第1308回 自由からの逃走

 エーリッヒフロムは、ナチズムに傾倒していったドイツのことを深く考察し、「自由からの逃走」という本を書き上げた。

 ドイツ国民は何が原因であのような状況となり、また何に導かれてあのように進んで行ったのか?

 一人ひとりは、真面目で、誠実で、決して暴力的ではなかったはずのドイツ人の集団が、なぜ、あのような狂気を生み出したのか?

 エーリッヒフロムは、その理由の根源に「自由」を位置付けた。

 現代人は、自由に生きているように見えて、実は、とても不自由に生きている。

 フロムが指摘している不自由さとは?

 自分の思考、感じ方、感情、欲求、意思などについて、多くの人は自分のものだと思っているけれど、実際は、社会的に周りの人から期待される社会的常識などによる思考や感情や意思や欲求で形成されていて、本当に自分自身に由来するものではないことが多いということ。 

 マスメディアの宣伝などに踊らされているだけということもあるし、「そういうもの」として刷り込まれていることも、とても多い。

 高額なブランド品を身につけて、自分に似合っているかどうかが判断できなくなり、インフルエンサーと言われる人の言動を追いかけていれば、世の中についていけるように錯覚してしまう。

 多少の知識教養のある人でさえ、世の中で立派だと権威づけをされている人が、正しいことを言っていると思い込んでいる。

 自分で考えるということ、自分で感じるということが、どういうことかわからなくなって。そうした状況へと、知らず知らず自分で自分を導いている。それが自由からの逃走。

 自由からの逃走を促進する力は、「権威」に弱いことや、「画一的」な思考や行動、「機械的」な対応だ。

 エーリッヒフロムが唱えた「自由からの逃走」は、ナチズムの時代だけで終わったのではなく、実は、今も続いている。

 私は、心理セミナーのようなものにも興味がないし、大学がやっているシンポジウムなんかにも興味がない。

 多くの人が、「そういうもの」だと思い込んでいることに対して、「本当にそうだろうか?」 というのが、自分の思考や行動の原点にある。

 今の世の中、どんなに立派な人でも、また、戦争や平和、環境など、社会の問題、社会の病を指摘する人でも、言っていることは、他の誰かが言っていることであることが大半で、本当にその人の中から出ている言葉と思える言葉は、非常に少ない。

 人は何のために生きるのか? という問いは、多くの人が抱いていることだが、何不自由のない時代に生きているように見えて、不自由さを感じているのは、自分の物の見方、感じ方、考え方、行動の仕方が不自由になっているからだろう。

 私は、現在、定期的に、「現代と古代のコスモロジー」というテーマでワークショップセミナーをやっているのだけれど、こういう場づくりをすることで、自分自身、新たな発見、新たな視点が得られることが、一番大きい。

 自分で自分を変えていけるというのが、「自由」の要だと思う。そして、見る角度によって物の様相が変わるという体験、そのリアリティこそが、自分で自分の思考や感じ方を変化させ、生き方を変えていく力になっていくのではないかという気がする。

 第4回 古代と現代のコスモロジーは、3月25日(土)と26日(日)に、京都で開催します。

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 オンラインでの視聴を希望する方もいるのだけれど、さすがに、オンラインだと5時間も6時間は付き合ってられないと思う。オンラインは使い方によってはいいと思うけれど、「場の力」というのはとても大事で、私がフィールドワークを重視している理由もそこにある。

 人は、無意識ながら、その場のエネルギーを感知し、脳の深いところが刺激され、記憶のスイッチが入る。

 単なる歴史のお勉強などつまらない。仏教をめぐって蘇我と物部が対立したなどと覚えてところで、何にもならない。

 ふだん自分が意識できていない記憶にスイッチが入ることで、物の見え方が変わってくることがある。

 人間は、周りの状況に流されやすい生物なので、日常を繰り返しているだけだと、記憶の深いところに栓がされてしまい、視野も狭まり、思考の幅も非常に限定的になっていく。そして、知らず知らず、”そういうもの”だと思い込んでしまう。生きることとはそういうもの、世の中はそういうもの、と。

 しかし、何かをきっかけにして、”そういうもの”という枠組みが取り外されていく感覚になることがあって、それが、真の意味で、「自由」ということではないかと思う。

 

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第1307回 古代、東国は、本当に後進地帯だったのか!?

