専門家と真理

 浅井慎平さんとは、日曜の午後、下北沢のカフェ、マルディグラで会った。
 このカフェは、下北沢に住んでいた作家の故日野啓三さんも好きなカフェで、日野さんがお元気な頃は、ここでよくお会いした。日野さんはお酒が飲めなかったので、コーヒーショップにこだわりがあった。現在、「風の旅人」に連載中の佐伯啓思さんもお酒が飲めず、お二人が読売新聞の書評委員だった頃、会議の後、他の方が酒場に繰り出すのを横目に、ご一緒に喫茶店に行ったそうだ。
 マルディグラは、現在計画中の下北沢横断道路の建設予定地に位置していて、将来、なくなってしまう可能性がある。下北沢に15年住んでいる浅井さんの話では、下北沢で一番コーヒーが美味しくて、浅井さんも週に3,4回は通っているという。
 浅井さんは、テレビに出演して、今日の世の中の出来事に関して、自説を述べる。といって、評論家ではない。本職は、クリエイターとして作品を作り出す人である。
 クリエイターはクリエイターとして自らの作品のなかにメッセージを託すべきだと言う人もいる。
 日本人は、なぜか専門性に美徳を感じる人が多く、何か事件が起こったら、専門の領域の学者や評論家に意見を求めて、それでよしとするところがある。
 しかし、最近、その専門家と称する人の意見が、どこかで聞いたことがあるようなものばかりで、ほとんどつまらない。
 一流のクリエイターが、自分の仕事分野のことを喋る場合は、当然おもしろい。それは、その発言が自らの経験から生まれた”真理”だからだ。
 でも、そういう人は、自らの経験だけを生理的に重視しているため、専門外のことについて発言することに慎重であることが多い。
 そして、社会や国際情勢や教育や諸々の専門分野の”知識”や”データ”をたくさん持っている専門家が、”知識”や”データ”に裏打ちされた意見を述べ、それが尊重される。でも、そういう意見は、つまらないことが多い。それをつまらないと感じる理由は、たぶん、それが専門的に難しいからではなく、”真理”から離れていることを直観するからなのだ。
 
 物作りでも経営でもプロジェクトでもプロスポーツでも、何かを形あるものに成し遂げていく仕事に真剣に携わると、至るところに様々な困難や軋轢が生じ、その都度、ぎりぎりのバランスで事に当たっていかなければならない。困難な状況があっても、それが困難だと分析しても何も始まらないし、その困難さから逃げてもしかたがない。解答がどこにもないような状況のなかから、解答を見出し、実践し、状況を見極めながら修正していかなければならない。そのようにして世界と向き合うためのバランス感覚を養っている人は、世界に起こる様々な出来事の表層的なことではなく、構成的な深い面に通じる直観的感覚を自らのなかにつくりあげているように思う。それが、”知識”とか”データ”では及ばない”経験”の領域であり、”真理”に近づく方法なのだ。
 そういう直観的感覚がある人の発言は、たとえ専門外であっても、当を得ていることが多く、興味深いものが多い。しかし、たとえそうであったとしても、専門枠を聖域として守ろうとする人は、専門外の発言を、専門の裏付けがないと言って無視することが多い。
 でも、専門家というのはいったい何なのだろう。今日の世界は、無数の細かなことに分断され、その細かな分野に無数の専門家が存在する。その分断された領域の専門家の視点だけで、混沌とした世界に何かしらの秩序を見いだせるのだろうか。個別の狭い部屋に入ったまま、全体を貫く”真理”に近づくことができるのだろうか。
 今日のマスコミもまた、客観的報道を重視するから、客観的立場でモノゴトを分析する「専門家」の発言をなぞることが多い。
 しかし、専門家かどうかというのは、表層的に枠組みにすぎない。たとえ異なる分野であっても、その深いところに同じ智恵の水脈が流れていて、そこまで降りていった人は、その智恵の力によってモノゴトの真理を見ぬくことができる。
 そういうことは誰もが薄々とわかっているのに、経験や思考の”深さ”というのはカテゴリーと違って実証的にはかることが難しいから、それを基準にすることを躊躇してしまう。その結果、深い水脈まで降りていない”専門家”が、小さく区切られた箱の中に安住する。

 このたび浅井さんと話しをしたなかで、NHKの問題があった。トップの責任、NHKの組織的腐敗など、受信料支払い拒否の件数など、今日の争点は、表層的なことばかりだ。
 トップがああだから、組織がああなる。組織がああだから個人がああなる。しかし、トップが辞任することで、この問題が根本的に解決するわけではない。
 浅井さんは、NHKという場は、ものづくりに関しては非常に恵まれた環境にある筈で(あるべきで)、現場で働く人が、そのことに対する有り難みを十分に噛みしめながら、良いモノを作ることだけに集中し、それに励むべきであって、そういう心構えこそが大事だと言うのだが、テレビなどでの議論では、なかなかそういう方向にならないらしい。 
 発行部数も気にすることなく、スポンサーに媚びる必要もなく、今この時代に必要だと思うものを信念をもって制作する。それで、お給料をもらえるのだから、これ以上の幸せはないだろう。でも、なかなかそうならずに、いろいろな歪みが出る。
 作ったものを買ってもらうための努力をせずに、自動的にお金を徴収できる。高い評価を受けようが、そうでなかろうが、お金を徴収できる。もちろん、現場で働く人は、その評価に対してそれなりのプレッシャーがあると言うだろうが、実際にモノをつくってそれを売って歩かなければならない人たちからみれば、NHKの人の言うプレッシャーなぞ、プレッシャーと言えるものでないだろう。
 NHKの人たちは、自分がそういう恵まれた環境にいることを自覚すべきなのだ。
 琵琶湖の里山を紹介したハイビジョンなど、NHKだからこそできるのではないか。
 でも、新卒でNHKに入社して、他の世界をまったく知らないと、自分の恵まれた環境も真底実感できないかもしれない。
 また、今この時代に必要だと信念を持って制作すべきものを見い出すことができなければ、どんなに恵まれた環境でもそれを活かせないだろうし、仕事が惰性になって、それが積もりに積もって、大きな歪みになっていくのかもしれない。
 けっきょく、組織がダメになっていくかどうかは、その組織のなかに信念をもってやり遂げようとする”志”があるかどうかに尽きるのではないだろうか。