同時代感覚

 昨晩、東中野蕎麦屋で、写真家の本橋成一さん、野町和嘉さん、水越武さんと、作家の姜信子さんと、焼酎を飲んだ。
 写真界の巨匠の三人は同世代で、私との間に20年ほどの年齢差がある。
 この人たちが人生のなかで積み上げてきたものは、私のような若輩者からすれば目が眩むようなところがあるが、それでも一緒に会っていると、同時代を生きているという感じが強くする。同じ時代に生を受けているからといって、同時代を生きているという感覚を持てるとは限らない。やっていることの大小や深浅に関係なく、また、考え方や感じ方が合致しなくても、ベクトルが同じであると、そのような感じがするのだろうか。
 作家の日野啓三さんが生きている時、表現の頂きの高さを見せつけられて、圧倒されるばかりであったが、それでも恐縮しながらも図々しく長くお付き合いさせていただいている時、30年の年齢を超えて、若い友人と紹介していただいたことがあり、たったそれだけの言葉が、これまでの人生で触れた他のどんな言葉よりも、励みになり、支えになり、身に沁みて有り難かった。
 野町さんの写真で人間が写っていないものを探すのは難しい。そして水越さんの写真で、人間が写っているのを私は見たことがない。それでも、このお二人の写真は、なぜか強烈に同じ印象を私に与える。たぶん、野町さんの人間写真に拮抗する自然写真は、水越さんをおいて考えられないだろう。そして、逆もしかり。だから、私は、水越さんの自然写真を掲載する時、必ず、野町さんの人物写真をぶつけてきた。創刊号 、6号がそうだった。
この二つの世界は、いつもガチンコ勝負という感じがある。
 それにひきかえ、本橋成一さんの世界は、余白で語るようなところがある。
(7号)心の静かな水面に吹く風によって、小さな波紋が広がるような余韻が、本橋さんの映像からは感じられる。水越さんや野町さんの写真と味わいは全然違うのだけれど、それでもやはり、共通するオーラがある。
 水越さんは、自然写真家のようであるけれど、「人間のことをいつも考えている。僕が意識しているのは人間ですよ」と昨日も言っていたように、人間に真摯に向き合う人なのだ。たぶん野町さんも本橋さんもそうなのだろう。
 人間に真摯に向き合う人の作品からは、きっと同じオーラが漂う。
 だから「風の旅人」に連載中の姜さんの文章からも、野町さんや水越さんや本橋さんと同じオーラが漂っている。
 同時代感覚というのは、問題意識をどこかで共有しているということだと思うが、その問題意識は、常に”他者”と真摯に向き合うことで生じるものであって、その向き合う深さみたいなものが一致する時、ジャンルは違っても、同じオーラが生じて響き合うことができるのだろう。