 明日の3月4日に行う「現代の古代のコスモロジー」のワークショップセミナー。本日、風邪を引かれた方のキャンセルが出ましたので一名の空きがでました。
 今回は、武蔵国(東京とその周辺)を掘り下げます。
 一般的な歴史認識だと、日本の歴史は近畿を中心に進んできて、関東は遅れていたとされるが、この歴史観は、そろそろ見直す必要があるんじゃないかと思う。
 たとえば前方後方墳にしても、日本で一番多いのは千葉県(733)、その次が茨城県(455)、第3位が群馬県(391)で、4位の奈良(312)以下を引き離して関東が圧倒的に多い。
 しかも、大和政権発祥の地と教わってきた奈良盆地の纒向地方に現れた初期前方後円墳と、同じ頃、同じタイプの古墳が、千葉県の市原市に現れている(神門古墳群)。
 縄文時代は、北海道から東北、そして群馬、長野、関東といった東日本の方が圧倒的に栄えていたことはわかっているのだが、弥生時代、稲作が西から入ってきたというイメージに支配されているため、東国が後進国というイメージが定着した。
 しかし、普通に考えれば、日本は現代でも国土の70%が山岳地帯だが、古代の海面はもっと高く、大阪平野濃尾平野などは海に覆われていた状況であり、広大な関東平野がある東国が、未開拓に放置されていたはずがない。
 その関東に米を作らせ、近畿の権力者がそれを搾取したと考える人もいるかもしれないが、一権力による数百年に及ぶ支配が不可能なのは、その後の歴史を見ればわかる。
 日本の古代史に東国があまり登場しないのは、歴史を記録してきたのは近畿の朝廷だが、東国が、それとは異なる原理で動いていたからかもしれない。
 史実としても、壬申の乱の時、天武天皇は、東国の力を得て勝利することができたとある。
 古代中国においても、『史記』など歴史を記録していたのは漢など中国王朝で、北方の匈奴を討伐するというストーリーで歴史が書かれているが、実際には、匈奴に対して毎年のように貢物を届けていた。匈奴の方が、圧倒的に強かったのだけれど、匈奴が文字を持たなかったために、その史実が後世に伝わらなかった。
 日本においても、似たようなことがあった可能性がある。
 7世紀頃、日本における古代の歴史を文字化していたのは、主に近畿(河内や奈良)に移住していた文人(ふみひと)と呼ばれる渡来人である。
 文字に記録されていない歴史を掘り起こすためには、その土地に刻まれている記しを解いていくしかない。
 そして、日本という国の特殊性は、土地に刻まれた古代の記しを、ずっと残し続けていることなのだ。
 神社の場合、立派な本殿は、多くが後から入ってきた神様だが、土地の古い神様は、末社や摂社に残されている。
 古墳の場合、異なるコスモロジーを反映した形の違う古墳が、隣り合うようにして残っている。(後から古墳を築いた者が、前の古墳を破壊して石材などを再利用するといったことを行なっていない)。
 新旧の勢力の出会いが、アラハバキ神のように、抽象的な形で後の時代に引き継がれている。
 そして、地理や地勢を、キーワードのように活用している。特に、関東では富士山、筑波山男体山など遠くからでも望める目立つ山と、聖域の位置関係が、メッセージを共有するためのように意識的に行われている。
 それらは、一種のコスモロジーとして、現代でも確認できる。
 歴史の専門家でなくても、そのコスモロジーに触れて、そのコスモロジーを構成する一つひとつの事実を確認することができる。
 歴史研究の専門家たちが行なっているような、正しい答えを求めるための議論は不要である。
 なぜなら、土地に刻まれた記しは、事実としてそこにあるだけであり、その事実を確認するだけで、あまりにも不可思議な、しかし、動かしがたいものとして、歴史が浮かび上がってくるからだ。
 あとは、その事実を、どう受け止めるかだけの問題となる。

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第1306回 ”ことば”と写真家の関係

 

「写真集制作のためのポートフォリオレビュー」というのを始めたのだけれど、写真表現を行っている人で、「文学には興味がない」とか、「自分は言葉が苦手だから、言葉にならないことを写真で表現する」などと軽々しく言う人がいるけれど、果たしてそれでいいのだろうか?

 

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 私がこれまで仕事をしてきた素晴らしい写真家で、深い文章を書く人は多かった。鬼海弘雄さん、ジョセフ・クーデルカ、川田喜久治さん、野町和嘉さん、水越武さん、ユージン・スミスの文章も素晴らしいし、ほとんど例外なく、優れた写真家は、優れた文章を書く。画家だって、音楽家だってそうだ。ピカソセザンヌ加山又造東山魁夷武満徹など、数え上げたらキリがない。

 そうした優れた表現者も、言葉にならない領域を表現しようとしている。言葉で伝えられるレベルのことであれば、あえて写真や絵画で表現するよりも言葉の方が伝わりやすいのだが、「言葉にならない領域」というのは、その人が、言葉をどれだけ掘り下げているかによって違ってくる。

 言葉で掘り下げていない人が口にする「言葉にならない領域」というのは、その人にとってはそうかもしれないが、他の人にとっては、言葉で言った方が早いんじゃない、という程度のものかもしれず、だから、その人の写真には、他の人には真似のできない何かが備わってこない。

 鬼海さんは、癌の治療のため、抗がん剤を投与されて心身ともキツかった筈だけれど、病院の枕元にはたくさんの本があった。写真関係の本は一冊もなく、文学本が大半だった。

 文学から遠い人で、「自分には悪気がなかった」と、平気で言えてしまう人がいる。相手に対して雑な対応をしていても、自分が鈍感もしくは想像力が足りないから不誠実の認識に至らないだけなのに、「自分は悪気がなかった」と言い訳をしてしまう。

 優れた写真家は、そうした無神経さを自分自身に許さないので、とても丁寧に誠実に相手に対応する。

 それは当然のことで、なぜならカメラという道具が、使い方によっては暴力になってしまうことを、よく知っているからだ。カメラは、使い方を間違えば、人を傷つけたり真実を歪めたり被写体を自分に都合よく利用するだけのものになる。

 20世紀までは、そうした暴力的な自己主張にすぎないものがアートだと持てはやされたことがあったが、それは、人や物をどれだけ消費するかを競争する社会だったからだ。未だにその感覚を引きずっている自称アーティストがいるとすれば、それは時代遅れの鈍感さゆえのことであり、そうした資質は、芸術性からもっとも遠い。

 消費社会の行き詰まりは、鋭敏な感性の人たちなら誰でも意識できていることで、精神の羅針盤である表現者が、それに対して無神経であっていいはずはない。

 人や物を消費するのではなく、人や物の中に本来備わっている力を引き出すことが、21世紀の表現者のミッションであり、そのためには、被写体に対する誠実さや配慮、被写体に耳をすますことが、とても重要になる。

 カメラという道具の良し悪しは、カメラを使う人の心構えで大きく違ってくる。カメラによる表現活動を志している人は、その道しるべになるという信念や覚悟をもって欲しい。

 現在、写真家を名乗る人は無数にいるのだが、いわゆる写真愛好家の中で、良いとか悪いとか新しいとか古いと評価し合っているだけで、他の表現領域においても尊敬されている写真家は、ほんの一握りだ。

 私はその何人かを知っているが、その人たちは、被写体に対して誠実に取り組んでいる人たちであり、人や物の中に本来備わっている力を引き出すことができる人で、深い文学性を備えている。そういう人だけが、写真界という領域を超えて、普遍性にいたっている。

