日本人の”御墨付”好き

私の世代の写真家にとって、野町和嘉さんがヒーローなら、野町さんの世代の写真家にとってのヒーローは、石元泰博さんと言えるだろう。石元さんは、アメリカ生まれだが、幼年期、少年期を高知で過ごし、大学でまたアメリカに渡った。高知で生まれて育った野町さんとは、郷土が同じということになる。

 その石元さんが、昨年の暮れ、首の動脈か静脈に血栓ができて倒れたということで、野町さん夫婦と見舞いに言った。石元さんの奥さんの話では、年末は口もきけないほどだったらしいが、土曜日にお会いした時にはほとんど普通に話ができて、その快復力は驚異的だった。

 石元さんはお元気だが、84歳になることもあり、これまでの自分の作品をどうするかが懸念だったそうだが、今回、出身地の高知の美術館が、それらを引き受けることになったということでひとまず安心ということだった。

 ただ、これまで、日本の美術館に、石元さんの写真がほとんど買い上げられていないと聞き、野町さんは、いったいどうなっているのだと憤慨していた。

 去年、野町さんがアンデスに取材に行った時、ペルーの古本屋で、30年ほど前に発売された石元さんの現地版の「桂離宮」の写真集を見つけて買って帰国し、石元さんにサインをしてもらっていた。ともかく、日本の写真家で、もっとも早い段階に国際的に通用する写真家となり、1996年に文化功労賞も受けている人のだけれど、美術館などが好む作風ではないのだろうか。それとも、石元さんは、生涯現役で、最新の作品を『風の旅人』の12月号にも掲載していただいたのだけれど、協会などの役職や写真コンテストの審査員をほどんどやらないということもあって、美術館などとの”縁”が薄いからだろうか。

 日本が文化面でヨーロッパ諸国などに比べて劣っているのは、国内の実力者や若い才能を支えていくシステムだと思う。
 本当に良いものは、人々の間に根付くまで時間がかかる。底の浅いものの方が、わかりやすくて親しみやすい分、短時間で人気が出るけれども、すぐに飽きられてしまう。そして、そういうものばかりが世に溢れると、世界がどんどん卑小になっていく。
 新しい時代につながっていく本当に素晴らしいものが定着するまでの暫くの間、支えていくシステムが必要だ。しかし、それが難しいのは、モノの価値がわからないのに知識武装してわかったふりをする人たちが、公的な立場に多いからだろう。
 私は、「風の旅人」の見本誌と手紙を全国の図書館に送った。そして、購読をお願いした。しかし、ほとんどの図書館は、私が書いた手紙を「風の旅人」に挟み込んだまま、閲覧室に放擲していた。それを見た何人もの読者が、私の手紙に表記されていたメールアドレスに連絡をしてきたのだ。
 それで、その図書館に電話すると、もちろん手紙も読んでいないし、内容確認をすることもなく、「予算がありません」と言う。予算というのは、内容とのバランスを見極めながら決めていくべきものなのに、見もせずに、「予算がない」と言う。そして、「忙しい」と言う。世の中には、もっとたいへんな仕事を抱えている人がいるのだけれど、口癖のように「忙しい」「予算がない」と言う。ようするに、新しい試みは、組織内でいろいろ摩擦が生じるから、それを突破してまでやる気概がないのだろう。

 日本は経済大国で、美術館の収蔵作品もすごい。しかし、大金を使って掻き集めるのは、海外の作品で既に評価が定まったものが大半を占める。しかし、ルノワールとかピカソの作品など、人気があるからという理由で、ずいぶん割高な買い物をしている。ピカソは天才かもしれないが、世界に膨大な作品数があるわけで、その全てに渾身の魂が籠もっているとは、どうしても思えない。
 フェルメールとかラトゥールといった希少価値ならまだわかるが、ピカソの場合は、そうではないだろう。また、ルノワールの作品は、私は全然好きになれないのだが、あの作品を見ることによって、今日の難しい時代から未来に向けて生きていくための魂の力を得ることができるとは思えない。
 でも、購入を決める側は、ピカソとかルノワールの方が、周りを説得しやすいのだろう。
 けっきょく、日本人は、かつて格安で浮世絵の傑作を海外に売り飛ばし、べらぼうに高い金額で、海外から美術品を買っている。そのお金を、”お墨付き”のためではなく、“未来”のために使うという発想はないのだろうか。
 ルノワールの一枚の絵に支払う金額で、何人もの前途有望な日本の芸術家を救えるだろう。人々の間に根付くまでの期間、買い支えられるシステムがないから、その多くは、生活のために大衆に媚びるようなスタンスで作品づくりを行わざるを得ないのだ。
 どんな形であれ消費者の立場に立って消費者を喜ばることが大事だというスタンスで作品や雑誌づくりを行う人もいる。しかし、消費者の立場に立つというのは、消費者が望むことを安直に実行することではなく、消費者にとってどうあることが理想なのかを考え抜くことではないかと私は思う。