敬意と、信仰心

 今週、「風の旅人」で新たな連載をお願いする前田英樹さんに会って、話し込んだ。
 前田さんは、ソシュールの研究、すなわち「言葉」から入って、「言葉」を洞察するというのはすなわち「人間」の意識や無意識と向き合うことだから、必然的に人間の意識や無意識から派生することに研究のテーマが広がり、絵画とか映画とか、倫理、哲学というように、思考の幅を広げている。といって、総花的に表層的に、あれやこれやの専門家を気取っているということではない。私がこの人を信用できると思ったのは、一つは観念から入っていないこと。いわゆるインテリ気取りではなく、物とか身体から入っているということ。だから、絵画を語る時も、倫理を語る時も、”ありきたりの言葉で意味を囲むのではなく、心身の葛藤を強く感じる。ある局面では、捻れ”になる。その”捻れ”は、絞りきれない雑巾をさらに絞ろうとする”捻れ”でもあるし、畏れ多いものに関わらざるを得ない時に、ズカズカと正面から土足で入っていく無神経さではなく、どうしても、身体を捻るように斜めにして、少しずつ近づいていくという感じで、時には、身体を捻りすぎて、それ以上近づくことができずに、 当初、想定したところと全然違うところに行ってしまうようなことでもある。でも、そこに、物事に対する”敬意”を感じる。首尾一貫とか、でなくてもいい。正しい答えなど、どこにもないのだから。ただ、その構えとか、進み方とか、プロセス全体に信用できるものがあるかどうかがポイントなのだ。
 たとえば、「絵画の二十世紀」(NHK BOOS)において、セザンヌ、モネ、ピカソマチス、ルオー、ベラスケスなどを語る際、これらの画家を選んでいるということで、前田さんもその人たちから特別な力を感じるということで、ああ一緒なんだと共感する。そして、前田さんは、それらの畏れ多い特別な力が何に起因するものなんだろうと身体の感覚を総動員するような感じで思索を進めていくのだが、その解釈とか認識の仕方においては、私と共通するところもあれば、異なるところがある。また新たに認識を発見させてくれるところもある。でもそうしたことは大きな問題ではない。そうではなく、それらの畏れ多い絵と、どう向き合っていくか、というプロセスこそ、大事なのだ。教養とか知識の一部とか、わかったつもり、というのが一番ダメで糞食らえなのだ。最後の最後、それ以上向き合うことは恐ろしくて、へとへとになって、思わず身を捩って、避けてしまいながら、それを後悔して、もう一度チャレンジして、向き合って、自分の認識を、もう一度疑って。それが、作品に対して敬意を払うことなのだ。そうした精神の運動を永遠に続けさせる衝動を相手に与える作品こそ、本物なのだ。本物の作品を、わかったような言葉で括ってしまってはいけない。
 この前田さんが、「倫理という力」(講談社現代新書)の冒頭に、「トンカツ屋の親父を怖れよ」と書く。このトンカツ屋というのが、私の家の近くにあり、私は、前田さんに会う前日、その店でトンカツを食っていた。前田さんが書いているトンカツ屋がそこだとは知らなかったが、前田さんの文章を読みながら、私は、同じ店を頭にイメージしていた。
 前田さんとはトンカツ屋の話しをしていたわけではないが、どこに住んでいるの、という話しになって、私が自分の住んでいる所を答えたら、前田さんが最初に口に出したのが、そのトンカツ屋のことで、そのトンカツ屋の近くに住んでいるというだけで、随分と羨ましがっていた。その前田さんは、前田さんの家からとてつもなく遠いそのトンカツ屋を偏愛し、敬意を払い、信仰!?しているのだ。そのトンカツ屋に無性に行きたくなって、行くと決めたら、気合いを入れて、電車に乗って行って、至福の時を過ごすのだ。そして、あのトンカツは、ビールじゃなく日本酒じゃなくてはダメなんだ。日本酒と串揚げを最初に食べて、あとでロースカツの定食を食べるのだと、気合いを入れて言っていた。といって、そういう豪快な食べ方についていける人はあまりいないので、ほとんど人を誘わず、自分一人で行くのだそうだ。
 その前田さんには、”日本人の信仰心”について書いていただく。もちろん、教義的なことではない。あのトンカツ屋のなかに一歩入れば、そこら中に通い合っている”カミ”と人間の関係のことだ。それは、ものごとに対する”敬意”と言えるものかもしれない。
 日本人の信仰心の底流には、「敬意の心」がある。これからの時代、いろいろな意味で、この「敬意の心」がとても大事ではないかと思う