 目の付け所が斬新だとか、構図が素晴らしいとか、シャッターチャンスを逃さないとか、自分の餌を探すように周りをギョロギョロ見て、フィルム代のかからないデジタルカメラということもあって何枚もシャッターを切っていればセンスのいい一枚があるかもしれないという感覚でやっていると、世界の深いところと自分の内面が写真を介して深くつながるという喜びとは無縁なので、けっきょく、写真愛好家のコミュニティで、「いいね!」と言ってもらえることだけが目標になる。

 カメラを使う技術を身につけているだけでも特別だった時代ならば、カメラ愛好家内の評価にも少しは意義があったが、今はスマホで誰でも簡単に写真が撮れる時代だ。

 鬼海弘雄さんは、カメラを持って1日中歩き回っても、2、3回ほどしかシャッターを押さなかったが、それはシャッターを押すことにとても慎重で、自分の無神経さによって、物事の本質を歪めてしまうことを恐れていたからだ。

 「人間の尊厳」などという言葉が安易に使われる時代だが、人間の尊厳を損なう方向に進んできた近代に発明された写真表現を、人間の尊厳を取り戻すために使うのか、それともさらに貶める方向に使うのか?

 近代兵器のカメラで無神経に撃ちまくる人は、そんなこと考えもしないだろうが、21世紀の写真家を志す人は、そうした文学的な問いを自分に課した方がいいのではないかと思う。

 

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第1305回 いのちを繋ぐ力とは

若い友人に返答するための文章を書いていたら、「コスモロジー」というテーマで、本作りやワークショップを行っている自分の潜在意識が浮かび上がってきた。

 「Sacred world」の本作りにおいて、私は、古代史研究をやっているつもりはないし、写真においても、ピンホール写真で表現技法の面白さを追求しているわけでもない。

 この本作りで、歴史の深層に降りていこうとしているのは、現代社会に生きる私たちのコスモロジー(考え方や感じ方)が、「人類」にとって当たり前のものでも普遍的なものでもなく、時代環境が作り出したものにすぎず、それゆえ環境変化によって変わりうることを具体的な問題として考えたいからだ。

 そうした変化の先に未来があるのだとすれば、未来は、記憶の中に潜んでいながら意識化できていない領域で、形になるのを待っている可能性がある。

 また、そのように潜在化したものにアクセスするためには、「見る」という行為ではなく、「見通す」とか「見出す」とか「見透かす」といった眼差しが必要になる。これらの眼差しは、レンズとしての目に、洞察力が加わってくる必要がある。

 そして、見出したり見透かしたりする眼差しは、レンズ描写に重きを置きすぎる高性能カメラでは、むしろ曇らされてしまう。そういう感覚があるから、私はピンホールカメラを使っている。

 ピンホール写真は、人間が初めて「カメラ」という道具を通して世界を再現した時の驚きを伝えてくるが、その驚きは、現実を明確に映し出す力ではなく、実際に目にしている状態よりも強く想像力に働きかけてくる力によるものではないかと思う。

 写っているものの背後に何かを感じるという感じ方。それは、素晴らしい絵画から感じるものと同じであり、だから、写真の黎明期の19世紀、その写真効果は、画家のインスピレーションを大いに刺激した。

 見るのではなく、「見通す」とか「見出す」とか「見透かす」という力こそが、生きていくうえでとても大事であることは、多くの人が経験上、程度の差はあれ知っている。

 たとえば、詐欺師に簡単に騙されないためには、「見ぬく力」が必要だし、砂漠の中で、どちらの方向に歩を進めるかの判断は、見えている光景や気配から、オアシスのある場所を見通したり見出せるかで変わってきて、その力が生死を分かつ。

 現代社会においては、「いのちを大切に」とか「いのちの尊厳」とか、「いのち」という言葉が安易に使われて氾濫しているのだが、「いのちの尊厳を守るために、環境を整えてあげることが大事」という発想を当たり前のこととして持っている心優しきナイーブな人がとても多い。

 現代社会の思考の癖(コスモロジー)は、たとえば、身体に必要な栄養素が、ビタミンCだとかカルシウムだと科学的に証明されると、そうした栄養素を身体に与えればいいという発想になって、それを最も合理的に行う方法としてサプリが開発され、宣伝され、販売されるのだが、身体に良いとされるサプリを摂取し続けても、どうにも身体が怠く感じられて新たに異なる種類の栄養サプリを摂取するという展開につながっていく。

 この思考の癖が陥っている問題は、そうした栄養素を含むサプリを投与したとして、それを消化吸収するために身体側に準備が整っているかどうかという問題が、棚上げにされていることだ。

 私は世界中の色々な国を旅してきたけれど、私が訪れた当時、パプアニューギニアの人たちはタロイモを主食として肉類などほとんど食べていないのに筋肉隆々だったし、エチオピアの人たちは、蕎麦粉のクレープから十分な栄養分を吸収していた。なのに、飢餓の際に送られる支援物質は小麦であり、その後、穀物メジャーが牛耳る小麦が食卓の中心になっていき、栄養失調気味になっていった。

 かつては、タロイモや蕎麦粉から必要な栄養素を吸収できる身体を持っていたのに、その身体力が活かせないような食卓になった。

 ゴリラや象は、草だけを食べても、あれだけの身体を作ることができるのだから、どんな栄養素を外から与えるかが問題なのではなく、自分の生存環境に備わっている栄養素を、どれだけ吸収できるかが重要であり、おそらく、”いのちをつなぐ”力というのは、そうした身体能力に宿っている。

 「いのちをつなぐ」というのは、単に子孫を産んで育てていくという意味ではなく、他のものに備わっている”いのち”を、自分のものに吸収して、そのうえで、他に伝えていく力。それが、いのちをつなぐこと。

 その吸収力が弱まっているのに、外から与えればなんとかなるだろうという発想が浅はかで歪んでいる。

 これは、ニュース報道や学習においても同じで、知恵や情報や教訓を吸収する力が減退していないかどうかが問われなければいけないのに、それらを与える環境ばかりが議論の対象になる。

 人が発する「言葉」から言葉の背後を読み取る力も吸収力だけれど、出版社が販売する本の比重は、文脈を読み取る力が弱まっている人でも「わかりやすい」ハウツー本に傾いている。 

 「わからない」という人のために、「わかりやすくする」ということが良いことだと思っているようだが、「わかりやすくされたもの」を通して、「わかった」というのが、本当にわかっていることなのかどうか、という問題が棚上げにされている。

 「わかる」というのは「汲み取る」ことであり、そうした力を育てることが、世界(社会)の中で生きていくための教育なのに、与えられた答えを真に受けてしまう人を作ることが、現代社会における教育になってしまっている。

 現在、巷で話題になっている人工知能技術を使ったチャットGPTは、そうした現象を加速させたうえで、多くの人を、窮地に追い込むことになるだろう。

 情報もそうだし、食事もそうだけれど、いろいろなものを満遍なく摂取した方が、本当に良いのだろうか?

