第1521回 アンドリューワイエスの魂が呼び起こすもの

 大山崎山荘美術館で開催中のアンドリューワイエス展に行った。 久しぶりにワイエスの絵画世界に触れて、若い頃のことを思いだした。
 写真家のことをよく知らなかった20代の頃、その精神世界に憧れていた表現者は、作家の日野啓三さん、画家のアンドリューワイエス、映画監督の小栗康平さんだった。
 この3名に共通しているのは、静かな孤高の境地。
 20世紀は、現代小説とか現代美術といった「現代性あふれる」と評論家が褒める作品が注目を浴びやすかった時代だが、その「現代」さえも通りすぎる一過性のものにすぎないという諦観を帯びた静かな眼差しで、物事の細部に宿る回路を通して、もっと遠くの大きな全体を見つめているという印象が、この3名にはあった。

 ある時、日野さんに対して、恐る恐る長い手紙を書いた。それまで日野さんが書いた小説やエッセイの、ほぼ全ての40冊近く、神保町の古本屋を歩きまわって探し出して読んでいた。
 当時の私は、自分が憧れる扉の向こう側に一歩でも踏みこんでいくには、日野さんに対して、憧れるだけでなく近づくことが重要だと、祈りのような思いを抱いていた。
 日野さんは、下北沢から少し歩いたところの新代田の井の頭線の目の前の家に住んでいた。
 人と会うのに、あれほど緊張したことはなかったが、家に入ってすぐ、「手紙を読んだよ。きみは、僕と同じ人間だ」と日野さんが仰ってくださり、それだけで大きの望みがかなえられたような気がした。
 そして、しばらく話し込んだ後、帰り際に、これを持って帰りなさいと、リブロポート社発行の「カーナー牧場」というアンドリューワイエスの、大きく高価な画集をくださった。

 ワイエスの絵は、1995年に渋谷のBunkamuraで初めてまとめて観ることができていて、好きな画家の一人だったので、嬉しかった。
 20世紀のアメリカ美術は、アンディ・ウォーホルジャクソン・ポロックなどの抽象表現がよく知られているが、個人の自我に軸を置いた「時代性」の表現は、当時の私にはどうにも馴染めず、そんななか、アメリカの田舎から街に出ることなく、ひたすら、他者や世界を、静かに注意深く見つめながら絵を描き続けたワイエスがとても新鮮だったし、その視点の方が、時代の先を見通しているような気がした。
 そのワイエスの大判の画集を日野さんから進呈していただいたことは、日野さんやワイエスの魂との回路がより強くつながったようで、この回路こそが、後の自分のニューロンネットワークを整える力になっていったことは間違いない。
 ワイエスの絵は、現代私が取り組んでいる針穴写真の画像のように細部まで細かく描写されているわけではないのだが、その場に満ちている気配と、そこに在る人や物の息遣いが、絵を見ている自分もその場にいるかのような現実感を伝えてくる。
 ワイエスは、風のように目に見えないものの捉え方が非常に優れており、絵を見ていると、画面から風が流れ出してくるように感じるのは、私だけでないだろう。
 土、樹、水、風、そして空間に秘められた声が、微かに響いてくる絵画世界。そういうことが人間の技によって可能になるんだと、いつ観ても感動するし、それは、人為に対する、わずかな希望にもなる。

 そうした人為を可能にする精神的境地が、間違いなくある。だったら、人間は、そこを目指す必要がある。日野さんの作品、たとえば「リビングゼロ」などもそうだが、若い時、私は、そういう境地に近づきたいと切実に願った。
 日野さんの「リビングゼロ」が書かれたのは、1987年なのだが、その中の一章、『夢の奥に向かって目覚めよ』などでは、現代のインターネット世界の先の人間の意識の在り様を啓示しているように思える。
 現代小説や現代美術は、あまりにも現代性に寄り添いすぎていて、わざわざ表現化しなくても、人々の認識済みか予測可能の範疇のものが多く、そこに「未知」はない。だからこそ、多くの人にも興味を持ってもらえるのだが、本当に人々の心を惹きつけているのか疑問だ。彼らの名前や作品を口にしているだけで、時代をわかっているつもりになれるだけのことではないか? とくに、評論家に、そうした人が多い。
 未来性について話される時も、現代の思考特性や意識の在り方にテクノロジーの可能性を重ねただけのものが多く、テクノロジーそのものが、人間の思考特性や意識の在り方を大きく変えていく可能性のことが、あまり考慮されていないことが多い。
 2011年の東北大震災が起きた後、私は、社会が大きく変わっていくのではないかと思ったが、その兆しは1年ほどしか続かず、アベノミクスとやらが始まって、また、それ以前の風潮が蔓延していった。
 それ以前の風潮にどっぷりと浸って、その風潮の中で生きる方法を身につけていたら、たとえ大惨事があったしても、直接的にではなく情報として知っただけのことだから、いつのまにか自分本位に情報整理をして、自分が身につけていた生き方を続ける選択をすることになる。
 しかし、最近、30歳前後の人と会って話をしていると、もちろん全員ではないだろうが、彼らは、東北大震災の時点では生き方が決まっていなかった人たちであって、そこから新しい意識が、生まれ始めているのではないかと、漠然とながら感じることがある。
 日野さんが啓示しているのは、人間を「自我」ではなく、「細胞」のネットワークとして捉える視点だった。
 そしてワイエスは、世界を「物」の集積として捉えるのではなく、時空のつながりとして捉えていた。
 人間の歴史と向き合う時は、その時々の個々の事物に意識を囚われてしまうのではなく、過去から現在に至るまでの大きな波として、捉える視点は大事になるだろう。
 波というのは、連続し、リズムがあり、かつ多様に変容するが、それは波そのものの力としてそうなっているのではなく、因と縁の関係で、風や気圧や月の力などによる働きかけによって、姿を変えていく。
 私は、ひたすら波だけを30年以上撮り続けた森永純さんの写真集「WAVE〜All things change〜」を作った時、「すべては発動し、すべては循環する。」という言葉を添えた。
 人の世界も、まったく同じだと思う。
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 新刊の「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
 詳細およびお申し込みは、ホームページアドレスから、ご確認ください。よろしく、お願い申し上げます。https://www.kazetabi.jp/
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 また、新刊の内容に合わせて、京都と東京でワークショップを行います。
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<東京>日時:2024年12月14日(土)、12月15日(日) 午後12時半〜午後6時  
場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅
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<京都>日時:2024年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅

