批判よりも具体的表現

 とある年輩のプロデューサーと飲んだ時に、「風の旅人」のあれやこれやと批判された。
 あの写真家はよくない、あのデザインはよくない、文章にもっとメッセージをこめた方がいい、写真のキャプションはもう少し丁寧に具体的に文字数を多く等々・・、もちろん、その方は、ただ悪口を言っているのではなく、「風の旅人」のことを思って言ってくださっているということなので、私は冷静に話しを聞いていた。
 今日の社会には、批判とか批評は溢れかえっている。このような状況のなかで、批判とか批評というには、必要なのだろうか。
 誰しも、完全に達していないことはわかっているのであって、そこから完全に近づく為にどうすべきかを悩んでいる。また、その完全というものがいったいどういうものか、具体的に形があるわけでもない。
もちろん、過去において、それなりに素晴らしいものがあることはわかっている。しかし、それをただコピーするだけで、今の時代に説得力を持ちうると考えている人は鈍感な人であって、そうではない何かを実現することが難しいのだ。
 もちろん、鋭く恐い批評をできる人もいて、そういう批評が、ものごとの見方を根本的に変える力となることもあるだろう。しかし、ほとんどのケースにおいて、そういうことは稀だ。表層的なことを指摘する批評が多すぎて、そういうものは痛くも痒くもない。
 本質的な批評と、そうでない批評の分岐点はどこにあるのだろう。
 まず、批評者が本気で批評しようと思うなら、口先だけのことを言っても何にもならないことを自覚すべきだろう。つまり、自分自身が、“かくあるべし”というものを表現すべきなのだ。その表現の力によって自らの態度や考えを示すべきなのだ。そういうことをやらずに、人の表現をアレコレ批判するのは、とても恥ずかしいことだ。少し前、文学作品をワインの格付けのように品定めした本が発行されたが、そういう本を発行する出版社も情けない。ワインなどにしても、味とか色とか香りを採点したりするけれど、そういう採点に従って購入して、実際に飲む時に、その採点通りかどうか確認するような味わい方って、何かとても変だ。中華料理にあうとか、天ぷらにあうとか、そういうアドバイスはあった方がいいと思うけれども。
とにかく、今は評論家が全盛だけど、評価とか分析よりも、それでは具体的にどういうものがいいのか提言させることによって、その人の質とか深さがわかるだろう。
 いろいろな作家をさんざん非難して、村上春樹が好きだと言う評論家は、村上春樹を基準にして物事を見ているだけであって、ようするに、ただの村上春樹ファンなのだ。村上春樹ファンはたくさんいるから、村上春樹を擁護する評論家も受け入れられるだけのことなのだけど、ファンがたくさんいる作家をわざわざ擁護する評論家など、果たして必要なのだろうか。カローラを誉める評論家は、数多くのカローラオーナーに納得感やお墨付きを与えてあげるだけのことだ。言い悪いではなく、それだけのものなのだ。
そして、そのプロデューサーの方は、具体的な見本ということで、とある既成産業の巨大会社のPR誌を見せてくれた。
学界、科学界の権威ある人達に編集顧問を依頼して報酬を与え、権威で権威を引っ張ってくるようなスタンスがページのあちこちに見え、辟易した。有名科学者の取材写真も非常に権威的な写真家に撮影させているが、写真としてはまるでなっていない。
 それらの編集顧問を「風の旅人」の編集顧問にと推薦されたが、「風の旅人」の執筆者の方が、その編集顧問よりも段違いにレベルが高いのだ。また、編集顧問という名前貸しのようなことで報酬をもらうような人たちではないのだ。
 また、具体的に興味深いという執筆者を教えていただいき、さっそく読んでみたが、当たり前のことを専門的な装いで強く言いきっているにすぎず、まったく興味を持てなかった。一言で言うと、処世なのだ。処世が悪いというのではない。処世をわざわざ権威的に専門的に語る必要がないと私は思う。
 そのプロデューサーの方は、そうして具体的に示してくれたから、私とは違う視点を持つ人なのだと冷静に判断できた。だから、「風の旅人」に対する批判も気にならなかった。
 ただ私の目指すものはそういうところにはないということは明瞭だった。
 具体性と具体性が相対してこそ、フェアな関係になる。
 違う視点やスタンスを持つことは別段悪いことではなく、それを具体的に明らかにすることが、フェアなのだ。だから、このプロデューサーは、とてもフェアだと思う。
 それにひきかえ、狡い人間は、具体的な代案や表現を見せずに、ただ周りを批評するだけの人で、今のメディアには、そういう人が多すぎるのだ。