかった。

 屋久島は、癒し効果が高いということで人気だが、この島は全体が花崗岩でできている。

 癒し効果は屋久杉など森林効果だけでなく、たぶん自然放射能の力もあると思う。

 私は、屋久島に住み続ける写真家の山下大明さんと一緒に登山を行った時、雨がすごく、腰をかけて休憩することもできず、昼食も立ったままオニギリを頬張って山頂を目指し、下山したのだが、なぜかまったく疲れず、その夜も、目が冴えてまったく眠れなかった。

 一睡もできないと次の日の行動が辛いなあと思ったが、次の日もまったく平気だったという経験がある。

 京都では、比叡山から大文字山にかけてが花崗岩地帯で、この麓に関西随一のラジウム温泉とされる白川温泉がある。

 花崗岩地帯に聖地が多いのは、自然放射線効果だけでなく、鉱物資源が関係しているのではないかと私は思っている。

 御影石など花崗岩の石そのものも重宝されているが、現在は取り尽くされて採掘は難しいが、古代では極めて重要だった辰砂=朱(硫化水銀)などの鉱脈も花崗岩地帯に多い。 

 そして辰砂の鉱脈は、金や銅と同じ熱水鉱床なので、辰砂のあるところには砂金や銅資源も多かった可能性がある。

 花崗岩というのは地中深くのマグマが冷えて固まったものが隆起しているのだが、水の侵食を受けやすく、地中深くの亀裂などが侵食され、マグマの熱によって高温となった水に溶け込んだ鉱物資源が、その亀裂などに溜まりやすい。

 その状態のまま隆起すると、鉱脈が地上に露頭することになり採掘が非常に簡単になる。採掘が簡単ということは、持ち去られやすいということで、今でも鉱物ハンターはいるが、古代から数千年の歳月を経た現在、古代の状況を想像することは難しい。

 日本は、黄金のジパングなどと言われていた。大航海時代には、日本から輸出された銀が、ヨーロッパの銀相場を大きく変動させたなどとも言われる。

 日本は、縄文時代から大陸と交易を行っていた。朝鮮半島でも糸魚川産の翡翠の勾玉が見つかり、日本産の黒曜石は、朝鮮半島ウラジオストックでも見つかっている。

 中国の『後漢書』には「倭では、真珠と青い玉が採れる」と記されており、『魏志倭人伝』には「壱与(卑弥呼の後の女王)が、魏に、2つの青い大きな勾玉を献上した」と記されている。

『隋書』には「新羅百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭に使いを通わしている」と記されている。

 古代、大陸から日本にもたらされたものは日本に残っており、考古学的調査によって発見できるが、その交易の見返りに、日本から出ていったものの追跡は簡単ではない。

 翡翠とか黒曜石は、その成分の違いを調べれば産地を特定できるのだが、特定できない貴重品もある。

 金とか辰砂もそうだろうが、宝石は、ルビーやサファイアやエメラルドなど6種類を除いて特定できないそうだ。

 花崗岩地帯に、ペグマタイトができているところがある。ペグマタイトというのは、地中深くでマグマが固結する時に、特定鉱物成分の析出が起きて純粋結晶化した状態のもので、これが高純度になったものが宝石だ。

 日本で採れる宝石といえば、翡翠、真珠、琥珀、水晶くらいは比較的よく知られているが、古代、ヨーロッパや中国で珍重された宝石で、日本に比較的多く採れる宝石としてトパーズがある。トパーズは黄玉と呼ばれるが、黄色とは限らない。透明なものは水晶のように見えるが、水晶よりも硬く、加工がしずらい。

 そのためか、日本においては、中世の頃、水晶は、飾り玉にするなど宝石扱いされていたが、加工には向かないトパーズは放置されていた。

 明治時代、来日した外国人宝石商がこれに目をつけ、地元の人々を雇って拾わせ、海外に持ち出されたトパーズは明治年間に700kgに及んだという。(滋賀県大津市の田上鉱物博物館ホームページより)。

 明治維新以降、浮世絵の海外流出のようなことが、トパーズでも起きていた。

 

大戸川

 このトパーズの代表的産地が、滋賀県大津市の太神山(田上山)で、その麓を大戸川が流れており、その流域は、この写真(九頭弁財天八大龍王)のように花崗岩の岩盤が剝き出しになっているところが幾つかある。この場所は、琵琶湖から瀬田川宇治川)が流れ出ていく場所の近くで、古代、海人の隼人の拠点でもあった。

