正しい答え?

 たとえば私がブログで書いたことに対して、「それは違うと思います。おかしいです。偏見です。」と、返事をくれる人がいる。
 私は、そういう批判は覚悟して、思うところを書いている。
 違っていて何が悪いという気持ちもある。
 今日の学校教育や、社会の言論の多くは、「正しい答え」があることを前提として、行われているようなところがある。だから、人が書くものに対しても、正しいか間違っているか、もしくは自分の考えと合っているかどうか(合っていなければ不平を感じる)という尺度で、接している人が多いみたいだ。
 私は全然そういうふうには思っていない。考えるということはどこまでもプロセスを積み重ねていくことであって、そのプロセスのなかで自分を脱皮させていくことが大事で、今日考えついた”答え”が、明日変わっても構わないと思っている。
 歴史上のどんな偉大な発明であっても、時が経てば間違っていたということは数多くあるわけで、だからといって、それが無意味で存在価値がないということにならない。たとえ後で間違いだったとわかったとしても、その時点でその発想に至ったプロセスのなかに、人間という種の特性や可能性が垣間見えていて、そのことじたいが大事なのことではないかと私は思う。
 間違っていても、その人の論考がそこに積み重ねられていれば、他者がその論考を辿って、その論考のどこがどう間違っているか考えるプロセスを踏む余地がある。しかし、「それは違います。」とか「偏見です。」と言い放つ態度からは、その人の論考の軌跡が見えない。他者を自分の論考のなかに受け入れていこうとする余地が無く、自分の考えと合わない論考を、たった一言で拒絶し、排除してしまっている。
 自分に合う答えを言ってくれる他者の論考は、快適で気持ちいい。そうでないものは不快を感じる。不快なものは自分の気持ちの中から排除したい。そう思うのは、自然の生理だと思う。しかし、他の動物と違い、人間だけは、自分で理解できないことや共感できないことを、そのまま放置してこなかった。そのまま放置しないところに、人間ならではの歩みがあった。その歩みを否定することはできるが、それは自分に人間であることをやめろと言うようなものだ。しかし人間をやめたところで、他の動物は、そう考える自分を理解してくれやしない。けっきょく、人間であるかぎり、合う合わないに関係なく、人間と付き合っていくしかないのだ。
 
 自分の論考を通じて他者の論考に反論していくのは、他者の論考に耳を傾けていることの裏返しで、たとえ他者との間に同意が生まれなくても、対話が成り立っている。しかし、「それは偏見です」とか「よくわかっていませんね」などという言い放ち方は、その切口上に自分の意見を反映させているようでいて、実のところ、背中を向けて、その場から立ち去る気配しかない。
 こうしたことが悪意によって為されているのではないというところに、今日的な特徴があるように思う。現代を生きる私たちには、誰もが納得できる普遍の「正しい答え」がなければならないという間違った錯覚があるようなのだ。誰もが納得できるという”誰も”のなかには、当然ながら自分も入っているから、自分が納得できないものは、「普遍」ではない。だから、その答えは間違っているという短絡的な論考になる。そして他者のことはよくわからなくても、自分の感覚は自分にとって疑いようのないものだからこそ、「それは偏見です。まちがっています」という感情的な強い言葉を発することができてしまうのだ。
 しかし、その結果、大切な思考のプロセスが置き去りにされてしまう。
 間違いか正しいかという結果はともかく、うまい下手も関係なく、自分が思うところを、できるだけ正確に述べようとする苦しい行為を継続することで、その行為によって生じる様々な軋轢や葛藤が、自分のなかに蓄積されていく。その述べ方は、文章だけとは限らない。といって、絵とか芸術表現ということだけでもない。黙して態度で示すという述べ方もあるだろう。自分が関わっている大切な仕事を通して、自分に相応しい述べ方を努力して模索していくことが、自分の生を生きていくことではないかと私は思う。