 食事は、毎日同じものを食べていると、本当に栄養が偏ってしまうのだろうか?

 ご飯と味噌汁と漬物だけでも、身体の側に「消化」の準備が整っていたら、必要なタンパク質もビタミンも、限られた食材から搾り取ることができるのではないだろうか。その準備は、消化器官に棲息する微生物との連携によって行われるのであって、同じものを食べ続けることで、それらを消化吸収するうえで力を発揮する微生物が増えることが考えられる。

 内臓は、口から肛門までの管なのだから、サプリを口に入れても、その途中に何らかの働きが作用しなければ、外に出ていってしまうだけだ。

 ニュースで伝えられる情報も、学習も同じ原理だと思う。人付き合いだって同じで、色々なタイプの人と満遍なく付き合えば人脈が広がって自分の視野も広がるなどと言う人がいるが、本当だろうか?

 自分の内側を整えて消化力を高めていないと、サプリにお金を使うのと同じで、人付き合いのために出費を重ねるだけだろう。

 「母の味は、おいしい」という事実は、何を指し示しているのか?

 それはおそらく、身体が、母が作った料理から栄養を吸収する準備を整える回路を作り上げているからだ。 

 身体に毒なものを口にした時に、人は、変な味、まずい味を感じるわけだから、舌は、”いのち”のつなぎに直結するセンサーになっている

 身体が積極的に吸収する回路につながるものは、おいしい。身体が拒絶する回路につながるものは、まずい。

 おいしいという期待が、身体に準備をさせ、その吸収力を高めるから、おいしいものは、身体に良い。

 いのちにとって危険なのは、そのセンサーが麻痺すること。

 これは学習にしても同じで、学習が苦痛を伴うものであると思われてしまっていることが現代社会の問題で、これは教える側に責任がある。

 学習することが苦痛ではなく歓びであることは、発展途上国の子供たちが、学ぶことに対して目を輝かせている事実が証明している。そして、楽しく歓びを感じる心身は、吸収する準備を整えている。

 楽しくない学習の場を作り続けている国の将来は、非常に危ういものになることは間違いないだろう。

 私のワークショップに来た人の多くが、学校でこういう歴史を教えてもらっていれば、歴史に対する意識がまったく違ったものになっていたのにと言う。

 歴史を知るというのは、単に過去に起きたことを情報として身につけることではなく、人類という特殊な生物と世界の関係を知ること。

 人類の何が特殊かというと、多くの生物にとって世界というのは、自然界だが、人間の場合の世界は、自然界に人工界が重なっていくところにある。

 しかし、その人工を生み出す人間も、自然の一部であり、自然の一部であるということは、人工を生み出している人間は意識できていないけれど、この人工の展開にも自然界と同じく必然的なサイクルがあり、法則性の中にあるということ。

 人間は、自らの意識と意思で人工を積み重ねているつもりだけれど、自然が作った脳の働きであるかぎり、自然の摂理と無縁でいられないということだ。

 人工世界の背後にある自然の摂理を見出し、見通し、汲み取るためには、人工世界が次々と繰り出すものだけに目を奪われていてはダメだろうし、自然の中に籠もればいいわけでもない。

 自然と人工の狭間で、双方からの情報を吸収する力を育むことが、結果的に、特殊な生物である人類のいのちをつなげる力となる。

 だから、太古の昔から、人類の神話は、自然と人工の様相が、縦糸と横糸で織り成され、そうした方法で、人類の歴史が、いのちをリレーするように伝えられてきた。

 人類にとってのコスモロジーの表現は、そのような神話的手法が適っていた。

 それは、過去だけのことではなく、現在においても変わらない。

 

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第1304回 われらの時代の終焉(3)