 二つ目が、岐阜県中津川市の苗木で、ここにある苗木城は、自然の巨岩をそのまま積み上げた石垣で有名だが、木曽川流域で、ここもまた写真のように花崗岩の岩がゴロゴロしている。 

木曽川岐阜県中津川市苗木)。

 三つ目が、昨日のタイムラインでも書いたが、山梨の甲府盆地に流れ込む荒川の上流部で、今でも水晶峠という名がついているが、修験の山、金峰山の周辺だ。

 この荒川の流域は、昇仙峡という観光名所になっているが、昇仙峡にも巨大な水晶の鉱脈がある。そして、この荒川が、甲府盆地に流れ込むところが大塚古墳など立派な横穴式石室を持つ古墳の集中地帯となっている。

昇仙峡

 そして四つ目が、福島の阿武隈山地である。

 現在は、福島県石川町が宝石の町として有名だが、阿武隈山地には、多くのペグマタイとが存在しており、とくに阿武隈山地のペグマタイトは、結晶が大きく、種類が豊富であり、トパーズに限らず様々な宝石が得られる。

 岐阜県苗木地方、滋賀県田上山、福島の阿武隈が「日本三大ペグマタイト鉱物産地」とされている。

 この阿武隈山地から東に流れる木戸川の河口、太平洋を望む場所に、天神原遺跡がある。この場所は、福島第二原発のすぐそばで、17km北に、大災害を引き起こした福島第一原発がある。

 この天神原遺跡というのは約2000年前の集団墓で、これまでに土器棺33基、土坑墓49基が見つかり、東日本最大の集団墓とされている。

 日本の歴史学の時代区分では、2000年前は「弥生」ということになる。縄文と弥生を分けるものは、一般的には稲作とされている。

 しかし、東北地方の弥生土器には縄文時代以来の系統が色濃く残っていることもあり、もともと縄文文化が栄えていた東国においては、「稲作」というキーワードだけでは単純に時代を区分できないような気がする。

 その当時、生きていた人々にとっては、縄文と弥生の区分などなかった。そうした歴史の年代区分よりも気になるのは、縄文と弥生、そして古墳時代においても続いていたであろう遠隔地交易だ。

 福島の太平洋に望む天神原遺跡のある場所は、すぐ東に阿武隈山地が迫り、稲作のために開かれた場所ではないことが明らかだ。人が暮らしにくい場所だから、原子力発電所が作られた。

 2000年前、この場所に築かれた東日本最大の集団墓について考えるうえで、これまでの歴史教育の定説のように、稲作による定住生活で階級差が生まれ云々を当てはめることは難しい。

 阿武隈山地の鉱物資源を、海上交通によって他の地域へと運ぶための拠点と考えた方が理解しやすいだろう。

 もしかしたら、古代、阿武隈山地の宝石が、大陸とのあいだの交易に用いられたかもしれないが、現在の歴史学では、証拠がなければ、そういう事実は無いものとされる。

 現代の歴史学者は、縄文時代に、黒曜石や翡翠など遠隔地交易が行われていたと認めているが、弥生時代に、そうした遠隔地交易が減ったとしている。そうした説は、けっきょく産地を特定できる黒曜石や翡翠などの証拠品に依存しており、産地を特定できない交易品は、証拠にならないから、説につながらないだけなのだ。

 時代とともに主要な交易品は変わっていくし、海上ルートを獲得した古代人にとって、そのルートを発展させていくことは自然のことだったのではないかと思う。

 それはともかく、私個人として不思議でならないのが、先日のタイムラインで書いた北海道の余市から東北の奥羽山脈にそって真南に伸びるラインの一番南が、この天神原遺跡の場所であることだ。

東経141度のライン、一番北の余市には縄文時代の環状列石が集中していて、北黄金貝塚公園(北海道にある縄文貝塚の1/5の面積を占める巨大な貝塚)。7千年前の大船遺跡、(世界最古の漆の副葬品)、垣ノ島遺跡(国宝 中空土偶)、万座環状列石、釜石環状列石などがあり、もっとも南、太平洋とぶつかるところ、木戸川の河口に、天神原遺跡がある。

 