第1520回 かんながらの道〜ニヒリズムを超えて〜

 昨日と一昨日、京都でのワークショップセミナーを終了しました。
 次は、東京で12月14日(土)と15日(日)、京都で1月12日(日)と13日(月)にワークショップセミナーを行います。
 2月は、2月6日(木)から、2月17日(月)まで東京新宿のOM SYSTEMギャラリーで、写真展を開催しますが、2月9日(日)に、映画監督の小栗康平さんをゲストに対談を行います。また、2月8日(土)、2月15日(土)、16日(日)は、古代世界と針穴写真に関しての一人トークを行います。
 以下、次回のワークショップについて。
 日本人は、これまで、古いものと新しいもの、聖なるものと俗なるものの間に壁を作らず、神と仏を習合し、土着と外来を重ね合わせてきました。
 こうした日本人の心は、いかにして作られてきたのか?
様々な問題に対応していくうえで、もちろん知識や技術も必要ですが、何よりも心の在り方が大切であり、現代の課題を克服し未来への橋を架けていくうえで、改めて日本人の心について考える必要があるのではないかと思われます。
 ヨーロッパ世界において、一般の人々のあいだに文字が普及したのは、今から500年ほど前、グーテンベルグ活版印刷によって聖書が印刷された頃です。
 この発明によって、カトリックプロテスタントの分断が起きて激しい宗教戦争の時代になりますが、お互いに敵を悪魔扱いするチラシを大量に印刷し、憎悪がいっそう激しくなり、戦争もより一層深刻になりました。
 そのように、ヨーロッパ世界の文字の普及が、敵と味方、正義か悪、黒か白というように対立的に物事を捉えることから始まったことに比べ、日本における文字の普及は異なっていました。
 日本では、1000年ほど前から「いろは唄」を通じて、広く一般の人々のあいだに文字が普及していき、中世における識字率は、かなり高かったとされます。
 そして、その文字の普及における特徴は、「いろは唄」にこめられた精神が、文字を学ぶことと同時に日本人の心に浸透していったことです。
 「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」の元は、「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」です。
 「この世のすべて、例外なく、やがて散りゆく運命にある。」そして、有為の奥山を超えるというのは、有為=形あるものへの囚われを無くしたということで、そういう境地に至ったから、はかない幻想を抱いたり、(酒に酔ったような)状態で、日々を過ごすようなことはない」という意味になります。
 この元になっている言葉が、(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅(への囚われ)が消えてなくなれば、煩悩から離れ、それは死と変わらぬ安らぎである)。
 つまり、全ての物事は移ろい消えていくものであるから何をするのも虚しいと投げやりになるのではなく、だからこそ、執着を捨てて清く潔く生きればいいと説いているのです。
 旧約聖書の中のソロモン王の歌、「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」というニヒリズムを超える精神、すべては空だからこそ自分のつとめをまっとうすればいいという清々しさが、「いろは歌」にはこめられています。
 この心理は、おそらく日本人ならば、わかるところがあるのではないでしょうか。1000年のあいだ、文字を学びながら、日本人は、この人生哲学を身につけてきました。
 温故知新というのは、単に昔のことを調べたり知るだけでなく、故きを温ねて、新たな道理を導き出し、新しい見解を獲得することです。
 東京と京都で交互に行っているワークショップセミナーは、単に歴史のお勉強ではなく、過去と未来をつなぎ、近代合理主義に偏った視点では見えてこないものと、視点や意識を変えることで見えてくるもののあいだに、橋を架けることを心がけたいと思っています。
 新刊の「かんながらの道」およびワークショップのお申し込みは、ホームページで受け付けております。 どうぞよろしくお願いいたします。https://www.kazetabi.jp/
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 ワークショップセミナー。
<東京>日時:2024年12月14日(土)、12月15日(日) 午後12時半〜午後6時  
場所:かぜたび舎(東京) 東京都日野市高幡不動(最寄駅:京王線 高幡不動駅

