21世紀の総合知

「風の旅人」にて、”心の風景への旅”を連載中の川田順造さんから、原稿が届いた。
 川田さんは執筆する時は、圧倒的なエネルギーでとことん書き尽くす(7号の時など、8000字の予定が34、000字になってしまった)し、海外とか国内への出張が多く、途中で時間がなくなってしまって、連載が何回か抜けてしまった。
 その間、ずっと、すみだ川の梅若幻想のことを書いていたのだが、ようやく前編として4月号で掲載できる。後半は6月号の予定。
 川田順造さんは、20世紀の知の巨人レヴィ=ストロースの弟子にあたり、『悲しき熱帯』の名訳でも有名だが、レヴィーストロース同様、その学問探究の深遠さと、その深さが誘う不可思議な時空間に目眩がしそうになる。
 今回の原稿は、一言で言えば、川田さんの”連想力”の見事な絵巻物のような感じを受ける。
 鋭い感性と、深遠な知性と、繊細な観察と、深い洞察が織り込まれ、そこに現在と過去と古代が交錯し、不思議な読後感がある。

 学問的な知識を知識として客観的に冷たく伝えるだけのものは今日の社会に多くあるし、それとは対極に、主観的に物事を決めて枠のなかに固定してしまうものも多くある。
 また、その二つの軸から少し距離を置いて、小説のようにフィクションの力によって、世界を再構築していくという方法もある。
 しかし川田さんの世界は、ノンフィクションでありながら、既存の世界認識を壊して再構築していくダイナミズムがある。そうでありながら、真理探究に対してフィクションではいけないというストイックなまでの潔癖さと、正確さに対する緻密さが同居している。
 それゆえ、川田さんの文章全体に、小説のような濃密さと、哲学探究のような深遠さと、考古学のような実証的精密さが宿っている。
 こうした世界は、川田さんが作りあげた「文化の三角測量」の視点から必然的に生まれてきたものだと思うが、善と悪、美と醜、客観か主観という二極的な今日の世界認識および他者認識の仕方の行き詰まりを超越していくための「文体」のあり方の一つが、そこに示されているように思う。
 現状を打破する新たな世界認識のために、芸術の側からのアプローチに比べて、学問の側からのアプローチというのは、素人の私が言うのもなんだが、とても難しいように思う。
 というのは、今日の多くの学問の思考じたいが、どうしても二極的なアプローチの産物のように思えるからだ。
 もちろん、川田さんは、そういうことをとっくの昔に気付いていたから、文化の三角測量という方法を生みだしたのだろう。
 それで、そうした新しい世界認識へと向けた学問の成果と平行して、川田さんは優れたエッセイを数多く残されてきたのだが、その文の力と、学問の深さが融合したのが、「風の旅人」で連載いただいている「心の風景への旅」なのだ。
 というのは、「心の風景への旅」というのは、これまでの学問探究の延長であるとともに、川田さんの人生に対する回想が微妙に交錯する展開になっている。
 学問的対象に深く沈潜していく自分の記憶をも対象として思索を織りなすことで、主体と客体の境界がなくなっていく。それは、まさに文学であり学術であり、人類と人間に関する深い思索と自分自身への根源的な省察を同時に行いながら、暗喩に富んで表現するという稀有なる世界なのだ。
 その濃密な世界は、読み手の魂に強い負荷をかける。学術でありながら、頭ではなく魂に負荷がかかるというのは、何か特別なものに触れているという感じになる。
 川田さんが、言語、民族、民俗、文化などを徹底的に問い続けることで構築していく世界を、私のレベルでとても論じることなどできないが、何かとてつもない大きな風だということだけは、よくわかる。
 川田さんのとてつもなく凄いところは、フランスでレヴィ=ストロース構造人類学の思考を自分のものにし、西アフリカのモシ族の世界観に精通し、かつ日本の民俗、歴史、文化、芸能、文学その他を深く極め、それらを束ねる卓越した言語力と、想像力と創造力に優れ、しかもバイタリティが圧倒的なところだ。
 川田さんは、そうした能力を全て動員して、”日本”と”世界”を捉え、新たな世界認識へむけた思考を提示しているが、そのベクトルの先に21世紀の総合知が見え隠れしている。