ガラスの壁(続の続)

 一昨日書いた件で・・・、校長先生の偏狭さには驚かされたが、こういう人は珍しくはないと思う。組織の長は、組織防衛意識が強いから、1%の失敗の可能性に敏感なものだ。生徒数が100人いて、90人の生徒の親が満足しているのに、10人の親が不満をもって学校に押し掛けたりしたら、大騒動になって、その矢面に立たされるのは彼らだから・・。
 以前、「風の旅人」をホテルに置くという話のなかで、現場の人はとても積極的だったけれど、支配人の判断で却下されたことがあった。その支配人は、個人的には「風の旅人」を気に入っていた。しかし、100人のお客様のうち1人のお客様が苦情を発する可能性を否定できず、そうしたトラブルは極力避けたいという判断だった。
 「風の旅人」は、現在、店頭に出ている第14号の場合なら、ベナレスの写真とか、ある特定の人が目を背けたくなる内容も掲載されている。全ての人に無難に受け入れられるものではない。そもそも100人のうち100人に受け入れられるものを作ろうと考えてはいない。しかし、今日の人権尊重主義に時代においては、100人のうち100人が、自分の意に添わないものに対して苦情を言う権利がある。その人と利害関係がない場合は無視することができるが、残念ながら、それができない立場の人もいる。
 現在社会では、学校でトラブルが起こると、マスコミが殺到する。世間で大騒ぎになる。だから、トラブルの原因になるようなことは、どんな小さなことでも避けたいと防衛意識が働く。そのため、校長が許容できる範疇が狭くなっていくのは、やむを得ないのかもしれない。校長一人一人の問題という部分もあるが、それ以上に、現代社会の構造的問題のような気がする。そこにあるかどうかわからないガラスの壁は、責任ある立場になればなるほど、そこにあることを前提として日々を生きていかなければならない。何か事があるとすぐに責任がどこにあるかという話になってしまうのだから。
 大企業などの場合、数年前までは、ばくち的に大きな成功をする人よりも、確実に失敗しない人が出世し、トップになることが多かった。それは、経済が右肩上がりで、特別に思いきった手を打たなくても、失敗さえしなければ企業が成長することができたからだ。しかし、低成長時代に入って、失敗を恐れて縮こまる会社は、成長が止まるどころか、相対的に衰退するはめになってしまった。国内経済のパイが増えないのにくわえて、グローバリズムで、海外の企業との競走が激化したからだ。そのため、ここ数年で、民間企業のトップは、俄然、大胆な発想と行動力で組織を牽引する人が増えた。固定観念の強い人や価値観が偏狭な人は、時代変化に対応できないからだ。 
 しかし、教育現場とかメディアなどの規制産業は、競争がない分、そのような意識変化が遅れてしまっている。人々の価値観の育成に大きな影響を与える世界が時代の変化についていっていないことが一番の問題だろう。
 私は組織のトップである校長先生が偏狭なのはまだしかたないと思っている。それ以上に問題なのは、その偏狭な校長先生の言動を、何の疑問を持たずに右から左に流して、命令に従っただけだからという理由で自分には責任がないと思っている大勢の教師なのだ。
 トップが判断する段階では、たとえ組織の長の価値観だとしても、そこには個人的な体感温度が残っている。つまり、理由などを問い、それに対する返答を引き出す余地がある。しかし、大勢の中間管理者が機械的に右から左に流すと、その瞬間、その価値観は大きな既成事実になってしまう。その次の段階で誰かが理由を問うても、「そのように決まっているから」としか反応はないだろう。こうなってしまうと議論の余地がなくなってしまう。偏狭な価値観が一人歩きをはじめるのだ。
 先生達は、最終的に校長の考えに従わざるを得ないにしても、自分の考え方に基づき、校長に問いただしたり、本意を確認したり、修正を求めたり、何らかのアクションを起こすべきで、そうすることによって、結果として何も変わらないにしても、「校長が不謹慎だと言っているから・・・」などと幼稚に伝言ゲームをするのではなく、「校長はこういう考えにもとずき、これこれの理由によって、こういうものを不謹慎だと言っている。だから今回は却下するのだ」と言えるようになるだろう。そういう対話の痕跡も一緒にすることで、中間管理者からその先に伝達される時にも、校長個人の体感温度が残されていく。偏狭に価値判断を行う校長のバックグラウンドが透けて見えることによって、そこで出された判断を相対的に受け止めることができる。たまたま、あの校長だから、そう判断して、そういう結果になったけれど、状況が異なれば、別の判断もあり得るという感覚が組織全体に残ることが大事だ。やり方次第という余白さえあれば、今後の展開が変わってくる可能性も残るのだから。
 そうなるためには、校長や規制産業のトップの下で働く大勢の人たちの意識こそが変わらなければならない。
 この人たちの多くが、「現実がこうだから、こうしなくてはいけない」と、現実をガラスの壁のように見立てて他人(生徒)の行動や思考を枠のなかに押し込め、そうした自分の言動に対して自分には責任がないという態度をとり続けるかぎり、自分が生きる世界を自分事として捉えられない若者を再生産していくことになるだろう。そうなってしまうと、自分のことすらも自分事でなくなってしまう。周りの動向に機会的に反応し、次から次へと、自分の周辺のアイテムを取り換える生活にはまってしまう。
 その屈折した生理反応を広告が煽って、さらにマスコミの助力によって流行がつくられ、様々な言論がその流行を分析することでさらに注目が集まって流行が広がり、経済が活性化し、現在の国民生活を支えていくメカニズムが現代社会にはある。しかも、そうした循環による経済成長自体は広く国民や評論家に肯定されているわけだから、なかなか難しい問題が残されているのだ。
 表層的に物質主義批判とか教育批判とか政府批判をするだけでは解決できない問題が、ここにあるように思う。様々な問題は、国民一人一人の思考や感性の構造的な問題に結びついていることを各自が自分ごととして引き受けていかなければならないのだろうが、それを意識して考えていくことは、とてつもなくしんどいことだ。だけど、それなくして、出口がないことも確かだ。