聖書と憲法!?

 前日の書き込みの最後に、なぜ「聖書」に言及したかというOODEさんの質問に対する答えになるかどうかわかりませんが、書いてみます。
 聖書というのは、単純に宗教教典という意味合いで済むものではなく、西欧人にとって、無意識の中に刻まれた思考や価値観のバイアス、人生観であり、世界観であり、モラルであり、拠り所であり、理想のベクトルを示すものであり、そういうものを全て含めて、人間が人間として成り立つ"理念”のようなものでしょう。
 西欧人は、聖書から生まれた。意識しようがしまいが、生まれた時の家や街や家族や習慣や周りの人々の思考の癖や物事の見方、感じ方、考え方の全ての中に、聖書の世界が脈打っている。
 現実的な問題は、その都度、現実的な対応策で解決をはかろうとも、その解決で終わりでなく、常に「聖書」で語られる「神」の真意に思いをはせながら生きていくことになる。
 その西欧にとっての「神」は死に、それゆえ、世界はニヒリズムに覆い尽くされたのだが、たとえ信ずべき規範は失われたとしても、聖書によって擦り込まれた思考や価値観のバイアスが完全に失われたわけではない。むしろそれが執拗にあるがゆえに、神という絶対的規範なき時代に対する恐るべき不安や絶望に苛まれることになるのだろう。
 西欧的自我というのは、神という唯一絶対の規範との対話を通して見いだされた自己という形で確立されていったのではないか。ならば自我すらも、バイアスの表れにすぎない。
 聖書というのは、人生や世界に対する問いの回路を作り出しているのだと思うのだけれど、その回路から生まれ、その回路を共有する人々によって構成される組織体が機能していくうえで、その組織体の人々の意識の深層での判断の拠り所であるように思う。たとえ聖書を精神的な拠り所にしようがしまいが、現実の変化に関係なく不変に存在し続ける偉大な力がそこに秘められているのは歴然たる事実なので、現実的判断を下せない時に立ち帰る場所として存在し続けるように思う。人間が人間として、また世界が世界として成り立つための”理念”がどこにあるのか探るために。

 西欧人というのは、どんなに合理的な時代になっても、聖書の中に描き出された不合理な奇跡を二千年もの長きにわたり大切に伝えてきたという人間の合理性だけでは計れない側面を当事者として知り尽くしている。だから、明文化されたものが全てだと思っていない。契約を重視しながらも、二枚舌外交を当たり前のこととして行う。明文化されたものも大事だが、同時に”理念”も大事にしなければならないことを知っている。ただし、自分たちにとっての”理念”が普遍で、相手もまたその中にいると信じてしまう欠点を持っている。
 そうした西欧人に対して、日本人は、杓子定規に明文化されたものだけを根拠にする官僚主義と、その場限りのなし崩し的対応の両極に分かれることが多い。”理念”に向かって根気よく試行錯誤しながら追究することは苦手で慣れていない為、誰かが勝手に決めた「目標」を大義名文化して、猪突猛進したりする。
 そうならないよう、西欧人にとっての「聖書」にあたる“立ち帰る場所”が必要なのではないかと思う。目先の行動のための指針ではなく、”理念”を持つ必要があるように思う。
 太平洋戦争という計り知れない教訓のなかから、新たに日本人が日本人として成り立つための”理念”として「平和憲法」が生まれたのなら、それは、西欧人にとっての聖書に等しいもの。もし、第九条には、そうした意味合いが籠められているのなら、それはそのままにして、他の条文でそうでないものがあるのなら、それを見直す議論は始めるべきではないかと思う。頑なに現状維持を主張するのではなく、議論を通して、日本国憲法を、地獄の底から生まれた新たな日本人と日本国の「成り立ち」に相応しいものに整えていくことは必要だと思う。

 「風の旅人」の創刊時に掲げたテーマは、この複雑怪奇に見える世界で、人が人として生きることの原点を探し求めるということ。FIND THE ROOT すなわち、根元を求めよ、ということ。
 「風の旅人」にカテゴリーはありません。この時代、人として新しく成り立ちたいがための、言葉と映像の五体投地みたいなものです。