ニヒリズムを超えて

 「風の旅人」の連載で、佐伯啓思さんに、”ニヒリズムを超える”というテーマで書いていただいている。
 ニヒリズムを超えるというのは、現代人を捉えている刹那的熱狂、冷笑、無気力、目先の現実主義や数理主義、教条主義などを超えて、生きていることの実感を自分に引き寄せること。
 佐伯啓思さんは、それはとても難しいことで、まずは、そうした状態にあることを意識化することが大事だと言う。
 自分がなぜそういう状態になっているかという辛い問答を自分相手にすることで、そこから脱する「新しい意志」を持つことが出来る。

 この”ニヒリズムを超える”というテーマで、10月号より、浅井慎平さんに下北沢を撮影してもらっている。
 下北沢には、ニヒリズムを超えていく鍵が隠されていると私は感じている。その理由の一つは、この街では”境界”が溶け合っていること。
 下北沢は、遊びと生活、飾りと実用、作り物とそうでないもの、空と地、闇と灯り、などが、自然な形で溶け合っている。この街を取り巻き、そこらあたりに忍び込む”闇の加減”とか、人と人、物と物、人と物との”間合い”が、日常と非日常の分別も無化して、不思議な居心地良さを作り出している。

 今日の社会は情報ばかりで、自分が生きている世界がどこからどこまでか、リアリティを持って感じにくくなっている。というより、個人個人はそれなりに感じ取っているのかもしれないが、巨大なメディアが、その意識を定着させるのではなく、不安定にさせる形で脈絡のない情報を垂れ流している。
 そういう状況のなかで、否定したり批判するばかりだと前に進めないので、それに変わる新しい<文脈>を見つけることが大事だ。

 その新しい<文脈>のキーワードの一つは、「愛着という身体感覚」ではないかと私は考えている。
 理由はよくわからないけど強く心が引かれるもの。強く心が求めるものに忠実であること。損得勘定や、役に立つかどうかや、意味無意味といった分別より、「理由はよくわからないけど心が引かれる感覚」を大事にすること。

 そうすることによって、回り道をし、落胆し、腹立たしくなったり、悔しかったり、情けなくなったり、突然しみじみと嬉しくなったり、様々な想いに取り憑かれることになるかも知れない。
 でもたぶん、そういう想いというのは、人が生きるうえで本質的なことなんだと思う。
 そういう身体感覚を、自らの生の手応えとして確認し、それでよしとする気分。そうした気分が身体に漲ってくると、”新しい意志”と呼べるものが自分の中に育っていく。ニヒリズムを超えるという分別すらなくなる境地がそこにあるような気がする。