 福島の天神原遺跡に埋葬されている古代人は、こうした遠隔地との交流と関係していたのではないか。

 そして、古代、遠隔地と交易を行っていた人々は、こうした地理的な関係も正確に把握していたのではないだろうか。

 江戸時代、伊能忠敬は、隠居後の20年ほどで、徒歩だけで全国をめぐり、測量し、現在の地図とほとんど変わらない精度の地図を作成した。

 数十年、数百年、数千年と、人間が行き来していれば、経験の蓄積によって、日本全国の地理的な把握は、当たり前のようにできていたのではないだろうか

 

________________________
ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー
Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。
http://www.kazetabi.jp/

第1295回 古代のコスモロジーと、海人の活動

高幡不動の私のオフィスから冬至の日に太陽が沈む方向に富士山があり、このラインの延長上に伊勢神宮がある。そして夏至の日に太陽が沈む方向が奥秩父で、その延長上に八ヶ岳があって、さらに諏訪大社の上宮にいたる。

 今週末、ワークショップセミナーを行う東京の私のオフィスは、高幡不動駅から徒歩12分くらいの高台の上にあり、部屋の窓から奥秩父の山々が見えるが、ひときわ印象深い山容を見せるのが、奥秩父連峰の盟主とされる金峰山(標高2599m)で、ここは、吉野の金峯山寺から蔵王権現が勧請された修験の山。私の部屋から金峰山の方向が夏至の日に太陽が沈む方向で、そのラインの延長が、諏訪大社の上宮。
 また、この部屋の窓から冬至の太陽が沈む方向で、金峰山の真南にそびえるのが富士山(窓の外の木が成長しすぎて全体がはっきり見えないのが残念)。この冬至のラインを富士山から延長すると伊勢神宮になる。
 私が今これを書いている場所の地理的な特殊性は、たぶん、近くの高幡不動尊金剛寺が関わっている。行基が開基し空海不動明王を置いたとされる金剛寺関東三大不動で、新撰組土方歳三菩提寺でもあるが、行基の活動を守っていたのが修験者で、空海も修験と関わりが深く、金峰山も富士山も修験の山だからだ。
 この金峰山と富士山のちょうど真ん中が甲府盆地で、私の部屋からだと真西にあたる。
 富士山の麓に住む写真家の大山行男さんとの付き合いで、何度も甲府盆地に足を運んでいるが、甲府盆地は、古代においては水の底、もしくは湿原だったのではないかと考えられている。
 甲府盆地の北の松本から安曇野にかけてもそうなのだが、周辺を高い山に囲まれて、そこを源流とする河川は多いのだが、水が外に出ていく河川が、松本盆地甲府盆地も1つしかない。
 松本盆地は北上する犀川で、甲府盆地は南下する富士川だ。しかし、この二つの川は切り立った断崖に挟まれた谷であり、たとえば地震などの落石で塞がれてしまうと、水が外に出て行かずに、盆地に溜まるしかなくなる。
 この松本盆地甲府盆地には、諏訪神社が異様なほどたくさんある。諏訪神社は、八幡神社などとともに数の多い神社だが、その大半は、長野県と山梨県新潟県に集中している。
 松本盆地の水を外に出すための犀川の貫通事業において、小太郎伝説があるが、小太郎の母親が諏訪明神の化身となっている。
 諏訪明神というのは、タケミナカタと、その妃の八坂刀売神(やさかとめのかみ)の2神を指すが、八坂刀売神は、海人の安曇氏との関わりがあると考えられており、松本の北には、安曇氏の拠点だった安曇野という地名が今も残る。
 また、松本盆地から犀川が出ていく場所に、安曇氏の祖神を祀る穂高神社があるので、松本盆地から水を出す事業に海人の安曇氏が関わっていた可能性が高い。
 ならば、同じく諏訪神社が集中し、かつ水の出口が1箇所しかない甲府盆地も同じようなことがあったのではないだろうか?
 実際に、甲府盆地には稲積地蔵の伝承があり、地蔵が、「甲府盆地の水を抜けば肥沃な土地が現れるはず」と、神様に相談した。そこで、穴切(あなぎり)明神が山に穴を開け、蹴裂(けさく)明神が岩を蹴り飛ばし、さらに瀬立(せだち)不動が川を作って水を導いた。こうして、甲府盆地の水は抜け、人々は豊かに暮らせるようになったと言われている。
 稲積というのは、どうやら地名を指しているようなのだが、甲府盆地の真ん中に、稲積神社が鎮座しており、この神社の由緒でも、今から2080年前、甲府盆地は湖沼地帯であったが、第10代崇神天皇四道将軍建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の東征の際に、湖岸を切り開き水を富士川に流したと記されている。
 こうした伝承を探っても、甲府盆地と海人の直接的な関係は見えてこないのだが、奥秩父金峰山あたりを源流として甲府盆地に流れ込む川は、荒川と笛吹川がある。
 荒川の流域は、水晶など鉱物資源が豊かで、水晶の鉱脈が走る昇仙峡を通って甲府盆地の北の甲斐市に至るのだが、ちょうど盆地に入ったところが大塚古墳など古墳の集中地帯となっている。

