「私」と「他者」が交錯する窓

 最近の小説や写真集や絵画は、写真好きとか文学好きとか絵好き以外の人々にとってあまり関係ないものなっており、その傾向は次第に強くなってきている。その理由はいろいろあるだろうが、一番大きな原因は、表現が「私的なもの」を超えていないからで、「私的なもの」が過剰な時代に、一人の「私的なもの」に付き合ってもしかたがないと多くの人は感じているのだ。
 かつては、例えば絵画などにおいて表現を志す人間は、その時までに既に存在しているレオナルド・ダ・ヴィンチレンブラントの作品に対峙し、その境地に近づき、それを超えることの困難さに打ちのめされ、それでもなお表現をせざるを得ないという情動のなかで作品制作を行っていたのではないかと思う。その作品は、一人の生身の人間のなかから生まれているのだから、やはり「私的なもの」ではないかと言う人もいるが、そうではない。人の話を聞かずに自分の考えを述べるのと、人の話をよく聞いて、その内容を掌握したうえで自分の考えを述べるのとでは、説得力は大きく異なる。なぜなら、そうして生まれてくる表現は、「私」のなかに「他者」の思考や感性を取り込んだうえで、より高次の相互理解に達しようとするものだからだ。そのように一人の表現者のなかに、異なる環境世界で生きる「他者」の思考や感性が取り込まれて増幅していく作品は、「私的なもの」を超えて、広く人間的なものになっていく。そうなってはじめて、文学とか写真は、誰にとっても”自分ごと”になっていくのだろう。
 今日の社会で100万部売れる本がそうなっているのかというと、そうではなく、「私的なもの」のなかに安住したい人の欲求に応えているだけのものが多い。100万部と聞くと、莫大な数の人のようだが、実際には、それを超える数の人が、その「私的なもの」の購入に意味を見いだせない状態でいる。つい手が出てしまうことがあっても、お金と時間を浪費した気分になってしまう。
 「私的なもの」を超えて広く人間的なものになっていく表現とは、現時点で1万部しか売れていないものであっても、その1万人以外の人生の、今でなくてもどこかの節目で、琴線に触れてくる可能性が残されているものだ。その理由は、その表現が、表現者の眼差しによるものであるけれど、大勢の他者の考えや感じ方がその一表現者によって存分に吸収されて重層的に作品に織り込まれるからだ。すなわち、他者に対するコミットの深さと広さが、作品の奥行きになり、より多くの人間の考え方や感じ方を受けとめる懐の深さとなる。
 そのように「他者」を自分のなかに吸収していくことで新たにつくられた「私」の表現方法を表現者は模索する。小説にとっての「文体」は、そういうふるまいを意味するが、優れた写真にも「文体」に相応しいものがある。
 表現技法に走っているだけのものが「文体」のように勘違いされることがあるが、表現者の気分とか心象だけを反映したパフォーマンスにすぎないものは「文体」とは言えない。その表現者の思考や感性に他者の視点が豊かに取り込まれていながら、なおかつ、その人ならではのものを獲得しているような、流動的でありながら確かさを感じさせる表現こそ、「文体」があると言えるのだろう。
 しかし、最近では、そうした「文体」を感じる作品に出会うことが少ない。現代社会で生きる「私」が、「私」以外の様々なものを存分に吸収して、かつ「私」というフィルターを通して表現するのではなく、「私」以外の様々なものを排除するか、「私」そのものを排除しているものが多い。それらの表現が、「私」にしか関心がない人や、「私」に向き合いたくない人の支持を受けるという現象が、文学や写真のなかに蔓延しているように思う。
 そうした状況の中、現在発売されている中野正貴さんの「東京窓景」という写真集は、
東京に生きる様々な人たちの窓越しの風景のなかに現代社会をはめ込むという着想によって、これまでにない「文体」を生みだしている。
 同時代を生きる様々な人間の営みに深くコミットし、その視点を借りながら、「私」が現代社会にコミットしていくという構図によって、見過ごしていたものが、見えてくるような気がする。他者の位置から風景を正視することで、目に見える範囲と奥行きが、とても広がる。そうした作用によって、そこにある風景や、風景を作りあげている人間の営みが、とても愛おしいものに感じられる。
 また、一枚一枚の写真の複数の視点の重なりのなかに生じてくる濃密な気配は、写真集だからこそ実現し得るものであって、そのことは、小説の言葉が、それが属する小説全体のなかでこそ生命を与えられることに等しい。そういう意味で、「東京窓景」は、カタログ写真集ばかりが氾濫する昨今の状況のなかで、写真集としても成功している稀な例だ。
 中野さんが、「東京窓景」の制作に取り組んでいる時、「風の旅人」での掲載を何度も考えたが、やはりこの作品の新しい「文体」の力は、それが属する写真集全体のなかでこそ発揮されるものであると感じて、躊躇し続けた。これらの写真に新しい生命を吹き込める見通しが立つまで、雑誌での掲載は難しく、それまでは、写真集としての魅力を堪能していただきたいと思う。この写真集は、「私」と「他者」、および「全体」と「細部」の相互関係について、多くの”気づき”をもたらし、新しい展望の芽となるに違いない。