デジタルカメラとアナログカメラ

 アクエリアンさんのBLOGで、デジタルカメラとアナログカメラのことについて、深く言及されていますが、私も思うところを書きます。
 「風の旅人」10月号のブルース・オズボーンさんの親子写真の特集は、数年前に中判フィルムで撮った親子を、今年、デジタルカメラで撮ったものと比べるという演出でした。
 見ていただければわかるように、35mmフィルムより描写力のある中判と比べても、デジタルカメラの品質は劣っていません。むしろ、いいくらいです。
 ですから、撮影するもの、撮影する人によっては、カメラがどちらであるかというのは、あまり問題ありません。
 ここであえて、「撮影するもの、撮影する人によっては」と書いたのは、そうでない場合があるからです。それは、超一流の人が、その人ならではのテーマをもって、その人ならではのものを撮影する場合です。たとえば、野町和嘉さんや水越武さんや、セバスチャン・サルガド(風の旅人 第九号で紹介)の写真などは、一目で、誰の写真かわかります。超一流の人の写真は、描写力とか、色味とか、発色とか、見た目の綺麗さを遙かに超えて、その人ならではの「世界観」が強烈に放たれています。つまり、真の意味で芸術の領域に至っているわけです。たとえば同じ一眼レフを使って、同じ絞り値とシャッター速度と、焦点距離で撮影したとしても、同じにならない。これはいったい何なのだろうと思います。
 彼らは、彼らにとって必然のものしか撮らない。彼らにとって必然のタイミングで、光の加減で、構図でしか撮らない。そして、その必然の瞬間に使用すべきフィルムのデータとか癖とかが、全て、頭のなかにインプットされている。いちいち考えているのではなく、まさに瞬間芸で、そこにあるその奇跡の一瞬を定着させるのにもっとも相応しいフィルムを選択して、それを使用する。フィルムの癖を引き出すことで、自分のイメージ通りの世界を定着させる。超一流の写真というのは、まず、撮るべきものが自分のなかにしっかりとあって、フィルムとか絞りとか時間とか光の加減とか、無数の要素の窮極の組み合わせのなかから奇跡的に生まれてくるのだと思うことがあります。その領域に至っている人が、本当のプロです。
 水越武さんは、フジフィルムの鮮やかすぎる発色は、自分の世界に合わないと考え、コダックしか使いません。野町さんは、1ヶ月ほどの撮影でも、我々には考えられないくらいたくさんのフィルムを持っていくようです。

 ある程度の技術があれば他の誰でも同じように撮れる写真というのは無数にありますが、一目でその人のものとわかる写真は(わざとぼかしたり、色づけしたり、など奇をてらって独自性を演出しているものではなく、ありのまま撮っていることが基本)、撮影者とフィルムとの長年の真摯な対話のなかから生まれているので、まだデジタルカメラは、その領域までいけていないように思います。これから使いこなし、その癖をどんどん自分のものにして、その癖によってしか自分の世界観が表現できないという域に至る時は、いずれ来るとは思いますが。
 でもまあそれは、超一流の世界であって、ふつうの写真を撮る場合は、デジタルカメラが何かと便利には違いないと思います。