本当の危機??修正

 戦争は、確かにその時代の最大公約数の価値観を破壊するかもしれない。しかし、国民の多くが、戦争の原因を一部の指導者だけの責任とし、自分たちは騙されていたのだと言い、最大公約数の価値観に染め上げられる自分の体質を自覚しないかぎり、また新たな最大公約数の価値観が世を覆い、その価値観に盲目的に追従することが続けられる。
 軍国主義の後は、環境破壊を伴う経済発展、そして進学競争、過剰消費、ブランド信仰・・・・
 そうなってしまうのは、他人の価値観に追従して何も考えない方が楽だからなんだろう。
 戦争などの大きな問題に自分が荷担していたなどと思いたくない多くの人は、「政府に騙されていた」と言う。これは企業の不祥事などでもそうだ。
 経営トップが隠していたから社員はその不正に気づかず、知らず知らず、その悪業に参加していたなどと言われることがあるが、全ての社員がまったく気づいていないということは、めったにない。気づいていても、気づかないふりをしていた方が楽なのであって、そうした際、声をあげるというのは、大変な勇気とエネルギーがいる。
 人間がつくりあげた人間の共存社会というのは、最大公約数の価値観を大事にしながら秩序維持をはかることを目的としているから、最大公約数の価値観と自分のなかにある価値観とが板挟みになることが人間には宿命づけられているように思う。
 自分のなかにある価値観を大事にしたいと思う人ほど、葛藤も大きくなる。

 戦争報道というのは、肯定であれ否定であれ、それを表面的に報じれば報じるほど、それを煽る結果にしかならないというようなことを、今月号の新潮で保坂さんが書いているが、私もそう思う。
 その理由は、大切な問題がすり替えられてしまうからではないかと私は考えている。いつの時代も、戦争反対のメッセージは、時の権力者に対してのみ向けられる。その権力者を選んでいる人に向けられることは、あまりない。また、その戦争で本当に得をしている人には向けられることもない。軍需産業だけでなく、フセイン後の資本主義化構想に大きな市場価値を見出している企業(=そこで働く社員全員および家族)も多いだろう。
 戦争というのは、当事者だけでなく、多くの人のエゴと見えない形で複雑に関係している。
 イラク戦争の報道中に、「人の生命は地球より重い」と言った有名なテレビキャスターがいる。そして、この言葉に多くの人が簡単にうなずいてしまう。
 「人の生命は地球より重い」という論理で、昨年、異常気象のせいか人里におりてきたツキノワグマが、千頭以上、殺されてしまった。
 クマを生け捕りにした後、人間に危害をくわえないように教育して山に戻すかどうか検討した結果、山に戻して再び人里におりてきて人を襲ったら誰が責任を持つのかという議論になって、だからといって無闇に殺すわけにもいかないだろうという意見に対して、「それじゃあ人間の生命と熊の生命とどっちが大事なんですか」と極論で詰め寄られて、けっきょく殺すことになったのです(これに関する話しは、風の旅人の4月号で、河合雅雄先生が書いています)。
 戦争に関しても、国民を同意納得させるための論理は、似たようなものです。指導者は、必ず、自己防衛を口にします。
 アメリカとイスラムのテロリストの問題に関して、日本人は、対岸の火事のような感覚しかありませんが、ツキノワグマの件のように、自分自身に、自分の生命を守るために相手を排除すべしだという意見が突き付けられた時、どれだけの人が明確に「否」と言えるでしょうか。「否」と言っても、さらに追い打ちをかけるように「それじゃあ、向こうの命とこっちの命、どっちが大事なんですか」と極論で詰め寄られた時に、相手を説得できる自分の言葉を持っている人がどれだけいるでしょうか。
 ツキノワグマの件でもわかるように「共存共栄」などという美辞麗句は、いざという時に役に立ちません。「そんなことをするくらいなら自分が殺される可能性を残した方がましだ」と言えないかぎりは。
 しかし、もし自分がそういう立場だったら、なかなかそうは言えないだろう。自分一人のことだったらいいけれども、子供のことを考えたら、なかなか難しい。
 それでも、そう言うためには、最大公約数の価値観に翻弄されることなく、自分なりの価値観とか美意識がしっかりとできあがっていることと、ある種の覚悟というか、ものごとの理に対する諦念のようなものが必要になる。
 相手が大事か自分が大事かではなく、幸福か不幸か、善か悪か、好きか嫌いでもない第三の”理”の道。そうすることが自分にとって自然であると自然に思える静かな境地とでも言うべきものが必要になる。
 今必要な”言葉”というのは、そういう方向性を照らし出す力を持っているものではないかと私は思う。
 そういう方向性を曇らせる感傷的なアプローチは、結果的に現状追随であって、その現状追随が、今日の様々な問題につながっていくことの自覚が必要ではないだろうか。