編集について

「風の旅人」の編集の為、ある写真家の写真を仮で組んだところ、その方から、戸惑いの声があがった。自分では絶対にそう組まない組み方なので、自分の作品がまるで人ごとのように見えてしまうと。
 今までも、多くの写真から戸惑いの声がでることがあったが、それ以上、自分の考えを主張しなかったり、私に任せてどうなるか期待する人もあったが、その方は、写真に対する明確な考え方を持ち、それに添って厳密に創造行為をしている人なので、自分が納得できない形での掲載には同意できない旨を伝えてきた。
 私も、私が編集する雑誌だから自分の好きかってにやろうなどと思っていなくて、きっちりと対話することで、新たな気づきを得ることが大事だと考えている。
 ただ、私の方法論は、写真家の方であれ、執筆者の方であれ、まず最初に自分の解釈を相手に投げ出すことから始める。その解釈が間違っているかどうかではなく、解釈を投げ出すことから始めないと、編集は、「××特集」という記号的なタイトルの下に、絵と文章の配列で終わる。もしくは、作家特集、作品特集という博物館的な陳列に終わる。それでは、最善でもジャズのスタンダードナンバーを楽譜通りに演奏したBGM、共演者のレベルが低ければ、学生バンドのコピー音楽にしかならないのだ。
 おこがましい考えかもしれないが、編集行為には、ジャズのアレンジャーとしての使命がなければならないと私は思っている。 
つねに「全体」と「部分」の関係を有機的に動かしていて、どこかで決着をつけて形にしていく。その「全体」というのは雑誌全体のことでもあり、1人の写真家が構成する18ページでもある。そして、その決着の時に、一つの「部分」が力と熱気を帯びて、「部分」を超えた時空となることがある。そのオーラによって、他の「部分」が影響を受け、結果として全体のムードがガラリと変わることがある。また、一見、別物のように見える「断片」や「部分」たちが、「全体」とのあいだでシンクロしながら"対話"を交わしながら、スウィングしていく。そのようなダイナミズムによって、「全体」と「部分」の様相が変わり、新たな解釈が生じることもある。
 ただそうなるためには、編集者は、頭にある知識とかカテゴリーとか表面的なことだけに従って編んでいくのではなく、写真一つ一つ、文章一つ一つに宿っる叫びに耳をすますというか、聞き耳をたてるスタンスが必要だと思う。そのようにして、そこから生まれる相互関係を、探り寄せるように編み込んでいく。それが雑誌を構成することだと私は思う。
 ただ、それを実際に行うためには、先入観とか筋書きにとらわれてしまってはダメで、自分の生身の実感を信頼し、それに忠実であるより他に方法はない。
 それは同時に、自分が一度決めた企画や構成の筋書きにもとらわれないということで、常に解体と再構成の”間合い”を、自分のなかに設けておくことが必要になる。それは、思いのいっぱい詰まった”間”で、一瞬にして全体の様相を変えてしまう力が凝縮しているのだ。