「優しさ」という自己保身

 新潟中越地震の被災地に、古着がたくさん送られてくるという新聞記事があった。そのなかには、夏服や、洗濯済みとはいえ、少し汚れた下着までが。
 善意の行為であれば、結果はどうであっても、その行為は良いものとされる。それが日本の一般的な通念だ。でも本当にそうだろうか。
 最近、私は常々思うのだが、誰が見ても悪人と判断できる人が世の中を悪くしているのではなく、本人も悪という自覚がないし、周りから見ても「悪」だと判別できない行為の無数の集まりが、世の中を歪めているのではないか。衰退企業や役所などの前例主義や先送り主義など、その典型だろう。本人達は、悪いことをしているという意識はまるでない。自分自身がリスクや責任を負いたくないという気持に添って行動しているだけだが、それが積み重なれば、必然的に悪い状態をつくる。
 取材などで介護現場に行くたび、いろいろ考えさせられる話を聞く。
 介護保険制度によって、本人の費用負担は10%。全額負担だと受けないサービスでも、10%ならと気軽に受けてしまう人が多い。介護に携わる民間企業(とりわけ新興企業)のなかには、それをいいことに、過剰なサービスを押しつけるところもある(私が関わっている会社は、その部分がとてもまともで感心する。お世辞ではなく)。
 このあたりの次元だと、傍目にも悪だとわかりやすいが、問題はさらに根深いところにある。
 介護現場で働く人が、お客様(と彼等は表現する)に喜ばれるという理由だけで、過剰なサービスを提供することがあるのだ。食事とか掃除など、本人がやろうと思えばできることを、ヘルパーがやってしまうことがある。頼まれて断ると、相手が気分を害する。人に怒られたり文句を言われることが大嫌いな気の弱い人たちは、それが仕事だと自分に言い聞かせて何でもする。人に喜んでいただきさえすれば、それだけで善なることだと思っている人が多い。でも、それは間違っている。なぜなら、それをしてあげているうちに、自分でできていたことまでできなくなってしまうからだ。介護保険法の理念である自立支援とは遠いところにいってしまう。
 人間は怠け者だから、どうしても目先の「楽」を求めてしまう。だからといって、それを安易に受けていたら、長い目で、その人が不幸になってしまう。しかし、なかには、「だって、相手の方が喜んでいるのだから、いいじゃない」などと反論する人もいる。こうした心理は、実は、本当の意味で相手の立場にたっているのではなく、相手に悪く思われたくない、相手にほめられたい、というものにすぎない。つまり、善良なる行為の仮面を被ったエゴにすぎないのだ。リハビリの途中で、相手が辛いと言っているからといって、「じゃあ、やめましょう。そんなに無理をしなくてもいいですよ」と甘い毒を盛るのと同じなのだ。
 しかしながら、こうした行為は、明確な悪と違って、表向きは「善」っぽい装いなので、非難されにくい。でも、これが無数に集まるとどうなるだろう。もちろん、税金の無駄使いになる。そして、多少辛くても厳しくても自分で頑張ろうという人が少なくなる。人にやってもらわなければ損だと思う人が増える。目先の損得ばかり考えるようになる。そんな人が増えたら、会社なら倒産するだろう。国だって同じだ。政府ばかり非難しても解決にはならない。そうした議論以前に、「楽」が優先される風潮のなかに、本当の幸せがあるとは、とても思えない。
 ここに述べたことは、当然ながら、子育ての現場にも蔓延しているだろう。
 表面的な優しい装い。相手に良く思われたい、相手に嫌われたくない、感謝されることで自分の存在価値を認めたいという心理に基づく行動の積み重ねは、一見、良好な雰囲気をつくるが、知らず知らず根元を腐らせていき、取り返しのつかないことになるのではないだろうか。