 現在、私が行っているワークショップセミナー「現代と古代のコスモロジー」でも、重要な鍵を握るテーマなのだが、私は、ブリコラージュ型の思考や仕事と、エンジニアリング型の思考や仕事について意識的に話をしている。去年の11月に行ったスタンフォードの学生向けのレクチャーも、これがメインのテーマだった。
 私は、「あなたは何をしている人ですか?」と問われたら、「編集」と答えたいのだけれど、「編集」に対して、あまりにも狭い範囲の仕事内容で処理してしまう人が多いので、「風の旅人 編集長」と、境界がボヤけるような返答をする。そうすると、風の旅人とは何なのか?という問いが残るからだ。
 風の旅人は、2015年10月に第50号で終わっているが、創刊者も私だし、他の雑誌と違って、私以外に編集長はいないから、それでいいだろうということで。
 世の中には、「編集者」という名刺を持つ人は無数にいる。また、「アーティスト」や「写真家」や、「学者」もそうだ。それらを一括りにして「先生」と呼んだりする奇妙な現象もある。
 けっきょく、こうした現象も、標準化であり、画一化である。
 その人、それ自体が、何を、どの深さでやっているか?ということが、問われていない。こうした状況は、エンジニアリング的発想の行き着く先だ。
 どういうことか、もう少し詳しく説明すると、たとえば、一つの壁を作る時に石材が必要だとすると、壁の大きさや場所などから判断して、必要な大きさのピースを、必要な数だけ集めて作る。つまり、各部分は、”計算”によって集められる。ピースの固有性や個性は、どうでもよく、全体を構成するための材料でしかない。これがエンジニアリング的発想で、そのようにして出来た壁の大きさやキレイさを競争し、自慢し合うことが、現代社会の特徴なのだ。
 これは、個人のPRにおいても同じで、経歴や賞歴などを並び立てるのは、自分という壁全体を大きく見せたり、美しく見せる発想と同じで、個々にやってきたことの固有性は、問われていない。
 表面的に整えていても、本質的に、何をやっているのか、何をやろうとしているのかが、伝わらない。”計算”で、ピースを集めているだけだからだ。
 これは、いろいろなところで行われているイベントなどでも、よくある方法だ。
 コンセプトを決めて、そのコンセプトにそって、ネームバリューのある人を集めて体裁を整える。賞の選考委員なんかもそう。
 もちろん、雑誌づくりなども同じで、”計算”つまり、”打算”で、設計図にもとずいてピースを集めていく方法が、エンジニアリングの方法だ。
 そして、多くの人は、「編集」という仕事は、このエンジニアリング的な発想でピースを集める人のことだと思っている。
 私が、風の旅人や、それ以外の本を作ったり、プロジェクトやイベントを行う場合は、これとはまったく違うアプローチとなる。
 その方法は、一つの壁を作る時に、計算して切りそろえたピースを積むのではなく、石工の石垣作りのように、一つひとつ、形も大きさも違う石を、それぞれがどこに置かれるべきか石に耳を傾けて、積んでいくという方法をとってきた。
 寄せ集め=ブリコラージュの発想であるが、なんでもいいから寄せ集めるのではなく、その場に耳を傾け、そのあとで石に耳を傾け、その場とマッチする石を計算ではなく直感で選び、選んだ石とうまく組み合わさる石を選びとって、さらに組み合わせていく。
 現在、私が行っているプロジェクトの「古代のコスモロジー」においても同じで、歴史の専門家の学説は、彼らが所属している学会などのルールに従って、切りそろえられている。学会全体として大きくて見た目のよい壁を作ろうとして、一つひとつの研究発表なり学説は、その材料でしかない。
 私が耳を傾けるのは、時代環境のなかで標準化し、均質化させられた彼らの学説でなく、たとえば近年の考古学調査で出土してきて、まだ説明がなされていない物それ自体だ。
 時間が止まってしまった日本の20年は、実は、新たな考古学発見が相次いでいる期間でもある。
 高度経済成長の時にはありえなかったはずの、3年くらい工事を止めての発掘調査が、きちんとなされている。
 たぶん、経済成長の時は、土器の破片が出ていても無視されて、ゴルフ場や高速道路が作られてしまったのだろうと思う。
 幸いなことに、そのように新しく出土した物たちは、意味付けされることなく、それぞれの地域で報告書がまとめられており、インターネットで見ることができる。
 特に難しいことではなく、たとえば私は、初期の前方後方墳と後期弥生時代との関係が気になっているが、初期の前方後方墳のある場所の地域名と「弥生遺跡」という言葉をインプットするだけで、PDF化された発掘調査の報告レポートにアクセスすることができる。
 「条件付け」で、眠っているものを引き出せるということが重要なポイントであり、実は、未来のコンピュータである量子コンピューターは、この条件付け(アルゴリズム)が、もっとも大事なのだ。
 インターネット空間の中には、0か1になるか決まっていない膨大な情報がある。まずはその全体像と向き合って、条件付けによって、0か1かを確定させていって繋いでいって解を求めていくのが量子コンピュータのアプローチであり、これは、ブリコラージュ的発想と同質のものだ。
 それに対して、古典的コンピューターというのは、エンジニアリング的発想に基づいており、古代のことについて解を求めていく場合、一つひとつの論文学説を精査し、0か1かを確定させていく。その際、前提として仮説があり、それを実証するというスタイルをとる。仮説と実証がうまくいっていれば1とし、ダメならば0。その1を積み重ねていくことで、仮説を実証する強度を増していくという方法をとる。これは、犯罪者の有罪を確定させていく時に使う手と同じだ。
 しかし、仮説の検証としてうまくいっていない論文の中に、たとえば出土した物で、とても重要な鍵を握るものが記述されていたりするのだが、その重要性が無視されて闇に葬られているということがある。
 たとえば石垣を作る時に、小さな断片があっても、役に立たないだろうと捨てずにおくと、大きな石と石のあいだを埋めるものとして最適であるということがあり、結果的に、石垣を強度なものにしてくれる。
 エンジニアリング的発想が陥る罠は、ここにある。正しそうなものだけを集めて、結果的に、大きな間違いにつながってしまう。
 現在、世界的に話題になっている人工知能、チャットGPTも、エンジニアリング的発想で作られているから、大きな間違いにつながるのに、それが強い説得力で伝えられてしまう可能性がある。
 具体的には、健康の問題などがある。カルシウムとかビタミンCとか、健康のために必要だと証明されているものを、エンジニアリング的発想の人間は強く意識している。
 しかし、石組みの論理と同じで、立派な石と石のあいだをつなぐ破片のような小さなものがなければ、その石垣は崩れてしまう。
 エンジニアリング的発想は、何の役に立つかわからない小さな断片を最初から切り捨ててしまう。だから、そういうサプリメントは存在しない。そして、ビタミンCやカルシウムのサプリメントばかり摂取している人がいる。健康におけるこの発想は、かなり危うい。
 「身体に必要な栄養素をバランス良く含んだ食事」というのも問題で、一つひとつの素材は、確かにそれを含んでいるかもしれないけれど、それを消化することができるかどうかは、人間の身体の側の問題だ。
 今、私が書いているような「問い」に対する「解答」は、チャットGPTが、スラスラと、それらしく答えを出すことが得意の分野だ。なぜ、得意なのかというと、そういう言説がすでに出回っているからであり、その間違った言説を、チャットGPTは集約化し、強化する。
 しかし、パプアニューギニア人は、タロイモだけ食べていても強靭な身体を持っていたことを私は知っている。そば粉を主体としたインジャラを食べていたエチオピア人に、支援物質という戦略で、結果的に小麦を売りつけた欧米。あの国で、栄養不足の問題が生じるようになったのは、それからだ。
 ゴリラや像は、栄養のバランスなど考えず、草だけを食べて、あの身体を作り、維持している。
 栄養は、与えられるものの問題ではなく、引き出す側の問題だ。引き出す側は身体であり、そこに何の働きをしているのかよくわからない微生物も含まれる。
 エンジニアリング的発想は、そうした、「よくわからないもの」を無と捉える。
 私にとって、風の旅人という媒体の編集は、ブリコラージュの発想で世界を再編成することだった。
 古代のコスモロジーのプロジェクトも同じで、学会など関係なく、私自身のブリコラージュの方法で、古代を再編成することを目指している。
 作り手側の論理によるのではなく、向き合っている対象のなかに潜んでいる何か大事なことを引き出すこと。その引き出す方法は、石工の方法と同じで、組み合わせていくことで最適化をはかる。これは、経験を積めば、実際にあれこれ組み合わせる前にわかるようになってくる。石工にとって、石の声が聞こえるというのは、そういう境地だろう。
 私の場合、石工と同じように、長年の経験で写真の声は聞ける。だから、写真の編集は、あれこれ考えずに、あっという間にできてしまう。実際に、そのようにして風の旅人も、写真集も作ってきた。
 古代のことについても、いろいろな場所に潜んだ声が、少しずつ聞こえるようになってきた。霊感のある人のように一つの場所にじっと立っていれば聞こえるのではなく、私の場合、他の色々な場所を訪れる時に、かつて訪れた場所との関係で、聞こえてくる。 
 つまり組み合わせなのだ。
 古典的コンピューターが一番苦手としていることは、組み合わせの最適化であり、たとえば新薬開発とか、宅急便の配達ルートなどがあるが、量子コンピュータは、その組み合わせ最適化に向いたコンピュータだと考えられている。
 身近なところで、健康に関して言えば、専門家が主張する栄養素を摂ればいいのではなく、身体に耳を傾けて、その声に従って、食事やそれ以外のことの組み合わせの最適化を自分で整えていくことであり、これは、世間の標準化された案には当てはまらず、自分固有のものであり、それができる人が、健康に年をとっていけるだろう。
 これこそが、まさにパラダイムシフトであり、コスモロジーの転換につながるポイントではないかと思う。

