想像力の荒れ地?

想像力の荒れ地

 一昨日の夜、本橋成一さんと会って、「風の旅人」の8月号で考えているカザフスタンの人間模様の写真を選んだ後、泡盛を飲んで、いろいろ話した。
 いろいろな話の中で、気になったことが一つ。それは、本橋さんが一緒に仕事をする出版社の最近の編集者のことだ。例えば本橋さんが文章を書いて送る。それについて、「共感しました」とか当たり障りのない返答はあるけれど、それ以外に、反応がないと言う。つまりそこから何も対話が生まれない。

 その話と少しシンクロするのだけれど、昨日、保坂さんから4月号の原稿が届いた。保坂さんは、”想像力”のことについて思考を展開していた。
 チェーホフの「ワーニャ叔父さん」や新聞記事などを事例としながら、想像力に関する保坂さんの考えを深く展開しながら、今日の”想像力環境”の危機と、想像力のなかに秘められた”復元力”に言及している。
 その前に、私は、保坂さんが新潮に書いた「散文性の極致」について保坂さんに感想を述べた際に、あそこで書かれた保坂さんの思考展開は、私が日頃感じている「こちら側」と「あちら側」という意識の分離をより明確にする力があると伝えた。
 私にとっての「こちら側」というのは、想像力を使わず仕事を事務化していくことにかまけている世界。そして「あちら側」というのが、保坂さんが今回送ってくれた”想像力”の世界であることが、保坂さんの文章を読んでより明確になった。
 どちらが「こちら側」であるかは別にして、日頃、仕事で多く接している世界には、本橋さんが私にこぼしたように、上辺を取り繕う型にはまった思考と答弁でやり過ごす人が多い。
 私は、「風の旅人」の編集長ではあるけれど、ユーラシア旅行社の専務取締役でもあるので、株式上場の際、証券アナリスト経営コンサルタント?等と仕事をすることも多かった。そして、彼らが発する問いというのは、答える内容が最初からこうあるべきだと期待されているものが大半だ。そこから外れたことを言うと、先方は思考がフリーズ状態になって、どのように説明しようが理解されない。
 株式上場の為の資料なども、グローバルスタンダードとか、株主重視のコーポレートがバナンスとか、決まりきった約束事に添いながら他の上場企業に準じる形式のものを提出することを幹事証券会社やコンサルティング会社はアドバイスしてくるが、私はそれでは嘘になってしまうからと拒絶して、コンサルティング会社との契約も切り、自己流で作成した。「そんなことをして審査に落ちても知りませんよ」と、別れ際にコンサルティング会社は言ったが、彼らのコンサルティングというのは、どれだけ過去のパターンを知識としてストックしているかということにすぎず、その時点で最善のものを考え出すという発想が微塵もない。
 我が社の場合、自己流で押し通すという私の意見に同意してくれる社長だったからそうできたけれど、通常の社長であれば、一生に一度の株式上場ゆえに慎重になって、コンサルティング会社の言うことに従うしかないだろう。
 それ以外の例で、たとえば「風の旅人」を販売する際も、全ての書店ではないけれど、「風の旅人」は、人文なのか写真集なのか芸術書なのかと聞いてくるし、時々、雑誌などで取材を受ける際も、「一言で言ってどういう雑誌ですか?」等と聞かれることがある。書籍流通会社に至っては、中身を見ずに、タテ、ヨコ、厚さ、重さだけ確認する。
 自分の頭でいろいろ考察し、判断してモノゴトを決めていくことが、まるで良くないことでもあるかのような雰囲気が、「こちら側」には強くあるのだ。
 大学を卒業して入社してくる社員にしても、指示されたことはきっちりこなすが、そうでないことに出くわすと、思考がフリーズ状態になる人が多い。
 パターン思考が強く、パターンから外れると、”想像力”がまったく働かず、連想とか応用ができない。だから、新たな問いをつくり出せない。だから質問ができない。また、自分の想像力を超えたモノは、自分にとって無きに等しいモノだから、そういうモノに対する「敬意」がない。そういうモノの存在を思い知らされる局面に遭遇しても、それを自分のなかで無意味化する口実をつくり出す。アレは特別だとか、自分には関係ないとか、価値観が違うとか、好みが違うとか、種類が違うとか・・・・、質的に異なる垂直軸の違いなのに、別のカテゴリーであるという水平軸の違いにすり替えられる。
 そしてそういう人は、「人間はいろいろな人がいるけれど、それぞれ尊重しなければならない、生物も多様であることが大事だ」などと言うことがある。
 カテゴリーの違いに対して「尊重」という言葉を使っている人は、自分とは関係ないけど相手の存在を許容すると言っているわけで、それは実のところ、軋轢とか葛藤を狡猾に避けながら相手を排除していく欺瞞的な態度だとも言える。
 本当の意味で尊重というのは、尊いものとして認識することで、「敬意」という言葉に置き換えた方がわかりやすいかもしれない。
自然も、守らなくてはならないものではなく、「敬意」があれば自ずから、とるべき態度が決まってくる。そういう意味で、現代人よりも古代人の方が、はるかに想像力が豊かだったのだろう。
 それで、パターンのすり込み教育を繰り返し、そのことによって想像力の土壌を荒廃させられてしまった世界では、「尊重という言葉の裏側にある排除意識」の意味も、「連想」とか「応用」とか「問い」とか「敬意」も、それがいったいどういう思考特性に基づくものか、まったくわからなくなってしまう。
 今日の学校教育の査定は、いかにパターン化して数値化できるかという次元で行われ、人間のもっとも大切な能力である”想像力”は徹底的にないがしろにされているので、そこで育つ人間がそうなっていくのは、ある意味で必然のことかもしれない。だからそれでいいわけではなく、そこから脱するためにどうすべきか、この後、考えていきたい。