内面化されていく日本

 昨日、「風の旅人」に連載中の酒井健さんと、Vol.13(4月1日発行)について話し合う。
 テーマは、ジャポネスク。19世紀後半のヨーロッパ世界で、日本文化がどのように内面化されていったかということがポイント。
 当時、ヨーロッパから見て日本は文化大国だった。19世紀の世紀末の行き詰まり観が漂うなかで、ヨーロッパは、日本文化を消化し、昇華しようとした。ゴッホやモネにその傾向が顕著に現れているが、まぎれもなくこの二人はその後のヨーロッパ芸術に多大なる影響を与えているのだから、20世紀ヨーロッパ文化の基底には、実は、日本文化のエッセンスが微妙に流れている。
 しかしながら、19世紀後半のヨーロッパの日本文化吸収が、浮世絵のモチーフが作品に取りこまれていることなど誰が見てもわかる程度のことでしか、多くの美術評論家は語っていない。そういう表層的なことではなく、構成的な深い面こそ重要であり、もう一度真剣に考えることが必要な時期にきている。
 モネの絵が、中期から晩年にかけて、どんどん遠近観がなくなり、形象が崩れていくのはいったいどういうことなのか。それをただ、失いつつある視力との関連だけで語るのは、あまりにも“実利的”すぎるだろう。
 モネは、確固たる不動の象徴のようなルーアンの大聖堂を、移ろいゆく存在の気配として描きあげている。自分を作り上げる西洋的精神への尊重と、そこから、さらなる高みへと至ろうとする精神の衝動がそこにある。
 ゴッホにしても、その狂的な部分ばかりクローズアップされがちだが、なにゆえにあそこまで自己解体せざるを得ないのか。それはゴッホ個人の問題なのではなく、世界を司る確固たる不動の法則や“神”を見いだそうとする西洋的精神の構成的な深い面にある問題であって、その宿命に真摯であればあるほど、避けて通れない問題なのではないか。
 ゴッホキリスト教の関係は、ただの信者ということではなく、深く内面的な志向性と関わる問題だろう。信頼し心を許してしまいたい確かな世界なぞこの世に存在しないということを薄々察しているのに、それを猛烈に求めざるを得ないという根本的矛盾を孕んだ熱望。それがゴッホの“狂”なのではないか。そのゴッホが、日本文化のなかに読みとったものは、流動し変容し混沌とする世界から切り取られた“瞬間”のなかに永遠を宿らせる“呼吸”のようなものではないかと私は思うが、そこらあたりは、酒井さんにおまかせした方がよいだろう。
 ただ、おもしろいことに、ゴッホやモネは、もちろん世界的にも有名だが、日本ではダントツの人気を誇っている。この二人の名前や絵を思い浮かべられない人はあまりいない。でも、その理由に深く向き合った人はあまりいない。 日本人がゴッホやモネを好きなのは、彼等が日本文化から吸収したものが、彼等の作品の基底に流れているからに違いなく、それがいったい何であるか認識し直すことは、私たち日本人が戦後失ってしまったアイデンティティを取り戻す重要な仕事の一つになるような気がする。
 私も、ゴッホやモネの晩年の絵に強く惹かれるものがあるが、それは私たちと彼等の間に、何かしらの“運命”が通い合っているからだと思う。
 そして酒井健さんだが、私は酒井さんの文章構成力に及びもしないが、酒井さんが感じ考えていることは、不思議と手に取るようにわかる。(とかってに思っているだけかもしれないが)
 作家の日野啓三さんが生きていた頃、自宅によく遊びに行っていたが、ある日、リビングのソファの上に、酒井健さんの「ゴシックとは何か」があり、あちこちに線が引き込まれていた。私も、ちょうどその時、雑学くらいの動機で読み始めたこの新書にただならぬものを感じていたのだが、その本を敬愛する日野さんも真剣に読んでいることを知り、何か運命的なものを感じた。後日、日野さんは、文芸誌?に、その年の三つのお勧め本として、これを紹介していた。それ以来、酒井さんの書物はほとんど読んでいるが、研究対象を客観的に調べるのではなく、自らに深く内面化して、それを文章に昇華するスタンスにとても共感している。おこがましい言い方だが、酒井さんが直観する歴史観、芸術観と、私が直観しているものはとても似通っている。アカデミックの世界の中だと主観的すぎるなどと言われて異端児扱いされるだろうが、私にとっては、酒井さんの“想念”との出会いは、“運命的”であるように感じている。