<京都>日時:2024年1月12日(日)、1月13日(月) 午後12時半〜午後6時
場所:かぜたび舎(京都) 京都市西京区嵐山森ノ前町(最寄駅:阪急 松尾大社駅

第1519回 羽衣伝説の謎について

竹野川河口にそびえる立岩

羽衣伝説についてのあれこれ。
 昨日、丹後半島を休暇気分で訪れて、その最後にジオサイトで出会った翁が語ったこと。「古代最大の製鉄遺跡である遠所遺跡で用いられた砂鉄が、丹後のものではない」という話が心に引っかかって、家に戻ってネットで論文を探し出して調べたら、どうやら東北地方の砂鉄だということがわかり、そこからさらにいろいろ考えていたら丹後の羽衣伝説に重なり、今日の午前中、そのまま頭に思いうかぶことを書いていたら、いつのまにか、とっても長くなってしまった。
 日本の古代の歴史や神話などの背景を考える時、地質のことは切り離せない。
 例えば、古代世界を大きく変化させたものとして、鉄のことがよく取り上げられるが、鉄といっても色々な種類があり、鉄道具としての性能も違ってくるのだが、その鉄の原料である砂鉄や鉄鉱石や褐鉄鉱は、産地によって性質が異なってくる。
 また鉄から鉄製品を作る鍛冶行程においても、鍛鉄と鋳鉄でも鉄製品の品質が異なってくる。
 鍛鉄は、古くからある技術で、刀鍛冶のように一つひとつ真っ赤に熱した熱を叩いて作っていく。それに対して鋳鉄は、陶器で作った鋳型に流し込んで鉄製品をつくる。
 鍛鉄で作ったものの方が出雲の刀のように性能が優れているが、鋳型で作る方が包丁などのように実用的なものを大量生産することにまさっている。 しかし、鋳鉄の場合、鋳型となる陶器が超高温に耐えるものが必要なので、須恵器など高温の窯で陶器を作る技術も必要となる。
 古代の産業革命は、第一段階では鉄道具の使用ということになるかもしれないが、本格的な次の段階が、高品質の鉄道具の大量生産ということになるだろう。
 古墳から大量の鉄の武器などが出土するようになるのは西暦400年以降、古墳が巨大化した頃からだが、それは、須恵器の技術と新しい鍛冶技術の韓鍛冶がもたらされた時期と一致している。
 縄文文化の好きな人は、縄文時代にも鉄があったと指摘する。
 鉄といっても褐鉄鉱(水酸化鉄)ならば鉄分の豊富な土地の沼地などに生息する葦などの水生植物の根本にバクテリアの作用で生じるもので、これを縄文土器を燒く温度(800度くらい)で熱すれば溶けて、縄文土器の型に流し込めば鉄製品は作れる。しかし、不純物が多くて、実際の道具として石器よりも優れていたかどうかは別の話だ。
 たたら製鉄が、砂鉄を還元して鉄を取り出すことはよく知られているが、砂鉄といっても真砂と赤目の二種類があり、これはチタンの含有量によって異なるのだが、真砂よりも高チタンの砂鉄である赤目は真砂に比べて低い温度で還元がしやすいが、その分、真砂よりも品質が劣ると言われる。
 有名な出雲の刀などは真砂砂鉄。古代の鉄の産地で知られる吉備は、赤目砂鉄。一般的に、中国地方の山陰は真砂で、山陽は赤目だとされる。
 しかし、丹後半島宮津花崗岩地帯のものは、山陰側では珍しい赤目砂鉄である。
 この宮津花崗岩地帯は、竹野川にそって広がっており、竹野川がその岩盤を削って押し流し、竹野川河口から東西の浜辺には砂鉄の砂浜が広がっている。竹野川を境にして東にいくほど砂鉄の含有量が多いのは、砂鉄の比重と潮の流れの関係が反映されているのだろう。
 そして、この竹野川の上流にある支流の常吉川の源流域にそびえる磯砂山(661m)は、花崗岩の山だが、ここが、丹後の羽衣伝説の舞台で、天女が降り立った場所である。
 羽衣伝説の似たような話は世界中に存在し、日本にも幾つか存在するが、日本における文献上もっとも古いものは丹後風土記のもので、この物語が、形を少しずつ変えて、日本の様々な地域に広がったと考えられる。
 丹後の羽衣伝説では、羽衣をとられてしまって天に戻れなかった天女が、地をさまよい、豊受大神となって比沼麻奈為神社や籠神社の奥宮の真名井神社で祀られ、後に、アマテラス大神の食事係として伊勢神宮の外宮に祀られることになるわけだから、日本の歴史を考えるうえでも重要なポジションであり、この羽衣伝説の天女が何であるのかを洞察する必要がある。
 この謎を説く鍵は、幾つかある。
 まず、豊受大神というのが、神話の中では、カグツチの火によってイザナミが瀕死の状態の時の尿から生まれたワクムスビの子で、黄泉から逃げ帰ったイザナギが禊をした時に生まれたアマテラス大神より古い神であるということ。
 カグツチの火によってイザナミが死んでしまうことが意味していることは、新しい技術文明によって陰と陽のバランスが崩れることを象徴している。
 カグツチの火というのは単なる自然の火ではなく、人間が作り出す高温の火力技術を象徴している。
 そして、鉄製品は、高温の火力技術によって品質を高め、さらに鋳鉄技術で大量生産も可能になる。
 豊受大神が、世界の陰と陽のバランスがギリギリ保たれていた(イザナミが瀕死の状態)時の神であることを象徴するエピソードとして、丹後旧事紀(江戸時代に丹後に伝えられる伝承をまとめたもの)では、豊受大神は、月読神に殺された保食神(うけもち)と同じとされているが、スサノオに殺された大宜津比売も、月読神に殺された保食神も、饗応のための食事を提供したところ、美味だったのに作り方が汚れている(お尻から出したり口から出したり)という理由で殺されてしまった。その月読神の行為をアマテラス大神は非難した。
 このエピソードの解釈は、いろいろと複雑に説明されているが、実際には単純なことで、陰と陽のバランスが整っていた時は、江戸時代でもそうだったが、循環世界だから、お尻から出した糞もまた肥料となり新たな生命の糧となるわけで、保食神豊受大神は、そういう時代を象徴する神である。
 それに対してスサノオ や月読神は、イザナミが黄泉の世界に行ってしまった後にイザナギの禊によって生まれた神であり、すなわち世界の陰陽のバランスが崩れている段階の神。この二神は、古代における文明化を象徴している。スサノオの荒ぶるを自然の猛威だと解釈している専門家もいるが、そうではなく、スサノオが気まぐれのように良いことも悪いことをするのは、文明というものが、人間に恩恵を与えることもあれば世界に害をもたらす原因を作ることを反映している。
 豊受大神は、世界の陰と陽のバランスがギリギリ保たれていた時代の神であるが、文明を象徴する月読神に殺されてしまった。そのことを嘆いたアマテラス大神が、豊受大神を自分の食事係とした。つまりアマテラス大神は、スサノオ や月読神と同じくイザナミが死んだ後に生まれた文明の神でありながら、イザナミが死ぬ前の世界の価値観を重じているということになる。
 だとすると、その豊受大神が、なにゆえに羽衣伝説の天女と重ねられているのかを考える必要がある。
 羽衣伝説の天女が降り立った磯砂山は、花崗岩の山であり、このあたりは、山陰地方では珍しい赤目砂鉄(真砂より還元が簡単)がとれるところだ。
 そして、磯砂山の近辺から竹野川中流域の峰山周辺には、古代の鉄の痕跡が多く残っている。
 その峰山における古代世界を代表する場所が、扇谷遺跡だ。ここは弥生時代前期としては日本で最先端の文化を誇っていた場所で、この場所から、砂鉄系原料による鋳造品で、鉄製品導入期の希少なものと評価される板状鉄斧がみつかっている。
 この鉄製品の材料である砂鉄が、どこのものかはわかっていないが、当時の技術水準からしても、おそらく還元のしやすい地元の宮津花崗岩地帯のものではないかと推測できる。
 そもそも羽衣伝説の天女が白鳥を象徴していることはよく知られているが、古代の神話における白鳥は、ヤマトタケル神話においてもそうだが、鉄の鉱脈と関連している。
 渡り鳥の目には、磁力線が見えることがわかっているが、磁力線にそって飛び、毎年、決まった時期に同じところに渡り鳥がやってくるのは、その場所に特有の磁場があるからであり、磁鉄鉱である砂鉄が集中しているところの磁場が、渡り鳥の”目印”になっているのだろう。
 つまり、赤目砂鉄を豊富に含む花崗岩の山、磯砂山に天女が降り立ち、羽衣を隠されて天に戻れなかった天女が村に繁栄をもたらしたという物語は、鉄を中心とした新しい技術文化の恩恵が背後に秘められている。
 しかし、この天女が、豊受大神と重ねられているということは、その時の技術は、イザナミが瀕死の状態であったものの亡くなっておらず、自然界の陰と陽のバランスを完全に崩すほどではなかったということだ。
 弥生時代前期の扇谷遺跡から出土した鉄の斧が、それに該当する。
 そして丹後の羽衣伝説では、天女と一緒に暮らしていた翁が、突然、自分の子ではないからと言い出して天女を追い出してしまうのだが、これは、いったいどういうことなのか。
 この奇妙なエピドードは、羽衣天女である豊受大神が、月読神をもてなしたにもかかわらず、斬り殺されてしまうというエピソードと重なってくる。
 これは、新しくやってきた渡来人の新しい技術によって、新たな文明段階に入ったことを象徴しているのだろう。
 丹後半島の古墳は、初期段階においては竹野川を遡った磯砂山周辺の内陸部に多く築かれていたが、次第に海岸側に築かれるようになる。
 そして鉄生産の中心が、古代日本最大の鉄コンビナートとも言われる遠所遺跡となるが、ここもまた海岸に近いところであり、さらに興味深いことに、この製鉄所では還元のしやすい丹後の砂鉄ではなく、北陸から東北にかけての還元のしにくい砂鉄が使われていることがわかった。
 還元がしにくい砂鉄の方が、高い技術が必要となるが、鉄製品の品質としては向上する。
 丹後の遠所遺跡は、わざわざ東北など遠隔地から砂鉄を運んできて鉄製品を作っており、海上移送勢力と、鉄の新技術を持つ勢力が力を合わせていたと想像できる。
 東北と近畿は、陸路だとかなり離れているという印象があるが、地図を見ればわかるように、日本列島は弓形になっているので、日本海側の海路だと、海流などをうまく使えば、短期間のうちに行き来することができる。だから江戸時代においても北前船が活躍した。東北の砂鉄を若狭や丹後まで運んできて、ここで製造した鉄製品を、琵琶湖経由や由良川経由で、京都や奈良方面および瀬戸内海に運ぶことができる。若狭や丹後は大陸に近く、古代、新しい技術を持った多くの渡来人がやってきた場所だった。
 そして、この丹後の遠所遺跡は、奈良時代後半から平安時代にかけては、日本最大の鉄製造拠点となったが、この地において、丹後以外から砂鉄を運んで鉄製造を行っていたのは、近年の調査では5世紀末に遡るとされる。 
 5世紀末というのは、日本史における重要な転換期で、訓読み日本語を発明した今来という渡来人がやってきた時期だ。
 イザナミの死や、アマテラス大神の岩戸籠り、スサノオの八岐大蛇退治などに象徴される神話上の物語は、この時期の変化を象徴したものだと私は考えている。
 そして、この大変化の後、古墳の石室が縦穴式から横穴式に変わった。それまでは死んだ王は古墳の一番高いところから天に昇って神となるとされていたが、横穴式の石室になってからは、死後、地面続きで黄泉の世界へ旅立つとされるようになった。
 イザナギが死んだイザナミに会うために黄泉を訪れるという神話は、黄泉概念が象徴されているのだから、この時の死生観の変化が反映されている。
 そして、横穴式石室に埋葬された最初の大王が、実質上、初代天皇とされる第26代継体天皇だ。
 この継体天皇は、即位後、6万の兵で新羅討伐を行おうとした。新羅討伐が必要となった時代背景が、この人物を日本の王にしたわけだが、6万の兵で新羅を討とうとすれば、それだけの水運力と武器が必要になる。
 継体天皇の出身は近江高島であり、ここには海人勢力の安曇氏が拠点としていた安曇川が流れており、継体天皇の背後には、この海人勢力がいたことは間違いないだろう。さらに興味深いのは、継体天皇の母親の振姫の実家が福井県九頭竜川下流域なのだが、ここは、若狭湾の東端にあたり、若狭湾の西端の丹後半島まで海路を使えば一直線なのだ。
 さらに、丹後半島の巨大な鉄製造拠点として東北方面から砂鉄を運び込んでいた遠所遺跡は、竹野川を遡り、さらに由良川にアクセスすると亀岡まで至り、そこから桂川を上流に遡れば、花背のところで、安曇川にアクセスすれば継体天皇の拠点である近江高島まで行けるし、亀岡から桂川下流に向かえば、継体天皇が宮を築いた向日市の弟国宮、枚岡市の樟葉の宮、京田辺市の筒城宮に至る。
 継体天皇が、即位後、奈良に入らず淀川水系に宮を築いたことが古代の謎とされているが、新羅討伐をミッションとして即位した継体天皇の水運力や鉄製造の拠点のことを考えると、奈良に入らず淀川水系に宮を築いたことは、実に理にかなっている。
 丹後の遠所遺跡の性質を考えるうえで象徴的なのが、この遺跡のすぐそばにあるニゴレ古墳で、5世紀中旬の建造とされるが、ここからは立派な甲冑や、海上交通を示唆する準構造船を模した船形埴輪が出土した。まさに武器と水上交通が反映されている。