 

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第1303回 われらの時代の終焉(2)

私は、ここ数年、20年前の印刷技術革命よりさらに進化した新しい印刷方法によって本を作り続けていて、その方法も公開し、友人の写真家にも伝えているのだけれど、彼らの腰は重い。

 写真業界に比べて新しいことに柔軟なのがアニメの人たちで、彼らはこの新しい方法で自分の表現物を作って世界最大の同人誌即売会、つまりコミックマーケットで売り、新しい交流の中で刺激を受けて触発されて、より新しい物を次々と生み出していて、活気に満ちている。

 現在の写真家(多すぎて、どこまで本物かわからない)は、同人誌とか自費出版よりも、出版社に本を出してもらった方が偉いと思ってしまっている権威思考=志向の人が、わりと多い。(表向きは違っても心のなかではそう)

 だから、他に商売の種がなくなってきている出版業界は、そうした「見栄の強い人たち」を餌食にして、高いお金を出させて共同出版という名の自費出版をさせる。最近では、お金のない彼らにクラウドファンディングでお金を集めさせている。

 そんなことをせずに、もっと安く作れるよと私が言っても、耳を傾ける写真家は一握り。その点、アニメの人たちは、「権威」的ではないから、そういう新しい情報を共有して、新しい方法で次々と本を作り、コミックマーケットに参加している。

 冒頭、私は、現在起きつつある印刷技術革命に対して、「進歩」ではなく「進化」という言葉を使った。

 2月11日と12日のワークショップセミナーでも伝えたのだけれど、人間は、一つの情報ツール(言語)を共有すると、500年くらいでピークに達して、その後は、行き詰まる。

 中国においては3000年前に周が漢字を実用的に使いはじめて、2500年前に孔子荘子老子が出た。地中海では3000年前にフェニキア人がアルファベットを発明して2500年前には哲学者たちが大勢出た。

 日本では、1500年前に、訓読み日本語が発明され実用化が始まり、1000年前に国風文学が生まれ、源氏物語を書かれた。

 なぜか、たった500年で、ピークに達している。

 そして、現代の特有の「情報ツール」が、いつ始まったかというと、西暦1450年頃のグーテンベルク活版印刷技術の発明の時だ。

 大量印刷がその時に始まった。大量印刷というのは、一つの出来事を、一瞬にして大勢が共有する力になる。大航海時代の到来も同じ時代であり、この「標準化」という思考が、全世界に伝わり、広まり、根を張っていって500年が経った。

 「標準化」の思想によって、自分が周りと比べて取り残されているんじゃないかとか、ファッションについていけているかとか、いろいろと、周りの目を気にする思考特性も広がっていく。だから、そこに付け込むビジネスも生まれる。

 このように「標準化」の時代だから、メディアは、王様になれたのだ。

 たとえば、芸術家なども、現代ではメディアに取り上げられると立派に見える。標準化の前の時代はそうではなかった。たった一人の有力者のパトロンに支えられていた天才芸術家は多くいた。

 そういうパトロンは、教養もあったし、本物を見極めるための目も持っていた。けっきょく、そういう芸術家の作品しか後世には残らなかった。

 20世紀、出版社が力を持っていたのは、「印刷」と「流通」を牛耳っていたからだ。そのため、自分の表現を世の中に伝えたい優秀な人を自分のまわりに集めることができた。

 戦後、講談社小学館は、全国の書店ネットワークを構築したのだ。セブンイレブンのように、資金の足りないところにはお金を貸して。

 そのネットワークが、出版社の権力と権威を作った。

 しかし、古代でもそうだったように、人間は、一つの傾向を持つ情報ツールを使っていると500年ほどでピークに達し、その後は、行き詰まる。

 小説でいえば、ドストエフスキーを超えるものは、その後、生まれなくなった。

 どの時代も、行き詰まった悶々とした状況がしばらく続いて、次のステージに移ってきた。古代ギリシャでいえばアリストテレスの登場だが、彼の哲学は、それまでの哲学者のような原理と真理の追求ではなく、あらゆるものを体系的にとらえる「万学」である。

