可能性に満ちた混沌

 今日、ニューヨークで頑張っている写真家の田中克佳がNHKの取材とかで帰国して、編集部に来た。そして、今後の構想についていろいろ話しをしながら、ブラジルとリオデジャネイロの話題になった。
 私もブラジルは二度ほど訪れたことがあり、好きな国の一つだ。
 彼も、ブラジルの撮影を自分のライフワークの一つとして位置づけている。
 ブラジルという国は、混沌が混沌のまま許容されているようなところがある。混血も多い。いろいろなものが雑多のまま混ざりあって、そこから熱いエネルギーが放出されている。といって全てが混ざっているのではない。ブラジルには多彩な色があるが、それが全部混ざってしまうと灰色になってしまうが、そうではなく、微妙に混ざり合って灰色になるところと、混ざらずに元の色味を残した部分がある。灰色の部分があるからこそ、他の色味がより引き立てられて美しく見えるのだというようなことを、田中氏は誰かの言葉を借りて説明していた。
 ブラジルと同様、アメリカにもいろいろな人種がいるが、ほとんど混血しない。ブラジルは、どんどん混血する。もちろん、ブラジルにもいろいろ問題は多い。しかし、混ざりあうことによって生じてくる揺らぎ世界は、前例主義でモノゴトの区分や識別を重視する官僚社会の硬直さよりも、新たな可能性に満ち溢れているように思う。
 モノゴトを小さく区切って、その範疇で処理しようとすれば、整合性も高まり、ミスも減る。でも、企業を一つの生命体として例にすればわかりやすいが、そういう会社の将来は明るくないだろう。星にしても、その内部で核分裂核融合を頻繁に起こして混沌状態を作り出していかないと、自分の重力によって潰れてしまう。
 雑誌というのは、本来そういう雑多な混沌こそが生命ではないかと思う時がある。
 マーケティングという名のもとに、「30代女性の生き方」などと、あらかじめ着地点の決まったような企画をたてて、その枠のなかで取材して、予定調和の原稿と写真を収めるという、パターン思考の権化のような情報誌が世に氾濫している。気が付くと、身の回りは、いろいろなランク付けや、線引きや区分や、差別化や、損得意識を強いるようなものばかりになって、窮屈な社会がますます窮屈なものになっていく。
 新しい新しいといいながら、発想としては何も新しくない。より新しい代替え方法や、整理や作業方法を示すだけで、心の深いところに届くモノは何もない。そうしたスタンスは、本質を正し、実態を変えるのだという新しい発想によるものではなく、表面の装いを変えて取り繕い、その場だけをしのごうとするものだ。それは、一見無難なように見えるが、こういうスタンスのモノがイニシアチブを握ると、昨今の衰亡企業を見れば分かるように、その影響化にある組織体は少しずつ壊死していく。

 本当の意味で、新しい空気というのは、そういうことでないだろう。新しさは、生き生きとした可能性に満ちていなければならない。勢いのあるものでなければならない。
 力強いエネルギーを秘めたもの同士がぶつかり合って、そこから飛び散る火花が、さらに他のモノに引火して、少しずつ熱く燃え上がっていく、そういう組織こそが生きた組織だ。会社もそうだろうし、雑誌だって一つの組織体だと私は思う。力強いエネルギーを秘めた写真や文章に向き合ってガチンコ勝負することは、とてもエネルギーがいることであるが、そうすることによって、自分の中に核融合反応が起こる。自分を新しくしたり、組織(雑誌も)を新しく活性化させるというのは、そういうことでしかないように思う。 

 ブラジルとリオの話題が脱線してしまった。本日、田中氏と交わしたリオの根っこの話しは、また後日。