本橋成一さんの「アレクセイと泉」

 昨日のセバスチャン・サルガドに対するコメントで取り上げられた「風の旅人」 Vol.10の巻末文を、ここに記します。

本橋成一さんの、『アレクセイと泉』について

 1986年に起こったチェルノブイリ原発の爆発事故で被災した小さな村の物語です。
 畑からも森のキノコからも放射能が検出されますが、不思議なことに<泉>の水からは検出されない。汚染された土地に滾々と湧く<奇跡の水>の力によって、村人たちは生き続けている。『アレクセイと泉』の水の恵みは、この映画を通して、少数の人の心から心へ、次第にめぐっていきます。
 本橋成一さんは、土門拳賞受賞の写真家であるとともに、国際的にも評価の高い映画監督です。この映画と同じ土地で撮影された写真は、『風の旅人』第七号の特集”母なる大地”の巻頭を飾っています。
 本橋成一さんは、悲劇の舞台で生きる人間達を、静謐に美しく描きだします。
 その美しすぎる映像のため、人類に起こった悲劇をカムフラージュしているなどと批判する人もいますが、私はそう思いません。悲惨で残酷な状況だけに焦点をあて、人間の愚かを強調したり、政府ばかりを批判する表現者もいますが、本橋さんの方法は違います。人間の愚かさはわかっているけれど、それを暴いたり批判するだけではなく、それに代わる未来を手繰り寄せようとする意志が、本橋さんの作品には脈打っています。その意志は、祈りであり、魂と言うべきものです。
 本橋さんは、人間の愚かさによって壊されてしまったものを強調するのではなく、壊してはいけないと痛切に感じさせる世界を描きだします。大事なことは、壊したくない、壊してはいけないと痛切に願う気持ちが、見る者の魂に宿ることです。
 破壊された物や人間の死体は、状況の悲惨さを伝え、嘆かわしい気分にさせます。しかし、その嘆かわしさが、悲惨な状況を作り出した直接の関係者や政府を攻撃することで解消されてしまうことがあります。その悲惨な状況に対して自分の無力を痛感し、何かをしなければいけないと思うところまではいいのですが、特定の誰かを批判して終わってしまう。そうしたことが繰り返されても、状況は変わっていきません。なぜなら、膨大な数の人間の生活の積み重ねの上に、エネルギーをはじめ様々な問題があり、それに付随する形で政府の政策が決定され、それに乗じようとする利権屋の思惑も混ざり、複雑で悪い状況がはびこっていくからです。
 この地球上に起こっているどんな事も、人間一人一人だと無関係のように見えますが、何万、何百万、何十億と集まった時に、怪物のような力となって影響を与えています。
 一人一人の生活意識そのものが大きく変わらなければ、根本的な解決には至らない。
 反戦とか反原発とか反帝国主義とか、巨大な敵がそこにあるように想定して、戦う姿勢をアピールするばかりではなく、その戦う相手が自分の中に潜んでいるかもしれないと内省することも大事なのではないか、と思います。
 本橋さんは、自分のやっていることを大きな声でアピールしたり、スローガンを唱えて煽動するのではなく、小さな声で心の扉を叩くように語りかけています。
 本橋さんの写真や映画の中に登場する実在の人物たちは、彼らにとって当たり前の日常を、当たりまえに生きていますが、その当たりまえのことが実に美しい。その粛々たる振る舞いは、聖典の中の聖人を思わせます。
 人間の愚かさや罪深さを踏まえたうえで、人間を慈しみ、感動の力によって人間の未来を祈る。<奇跡の泉>が大地に染みこんでいくように、この映画を見た魂の震えが、人から人へと静かに伝わって大きく広がっていく時代が、そんなに遠くないことを願っていす。
                             (風の旅人 編集長 佐伯剛)