風の旅人の掲載者たち

 2月1日から、青山ブックセンターとか渋谷のブックファーストなどで、バックナンバーフェアをやっていただけることで、その空間の演出などを考えた。ポスターなどビジュアルを有効に使うだけでなく、各号から心に迫る言葉を選び出し、それを拡大してボードに貼り付けてみようと思って、今日その作業をした。
 それで、改めてそういうことをしてみると、「風の旅人」の執筆者や写真家は、本当に凄いなあとつくづく感じた。
 それらを見ていると、私は、この雑誌を創っているのではなく、ただ媒介者として創らされているような気がしてくる。むしろ、創らせていただいているといった方が相応しいかもしれない。ここにある写真や言葉は、それらに触れることができただけでも、今日まで自分が生きてきた意味があったのではないかと感じるほど、途方もない力が満ち溢れている。その力は「真理」に近づこうとする人間衝動の波動のようなもので、そうした波動の余波によって、私は人生を下支えされているような気持ちになってくる。
 『風の旅人』の掲載者たちの、「真理」を求める執拗なまでの思いと、その思いを厚く織り込んでいく一途な姿勢と、そこから生み落とされた言葉や写真に、わたしは<美>を感じる。
 人間という無常の存在は、血の滲むような努力をしても「真理」を必要とし、その大いなる問いの深淵から<美>を生みだしている。人間性への信頼は、そこにあるのであって、それ以外のところに見出すことは出来ないだろう。

 バックナンバーフェアでは、各号のポスター一枚、その横に、下記の言葉を一つずつ添えようと思う。抜粋文なので中途半端ではあるのだけれど、この文章の下にバックナンバーがそれぞれ陳列されているので、残りの文章は直接本を見ていただければと思う。

(創刊号より抜粋ー安田喜憲
過去への旅は無限の時間を手にする旅である。ベートーベンの音楽を聴き、彼の生きた時代に思いをはせることによってベートーベンの時代を生きることができる、いや縄文土器の造形美を味わうことによって縄文人の生きた五〇〇〇年前でさえ生きることができる。それだけではない。美しいものは時を超えて未来へと永遠に受け継がれることを実感するのである。過去をさかのぼることによってヒトは無限の時間を手にすることができるのである。

(2号より抜粋ー岩槻邦男)
すべての生物は、一つの個体、一つの種単独では、この地球に生きる生を演出できない存在なのである。常にカオスを生み出している生物の生は、同時に、億を超える数の種が一体となって一つの生を生きているのである。多様な生物が、生命系と呼ぶ一つの生を生きているということは、カオスを常在的に孕んだ生物が、あらゆる瞬間はコスモスの生を生きていることを意味する。

(3号より抜粋ー松井孝典
言語が明瞭に話せると、目の前で起こっていないことでも、相手に伝えることができる。それは抽象的な思考ができるということだ。・・・その結果、脳の内部に外界を投影したような内部モデルが構築できるようになり、外界からの情報をそれと照らし合わせて判断することが可能になる。・・・外界を投影したといってもそれは、それぞれの個人がそれまでの人生の結果として構築するようなもので、普遍性を持ち得ない。幻想とでも呼ぶようなものだ。ただし、その人生に普遍性があれば、それは共同幻想になりえる。共同幻想を抱けるという能力が現生人類をして、人間圏という巨大な共同体の構築を可能にした、もう一つの理由ではないかと考えている。     

(4号より抜粋ー河合雅雄
一般的に進化は、環境にうまく適応するように形態や機能を変えていくことによって起こる。ところがヒトの進化は、直立二足歩行という不利益をいっぱい背負い込むことから出発した。・・・・・・・・人間は身体的には哺乳類の奇形として出発した。しかし、奇形の不利益を創意工夫により、逆手に取って独自の進化の道を歩むことになった。人間は生物進化の一般則からはずれた進化のレールを敷いた。それはどこへ行こうとしているのだろうか。

