本当の危機とは?

 20歳様

 20歳さんのコメントへの私の返事、少し長くなりますので、こちらに書きます。
 チェーンの”遊び”とか”ため”にあたる想像力。このなかには、実生活において、”読み”とか”間合い”など数値化したり実証したりできないけれど、生活実感として大事だと何となく理解していることも含まれると思います。
 人間は、証明できることや明文化できることだけを基準に生きていませんが、公的な世界だと、そういうことが過剰に重視されるわけです。
 今日の人間は、公の価値観と私の価値観の二重に生きています。
 つまり、誰しも、両方の領域を備えていて、問題は、どちらの価値観を優先して生きているかなんです。
 といって、個人が大事か組織が大事かという二元論ではありません。そうした比較は表面的なことです。
 そうではなく、世の中の最大公約数だけを自分の行動指針にするのか、自分の身体的感覚に耳をすまして、そちらの声をもう少し自分の行動指針に加えてみるとかの違いです。
 
 何もないところから新たに価値観を作り出すのは大変ですが、既に誰しも持っていることで、それを重視してはいけないという価値観から、もう少しそれを重視してもいいんじゃないかという価値観への移行は、そんなに絶望的なことではないと私は思います。ボタンの掛け方の違いなんですから。
 みんなが一斉にではなく、すでに誰もが備えていることだから、周りが少しずつ変われば、それにつられて変わる人も大勢いる筈なんです。

 「戦争でも出来なかったことが・・・」と20歳さんは仰っていますが、戦争は、人間にとって最大の危機だと私は思っていません。なぜなら、戦時下というのは、人間が生きる意思や気迫や信念を持っているからです。人間という生き物にとっての最大の危機というのは、生きる意思や気迫や信念が希薄になることではないかと私は思います。
 想像力という人間の生命力も、生きる意思や気迫や信念が強くあってこと発揮されます。企業の存続を必死で願う社員には、創意工夫の想像力が生じるでしょうが、どうでもいいと思っている社員からは何も生まれません。そうした人の数が多い企業は滅びます。人間社会だって同じだと思うのです。
 ですから、「人間の真価は危機に面した時に現れる」という言葉は、「人間の真価は、生きる意思や気迫が生じにくい苦しい状況で、それでも生きる意思や気迫や信念を持つことができるか」という言い方に置き換えることができるのかもしれません。