 丹後の羽衣伝説の天女が、人々の暮らしの向上に尽くした挙句、追い出されてしまったというストーリー。
 この内容を整理すると、峰山の扇谷遺跡から出土した弥生時代の斧製品に象徴される鉄技術は、農業生産性などを高めることにつながったが、この技術と関係あるのが、羽衣伝説の天女だということになる。この天女が豊受大神となり、伊勢神宮の外宮に祀られることになった。
 そして、この時の鉄技術は、農業の生産性を高めはしたものの、世界の陰と陽のバランスを完全に崩すことがなく、人々も、なんとか循環的な世界の中で生きていた。
 しかし、5世記以降、新たな鉄技術がもたらされた。その技術は、それまでの技術では還元できなかった砂鉄を、わざわざ東北から丹後半島まで運びこんで高品質の鉄製品を作るといったものだった。
 この新技術よって、戦闘の内容をはじめ、世界が大きく変わることになったのだろう。
 羽衣伝説で、天女とともに長年暮らして、その恩恵を受けていた翁が、ある時突然、天女を追い出してしまい、その後、村は荒廃した。
 この丹後の羽衣伝説には、過去における時代の転換期の記憶が反映されている。
 そして大事なことは、スサノオや月読神で象徴される新しい文明の力によって否定され、ないがしろにされた保食神豊受大神)を、アマテラス大神が、国の秩序安寧のために、名誉回復して国の中枢(伊勢の外宮)で祀るようにしたということ。
 アマテラス大神もまた、スサノオや月読神と同じくイザナミの死後という陰陽のバランスが崩れた時代に生まれた文明の神だが、そうした時代変化の後に、新たな方法で秩序と調和を維持するためにどうすべきかを象徴している神が、アマテラス大神ということになる。
 今の言葉で言うならば、不易流行ということになるだろうか。変化を受け入れながらも、変えてはいけないこと、もしくは変わらない本質的なことを大切にする。
 古代においても、社会環境が大きく変化する時があったが、その時にも、未来を憂い、どうすべきかを真摯に考える賢者、思想家や哲学者が存在していたのだろう。
 長く伝えられてきた神話伝承には、そのエッセンスが凝縮している。  

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羽衣伝説と深い関係が指摘される丹後峰山の比沼麻奈為神社豊受大神を祀る。

 

第1518回 京都の三本鳥居の謎について

宇多天皇が創建した仁和寺で平寿夫さんの「熊野」に関する写真展を見た後、帰り道にある太秦蚕の社へ。
 宇多天皇は、日本で最初の法皇だが、熊野は、出家した宇多天皇が、たびたび修行のために訪問した場所である。
 宇多天皇が、なぜ出家したのか? 様々な説があるが、私は、様々な制約のある天皇の身分を離れることで、改革を、より推進しやすい立場になろうとしたのだと思う。(宇多天皇は、平安末期の白河上皇などの院政の先駆けである)。
 京都の太秦に鎮座する蚕の社は、日本では珍しい三本の鳥居で知られている。
 この三本の鳥居が何を意味しているのか? どこを向いているのか? と色々な議論がある。
 蚕の社は、秦氏関係の神社だとされるので、京都の秦氏関係の聖域、西の松尾大社と東の伏見稲荷大社、そして、北は、秦氏のものだとされる古墳のある双ヶ丘を指していると指摘している人たちが多い。たぶん、ネットで検索したら、そのように説明されているだろう。
 しかし実際に線を引いてみるとわかるが、東は伏見稲荷大社ではない。 

