不安と備え

OODE様

  私は単純に”不安”を否定的な現象として捉えているつもりはなかったのですが、そのように感じられたのなら、私の表現が適切でなかったのでしょう。
 私は、ネアンデルタール人に比べて身体的にも華奢で弱そうに見える私たちの祖先ホモサピエンスが氷河期を生き残ったのは、世界を敏感に感じ取るゆえの”不安”と、その不安に対する”備え”なのではないかと思っています。
 しかし、その”不安”や”備え”は、自分の経験や感受性から自然に生じるものばかりではなく、他から強制的に擦り込まれるものがあり、それが問題なのではないかと考えたのです。
 自然に生じるものは、必ず揺り戻しがあります。不安→備え→安心→暫くの安定期間→不安→備え→ そのように曖昧であるけれど自分にとっては確かな感覚と付き合うことで、人間は試行錯誤を行い、間合いや折り合いを知り、微妙なニュアンスを覚えていきます。
 しかし、洗脳とか煽動という外部からの強制的な力は、その揺り戻しを許さないところがあります。例えば、強い不安から狂信的宗教団体に入会してしまうところまでは仕方がないとしても、その後、その団体に矛盾を感じても抜け出すことを許さない力が、その組織内にあることが多いです。
 こうした力は、狂信的宗教団体に限らず、程度の差はありますが、社会の至るところにあります。問題は、矛盾を感じた時にどう動くかということなのですが、その時、別の”不安や恐れ”を吹き込み、身動きできないようにしてしまうこと。企業の不祥事などもその一種でしょう。
 また、自分が感じている不安感覚と、人から強制される不安感覚との間には、ズレが生じます。自分で将来に対して不安を感じ、その不安と闘いながら努力する場合においては、たとえ不安を抱えながらでも、その人は自己分裂に陥ることなく、ある程度、心を安定させることができるように思います。
 しかし、自分が実感できていないのに、たとえば親などから強制的に将来の不安を煽られ、無理矢理努力させられる場合、不安に対するリアリティの欠如から、その子供は得体の知れない別の不安を感じるような気がします。
 子供の将来のためと何かにつけ一生懸命な親は、子供は何もわからないから親がそれを教えているのだと言うかも知れません。しかし、教えるつもりで、実は”洗脳”しているだけかもしれません。
 大事なことは、自分の心身が、リアルに”不安”を感じることだと思います。リアルな”不安”によって、自ずから対処方法を見出そうとする。そうした”備え”は人間が人間として生き始めた時に自然に備えていた特性だと思います。
 しかし、自分が”不安”をリアルに感じていないのに、強制的に”備え”をさせられる。その結果、一体何のために”備え”をしているのかわからなくなり、”備え”そのものが目的化し、システム化してしまう。そのシステムに組み込まれた時、その偽りの”安心”のなかで、人間は、人間が本来備えていた繊細で鋭敏なセンサーを失っていく。「生きている実感の喪失」などと表現される状況は、そういうことを指すのではないかと私は思います。そして、その生命力の減退という状況に対して新たな”不安”が生じる。すなわち、人間が本来備えていた繊細で敏感なセンサーを、自分が失っていくことに対する”不安”です。
 おそらく、自分の中にまだ残っているセンサーが、人間らしく生きていくうえで大事な何かを損なっていく自分に気付くわけです。「社会」が強要する将来の”不安”よりも、自分自身に対する”不安”。それは社会的に優秀な成績を収める自信があるかないかという処世的なことではなく、生身の人間として生きていく価値かあるのかどうかという”不安”。
 でも、その”不安”こそが、「社会」が擦り込む”不安”よりもリアルな、自分の内側から自然に生じる”不安”です。
 そのリアルな”不安”に対して、どのように闘い、どのように”備え”を行うかが大事だという気がします。

 かつての人間社会は、リアルな不安に対する”備え”によって成り立っていたと思います。しかし、近代以降の社会においては、一人一人が実感するリアルな不安は希薄化し、教育や啓蒙という名の価値観の強制共有化により、人間エネルギーを効率よく活用するシステムが構築され、そのシステムのために生きることが人間社会の幸福に繋がるというイメージを強要され、そのシステムの外にはみ出すことに対して、教育や啓蒙が”不安”を植え付ける。そのことによって、システムがより強固なものになって、それ自体が自己目的化し、一人一人の人間が本来持っていた自分自身の感じ方や考え方が阻害され、生命力が殺がれていく。
 そのような状況のなかで、一人一人の人間が本当に”備えるべき相手”は、自分の中にも無意識のうちに擦り込まれている”共同幻想”のようなものではないかと私は思っています。
 「前例がそうだから・・・。誰かがそう言ったから・・・・。そういうものだと思っていた・・・・」等など、人に与えられた価値観、イメージ、考え方などを鵜呑みにせず、いったん疑って、自分こそはどう感じ、どう思うのか、根気よく自分に問いかけていくこと。そうした姿勢こそが、自分がリアルに感じている「自分の生命力の減退」に対する”不安”への”備え”なのではないかと思います。
 
 学校の先生とか、両親にかぎらず、マスコミなどにおいても、有識者と言われる人が、今日のパラダイムを傷つけることのない無難な答えを述べ、物事の見方や考え方を一定の硬直した枠組みのなかに押し込んでいきます。そうしたメカニズムが縦横に張り巡らされている今日の社会のなかで、自分の感じ方や考え方を育む努力は大変困難なことであるとしても、その備えなくして、失いつつあるものを取り戻すことはできないのではないでしょうか。