二つの”死”

 7歳の息子が最近、”死”を恐れ始めた。
 強盗殺人、交通事故、地震津波のニュースを知って、自分にもそういうことが降りかかるのではないか、ということをしきりに気にする。
 母親と一緒にお風呂に入っている時、突然、「家の窓ガラスを割って、強盗が入ってきて、殺されることってないの?」としつこく聞いてきて、無いよと答えても、「ぜったいにぜったいにないの?」と、お風呂からあがっても気にしていて、「でもニュースで人が死んでいるじゃん」と言う。「そんなの何万人に1人でしょ」と答えても、「じゃあ、その何万人の1人になるかもしれないじゃん」と言って、母親が2階にあがってしまうと、慌てて追いかけてきて、1階に1人でいることを極端に嫌がるのだという。
 そういえば、今年、一緒に初参りをした時も、私が息子に何をお願いしたか尋ねると、「いつか、死にませんように」と願ったと言う。私が「人間は誰でも死ぬでしょ」と言うと、「そういうのじゃなくて、何かで急に死んじゃったりするでしょ。そういうのだよ」と言っていた。
 つまり、7歳の息子は、寿命がきて死ぬことと、寿命がまだある筈なのに、突然の不幸で死んでしまうことの違いを認識しており、寿命の死は仕方がないということを薄々察しており、そうでない死を、何かとても受け入れがたいものとして感じているようなのだ。
 息子なりの二つの死の認識の仕方を聞いて、私はオヤッと思った。
 私は、漠然と子供時代の感覚というのは、人間の原始の時代に通じるものがあると思っている。分別の始まりとか、好奇心の芽生えとか、自己認識の仕方とか。それで、「死」についてなんだけど、人間を他の生物との違いは、「死」というものの存在を知ってそれを概念化したことにあり、その「死」の概念から逃れるために宗教が生まれたとよく言われる。でも、我が家の息子は、「死」の概念とそれに対する恐れが芽生えたことは芽生えたのだが、どうも最初の瞬間から、「死」は二つあると悟っていて、仕方がないと思える「死」と、ぜったいに嫌だと神頼みをしたくなる「死」があるようなのだ。
このことを知って、もしかしたら、原始の人間だってそうだったのではないかと私は思ったのだ。
 息子はテレビのニュースでいろいろな事件を知る。大昔だったら、それは噂話だったのかもしれない。自分の周りで自分の身内や家畜や様々な生物が自然死していく事実を見て、それはどうもこの世の避けて通れない掟のようなものだと薄々察しているのだが、それとは別に、なぜか特定の者だけ、肉食獣に襲われたり、雷に打たれたり、波にさらわれたり、得体の知れない力によって、不条理にも、「死」に引きずり込まれることがあるのだという認識。その不条理さが、偶然の気まぐれによって自分にだけ降りかかる可能性があるのだという耐え難い恐れ。
 そして、そういうことが自分に起こる可能性を予め知りたい切実な気持が、占いを生みだしたのではないだろうか。
 そして、人間はいつか寿命がきて死ぬ。この宿命から懸命に逃れようとして不老不死の薬を求める人間の話が古代に既に存在するゆえ、「人間」は、いつの時代も、「死」から逃れたいと思っているなどと言われるが、そういう言い方は大雑把すぎるのかもしれない。
 同じ古代といっても、数千年の歳月の違いがある。そのなかには、今日のような文明の成熟期もあるし、そうでない時期もある。
  かつて人間には、どんな「死」をも恐れない時代があった。
  それはもしかしたら、いまだ人間に成りきれていない時代だったかもしれない。
  そして、人間は「死」を恐れはじめると同時に、「死」には二種類あると認識した。
  一つは、宿命として受け入れざるを得ない「死」。もう一つの不運の「死」が自らに降り懸かることを嫌い、人間は神頼みを始め、占いを行った。
  そして、歳月が流れた。人間は、それまでの「経験」によって、不運の「死」が自分に降り懸かる可能性はほとんど少ないと、根拠もなく信じるようになっていった。
 と同時に、不運の「死」への恐れがあったために実感できた「生」の有り難みが次第に希薄になっていった。
 「生」の有り難みが希薄化していくとともに、考える人間は、「生」の意味を理屈で問うようになった。それとともに、いろいろなモノゴトの意味を、理屈で考えるようになった。
 そして、地上が、無数の理屈で覆われるようになった。そして、理屈に秀でた人間が、人間世界で威張るようになった。
 しかし、理屈とは、実感から遠い言葉のことである。地上が理屈で覆われていくにつれ、人間は、ますます「生」の実感から遠ざかってしまい、そのことが人間を苦しめるようになった。
 人間は「生」の実感を取り戻すために、「生」を、全ての人間および生物に訪れる宿命の「死」までに許された期限付きの、かけがえのないものであると意識しようとした。
 さらに、その意識を明確にしていくため、かけがえのない「生」を正しく生きることの見返りとして、「死」んだ後の幸せをも約束するようになった。
 こうして宗教が生まれた。
そしてまた、数千年の歳月が流れて、いろいろなことが繰り返された。
 何千年か後の人間は、古代において、自分と同じ事を考えている人間がいたことを知って驚くとともに、そこに人間の法則を発見した。
 人間は、その法則を人に伝えていく為に、物語を創造し、世界を体系化した。
 それは、偉大な宗教となって、世界を覆った。
 偉大な宗教は、時の権力者に様々な形で利用されるうちに、ただの処世になった。
そしてまた、数千年の歳月が流れて、いろいろなことが繰り返された。
 過去の大切なことも忘れ去られた。 
新しい節目の時は、地上が理屈で覆われ、理屈に秀でた人間が威張るその後にやってくるだろう。

 それにしても、妙だったのは、息子の祈願が、「いつか死にませんように」と、「来年の紅白で白組が勝ちますように」だったこと。切実な願いと、ついでの願いのようなものが一緒になっているのはなぜ!?