リオデジャネイロと自己認識

 昨日、脱線してしまったリオのことについて。リオのイパネマ海岸に行くと、スタイルの美しい女性が、眩しい日差しの下、大胆に肌を晒している。しかし、誰一人、海で泳いでいない。ブラジルのリオと言えば必ず紹介されるイパネマの海岸の、あのTバックの美女達。バレーボールの選手などを見る時にも感じるが、ブラジルって、実に美女が多い。でも、田中氏の話によると、ブラジルは世界でもっとも成形手術が盛んな国で、世界一の成形技術者は、リオに住んでいる。彼を目当てに、ハリウッッドから多くの女優がリオに来るという。
 ブラジルの女性達は、顔だけでなく、ヒップやバストやウエストなど、あちこちを成形手術するのだそうだ。
 田中氏の説明によると、あの風光明媚な場所で、陽気な気候ゆえに身体を晒すことが当たり前の空気があり、そうした条件の中、人に見せて見られるということに対する強迫観念があるらしいのだ。幼少の頃から美しい自然の景色を見て育ち、美に対する目が養われるうえに、美しい身体の人を見ることが当たり前の環境で、身体美に対する自己認識が異常に高まるのだそうだ。
 田中氏は、そのリオの海岸でずっと撮影をしているのだが、いわゆる観光用の写真など撮るつもりはなく、一人一人の人間を、しつこいくらいに観察している。
 海岸に来て、大胆な水着になる。海に一度も入らず、一日中、一人でポーズをとったりしながら時間を費やしている美女が多いらしい。私もイパネマ海岸には行ったことがあるが、そんなに長い時間滞在せず、華やいだ雰囲気に心ときめかせただけで、それ以上のことは何も気づかなかった。
 田中氏の話によると、美しい女性が(美しいゲイも多いらしいが、私はわからなかった)、身体の向きを変えたりしながら、他人の目を過剰に意識している様を何時間も見続けるのは、とても不思議な感覚になるみたいだ。

 確かに、山々が海岸近くまで迫っているリオの景観は、何かグラマラスな感じがある。神戸の街も山が海に迫っているが、山の稜線が比較的単調なのに対し、リオの場合、山のフォルムが肉感的でダイナミックだ。そこに広々と開けた海がある。こういう視覚世界って、きっと人間の自己認識に影響を与えるのだろうと思う。
 人間は環境によって作られるとよく言われるが、環境そのものより、その環境ゆえに生じる自己認識の働きが大きいのだろう。
 人間は、自己認識によって作られるのだ。良い悪いに関係なく。

 田中氏となぜそういう話しになったかというと、『風の旅人』の2005年2月号から続ける「自然と人間のあいだ」というテーマで、リオデジャネイロを掘り下げていくのも面白いのではないかと考えたからだ。
話せばキリがないが、ブラジルには、リオにかぎらず、「自然と人間のあいだ」について深く考えさせられる様々な現象がある。
 ブラジルは、アマゾンやパンタナールなどで知られた自然大国であるが、開発とか資源の活用など、自然と人間の関係がせめぎ合う場所でもある。
 また、牧場で切り開かれた森のほんの一部だけを残して、そこにある小さな川とか池などともに「宝石のような自然」に親しむ場所として観光地化し、同時に入場制限を行って、「自然保護」をアピールする国家と国民でもある。剥き出しの大自然が拡がるパンタナールの南のボニートという場所は、大自然の国ブラジルのなかの、箱庭のような場所だ。日本の里山のようなそんな場所で週末を過ごすために、サンパウロなどの都会に住む人は、飛行機で出かけていく。
 アマゾンのような正真正銘の自然と、人間に保護された宝石のような自然。人間が親しみを感じているのは後者だ。正真正銘の自然は、人間の手に余る。
 でも、知らず知らず人間の自己認識に影響を与えているのは、人間の手に余る正真正銘の自然の方ではないかと思う。正真正銘の自然に感化されて生みだされた自己認識が、自分の周りに、その複製を作ろうとする。宝石のような箱庭も、成形手術も、そのようなものではないか。
 ブラジルに混血が多い理由は、この国を植民地化したのがラテンヨーロッパの人間であるとか、厳格で秩序を重んじるプロテスタントではなく、奔放で人間の欲望に対して比較的寛容なカトリック教徒であるとか、イギリスの植民地政策と違って男だけが来たからだとか、いろいろ説明されているが、人間の区別意識や分別を無化してしまう正真正銘の自然がすぐ傍にあることも大きな理由だろう。また、血とか出身地とか記号的な区分よりも、フォルムの美しさと、その内側から漲る自然力に価値を置くという「自己認識」が形成されやすい環境要因も大きかったのではないか。
 いずれにしろ、ブラジルという国の可能性は、資源大国とか経済的な面だけでなく、今日の世界を覆う厳密・硬直・閉鎖のパラダイムを揺るがす文化的側面にこそあるのかもしれない。