新たなステージ

 8月1日に出る「風の旅人」Vol.15の”人間の命”というテーマで、一つの局限を見せる。”死”を認識したことで、生きることも死ぬことも運命として受けとめていきていかなければならない人間の生き様を伝えるのだが、「風の旅人」は、この15回を一つの区切りとしたい。
 そして、Vol.16(10月1日発行)から新たなステージに入りたいと考えている。
 この2週間ほど、新たな執筆陣などと打ち合わせをしたり、手紙を書いたり、写真に新たな方向性をつける写真家に会ったり、しんどかったけれど、新たな形が何となく自分でも見えてきたような気がする。
 幾つかのキーワードがあるが、その一つが「nowhere」。どこでもないどこか。そして誰でもない誰か。そしてそれは、すべての根元であり、本質であり、全てのものに共通な大切な何かを探すプロセスが凝縮した”場”。
 たとえば「風の旅人」のような雑誌を作ると、お節介な人は、写真で紹介している場所の地図を入れた方がいいとか、写真家や執筆者のプロフィールをもっと入れた方がいいとか、その方が親切であるとか、言ってくるが、私はそういう意味で不親切を徹底している。。どういう業績を残した人であるとか、どこの国のどういう特殊な場所で何が起こっているとか、そういう情報整理によって、知識や教養?を必要に応じて役立てるという程度のものが世の中に溢れているが、それは、固定した先入観で物事を見ることであり、赤裸の魂でものごとと向き合うことではない。
 世の中の趨勢がそうであるというのは、表層の部分だけでなく、根っこの部分もそうなっているということであって、たとえば学校教育などにおいて、 ”言葉”で安易に物事を整理して囲み、その固定した枠組みのなかで処理するスピードや、量ばかりを追及する価値観が顕著になっている。その状況で、何も問題がなければよいのですが、実際は、大きな問題がある。
  毎日届けられる情報や、学校で教えられることが「自分ごと」になっていかない。自分の心の中で感じることと、世の中でこうすべきだと伝えられることのギャップが大きくなる。にもかかわらず、便宜上やむ得なく、もしくは生きていくためには仕方なくという口実で、それを受け入れていく。そうして、自分が世界から引き離されていく。この精神の危機的な状況に対して、マスコミや、心理学の専門家などが様々な分析を行うが、そこで使用される言葉もまた、固定した枠組みで処理するようなものが多く、さらにその言葉に説得力をもたせようと、経歴や業績や所属によって権威づける安易な手段が取られ、混迷の度合いはますます深くなっていく。
 今日の人間社会の問題は、分析によって、乗り越えられるものではない。ある意味で、私たちは私たちの新しい神話が必要なのではないかと私は思う。その神話がいったいどういうものであるか、ということを考えることにエネルギーを注がなければならず、今という時代は、それを充分に考え得ることが可能なほど、あるゆることが成熟しているのではないかと思う。
 言葉を持った時から、人間は今の状況に至ることが宿命づけられているのかもしれないが、それでも人間ならではの方法で、世界とのつながりを新たに獲得し、「呼応」する術を見出すことは可能なのではないだろうか。
 nowhereは、根元であり、言葉を持った人間と世界のあいだに広がる始まりの荒野でもあると思う。地球の裏側まで行かなくても、日常のすぐ傍にnowhereはあるし、作り出さなければならない。そう、今、此処が、自分にとって常に始まりの荒野であるという認識によって、世界の見え方は変わってくる。「風の旅人」の16号以降で、これまでにも増して意識化したいことは、そういうことだ。
 二つ目のキーワードは、美、芸術、倫理、道徳、魂(精神)、愛など、今日の日本人が真剣に議論したり語らったりすることが難しくなっていることを、新しい文脈で見出していくこと。
 太平洋戦争の反動からか、戦後の教育をはじめ、知識人は、そういうことにとてもナーバスになった。「道徳」、「日本らしさ」、「魂」という言葉を安易に使うと、保守とか右とか、危険思想ということになってしまう。また「芸術」も、「アート」という言葉を使っていた方が、総花的に網羅できて無難ということになる。そのようにして、「表層の差違を誇ったり、カテゴリーで整理して満足する文化」が、溢れるようになった。それが言葉遣いの問題だけならいいのですが、そういう空気のなかで、精神の拠り所が希薄化している。精神の拠り所など明確にある必要がなく、それが無いという前提で、何にも依存せず、前向きに堪えながら生きていくことこそ貴いとも言えるのだが、それでも、そのように自然に思えるための「言葉」を求める衝動が、人々の心のどこかにある。美、芸術、倫理、道徳、魂、愛といったことは、もともと、人間の身体性とか記憶とか時間感覚といったものと切り離せないものだったと思うのだが、それが切り離されて語られてしまうことに、問題があるように思う。
 特に私たち日本人は近代に入ってヒューマニズムなど西洋の倫理に染め上げられていったわけだが、西洋的倫理の特性は、人間社会には「必要悪」が厳然とあることを前提として、それに対立するかたちで「必要善」が存在し、そこに葛藤とか折り合いがあること。世間知らずの日本人がヒューマニズムを語る時、「必要悪」という根本的な概念がわからないまま、感傷的な「善」にとらわれることが多い。
 それはさておき、上に述べた二つのキーワードに迫る日本人の智慧として、「もののあはれ」があるのではないかと私は考えている。「もののあはれ」を古典的な概念として認識するのではなく、今日の社会のなかでどう捉え、どう感じ取るか、ということに大事な何かが隠されているように思う。そのことを、Vol.16以降の「風の旅人」では、より意識化したい。