 蚕の社から冬至の日に太陽が沈む方向に松尾大社が鎮座しているが、その松尾大社の真東で、蚕の社から冬至の日に太陽が昇る方向にラインを伸ばすと、現在は、壬生寺が存在している。
 しかし壬生寺の創建は10世紀の後半で、それ以前、このあたりは朱雀院があった。
 朱雀院というのは、天皇法皇となった後に居住していた御所であり、日本初の法皇である宇多天皇が、ここを整備して、居住していた。
 宇多天皇は、菅原道真を重用したことは、よく知られている。その道真が太宰府に流されて亡くなった後、宇多天皇法皇として、道真がやり残した改革を行っている。
 その改革とは、人頭税を廃止して、土地そのものに税を課するもので、律令体制の終焉を意味する。 
 当然ながら、既得権組(人頭税だからこそ潤った荘園経営の貴族たち)は反対するのだが、地方豪族化していった勢力は、この改革を後押しした。なぜなら、土地の計測や収穫を管理する地方豪族者の権限が高まるからだ。この改革の流れから、武士が生まれることになる。
 宇多天皇というのは、もともと源氏の身分であり、天皇になる予定がない人だったが、急に抜擢された。おそらく、その背景には、改革を推進したい勢力がいたことだろう。
 宇多天皇というのは、母親が、班子女王という渡来系の当宗氏の血を引く女性だった。
当宗氏というのは、桓武天皇の時に将軍として活躍した坂上田村麻呂坂上氏の系統とされるが、坂上氏は、渡来系の東漢氏である。
 そして桓武天皇もまた、母親の高野新笠が、土師氏の母と、百済系渡来人の和氏とのあいだの娘だった。
 土師氏は、渡来系の秦氏と同じだとする説もあるが、このあたりは詳しくはわからない。しかし、宇多天皇が重用した菅原道真は、土師氏の末裔である。
 こうした背景を踏まえて、蚕の社の3本鳥居の位置を改めて見直すと、北には秦氏関係の双ヶ丘があるが、その北に、宇多天皇が創建した仁和寺があり、さらにその北に宇多天皇の大内山陵がある。
 そして仁和寺の真東が、菅原道真を祀る北野天満宮である。
 つまり、蚕の社の3本鳥居が示している方向の西の松尾大社と北の双ヶ丘が秦氏関係であるが、東の壬生の朱雀院は、宇多天皇法皇となった後、改革を継続するために指揮を執った場所であり、北には、宇多天皇の陵と、宇多天皇ゆかりの仁和寺がある。
 明らかに、宇多天皇が、かなり深く関係しているように思われるのだ。
 なぜそうなのかと考えると、おそらく、10世紀、菅原道真を重用して改革を進めようとした宇多天皇の背後に、東漢氏秦氏など渡来系勢力がいたからだと思われる。
 これらの渡来帰化人は、東漢氏系の坂上氏が、摂津の多田に拠点を置いた清和源氏の武力の要となっているし、秦氏の後裔である惟宗氏も、地方を統括する郡司などに多くの名が見えるが、後に、島津氏や安芸氏や宗氏などの武士勢力となっている。
 その転換期が、10世紀の宇多天皇菅原道真の怨霊騒ぎの時代であり、太秦蚕の社の三本鳥居がいつ作られたかは謎なのだが、その位置関係からして、その変革と無関係ではないだろう。
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 新刊の「かんながらの道」は、書店での販売は行わず、オンラインだけでの販売となります。
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<京都>日時:2024年11月16日(土)、11月17日(日) 午後12時半〜午後6時
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第1517回 トランプ氏に象徴されるアメリカの今

