写真と絵画

  先日、 恵比寿の写真美術館の展覧会に行った時に買った「写真はものの見方をどのように変えてきたか」の第一部「誕生」の本を見ていて、思うことがあった。なぜ私が、150年前の写真に、これだけ強く感じ入るものがあるのか。
 写真は一般的に、”一瞬”を切りとるものだと信じられている。確かに高速シャッターで切りとられた今日の写真の多くはそういうもので、そこに魅力があるともされる。猛スピードで走るFー1マシーンとドライバーの表情を静止した状態で捉える力は、写真にしかないものであり、その時、人間は自分の日常の知覚を超えた世界を垣間見ることができる。
 それとは別に、「はいチーズ」と言って、パシャリと撮る写真。ポートレートに限らず、風景写真もそういう類が多いが、それらは、人間が、日常、持続的な時間のなかで捉えている対象を、その瞬間、機械的に切断して見せてしまう。その際、そこに写っているものは、あまり新鮮味を感じないことが多い。それはおそらく、その写真が見せるものが、持続する時間のなかの断片でしかないことを、私の知覚が既に知ってしまっているからだ。
 私たちは、知覚の範疇で情報を処理しながら、日々の生活を営んでいる。知覚の範疇の情報というのは、自分の存在基盤を揺るがすほどのものではない。
 でも、私たちの身体的感覚は、知覚を超えた感覚を備えている。意味不明だけども何かを感じるという感覚が身体には宿っている。そうした感覚は、時として自分の存在基盤を根っこから揺さぶる力を秘めている場合がある。
 感動するというのは、そういう瞬間を言うのだろう。感動というのは、実は、自分の存在基盤を揺さぶるものであって、自分の平穏な日常にとって危険な側面も持ち合わせているが、日頃、知覚分別によって抑圧された身体感覚が解放され、歓びを感じる瞬間でもある。
 しかし、今日の現実社会は、自分の知覚分別で情報整理できてしまう”表現”が溢れている。そういうことに自覚的な人が、知覚分別の隙間のようなところを狙って仕掛けてくるが、そういうものは一度見るだけで隙間が埋まってしまい、すぐに飽きてしまう。眠っていた身体感覚が呼び覚まされるほどのものは、何もない。

 そして先日、私は150年前の写真を見た。それらの写真の共通点は、長時間露光ということだ。人物の場合、カメラの前に立って、じっと動かず、立ち続けなければならない。風景もしかり。そのように撮影した写真は、”瞬間”なのではなく、生きた対象の持続的時間が凝集しているのだ。
 見た目には止まっているように見えるモノも、実はその内奥で動いている。表面も、微妙に振動しているかもしれない。一見、表情のない顔に見えても、その表情を維持しようとする内面の力が働き、その力が”表情”になって現れている。
 また、当時の肖像写真は、ニコリとしたサービススマイルの写真を見ることはできないが、”笑顔”の表情を維持しようと内面の集中を要する場合、それはもはや、笑顔ではないのだろう。
 そのように150年前の肖像写真は、長時間露光によって、持続的に内面を集中しようとする被写体の”気”が溶け込んでいる。一枚の写真のなかに、その気の流れが層になって重なっている。だから、一見静止しているように見えるのだけれど、微妙な震えを感じることができる。
 20世紀以降の絵画芸術の場合、画家が肉眼で見て、その時に生じる<見る側の身体感覚>を忠実に表現しようとする試みのなかで作品が生まれる。しかし、写真の場合、見ているのは機械であり、撮影者の身体感覚が作品に写るのではない。写るものは、写される側の何ものかが光の層となって、フィルムに焼き付けられるのだ。
 何を撮影するか、どの構図で切りとるか、という撮影者の知覚は、当然ながら写真作品のなかに反映される。しかし、絵と違って、撮影者の身体感覚を実現することはできない。プリントを焼く段階で、いろいろ調整はできるだろうが、絵ほど、それを追及することはできない。
 にもかかわらず、自分の身体感覚を写真撮影によって実現しようとする人は多い。おそらくその理由は、絵よりも写真の方が、安易だからだろう。
 撮影者の知覚によって、構図なり、タイミングを計ることは、大事なステップだ。しかし、さらに大事なことは、写真には、他者が放つ(知覚を超えた)エネルギーを光に変換して集めて、焼き付けることが可能だと言うことだ。他者というのは、人間にかぎらない。他の生き物も、風景もそうだ。人間が念じる思いも、身体感覚も、強いエネルギーの流れである。
優れた写真家は、そのように見られる側が放つ”エネルギー”に対してとても敏感である。それゆえ、彼らは、”光を読む”ことができる。絵と違って、構図とシャッター速度と絞りとフィルムの選択とタイミング以外は、ほとんと機械任せの写真にもかかわらず、作品に歴然たる差が生じるのは、”光を読む”能力の差なのだ。

 ”見ること”において、見られる側に関心を置く絵画は、写真を超えることができない。同時に、見る側に関心を置く写真は、絵画を超えることができない。
 150年前の写真をきっかけに、そういう認識が自分のなかに生じた。