編集について(続き)

(昨日の続き)
 それで、私は、聞き耳をたてて、その人の写真を見て、仮構成をしたのだった。
 しかし、私の構成の仕方は、その人にとって、カテゴリーの境界を無視したものだった。
 写真集や写真展覧会では、カテゴリーの枠組みで写真を並べていくことが多い。
 例えば水中写真だったら、カニのカット違いが続いた後にタコのカット違いが続くというのが自然であって、タコ、カニ、タコ、イソギンチャク、タコにはなることはまずない。
 そして私は、そのように巷に溢れている写真集や展覧会の構成の仕方に不満を持っていることも事実だ。。
 図鑑のようにカテゴリーで括って見せていくことによって、見る側が、無意識のうちに知的整理をして記号化してしまうからだ。犬が寝ているところ、歩いているところ、食べているところ・・・などと。
 つまり、作品を表層で見てしまうということ。もちろん、作品に力さえあればそうならないとも言えるのだが、いくら作品から何かしらの感銘を受けても、その感銘が何かわからない状態で目の前にカテゴリーの枠を差し出されると、多くの人間は、自分の内に湧いた情動よりも知的整理を優先してしまう。例えば、水越武さんの屋久島の写真が、普遍的な”生命流”の凄みを伝えていても、それが「屋久島」とカテゴライズされることによって、「ああ屋久島ね。屋久島って凄いよね。屋久島に行くと、こんな木が見られるんだね」みたいに、自分の日常と切り離されて見られてしまう可能性が高いのではないかと私は思っています。
 私は、そういう表層のカテゴリーではなく、構成的な深い面に聞き耳をたてて、写真をや文章を組んでいきたいと思っている。 表面的な面は偶発ですが、構成的な深い面は、いわば運命だから。
 それで、一流の表現者が真摯に対象と向き合った結果としてできあがったものは、表面のカテゴリーは違っても、構成的な深い面で、共通のダイナミズムがある。
 私はそのようにして私に聞こえ見えてきたダイナミズムを、より際だたせたいという衝動に駆られて、写真や文章を組むことが多い。
 もちろん、どの号を構成する時もそうだが、私が解釈して構成して投げたボールで、はいそれで完了ということを期待しているわけではなく(といっても、その解釈の違いに腹をたてて終わりという人もいるだろうし、よくわからないままお任せしますということもあるだろうし、新たな対話が生まれることもあるだろう)、相手から投げ返されるボールを受け取りながら、より精錬させていきたいという気持ちが強い。
 対話を重視するからこそ、私は、最初はある程度大胆な解釈のボールを投げるしかないと考えている。最初から予定調和のところにボールを投げるくらいなら、たとえば写真家が自分で組んだ写真を、そのままもらった方がまし(高名な写真家の場合、「風の旅人」以外は、ほとんどそうしているらしい)だ。私は、全ての写真を自分の目で見て、自分の心に引っかかる写真で組んで、引っかかる理由は何だろうと考えて、それを自分の言葉にして写真家の前に投げ出した上で対話を深めたいと考えている。そういう努力をしないと、雑誌が、ただの作品集や作家特集になってしまい、部分が有機的につながって大きな全体になることはあり得ないのだ。
 大きな全体というのは、”大きな問い”のことだ。私は、どの号も、雑誌を通じて言い尽くされた予定調和の答えを伝えていくのではなく、”大きな問い”が浮かびあがるものでなければならないと思っている。”大きな問い”に向かってモンタージュしていくのが、編集の仕事だというべきか。その為には、「風の旅人」の掲載者に敬意をはらい、それぞれの作品と真剣に対話をしながら、絶えず耳を澄まし、解釈を見直し、連想の幅を広げて、最善の結びつきを考えていかなければならないだろう。それゆえ、全ページの制作を同時に進めながら、最後の最後に、ページネーションをガラリと変えることもある。

 今回、冒頭の写真家は、私が仮で組んだ組み方に対する戸惑いの大きさからか、「見慣れた写真を新鮮に見せよう」という意図があるのではないかと疑問を投げかけたが、そういう表面的な安っぽい発想で行うくらいなら、馬鹿馬鹿しくて出版業など続ける気にはなれない。今日の日本社会を覆い尽くす辟易するような表層文化の上塗りにすぎないことに、本気で取り組む気には到底なれない。