 アメリカ大統領にトランプ氏が当確という結果に、トランプ嫌いの人は失望しているだろうが、私は、個人的に、バイデン氏やハリス氏より、この方が良いのではないかと思っている。
 私だってトランプ氏が好きなわけではないが、トランプ氏は、表の顔も裏の顔もあまり変わらないような気がするが、バイデン氏やハリス氏は、その差が大きいという印象が強いのだ。
 大統領ともなれば、裏の顔というのは、自分個人の顔だけでなく、そこに利権に絡んだ多くの者たちの顔がある。
 とくにアメリカの場合、軍産複合体の影響力が、政界にも経済界にも絶大だ。彼らの要求に、ハリス氏が向き合って対抗できるだけの胆力や馬力や勇気があるとは感じられない。
 結果的に、国際社会の表側では、平和を愛する温厚な人物の笑顔を振りまきながら、実際には、ウクライナ を、アメリカの武器の見本市にするということが続けられる。
 それに対してトランプ氏の頑固さに、脅しは通じないような気がする。なにしろ、銃弾が耳を引き裂いても怯むことなく拳を突き上げるように、常人とは次元の異なる我の強さなのだ。
 アメリカに限らず、どこの国だって、自分の国より他の国を優先的に考えるところなど存在しない。
 一人ひとりの国民は、善良で平和を愛し、環境を守ることを第一だと口にしながら、実際は、自国の繁栄と安定を優先するという国家エゴの砦に守られたなかで、好きなことが言えている。これが、本当に食うに困るようになったら、隠れたエゴが表面化してくる可能性が高く、自分が窮地に陥っても、信念を貫き通せるような悟った人の数は、それほど多くはないだろう。
 ハリス氏もトランプ氏も、自国優先主義ということでは変わりがない。しかし、その方法論が異なっているだけにすぎない。
 一般的に、トランプ氏の共和党は保守、ハリス氏の民主党はリベラルと言われるが、保守の方は、わかりやすい。大きな変化を望まず、伝統を重視するという考えだ。
 それに対して、リベラルの方が、実は曲者で、時代環境によって、何をもってリベラルとするのか、その意味が変わってくる。
 自由というのは、耳に心地よいが、エゴが強くなると、好き勝手、やり放題ということになる。
 グローバル化されていない社会では、国内の一部のブルジュワが国内の労働者を搾取する構造だったので、その体制維持のため、ブルジュワは共和党を支持し、労働者が民主党を支持するという構造があった。
 しかし、もともと共和党は、奴隷制支持の民主党に対して、リンカーン大統領に象徴されるように奴隷制廃止のために結成された党である。工業化が著しい北部では流動性のある労働力が必要で、奴隷を拘束して重要な労働力としていた南部の農民たちとのあいだに対立が生じて南北戦争が起きたが、共和党が勝利した。そして、共和党を支持する北部アメリカの著しい工業化が、アメリカ帝国主義となって世界に進出していくともに、共和党は、アメリカのエゴを象徴する存在となった。
 そうした状況のなか、世界各国で、ブルジュワの冨の独占に対して労働者の地位向上を求める動きが盛んになり、アメリカの民主党は、そうした労働者に支えられる存在になった。
 しかしながら、1980年頃、大きな分岐点に差し掛かる。アメリカの自動車産業など伝統的な大企業が衰退してしまったのだ。
 古い産業を軸にしたアメリカ経済の不振は、共和党の失墜にもつながった。それをごまかすために、対外戦争で求心力を高めようとしたのが、スターウォーズ計画のレーガン大統領から、イラク戦争ブッシュ大統領(父)の流れだった。
 こうした試みでもアメリカ経済は立ち直らず、新たな経済政策で現在のアメリカを築く礎になったのが、1993年から始まった民主党クリントン政権だった。
 この時、アメリカは、経済の中心を、重化学工業からIT・ハイテクに重点を移し、新しい起業家が次々と誕生するようになり、今では世界で最も裕福な人たちは、この時以降に会社を作った創業者ばかりであり、しかも、その冨の巨大さは、かつての財閥の比ではない。
 いくら、かつてのアメリカ企業が、世界で大きなシェアを誇っていたとはいえ、現在のアメリカのIT産業のような独占に至っていなかったからだ。
 そのため、かつて共和党を支持していた裕福な人たちは、今では民主党を支持し、その冨の恩恵にあまり預かることができない人たちが、共和党を支持するようになっている。
 多くの人たちが想像していた以上に、トランプ氏がハリス氏を選挙結果で圧倒したのは、それだけ、アメリカ国内において、食うに困っている人が増えているということだろう。
 民主党共和党も、他の国よりも自国を優先することに違いはないが、民主党は、日本のアベノミクスの時のように、全体のパイを大きくすれば、そして、強いものたちを保護して好き勝手にやらせれば、彼らが大きく稼ぎ、やがては一人ひとりに冨がめぐっていくという方法だ。
 しかし、日本でもそうだったが、この方法は、稼いでいるものは、さらに稼ぎ、稼ぐことができないものは、むしろ貧しくなる。
 その理由として考えられるのは、かつての重工業時代と産業構造が異なっているからだろう。
 重工業が中心の時代ならば、冨を持つ者の投資先は、たとえば大工場で、その時代はまだ労働集約型産業だから、正規社員の雇用を拡大した。
 しかし、現代、冨を持つ者は、より効率的に儲けられるところへとお金を動かす。労働力が必要だとしても、ハイテク化が進んでいることもあって、補助的で取替え可能な労働力を、できるだけ安く獲得する方向へと意識が向く。当然ながら、非正規社員でよいということになる。
 機械やコンピューターに代替えしない仕事は、特別な能力を必要とする仕事か、機械やコンピューターを設置するために投資するより低コストの雑役か、というふうに二分化してしまい、前者の数は限られているから好条件で雇用されて裕福になり、後者は、他に取替えが利くということで、待遇が悪化していく。
 日本もそういう状況になっているが、アメリカは、日本以上に弱肉強食の世界だから、その差は、一段と広がっているのだろう。
 その結果、かつてはトランプ氏に対して批判的な声をあげていたヒスパニック層や黒人層にも、トランプ氏を支持する人が増えたと言われる。
 だとすると、トランプ氏は、民主党のやり方を、どれだけ変えることができて、その影響は、どのくらい大きくなるのか。
 海外の戦争においても、民主党の発想ならば、国内の軍需産業が儲かり、軍需産業をエンジンにして国内の産業が活性化(現在の戦争は、ドローンを例えに出すまでもなく、IT技術の競い合いでもある)し、経済全体のパイが大きくなって、アメリカ経済も好調になるということになるが、トランプ氏の発想だと、軍需会社に対して支払っている莫大な政府予算を、わかりやすい形で、アメリカ国民にまわすべきだということになるだろう。
 不法移民を含む海外からの安い労働者の流入は、取替え可能で使い捨てのできる人材を必要とする企業などは、むしろ歓迎だが、そうした職業分野で人があまるようになると、当然ながら、元から働いていた人たちは窮地に陥るわけで、彼らを守るために、移民の制限は厳しくなる。
 また、現在、環境問題で萎縮させられている天然ガスなどエネルギー産業を活性化することは、ITなどの効率的産業と異なって、労働集約産業の構造があるから実質的な雇用拡大につながる。
 さらに関税をあげて、国内産業を守る。関税は、価格だけで選ばれる農業製品に特に影響が大きく、共和党支持層である農民たちにとって救いになる政策だ。
 トランプ氏は、何をやらかすかわからないという印象をもたれているが、実際には、その行動特性や思考特性は、わかりやすい。
 バイデン氏やハリス氏の方が、裏の顔がわかりいくいということもあるし、当人の意思や考え以外のものに操られる可能性が高そうで、展開が読みにくいのではないかと思う。
 オバマ大統領の時もそうだったが、大統領が、表向きに、リベラルで平和的で耳障りの良いことを口にしていて、アメリカのエゴが見えにくくなっていたが、世界各地で、アメリカの関与による血生臭いことが増えた。
 バイデン政権もそうだった。大統領は、ニコニコと、当たり前の正しさしか口にしないが、ウクライナの戦争も、イスラエルの戦争も、アメリカが大きく関わっている。
 そして、一般的には、まったくそのように思われていないが、実は、日本の伝統的な政策というのは、トランプ氏の考え方にとても近いように、私は思っている。
 たとえばライドシェアの規制のように、旧産業を守るためのスローな改革、移民の制限、海外派兵は断固反対、国内の農産業を守るための高い関税、こうしたことは、自由主義の人たちから見れば、あきらかに保守的である。
 自由主義の国、アメリカで同じようなことをやろうと思えば、トランプ氏のように、国境に高い壁を作るなど、激しい口調で、その正統性を訴える必要があるだけで、日本は、表向きにはうやむやな態度で、それを行い続けているとも言える。
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<京都>日時:2024年11月16日(土)、11月17日(日) 午後12時半〜午後6時
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 こちらも同じく、詳細は、ホームページにて。

 

 

