茂木健一郎さんの身体的思考回路

 昨日、「紅葉の美」について私が書いたことは、まるで答えになっていない。
 おそらく(私の知るかぎり)、こうした問題について、日本でもっとも考えているのは、茂木健一郎さんではないだろうか。
 茂木さんは、脳科学者として第一線で活躍されている。最初、養老孟司さん等と普通に対談している本を読んだ時、養老さんと同じくらいの年齢というほどではないが、言葉が深かったので、50代かなと思った。しかし実際は、私と同じ1962年生まれだったので、びっくりした。すごい人がいるもんだなあと感心した。そして、なるほどと思った。
 なるほどと思ったのは、深いだけでなく、思考回路が新しかったからだ。その新しさは、固定した同じ枠組みのなかでの目新しさではなく、パラダイムそのものを見直させる新しさであり、畏れ多い言い方だが、私自身が感じている何ものかだった。私自身は、感じ取ることが出来ていても、ほとんどの人がそうであるように、そこで終わってしまう。しかし、茂木さんは、そこから一歩も二歩も抜きんでて、その新しさを「記述」しようとしている。
 その新しさというのは、茂木さんの研究テーマである「クオリア」という、「感じ方の質感」の科学的記述だ(こんな風に簡単に言ってしまってはいけないかも)。
「紅葉を見て美しく思うその気持ちはいったいどういうことなのだ。林真理子の小説を読んで不愉快に思うこの気持ちはいったいどういうことなのだ。」
 美しく思うのも、不愉快に思うのも、同じ自分の身体的感覚であって、茂木さんはそのことに純粋に忠実であり、かつ、その感覚を最新の科学的モチーフとして取り組んでいる。これはとても重要かつ画期的なことであって、なぜなら、その先の地平線上に、科学と精神と接合点が生まれる可能性があるからだ。
 「美は理屈ではない、そう感じるかどうかだ」などという古めかしい精神主義や「構図がどうの、色使いがどうの」という小賢しい小科学的客観主義を聞いても、今日の人は、納得できないものが心中に残るようになった。それは一つの成熟段階にあるということだ。人は成熟してはじめて、次なるものを待ちかまえる。
 おそらく、精神的なるものを感傷的に伝えようとしても、歴史的失敗を何度も繰り返して賢くなっている現代の人に対しては、うまくいかないだろう。どうも胡散臭いものが残るのが普通で、そうでない人はよほど(理由があって)鈍感なのだ。
 といって、従来の固定した、一見合理的に見える(実証)科学的な説明も、整合性の追究という帳尻合わせのようなものになって、いったい何のためにそれを調べ始めたのか肝心なことが見えなくなってしまい、「もう勝手にやっててくれ」という気持ちになるのが普通だろう。それをそう思えないのも、同じように(理由があって)鈍感なのだ。
 茂木さんは、「科学」が「実証の作法」や「合理的な処世」に成り下がったものには嫌悪を感じているだろうが、もともと科学のなかに宿っていた「精神」を信じ、それと真摯に向き合っている数少ない科学者ではないかと思うことがある。
 その「精神」というのは、真実を追究する真摯な姿勢だ。 だから、「たかが遺伝子一つ発見したぐらいで・・・」という言葉がでてくる。そう、人間の遺伝子の全てを解読しても、大騒ぎしていたほど革命的なことにならない。本当の生命の暗号は、記号の羅列にあるのではなく、その先の、「それが意味するところ」にあるからだ。それは、「理法」というべきものではないかと私は思っている。 現代風に言うならば、「システム」。
 無数の様々な要素や要因が組み合わさって、そう感じるように感じている。そのように感じさせる「システム」の正体を暴き、かつ、科学的なロジックに裏打ちされた説得力で記述すること。そうしないと、近代から今日まで連綿と続き、堅固な要塞のようになったパラダイムに揺さぶりをかけることができない。私はかってながら、茂木さんはそのように考えて実践しているのではないかと思っている。
 そうした茂木さんは、科学者なのに、とても文学者的だ。科学者で、文学も趣味として嗜み教養をつける、また、その逆に、文学者で科学に関心が高く、その知識を多くもっているという嘘っぽいものではなく、両方に対して真摯なのだ。その融合者なのだ。
 その茂木さんに、私は都市を書いて欲しいとお願いし、「風の旅人」に連載してもらっている。
 紅葉とか花とかではなく、都市であることが肝心。その理由は、都市を題材にすることではじめて、”美しさ”に対する認識の再構築につながる可能性があると思ったからだ。
 (日野啓三さんは、10年以上前、既に文学的にそのことを実践していた。)
 紅葉とか花なら、誰しもある程度「美しい」という固定観念がある。本当は、美しいと思う身体的感覚に耳をすまし、記述することに意味があるが、「いちいち考えなくても、わかっているじゃん。他に考えることいっぱいあるんだから」みたいになってしまうこともある。つまり、紅葉とか花は、今日の人間が生きるうえで切実な問題として感じられていない。
 しかし、「都市に生きる際の、身体的思考」は、今日の多くの人にとって、切実な題材となるだろう。
 茂木さんが「風の旅人」の誌面を通じて、「都市という情動」というテーマに添って真剣に書いてくれていることは 、実はそういうことなのだ。