大塚古墳(山梨県甲斐市


 笛吹川は、甲府盆地に入ると、巨石を祭神とする立石神社や大石神社など古代からの聖域や、縄文遺跡として有名な釈迦堂遺跡などの近くを流れ、かつて国府のあった笛吹市を抜けて、北から流れてくる荒川と合流するのだが、その合流点が曽根丘陵で、ここから富士五湖への道が続く。
 曽根丘陵は、石器時代縄文時代古墳時代の集中地点で、今も、東日本では最大級の甲斐銚子塚古墳などの古墳群が見られるし、ここにある山梨県立考古学博物館に陳列されている縄文土器は、日本の考古学博物館の中では最も充実し、質が高いものがそろっており、山梨が縄文王国であったことを今に伝えている。

甲斐銚子塚古墳

 

 さらに、曽根丘陵にある鳥居原狐塚古墳(とりいばらきつねづかこふん)からは、238年の紀年銘をもつ鏡が出土している。
 魏志倭人伝で、卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を賜ったのは239年で、この年代より古い年号が刻まれた鏡は、日本全国で3枚しか出土しておらず、ここ以外では、大阪の高槻の安満宮山古墳と、丹後の峰山にある太田南5号墳だ。
 高槻の安満宮弥生遺跡は、日本最大級のスケールがあり、近畿に稲作が入ってきた最初の場所とされており、丹後の峰山は、扇谷とか奈具岡など弥生の最先端都市がある他、弥生時代としては最大規模の墳墓である赤坂今井墳墓がある。
 近畿の淀川流域と丹後が古代の先端地域であったことは歴史好きには知られている。ヤマト王権の拠点は近畿だと考えられているため、古代の文化は西高東低で、東国は遅れていたと一般的には思われている。
 しかし、山梨盆地や、その北の諏訪から松本盆地は、縄文王国であり、山梨盆地の曽根丘陵に残る痕跡を見ると、石器時代から縄文時代弥生時代から古墳時代まで、連続している。
 この歴史の連続に思いを馳せるうえで、非常に不可思議な事実が、ここにある。

ライン上の北から、糸魚川の青海海岸(ヒスイが拾える海岸)、長和町資料館原始・古代ロマン体験館(黒曜石の産地)、八ヶ岳連峰(蓼科山、赤岳)、縄文の梅乃木遺跡、甲府盆地の大塚古墳、銚子塚古墳、富士山、伊豆の河津町の段間遺跡(神津島産の黒曜石の加工場)。  東西のラインは、西の伊勢神宮と茨城の鹿島神宮の距離が400kmで、富士と伊豆と糸魚川を結ぶラインは、その中間にあたり、直角に交わっている。

 

 この地図は、富士山と八ヶ岳の赤岳や蓼科山を結ぶラインを延長したものだ。富士山と八ヶ岳のラインは東日本の火山帯の端にあたるが、このあいだの北杜市などには、縄文遺跡が無数にある。
 実際に訪れると、縄文遺跡のあるところは、富士山と八ヶ岳の両方の姿を確認できる風光明媚な場所が多い。
 そして、不思議なのは、甲府盆地に2箇所ある古墳の集中地帯は、上に述べたように奥秩父金峰山を源流とする荒川でも結ばれているが、さらに富士と八ヶ岳の赤岳と蓼科山を結ぶライン上にある。
 さらに、このラインを北に伸ばして日本海にぶつかるところが糸魚川の青海海岸で、ここは、ヒスイの鉱脈のある姫川と青梅川に挟まれたところで、今でもヒスイ拾いの海岸として有名である。この糸魚川のヒスイは、古代、北海道から、九州、沖縄まで流通していたことがわかっている。

