ブッシュ再選に対するメディアの報道

 ブッシュが再選されました。
 朝日新聞などは、あいかわらず、「米国人は愛すべき存在だが、ブッシ大統領を嫌いな日本人は多い」という”世論調査”の報告とか、今回の選挙は、道徳や倫理的価値観に訴えるという戦略の勝利であるとの”分析”とか、レーガンも二期目には政策を変えたから、ブッシュにも期待できる、期待したい、さもなければ米国は国際社会から孤立するだろうという”予測”ばかりで、ひどいモノです。

 アメリカの政策は、単純に政治家のエゴだけによって成り立っているのではないはずです。イラクへの武力介入にしても、根本のところで、アメリカの「国民」や企業にとって有利な世界を築くという使命と戦略が横たわっているはずで、映画やテレビや雑誌でいくらブッシュ大統領を非難しようとも、ブッシュ大統領が、アメリカの「国民」や企業に媚びて、彼らにとって有利な政策を続けていれば、ブッシュ大統領は最終的に彼らによって支持されてしまう。
 
 太平洋戦争前と違って、政権を口先で非難することは誰にでもできるわけで、それをやったからといって、実は何も変わらないことがわかっていない。
 政権とその政策は、「国民」や企業という無意識の集合体のニーズを反映しているはずです。
 だから、朝日新聞をはじめとするメディアは、今回の選挙でブッシュ大統領を再選させたアメリカ国民を、ブッシュ大統領に対して行ったように非難しなければ筋が通らない。
 でも、政府より恐いのは、顔の見えない「国民」の膨大な数。
 メディアが対応に神経質になる相手は、「政府」ではなく、「読者」であり「視聴者」であり「スポンサー」であり「スポンサー」が気を遣う「消費者」であって、その無意識の巨大な集合体の神経を逆撫でするかもしれないことは、できないでしょう。それは、自分達の存続にとって致命傷になってしまうから。

 政府は、しょせん「選ばれた人」であるから、「国民」に選ばれ続けることを優先して行動する。どんなに非難を受けようとも、安易な報復を行ったりしない。でも、「国民」という無意識の集合体は、商品や政治家やテレビのチャンネルを選ぶ権限をもっている。メディアに対して、「選択」という報復をすることができる。
 自分も含めて多くの「国民」の本心は、自分の変わりに政府が策を講じ、時には手を汚してくれて、その結果、「自分の生活の安定=平和」が保証されること。老獪な政治家は、そうした国民心理を読んで、「国民」に後ろめたい思いをさせない巧みな論理をつくり、反対運動などで「国民」の良心を適度に満足させ、物事を推し進めていきます。

 闘う相手は、政府ではなく、自分たちの中にある何か、の筈なんです。その何か、が何であるのか、その何かは、闘って克服することができるものなのか、もし克服できないのであれば、いくら政府を非難しようとも流れは変わらない、そういう意識をどれだけリアルに持てるか、という闘いなのではないか、と思ったりします。
 分析とか調査とか予測とか、そういう取り澄ました客観的態度で、何が変わるもの
か!! という怒りに似た感情に支配されます。
 と思うと同時に、そういう態度が悪気があってそうなったのではなく、学校教育をはじめとする様々な今日的価値観のなかに、そうなるように誘導してきた、根深い、大きな潮流があるわけで、その流れの中に育った人たちの膨大な集まりが今日の価値観を築き、さらに、そのなかでそうした価値観によりよく順応出来た人たちが、イニシアチブを握りやすい立場に立ち、その発言などがことさら重宝され、その影響が、ますます拡がっていくという今日的な堅固な重層構造のことを思うと、目眩がします。
 もちろん、誰しもその重層構造の胡散臭さはそれなりに感じるようになってはいます。それは、一つの成熟だと思います。
 でも、いざという「選択」の際に、その胡散臭い重層構造の方を拠り所としてしまう。
 毎日の生活のなかで、ほとんどの人は、意識の強制(ある種の強迫観念)のような力で「選択」させられるものが多すぎ、心の余裕が持てない。だから、世間で評価付けのすんだものを安易に拠り所にしたがる。
 人間世界のあり方を、<調査、分析、予測と、それに基づいた合理的な行動>だけの世界から、<願いと現状との格差、その葛藤と苦しみ、その苦しみから得た智恵とバランス感覚にもとづく言動>というように修正していくことが大事なのではないか、と思ったりしました。