否定よりも代案

 私にとっていいデザインかそうでないか、いい文章かそうでないか、いい写真家そうでないかというのは、その表現者にとって内的必然か強く感じられるかどうかです。
 そしてこの基準は誰にとってもそうであるとは思っていません。
 「風の旅人」の内容を批判するプロデューサーとの考え方の相違もそこにあります。
 彼は、そもそも、一般的に良いデザインというのは、良い文章とうのは、写真とは、という考え方に基づいて、話しを展開します。だから、その基準に添っていないやり方というのは、基本がなっていないということになるのです。
 その考えと主張は、間違っているとは言えません。だから、その批判に対する批判は、とても難しいです。「戦争はいけないことだ」と議論のなかで言われてしまったら、反論しずらいものがあります。「クマの命よりも人間の命の方が大事だろう」という言い方もそうです。
 言論を圧殺するという言い方は、北朝鮮のように政府が言論を統制するというイメージが先行してしまいますが、「一般的に正しいとされていること」を、声高に主張される場合も、対話が前に進まなくなることがあります。
 葉っぱ64さんが、コメントのなかで、保苅さんの「ラディカル・オーラル・ヒストリー」を取り上げておられて、保苅さんが保苅さんの考えに対して、当然出てくるであろう批判を想定して、先回りをするようにして、さらに自分の考えを述べていく展開を思い出しました。
 批判者の方は、「間違っている」とか「理解できない」と言うだけで仕事をしたような顔をするのですが、その批判者を超えていこうとする者は、「一般的に正しいとされること」は充分に理解していて、その正当性もわかるけれど、敢えて、そこから一歩踏み外したこと(でも実際にはそれが本当の道につながっている筈だと自分では信じている)をやろうとしているのですよ、ということを一生懸命言わなければならない。そういう道を知った者として、宿命としてそれをやらなければならない。保苅さんは、そういうスタンスを訴えかけているようにも思えました。
 私がかのプロデューサーをフェアだと言ったのは、「風の旅人」を批判するだけでなく、自分が良いと思うものを出してきたからです。それがなければ、絶対的価値観のような立場から「よくない」とジャッジされたような形になってしまうけれど、代案がそこにあれば、プロデューサーが言った「よくない」という言葉は相対的なものになって、あとは、その相対的な判断が誰にとっても納得できるものかどうか、言葉上の意見などどうでもよくて、見比べることで、誰しも自由に感じることができます。
 言論を圧殺しないというのは、そのように誰しも自由に感じられる状態にものごとを置くということだと思います。
 だから、権力側が言論統制しないことは言うに及ばず、批判者も代案を用意する必要があるでしょう。反対するだけの野党は与党になったら同じことをするのではないかと思われない為にも、代案は必要でしょう。
 その人の価値観とか考え方の深さとかは、何をどう批判しているかではなく、何をどう誉めているか、もしくは、どういう代案を持っているかによって計れるのではないかと思います。
 だから、評論家も、分析や否定ではなく、高く評価する評論とか、素晴らしい代案とかを語るようにすれば、読者や視聴者は、その評論家を厳密に品定めできるのではないでしょうか。
 人が評価するものしか評価しないとか、どうでもいいと思われることを基準にして評価しているとか、代案の方がもとの案より劣っているとか、そういうことがよく見えてくるような気がするし、読者や視聴者も、そのようにして評論家や表現者を品定めする必要があるのではないでしょうか。
 バブルの時代に、ああいうものを書いた日野啓三はくだらない、ではなく、バブルの時代に、ああいうものを書いたBはすばらしい、と評論したほうが、その評論家の考え方がよく伝わるでしょう。そのBが誰で、それをどう誉めるかによって、その評論家のことがよくわかるでしょう。
 ちなみに、日野啓三さんは、バブルの頃、それに追随するようなものはいっさい書かず、廃墟とか無機質で荒涼としたイメージのものに感応していた。間違いなく、バブル崩壊の後を見通していた。日野さんが10年前、20年前に書いたものを今読んでも、まったく古いという感じを受けないと思います。
 そして、晩年の「落葉 神の小さな庭で」とか「書くことの秘儀」などは、読んでいる人はまだ1万人いるかどうかのレベルでしょうが、そこには時代を先取りする大切なことが籠められていると私は思っています。