(5号より抜粋ー樺山紘一
ごく常識的にみても、芸術表現の主題として、罪業のほうが善行よりも、はるかに彩りがゆたかであるのは、当然だろう。悪には、無数のバラエティがあるが、善にはほんの一握りの種類しかない。美徳の題目は、謙譲であれ、慈善であれ、ほんの五つか七つしか数えあげられない。『神曲』の地獄篇が、五〇〇〇行もの詩文のうちに、何百の罪を語っているからには、ロダンのわざもまた、よく理解できるようにおもえる。

(6号より抜粋ー村上和雄
最新科学から見て、たとえ細胞一個でも「生きている」ということは、すごいことである。ましてや、人間が生きていることは、ただ事ではない。それは、一個でもすごいその細胞が、人間の場合、何十兆個も集まって私たちの身体ができているからである。大人の場合、平均六〇兆個の細胞で身体ができている。この数は、地球全人口の一万倍にあたる。膨大な数の、肉眼では見えない小さな生命が、一人の体内に寄り集まっている。一つ一つの細胞にはすべて「いのち」がある。

(7号より抜粋ー茂木健一郎
私たちの意識そのものは、その時々の心理的な瞬間の神経細胞の活動によってつくり出され、永遠に「今、ここ」に閉じ込められている。しかし、だからこそ、過去を思い出すこと、あるいは思い出すことさえできない過去を思いやることには、固有の意味がある。思い出せない過去を志向する、そのような脳の働かせ方自体に、価値がある。そのようなことが、私には今とても気になるのである。

(8号より抜粋ー酒井健
途方に暮れる老レオナルド・ダ・ヴィンチの素描図と彼の最後の作品≪洗礼者の聖ヨハネ≫は対をなす。レオナルドの挫折と聖人の微笑は対をなす。最後のときまで自然を探究し続けたレオナルドは、同時に、自分が自然界に笑われることを諾い続けていた。人としての自らの卑小さを、絵画を通して、笑い続けていた。     

(9号より抜粋ー白川静
今の世は悪に充ちている。善を標榜するものが、殆ど悪のようにみえる。この百年来の歴史をみても、どこにも光明はない。人はいよいよ賢明に、悪事をはたらく。しかし決して失望してはならない。真に霊活なる自然の力がはたらく限り、それは一種の過程的な体験として、生かされるはずである。真に霊活なる自然界からみると、絶対の悪というものはありえないからである。・・・・すべては数億光年の世界と同じく、人間もまた「過程」のうちにある。そしてこの過程のうちに、現実がある。そこが人間の領域であることを、覚る外にはない。

(10号より抜粋ー保坂和志
私は猫のようにただ家の中にいるだけだ。新宿にも渋谷にも、家から出て三〇分以内に着くのにどちらも月に一回ぐらいしか行かない。・・・もうほとんど常態化している<人生の素顔>と向き合うこと、猫のように、時間があまってしまった子供のように、<人生の素顔>と向き合うこと、それは楽しいわけではないけれど、「それが人生なんだ」「生きるとはそういうことなんだ」と思うこと、それが私にはかけがえがないし、尽きない興味の対象でもある。

(11号より抜粋ー日高敏隆
この人間の論理能力は、ほとんど何の客観的根拠もないのにさまざまなイリュージョンを創りだし、それがさまざまな喜びと苦しみを生みだすことになったのだ。それらはすべて単なるイリュージョンなのかもしれないが、そのイリュージョンがあたかも客観的なように思える判断基準を与えてくれてしまうのである。こういうさまざまなイリュージョンとの闘いが、人間の生きる苦しみの根源になっているのだという認識が、いくばくかの救いを与えてくれるかもしれない。   

(12号より抜粋ー養老孟司
二十一世紀は明らかにシステム論の時代となろう。というより、そうならざるを得ないのである。一九世紀の科学は、システムを情報化することに専念化してきたからである。おかげでヒトの遺伝子は全部読めたが、その人がどういう人になるか、それは相変わらずさっぱりわからないというしかない。それは古い新聞を全部読んだら、昔のことがすべてわかるかというのと、同じことである。情報はあくまで情報であり、システム自体ではない。