写真の可能性

 写真表現には、世界を再認識させる力が間違いなくあると思う。
 しかし、今日の写真の取り扱われ方と、写真家自身の意識が、それを阻んでいる。
 まず、メディアにおいて写真は、文章に従属させられている。言葉で伝えるべきものが最初にあって、その裏付けとか説明のために写真が使われている。その言葉が、表層的現実の向こう側に迫るものであればいいのだが、そのほとんどが表層をなぞるものであって、そんな言葉に従属させられてしまう写真は、事実の伝達にすぎないものになってしまう。
 また、雑誌や写真集などで、写真を選択し、順番を組み、レイアウトする段階で、写真の持っている力を殺ぎ落としてしまうことがある。多くの雑誌編集者が、状況説明的な写真を選び、状況説明的に組んでいく。または、デザイナーがイニシアチブを握る場合は、構図とか色味といった表面的な見え方で、写真をレイアウトすることが多い。
 それ以外にも、“アート”という得体のしれない言葉が、写真の世界を侵していることも問題だ。
 たとえば、ブルース・デビットソンが、80年代のニューヨークの地下鉄を決死の覚悟で撮影した衝撃の写真集が、最近、写真好きの間で「アート写真」として紹介されるようになっていると聞く。正真正銘のドキュメント写真が、毒にも薬にもならない“アート”として括られてしまう理由は、おそらく、現在のニューヨークの地下鉄が、80年代の猥雑さや不穏さとは別物になってしまい、ブルース・デビットソンの写真が、ドキュメントとして通用しないものになってしまったという判断なのだろう。ドキュメントとしての価値はないけど、構図とか色とか、表層的なアート的要素も素晴らしいので、そちらのジャンルに入れるということになってしまう。ドキュメントにしても、アートにしても、どちらにしろ、表層的な解釈にすぎない。
 それは、水越武さんの写真をネイチャー写真、中村征夫さんの写真をダイビング写真として括ることに等しい。つまり、わかりやすくカテゴリーで括ることが好まれる今日の社会において、写真は、表現対象が明確であるがゆえに、カテゴライズされやすい性質を持つ。それを嫌って抽象絵画のような意味深さを狙い、わざとぼかしたりして“アート”というカテゴリーに入ることを好む人もいる。でも同じ意味深さなら、歴史がある分だけ、絵の方が格上に評価されるだろう。もし、意味深な写真が人気があるとすれば、それは、表現欲求の強い人が、自分のフィーリングに合っていて、かつ自分でもできそうだという親近感を覚えるからではないか。今日の表現活動で人気を得るためのキーワードは、親近感。でもそれは一種の媚びだ。
 
 でも、本物の表現者は、私たちにはとてもできないことをやってのけ、その非凡さによって、人間の可能性とか、世界の奥行きとかを垣間見せる。その作品の力によって、それを見る私たちは、人間や世界をより深く感じることができる。 
 ブルース・デビットソンの地下鉄の写真もそうだ。だから、雑誌編集などでそれらの写真を組む場合、その力を最大限に生かすため、写真に写っている表層的なものの背後にあるものが何なのか、深く考えなくてはならない。
 「表面的な面は偶発的なできごとにすぎない。しかし、構成的な深い面は、いわば運命なのだ。」このブールデルの言葉のように、地下鉄内の状況という表面的で偶発的なできごとではなく、その深いところに宿る“運命”を見抜かなければならない。一流の写真には、その“運命”が写り込んでいる。そして、その“運命”をより浮かび上がらせるように写真を選び、テーマを決め、レイアウトを行っていかなければならない。それが、写真本来の力を生かす方法だ。
 「風の旅人」の第九号で紹介したセバスチャン・サルガドの写真の数々を、私は「人間の領域」というテーマを掘り下げるために、選択し、活用した。
 これを、「ブラジルの金鉱労働者」というカテゴリーで紹介してしまうと、今もこういう現場があるとかないとか、こういう悲惨な仕事をさせるのはむごいとか、自分はそうでなくてよかったとか、そういう分別くさいものに成り下がってしまう。そうではなく、サルガドのこの一連の写真は、人間とは何か?という根本的な問いを鋭く突きつけてくる。
 まさにあの号で、白川静さんに書いていただいた「人間の領域」そのものの世界だった。というより、あの写真のコピーを見て、あの文章を書いた白川さんは、やはり凄いのだ。
「・・・・・それは善悪無二の世界である。すべては数億光年の世界と同じく、人間もまた「過程」のうちにある。そしてこの過程のうちに、現実がある。そこが人間の領域であることを、覚る外はない。」
 今読み返しても、この白川さんの文章と、それに続くサルガドの写真は、編集した自分が言うのも何だが、圧巻すぎる。

 ブルース・デビットソンの地下鉄の写真にしても同じだ。そこにあるのは、危なく下劣で汚い地下鉄のルポという表層的なことで終わらない。もちろん、ただの“アート”でもない。彼が命を張って写したのは・・・・・・私はまだ完全に掌握しきれていない。
 そこに何かあることが感じられるのだが、まだ自分のなかできっちりと掌握できない。掌握できない状態では、「風の旅人」で取り上げることはできない。掌握できた状態で、うまく組めて紹介できれば、ブルース・デビットソンの写真に新たな生命を吹き込むことができるだろう。