本当の危機??修正

 人間が自分を守ろうとする排除の論理によって、千頭以上のツキノワグマは殺された。戦争報道を見せながら、「人の生命は地球より重い」と言う美辞麗句は、実は、人間のなかにある自己都合的な部分に働きかけ、共感を誘う仕組みになっているような気がする。(テレビ番組というのは、ほとんどそういうものだが)
 保坂さんが今月号の新潮で書いている「小説」の役割というのは、昨日述べた第三の”理”の道の方向性を自然と浮かび上がらせるようなものではないかと私は思う。その第三の道というのは、自分の知らないどこか別のところから新たに引っ張り出してくるものではない。
 100万部を売った大衆娯楽小説は、いくら100万といっても、100人に1人だけ喜んで読むものであって、他の99人には、面白くも何ともなく存在価値を感じられないものだけれど、本物の芸術や小説は、たとえ1万部しか買われていないにしても、その潜在力は、全ての人間の本質に届くものであるというようなことを保坂さんは書いている。
 その理由は、本物の芸術なり小説が、最大公約数の価値観にとらわれず、小説家とか芸術家という正真正銘の人間のなかにある感覚に正直に、その感覚を総動員して作られているものだからだろう。
 そのように、生身の自分の感覚に正直にあるということは、最大公約数の価値観で秩序維持がはかられる人間社会のセオリーに相反することで、とても難しいことだけれど、そうした努力を敢えて自分に課していくことが大勢に安易に流れてしまわない自分づくりにつながるわけで、その地道な積み重ねの結果得られる本当の自分に対する自信がないと、いざという時に、誰しも、自分の意に反する卑怯な行動をとってしまう可能性があるのではないかと私は思う。
 政治家が卑怯であるとか、大人が卑怯であるとかではなく、人間ならば誰しも、自分のなかに卑怯の種を持っている。そのことにどれだけ自覚的であるか、そうならないよう、自分のなかにある価値観とか感覚を見つめ直し、磨き、輝きを出せるまでの気の遠くなるような時間と付き合っていけるかどうかが分かれ目という気がする。
 人間が、戦争を繰り返しても変わっていけないとすれば、戦争が、最大公約数の価値観の変化にしかつながっていかないからだろう。そういう意味で、戦争は、人間にとって最大の危機ではないとも言える。
 ならば、人間にとって最大の危機とはいったいどういうものか。それは、最大公約数の価値観の変化ではなく、自分個人のなかの価値観の変化によって、自分の生命基盤が大きく揺すぶられてしまうことではないか。これ以上、生きていく価値を見いだせなくなるとか、今まで生きてきた自分の精神的拠り所が無くなって途方に暮れるとか。そしてそれは危機であるとともに、ぎりぎりのところからの新たな再生のチャンスでもある筈。
 そういう局面は、イラク戦争とか北朝鮮の核保有の危機以前のこととして、企業倒産、リストラ、身内の自殺・・・・・だけでなく、たとえばドストエフスキーの「地下室の手記」のような一冊の小説が、それまでの自分を壊してしまうこともある。

 そして、社会を覆い尽くす最大公約数の価値観というものは、本来は人間の生命維持の欲望に裏打ちされているものだったのに、今日では逆に人間の生命意欲を激しく減退させるものになってきている。
 これは、人間がつくりだす価値観が、一つの危機的状況にあると言うことだろう。
 新聞やテレビでは、もはや一人一人の自殺が報道されることがないが、毎日、80人を超える人が自殺している。集団自殺などセンセーショナルなことしか関心をもたれていないが、イラク戦争の死者よりも遙かに多い人が、この日本で自殺を続けている。その背景にはいろいろあるだろうけど、今日の最大公約数の価値観が、人間の生命意欲を殺ぎ落としていることは間違いない。
  この状況は、人間という生き物にとって危機ではあるけれど、人間が従来の意味での人間を超えて、新たな人間になっていく一つの転換期と考えることができるかもしれない。