第1516回 写真における、独自の視点と、その人ならではの姿勢。

(新刊の「かんながらの道」より 

 東京の写真を撮っている人は、とても多い。
 そして、それらの写真を持ち上げる際に、「独自の視点で東京と切り取った!」という言葉が使われることが、とても多い。
 気鋭の写真家とか、重鎮の写真家とか、なんでもいいが、「独自の視点で切り取る」という言葉に、私は、いつも違和感を感じている。
 東京という場は、単なる風景ではなく、生身の人間が生きて活動している舞台なのだが、その舞台を、自分が好きなように切り取って料理することが、アート表現ということになってしまっているようで、けっきょく、目の付け所を競っているだけにすぎない。
 昨日も友人と話をしていたのだが、京都というのは、街自体は整然としており、街を歩いていても迷路の迷い込む様なことは、あまりないのだが、東京の道は複雑怪奇に錯綜としており、至るところに新しい発見があることは間違いない。だから、飽きることなくそうした探索を続けることができるし、新しい発見を競い合うようにして東京を切り取った写真は非常に多くなり、そのなかで、目新しいものが「独自の視点で切り取った」と、束の間だけ称賛されるのだが、その独自性はすぐに飽きられ、他の独自性に更新される。 
 だから、常に注目を浴び続けるためには、それこそ獲物を狙うハンターのように、何か面白いものはないかと、街の中に繰り出し続けることになるのだろう。
 独自の視点ではなく、「その人ならではの姿勢で、東京と向き合った。」という言葉で、東京の写真が取り上げられることは、あまりないようだが、私は、そちらの写真の方に興味が惹かれる。
 その人ならではの姿勢には、その人の、それまでの生き様や思考の積み重ねや経験が反映される。だから、その領域が浅いと、写真も味わい深いものにはならないだろう。
 対象への目の付け所ではなく、対象との向き合い方。 
 何が違ってくるかというと、写真の中から、被写体と撮影者のあいだの対話、声にならない声のようなものが聞こえてくるかどうかだ。
 独自の視点で切り取ったと表現される写真からは、確かに、撮影者の眼差しは感じられるが、心で向き合っていないからか、対話のようなものは、あまり感じ取れない。
 私の家には、鬼海弘雄さんの写真がたくさんあるのだが、写真から、鬼海さんと被写体の対話、声にならない声のようなものが感じとれる写真は、不思議なことに、何年ものあいだ、毎日のように見ていても飽きない。
 鬼海さんのポートレートのように、東京の街を撮る。鬼海さんは、私が作った鬼海さんの写真集「Tokyo View」の中で、それを行っている。
 しかし鬼海さんの真似はできない。「視点」であれば真似ができても、「姿勢」には、鬼海さん自身の人生が深く関わっているから、真似をしようと思ってもできない。
 被写体に頭を垂れるようにして被写体と向き合うハッセルのカメラの持ち方を含め、そこに鬼海さんの気配と、鬼海さんの写真が在る。
 鬼海さんと同じ道具で同じ姿勢で自分もやるのではなく、私の場合は、道具として、針穴写真と三脚の方が、心素直に対象と向き合えるような感覚があって、その方法を選んだが、鬼海さんの姿勢は、常に明確な指針になっているし、その軸があるからこそブレずにできると思っている。
 鬼海さんの東京の写真は、「鬼海さん独自の視点で切り取った写真」という言葉をあてはめると、言葉の軽さが浮き彫りになる。やはり、「鬼海さんならではの姿勢で、東京と向き合い続けた写真」と表現すべきだろう。
 それらの写真が味わい深いのは、鬼海さんの生き様や、思考の積み重ねや経験の深さがあるからで、被写体との向き合い方には、それらが必ず反映される。
 独自の視点というのは、ごまかしがきくし、その程度のノリで活動している人の言葉も、大して面白くないが、その人ならではの姿勢というのは、写真にしても言葉にしても、ごまかしがきかず、必ず、その人自身が、そこに顕れる。