 日本では、小説文学は、川端康成も言うように、1000年前がピークであり、その後は、物事を丁寧に観察するスタイルではなく、道元など、「身心脱落」の文学が創造される。

 500年前に生まれた活版印刷が生んだ思考特性は、インターネットによって受け継がれた。

 インターネットは、前時代の「標準化」を、より強く強要する情報ツールでもある。しかし、同時に、次の時代の架け橋でもあり、「標準化」の圧力から自由になるための情報ツールでもある。その特性を認識していないと、インターネットの負の側面に翻弄されるばかりとなる。

 グーテンベルクの印刷革命によって始まった「情報の標準化」は、20世紀にはピークとなり、その矛盾も明確となった。ここから転換していく21世紀以降の思考特性のテーマは、「標準化」の圧力から自由になるということであり、そうした変化の時には、新しいツールが生まれている。

 私が行っている新しい本の作り方、印刷方法、流通のさせ方もそうだ。

 コミックマーケットに集まる人たちが行っている方法もそうだ。

 いっさいの権威、標準化の圧力から解放された自由な新しいやり方。

 私は、写真界に友人が多く、新しい時代を切り開いてほしいと期待する人たちなのに、アニメの世界に比べて、かなり保守的で、権威に弱くて、辛い状況をさらに辛くしているのが悲しい。

 それは、カメラという装置が、20世紀までの思考のベクトルであった標準化を、より促進させる道具でもあるからだ。

 その極点がスマホカメラだ。スマホカメラを使えば、素人でも、これまでのプロと変わらない綺麗な写真が撮れる時代であり、差別化が難しい。本当ならば、鬼海弘雄さんのように、被写体との向き合い方の深さで自分の表現の固有性を築くべきなのに、自らの権威付けによって差別化をしようとする人が出てくるのも仕方ない。覚悟や忍耐の深さが違いすぎるから。

 しかし、いくら権威づけても、アウトプットされている写真を冷静に見れば、無名の人がスマホカメラで撮ったものと変わらなかったりする。なんとか賞の受賞作と騒いでいても、ワインのブラインドテイスティングと同じようなことをすれば、化けの皮がはがれるだろう。

 共同出版で出した本を、いろいろな賞にノミネートさせたり受賞させて、それをセールストークにして無垢の写真家に働きかけて共同出版という名の自費出版をさせるビジネスモデルを考える人がいるが、それは、ビジネスマンとしては何も間違っていない。もともと、写真のことなんか、本気で考えていないのだから。

 そうしたビジネスが、写真の未来において、害があるかといえばそうとは限らず、そういう行為の虚しさを知る最後通達となるきっかけだと考えれば、その役割を果たしているということになる。

 インターネットの普及で、商店のパンフその他の印刷がなくなり、ネット印刷の台頭もあり、古いタイプの印刷会社は経営が苦しい。そのなかで、時代に取り残されている写真界に目をつけ、写真集の共同出版のビジネスモデルに参入しようと考える頭のいい経営者が現れることも、企業の生き残りのために自然なことだ。しかも、自社で印刷機を持っているため、それを有効に使わないと経営が圧迫されるし、共同出版市場への後発であっても、自社で印刷機を持っていることは有利であり、シェアを奪える可能性がある。

 そのためのステップとして、まずは写真界におけるブランディングが必要で、名前の知られている古い写真評論家をアドバイザーにして箔をつけたり、ギャラリーを作って写真展を開いたり、写真専門の雑誌を発行することも、やり手の経営者なら考えそうなことだし、ビジネスとして考えれば当たり前のことだ。雑誌やギャラリーが少しくらい赤字になっても、共同出版という名の自費出版の数を増やすためのセールスプロモーションと考えれば安いもの。私が、そうした印刷会社の経営を引き継がなければいけない立場なら、同じことを、もっと大々的に、もう少し考えて、やるかもしれない。(かなり昔に、旅行事業で、そういうことをやったように。)

 企業のビジネスのことは、どうでもよいのだが、悲しいのは、お金に余裕があるわけではない写真家やその予備軍が、ビジネスターゲットになってしまっているということ。

 しかし、これは、時代遅れの彼らにも原因がある。新しい時代を切り開いて欲しいのに、なぜか写真をやっている人には時代遅れの考えを持っている人が多い。

 つまり、世間のことを、あまりにも知らなさすぎる。無垢というかナイーブというか。世間のことをよく知らないことが純粋に作品づくりに打ち込んでいる証拠とでも思っているのか、自分が撮りたい写真を撮り続けて、お金をかけてでも本にして、世間に発表することが、正しいことだと思ってしまっている。

 「そうではないんだよ」という私の言葉に身を乗り出すように乗ってくるのは、今は、大山行男さんだけ。(笑)。

「写真表現のためのワークショップ」みたいなことは、風の旅人を出し続けていた時から、要望があってもやらなかった。「風の旅人賞」などの設定も。

 そういったことは、古い時代の「標準化」の発想の延長だと思うからだ。

 固有であり、かつ自由でいるためには、相当な覚悟がいるし、それを実現可能にする仕組みづくりも必要になる。

 「好きなことをやっている」とか言いながら、けっきょく、権威とか旧来の仕組みに従属しているのは、まったく自由ではないし、当然ながら、唯一無二ではない。

 20世紀までは、石の壁を作る時に、設計図に基づいて切りそろえた石のピースを組み合わせていた時代。

 21世紀からは、石工の仕事のように、大きさも形もバラバラな一つひとつの石を見事に組み合わせて、より強固な石壁を作っていくベクトルこそが救いとなる時代。

 そのようにできあがる石壁は、どの石壁も同じものはない。あらかじめ決められた設計図や、標準化の圧力や、権威や古い仕組みへの従属とは無縁の融通無碍の境地と、一つひとつ異なる部分を絶妙なバランスで組み上げる固有性の融合こそが、真の自由であり、それ以外の口先の「自由」は、すでに80年前にエーリッヒフロムが唱えた「自由からの逃走」の延長でしかない。

