自然との付き合い

006さん。こんにちは。

 コメントに対するお返事、長くなりますので、こちらに書かせていただきます。

 桜は、アメリカシロヒトリなどがつくと、あっという間に葉が食べ尽くされてしまいます。うちの家のすぐ近くに、そういう桜があって、もうその桜は、花を咲かせることはありません。

 殺虫剤というと、おぞましく聞こえますが、子供たちもいる生活空間ですので、私も気をつかいます。造園会社の人の話しだと、日本の桜はほとんど全てアメリカシロヒトリなどに対する対策を行う必要があるため、研究も進んでいて、生態系に害の出ないものがあるそうです。といっても、もちろん人間のやることですから、万全ということはないでしょう。でも、それがないと、全ての葉を虫に食われて桜が死に絶えるという歴然たる現実もあり、そうした攻防もまた、生きるうえでのせめぎ合いなのではないかと私は考えています。

 あと、枝の剪定のことですが、私はそれは必要なことだと思っています。
 たとえば髪の毛にしても、自然だからといって伸び邦題にすればいいのかというとそうではなく、伸び邦題の髪の毛は、ダメージも大きくなります。自然というのは、”手入れ”が必要です。その”手入れ”こそ、人間と自然の”間”、すなわち、付き合い方の呼吸のようなものではないかと私は思います。
 その呼吸を掴むためには、経験の蓄積が必要です。失敗もするでしょう。でも、人間の知的分別による倫理観だけで”失敗”を避けて、無難な距離を置いて、一切手をくわえなければ、後で取り返しのきかない大失敗につながることがあります。

 自然や子供に対する”優しさ”には、実は、そうした問題が根底に宿っているように思います。

 「梅切らぬ馬鹿、桜切る馬鹿・・」でしたっけ、そういう言葉があるように、太くなった桜の枝は切るのはよくないことだと人間の経験が知っています。しかし、毎年新しい細い枝がぐんぐん伸びていきますので、その段階で切りさえすれば、桜にダメージを与えないと聞きます。その時に放置してしまうと、細い枝が無数の太い枝になってしまい、そうなった段階で切るのは桜に大きなダメージを与えますし、切らなければ、虫も付きやすくなりますし、空気の流れも悪くなり、結果的に桜によいことはありません。

 子供の本能は自然だからといって思いきり甘やかして、大きくなってから、本能ばかりじゃ生きていけないことを知って強制的に修正しようとして、取り返しがきかなくなるような傷を与えてしまう。そういうこともあるかもしれません。
 あとから気付くことは誰でもできますが、前もって、それを読みとって手を打てるかどうか。”手入れ”の発想は、そういう智恵だと思います。

 ”手入れ”というのは、大事な自然観だと私は思います。
 しかし、その微妙な機微を掴むには、マニュアルでは不可能です。身体的経験が必要でしょうし、伝統的な智恵(呼吸)の伝達が必要でしょう。そういう機会が少なくなり、”手入れ”の呼吸やモノゴトの機微が読めなくなっていること、それが今日の一番の問題だという気がします。
 自然破壊というのも、単純に自然が破壊されているから問題なのではなく、不自然な自然保護(極端な動物愛護のように)も含めて、微妙なさじ加減のわからない人間の自然との付き合い方そのものが、問題なのではないでしょうか。