明星山。この麓がヒスイ峡で、ここのヒスイが、川によって、糸魚川の青梅海岸まで運ばれる。

 また、同じラインを南に伸ばして太平洋にぶつかるところが、伊豆の賀茂郡河津町の段間遺跡で、ここは、古代、神津島産の黒曜石の加工場だった。この場所で黒曜石を石器に加工して日本各地に流通させていたことがわかっている。
 さらに、ライン上の糸魚川八ヶ岳のあいだに、ドンピシャで長和町資料館原始・古代ロマン体験館があるが、この周辺は黒曜石の産地であり、黒曜石を通じて古代世界を紹介する場所である。
 そして、ライン上の八ヶ岳甲府盆地のあいだが、縄文時代の梅之木遺跡(北杜市)であり、この高台からは、眼前に連なる南アルプス雄大な風景が望める。
 このように見ていくと、富士山と八ヶ岳の赤岳と蓼科山を結ぶライン上に、縄文時代の重要な聖域が重なっており、さらに、甲府盆地の南北の端では、古墳の集中地帯がある。
 さらに、興味深いのは、このラインは、三重県伊勢神宮茨城県鹿島神宮を結ぶラインと富士山の南麓で直角に交わるのだが、伊勢神宮鹿島神宮のあいだが400kmで、このラインは、ちょうど中間点の200kmのところを走っている。
 茨城の鹿島神宮の場所は、日本列島を南北に分断する中央構造線の東端で、伊勢神宮もまた中央構造線上にある。
 また、糸魚川から伊豆にかけてのラインは、日本を東西に分断するフォッサマグナの西端の糸魚川・静岡構造線である。
 つまり、このクロスラインは、日本を東西と南北に分断する断層と関わっている。
 さらに、中央構造線鹿島神宮からほぼ真西に向かい奥秩父を経て八ヶ岳を越え諏訪湖あたりに出て、そこから西南方向に伸びて伊勢神宮に至るのだが、鹿島神宮から諏訪までの距離と、諏訪から伊勢神宮までの距離も、約220kmで同じである。
 伊勢神宮はアマテラス大神の聖域で、鹿島神宮は、アマテラス大神の使いとして大国主に国譲りを迫ったタケミカヅチを祭神としており、諏訪大社は、国譲りに最後まで抵抗したタケミナカタの聖域となっている。
 国譲りの神話に関係する3神の主要聖域の配置が、220kmの間隔でつながっている。
 これらの位置関係が偶然なのか計画的なのかはわからないのだが、さらに興味深いことがある。
 神津島の黒曜石の加工場所であった段間遺跡の河津町来宮神社が鎮座しており、熱海の来宮神社も有名だが、伊豆半島来宮神社があるところには、鹿島踊りが伝えられている。

 

伊豆半島河津町にある来宮神社。この海岸に、神津島の黒曜石の加工場だった段間遺跡がある。

 名前からしても、この踊りは茨城の鹿島神宮と関係が深いのだが、海からの来訪神を迎える踊りであり、来宮神社の祭神は五十猛神で、この神は、船造りや海上交通と関わりの深い神である。
 神津島の黒曜石も、糸魚川のヒスイも、日本各地に流通させるうえで、当然ながら海上交通が重要だった。
 そして、この糸魚川と伊豆を結ぶライン上の山梨や長野といった内陸部で、かつては湖だった場所の水を外に流すという事業が行われたという伝承に諏訪明神(海人の安曇氏と関わりのある八坂刀売神)の存在が見え隠れする。
 卑弥呼が魏から賜った239年以前の年号が銘記された三つの鏡のうちの一つが甲府盆地から発見されていることも含め、海人のネットワークが、古代の物と、文化と、コスモロジーの伝達に大きな力を発揮していたことは間違いない。
 そして、コスモロジーの伝達において、方向や距離などを含む「地理」が、何かしらの深い意味を持っていたようで、その地理に通じていたのが、海人だったのではないかと思われる。
 ________________________
ピンホール写真とともに旅して探る日本古代のコスモロジー
Sacred world 日本の古層Vol.1からVol.3、ホームページで販売中。
http://www.kazetabi.jp/