 標準化の流れに巻き込まれない気持ちを持っているだけではダメで、自律(自立ではなく自律。自分で規範を立てることが重要)の手段を持たなければ、自由から逃走し続けるばかりで、救いがない。

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第1302回 われらの時代の終焉(1)

 京都の私の家にはテレビアンテナがないのでテレビが見られないのだけれど、昨日、近くの温泉に行って、サウナに備え付けのテレビニュースを見ていたら、次の日銀総裁植田和男氏のことが伝えられていて、植田氏の叔父さんがインタビューに出て、「ラジオ英会話などを聞く勉強好きの子供でした」などと話していた。

 人の良さそうな叔父さんの言葉は、素直な言葉で何の問題もないと思うが、このインタビューを、ニュースの中に挟み込むテレビ制作側の神経が、まったく理解できない。

 いったい誰に何のためにニュースを伝えようとしているのか。観る方も、限られたニュース時間の中で、こういう話を聞かされても、まったく意味がないだろうに。今後の日本の経済がどうなっていくのかとか、考えなくてはいけないことは無限にあるのに。

 最近、テレビ番組を受信できない大型チューナーが売れているらしいが、当然だろう。私も、映画などを見るためのモニターとしてテレビを使っている。

 私たちが生きている時代を一言で形容するならば、「どうでもいい、嘘もいっぱいまじっていて、本質が歪められた情報」を、毎日のように浴びせ続けられている時代、ということになる。

 それは、情報を受け取る側が、自分の目で物を見て判断することや、聞いたことや読んだことを、自分で考えて判断することを怠り続けていることと裏表の関係になっている。

 心を澄ませて、判断して、良いものは良い、そうでないものは、そうでない、とジャッジできればいいのだけれど、とりあえず「いいね!」しておこうか、くらいの感覚で、目の前を流れる情報と付き合ってしまっている。

 もちろんこれは今に始まったことではなく、ずっと以前からそう。

 私が「風の旅人」を運営していた頃、他の出版社で働いていた編集者などが面接を受けにきたりして、いろいろ話を聞かされたが、雑誌が休刊する時に発表している数字は、10倍増し。

 部数が減って4万部になったから休刊などと言っているのは大嘘で、20年前のデジタル製版技術の導入で、その時から印刷代は、桁違いに安くなっており(150ページの製版代が800万円から50万円に)、だから私は、広告掲載無しで風の旅人を続けられた。

 4万部売れれば、広告がなくても、ホクホク顔で運営できることを私はよく知っている。少しでも広告があれば、なおさらだ。

 分厚い婦人雑誌が書店の店頭に面で置かれているのも販売好調だからではなく、雑誌社が、その面を書店から買っている。スポンサーの目につくようにだ。キオスクなども、そういうポスター効果のある販売スペースがあった。

 書店側も、その方が利益になる。広告だらけの安雑誌を売っても書店の利益は1冊につき100円にもならない。しかも、あんな分厚い雑誌を買っている人など見たことがない。美容院などにも、無料で配られているから。

 だったら、書店は10,000円をもらった方が楽でいい。そして、雑誌を作る側は、広告記事の部分だけでなく、読者には広告とわからないタイアップ記事ばかりの紙面構成なので、とにかく、世の中に流通しているということを見せておかなければいけない。

 次の号が出る時には、膨大な冊数が断裁処分される。

 美術雑誌などでも、巻頭の数ページだけ、大美術館で展覧会を行っている画家の特集をして、その後ろはすべて、無名画家が、自分でお金を出して掲載してもらっていた。

 FMラジオなどもそう。聞いたことのない名前の歌手が次々とインタビューに出てきて楽曲を鳴らすが、プロダクションの営業によるものだし、出演側がお金を払ったりもする。雑誌編集者が紹介したり、トーク出演させるお店なども、同じ。ジャパネット高田などは、広告ということが明らかにわかって、トークの説得力で勝負しようとしているので、その分、卑怯さがない。

 こういう状況を認識している意識高い系の人をターゲットにした催しで呼ばれる文化人や学者も、他の誰でも言っているようなことや、数十年前と同じことを繰り返しているだけ、という人も多い。大事なことだから繰り返すということもあるが、過去のその時点から思考が停滞してしまっているから繰り返している人が、「知の巨人のように祀られている人」のなかにもいる。ベストセラーになってしまうと、その傾向が顕著だ。しかし、ベストセラーは内容がいいから売れたのではなく、口述にして、ものすごくハードルを下げて、編集者が売れやすいように書いたから売れた。本の中身としては、それ以前の方が、圧倒的にいい。

 著者は、儲けようと思って、そういう提案を受けたわけではなく、「諦めた」からそうした。一生懸命に書いても、世の中はこの程度のものだから、それに抗わずに受け入れる気持ちになった、と言っていた。「そういうものなんだ」と諦めたうえでの、啓蒙活動。 

 それは悪いことではないと思うけれど、そういう人の話を聞きにいく人は、その人の「諦め」も知っていた方がいい。

 「いい話を聞けた」などと言われても、話している本人も、うれしくも何ともないのだろう。もしかしたら、その程度と、気持ちに哀しみが混ざるかもしれない。

 そうした見極めすらできず、権威を引っ張り出しているだけの主催者が多いのも、悲しい現実。

 そういう催しに行って、登壇者はすごい人なんだという先入観だけで、いい体験をしたと思わされてしまっているのも悲しい現実。その日を境にして、数年後、その人に何ごとか良き変化が現れていればいいのだけれど。ほんの少しであっても。

 インチキな情報にグルリと囲まれているのが、われらの時代。

 

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