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新刊の「かんながらの道」より

第1515回 「狂」という特別な霊力。

 10,000人の感想よりも、その人の一言が、自分の方向性を決めることがある。
 私が、ずっと長い間、自分がアウトプットするものが果たしてうまくいっているかどうか、確認するための指針としている方から、このたびの「かんながらの道」に対するお言葉をいただいた。
 この方は、写真家ではないけれど、写真と同じく「視る」ことと「在る」ことのあいだにおいて、最も深いところで考えて、決して世の中に妥協することなく作品を作り続けている人。寡作であり、流行の物は作らないし、メディアに登場しないので、今日では名も知らない人も増えているけれど、世界的な大監督の一人でもある。
 「カラーで針穴写真(!)が果たしてうまくいくのだろうか、とちょっと心配ではあったのですが、いいですね。
 写真がもう一度、絵画に戻ったような錯覚にとらわれました。
 これまでのモノクロで、形とはいってもくっきりとした線をなしていないまま、おぼろに揺れていた像に、色がのって、不思議な世界が現出しました。
 面白い。
 デザインも写真の並びも上手くいっています。
 カラーからモノクロページへの移行もスムーズで、再びさくらの花ででカラーになって、赤いきつねの群れ、やがて進んでいくとモノクロでもカラーでもどちらでもいいと思えるように混在してくる感じもいいですね。
 ただ都市の写真はもう一つまだ掴み切れていない印象を持ちました。
 それにしても「日本人のこころの成り立ち」(1)から(4)も大論文、大いに価値のある本になっていました。」
 この感想のなかの、「都市の写真はもう一つまだ掴み切れていない」というお言葉。たぶん、他の人から指摘を受けることはないだろう。
 目に新しいとか、そういうポイントでは決して物事を見ない人だからこその感想。
 何をもって掴み切れていないのか。それは、都市以外のページにおいては、かなり掴めているという印象を受けていただいているからこそ、でてくる言葉であり、そこから考えると、これまで私が取り組んできた日本の古層をめぐる旅の一つの集大成と言える今回のテーマ、「かんながらの道」において、都市以外のページは、このテーマにそったものになっているが、都市に関しては、このテーマで扱うには、まだ完全に消化できていないというご指摘だろう。
 そして、その指摘は、そのとおりだと思う。
 都市以外のところと、時間のかけ方において、かなり差があることは確かだし、「都市」と、「かんながらの道」というテーマを重ねることは、前回のエントリーでも取り上げさせていただいた、もう一人の方の言葉、「今の時代、カメラオブスクラの記憶を持ち続けることは至難なこと」と同じく、極めて至難のことだからだ。
 自然のなかに、かんながら=神のおぼしめしのままの世界を見出すことができても、人為のなかに、それを見出すことは、簡単ではない。
 しかし、現代人の大半が、人為の集積である都市をベースに生きているわけだから、ここを避けては通れない。そういう思いがあり、古代のことに関する集大成と、次の展開のあいだに架ける橋として、今回、都市のページを設けた。
 都市と、かんながらの道をつなぐ鍵となるのが、本の中に挿入している荘子空海親鸞の言葉だ。
 荘子は、老子とともに老荘思想でくくられるが、この二人の自然観は、大きく異なる。
 老子の自然は、人為と対立する自然であり、現代の感覚でいうと、自然物から離れた人間的行為を否定的に捉えて、「自然を大切にすべきだ」と説くこと。この思想が過激になると、捕鯨反対をスローガンにする暴力的行為を正当化するという矛盾も起こる。
 荘子の自然は、これとは違い、人間である以上、人為から逃れられないわけで、人為と自然のあいだに線引きをしない。いずれも有為という無常の存在であり、問題は、その有為であるものに執着してしまうこと。それが反自然ということになる。地位や財産に執着することや、家族の死に執着することさえ、荘子にとっては、自然に即していないということになる。
 実は、旧約聖書におけるアブラハムの存在もまた同じである。イスラエルにとって、最も重要な聖人であるはずのアブラハムは、荘子と同じく、何事にも執着しない存在だった。
 バビロンにおける栄華を捨て、故郷を捨て、荒野を旅し、その途中に、執着の権化であるソドムとゴモラの滅亡を見て、最後には、息子のイサクさえ、神の声に従って生贄にしようとしたアブラハム
 現代のイスラエルという国は、アブラハムを最も重要な聖人としているにもかかわらず、アブラハムとは対極のソドムとゴモラの側に立ってしまっているのだ。
 日本において荘子の自然観と同じなのが、親鸞の自然観であり、自然を「じねん」と呼び、「おのずから、しからしむる」ということになる。
 この自然は、ネイチャーではなく、自然体という感覚に近い。そして、日本には、西欧のネイチャーに等しい自然観は、明治維新まではなかった。
 親鸞の説いた浄土真宗は、日本でもっとも信徒が多い宗教だが、この宗教にとって、自然というのは、ネイチャーではなく、自然体のこと。
 そして、この自然体を歪めたり、阻んだりするものが、人間の比較分別。損とか得とか、上だとか下だとか、敵か味方の区別もそう。これによって、余計な計算や打算が入り込んでしまい、不自然な言動へとつながっていく。
 人間は、大脳皮質を発達させてしまい、この大脳皮質は、物事を抽象的に比較分別することが得意なので、人間は、どうしても比較分別に囚われてしまう。
 この分別からの脱却が解脱であり、宗派によって、その道筋は大きく異なる。
 密教のような修行もあれば、禅のような瞑想もある。しかし、これらの方法は、特定の人しか取り組むことができない難易度の高いものであり、そのため親鸞法然は、ひたすら念仏を唱えるだけという方法を提示した。
 これは、法然親鸞以前に、10世紀初頭に空也が始めた踊り念仏を起源とするもので、集団で踊りながら念仏を唱え続けることで、ある種の憑依状態となり、世俗のしがらみを超えることができる。
 この方法は、古代の巫女舞にも通じる解脱方法であり、中世日本において、この解脱方法が脈々と受け継がれ、盆踊りなども、その流れのなかにある。
 今でも日本人は、何かしら深刻な事態に直面した時、こうした解脱方法で、その悩みを洗い流すことができる。
 この日本人の特性について、過去を反省しないとか、失敗に懲りないとか、否定的に捉えられることもあるが、困難に面しても前向きな気持ちに切り替えることもできるし、何より、苦し紛れに他人を犠牲にして自分だけを守るという執着の放棄につながる。それが日本人の美徳にもなっている。
 渋谷の街を歩いていると、カラオケボックスだらけなのだが、これも一種の踊り念仏なのではないかと、私は思うのだ。
 職場での人間関係をはじめ、ストレスが蓄積することは日常的であり、そのストレスを溜め込むのではなく洗い流す必要がある。休日登山に励む人もいれば、流行のマインドフルネスに夢中になる人もいるし、カラオケボックスで歌い続ける人もいる。
 おしなべて、無意識であるにしろ、現代社会における解脱の道を求める人の行動だろう。
 そして、空海は、このように看破する。
 「三界の狂人は狂わせることを知らず。 四生の盲者は盲なることを識らず。 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、 死に死に死に死んで死の終りに冥し。」
 「三界」というのは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことだが、「欲」は、淫欲と食欲で、「色」は、淫欲と食欲を超えた物質や地位名声その他の有為の現象に対する執着を意味するものだから、人間以外の生物にはない。だから、三界の狂人というのは、人間のことだ。
  「四生」というのは、四つの出生の方法の違いを意味するが、 四生の盲者は、卵であろうが胎内であろうが、いずれにしろ生まれてくるものすべてを指す。
 すなわち、生物全体として、自らが盲なることの自覚はない。だから、生まれた時も、暗闇のなかから生まれ、道理にくらいまま、この世から消えていく。
 そこで、この空海の言葉で重要になってくるポイントが、人間を指す「三界の狂人」ということになる。
 「狂」という言葉をネガティブに受け取る人が多いが、古代においては、そうではない。
 「狂」は、古代においては巫女の憑依であり、神の降臨と重なる。それは、日常を超える境地であり、預言であり、新しい世界の創造を意味する。
 今でも、ひたすら物事に打ち込むことを、「狂ったように」と表現する。
 白川静さんの言葉によれば、「狂」の持つ意味は、本来「王」に与えられた特別な霊力を秘めていた。
 そして、白川さんの好きな漢字の一つが、「狂」であり、これは、世間の埒外に逸出しようとする志であり、最大の賛辞だ。「狂」は、人間ならではの至境を意味する。
 「三界の狂人は狂わせることを知らず」。ここで肝心なのは、「狂っていることを知らず」ではなく、「狂わせることを知らず」と空海が述べていること。
 人間は、本質的に、そうした特別な霊力を潜在的に備えているにもかかわらず、卑小な分別によって歯止めをかけ、ラインを引いてしまい、そのラインの中の常識に囚われてしまう状態を、空海は、「狂わせることを知らず」という言葉で示している。
 そのラインを超える狂人だけが、「死の終りに冥し」という状態を脱却できるのだ。
 簡単に言うと、何事も、狂ったように打ち込まないかぎり、その道に通じる境地に至らないということ。
 「狂」という言葉は、現代社会でネガティブに受け止められるので、代わりに、「ゾーン」という言葉を用いた方が伝わるかもしれない。
 大リーグで活躍する大谷選手が、従来のスポーツ選手と大きく異なるのは、いくらお金と名声を得ても、野球以外の時間は、寝ているという話だ。
 夜の街に繰り出して高級クラブで酒を飲んで女性にもてはやされたり、美食を楽しんだりといった派手な暮らしを当然の権利のように行うのが、かつての成功したスポーツマン像だった。
 世の中は、大きな成功を成し遂げていなくても、オンとオフとか、仕事と遊びとかを分別している人が大半だが、大谷選手は、そうした線引きがなく、ずっとオンで、ゾーン状態にいるのではないかと思う。つまり、大谷選手は、「狂」という特別な霊力を身に宿らせるほど、それだけに打ち込んでいる。
 ひたすらそれだけという境地になっていないと、見えてこないものがある。
 宮大工も、そうした境地だからこそ、樹木の声が聞こえて、その声に従って建物を生み出している。
 都市が、なぜ人を惹きつけるのか。それは、一部の人にとっては、そこが踊り念仏の舞台であるからだろう。
 また一部の人にとっては、古い常識の外に出られる回路を期待するからだろう。 
 人間が作ったものであるにもかかわらず、一人の人間からすれば、あまりにも巨大な都市空間。自分の無力を感じれば感じるほど、むしろ逆に、爽快感や解放感が得られることがある。自分を超えた大きな流れになかに、自分が存在しているということに対して、自我の殻の厚い人は不安になるかもしれないが、自我の殻を取り払えば、安心感につながることもある。
 宇宙の中の星屑のような小さな存在であるけれど、全ての星と同じように、いずれは儚く消えて行く身であるということが、宇宙の摂理と、この身を一体化させたかのようで、命の尊さを感じ、安らぎにもなりえる。
 いずれにしろ、自我の殻を脱ぎ捨てて、狂うほどに何かに取り組むことがなければ、ものごとの道理にくらいまま一生を終えることになる。
 冒頭に戻ると、私が、都市を掴み切れていないのは、都市以外のことは、この8年のあいだ、ひたすらこればかり狂うほどに取り組んでいたけれど、都市においては、まだ、そこまで至っていないから、ごく当たり前=自然なこと。そういう微妙に足らないところを、きちんと見ていただけるのは、その人が、それほどの深さで、自らを狂わせて、物事に取り組んでおられる証でもある。
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