ユーリー・ノルシュテインの仕事

 昨夜、NHK教育テレビで、ロシアのユダヤ系アニメーション作家、ユーリー・ノルシュテインに関するテレビ番組を見た。
 この映像作家の作品に初めて出会ったのは、15年以上前、『霧の中のハリネズミ』だったけれど、ほんの10分?ほどの時間のなかに凝集している微妙なニュアンスが大きな余韻となって、いつまでも記憶に残っている。
 アニメーションを見たという意識は消え、何か特別なものに触れたという感じだった。音楽と、ハリネズミの細かな動きに備わっているニュアンスによって、微妙な機微が伝わってくる。それは、生きているということの、息づかいとでも言うべきもの。
 そして、1年半ほど前、「ユーリー・ノルシュテインの仕事」という作画集を買うまで、、あのハリネズミの作品が、ユーリー・ノルシュテインというアニメ作家が作ったものだったということすら知らなかった。その作画集に掲載された様々な絵は、どの一枚にも、世界の複雑なニュアンスが凝集しているのだが、昨日、テレビの番組を見て、その一枚一枚を重ねてアニメーションにするため、気の遠くなるような作業が繰り返されていることを知って、驚嘆した。しかも、原画は、自分と奥さんが担当し、それ以外のスタッフはカメラマンが1人だけ。デジタル化された社会のなかで、旧式の機材にこだわり、一つ一つのカットを丁寧に作り込んでいく、驚くべき根気、熱意、こだわり。
 現在、24年かけて、ようやく半分までこぎつけたという、ゴーゴリーの『外套』を元にした作品の一部をテレビでも流していたが、登場人物のアカーキーの表情、しぐさ、身体の動き、手の使い方が絶妙で、「神は細部に宿る」ということを、アニメーションで素晴らしく実現している。そして、それらの細部の周到な積み重ねが、アニメーションであることを忘れさせるリアリティを生みだしている。
 そして、あらゆる表現が目指すものは、最終的には、この“リアリティ”なのではないか、と今さらながら思った。
 5月12日に、絵画と写真について書く際、「見られる側に関心を置く絵画は、写真を超えることができない。見る側に関心を置く写真は、絵画を超えることができない」と書いた。しかし、その後に続ける言葉がある。「見る側」、もしくは「見られる側」にしか関心の矛先が向かわないものは、表現としては中途半端なものでしかないということだ。
 前者は、自分の外の問題を意識の外に追いやって、自分の内なる問題のみを切り取ろうとするもの。後者は、自分の内の問題を意識の外に追いやって、外の問題のみを切り取ろうとするもの。
 絵であれ写真であれ、内と外も包含して、全てを呼応させたものを目指す必要がある。リアリティは、そういう域に達した表現から流れ出て、その表現を見る者にも呼応する。
 ノルシュテインのアニメーションは、身体の内と外の“呼応”を呼び起こす力がある。世界を見る側に引き寄せる力とでもいうべきだろうか。
そのノルシュティンが、コンクールに応募してきた日本の若いアニメーション作家予備軍を叱責する場面が興味深かった。
 彼等の作品は、一見、バリエーション豊かに見える。それぞれ、それなりのアイデアで工夫を凝らして作っている。しかし、ノルシュティンから見れば、どれも「外の世界の微妙な細部を見ず、自分の頭の中に閉じこもって、作っている」という意味において同じなのだ。
 これは、アニメーション作家予備軍に限らず、写真でも絵画でも同じようなところがある。狭い自己を表現するために表現手段を身につけようとしている人たちには同じようなところがある。外の世界には無関心だし、他の優れた表現者たちの作品にも無関心なことが多い。総じて、自分と同じ「自己に閉じこもった表現」でうまく世の中に出ることのできた人に親近感や羨望を感じて、その人たちの作品に興味を持つことはあっても、自分の手が届きそうもない域に達している作品を、意識から排除する傾向がある。最近は少なくなったが、「風の旅人」の創刊の頃は、そういう人たちの作品の持ち込みが非常に多かった。レベルの高い作品を見ると、自分の未熟さが露わになる。
 その人たちの自己防衛は、レベルの高い作品もそうでないものも、”多様な表現の一つとして尊重する”という言い方で整理することだ。

 また、ノルシュティンが言う外の世界というのは、おそらく、イラク問題、アフリカの飢餓、この国の財政問題北朝鮮の核保有、といった情報知識だけを指すのではないだろう。通りを行く人々、草花、様々な生き物・・・、自分が生きる世界を構成する様々なディテールのことだ。世界は微妙なディテールの積み重ねのなかで成り立っており、大切なことは、その手応えを引き寄せることだ。当然ながら、そのなかには、自分自身の営みも含まれている。そうした観察を怠って、知識情報だけを切り取って伝達することにかまけることも、「外の世界の微妙な細部を見ず、自分の頭の中に閉じこもって、作っている」ということになるのではないか。
 誰しも、自分の頭だけで考えていると、そういう陥穽に陥る可能性はある。
そうならないために、ノルシュティンは言う。同じ道を通り、苦難を乗り越え、内と外を呼応させる「様式」を確立した偉大なる先人達の作品に向き合うべきだと。未熟な自分を戒め、勇気をもらい、常に根元に立ち帰り、大切な何かを汲み上げ、自分の忍耐を下支えしてもらうために。