自分らしさ?

 7月2日に、”自分らしさ”について私が書いたことについて、「風の旅人」の若い読者からメッセージをいただいた。
 彼は、昨年一つの演劇台本を書いて上演した。彼の意見を要約すると、自分の書いたものについて、周りからいろいろ言われ、あっちへフラフラこっちへフラフラし、それでも、ようやくその仕事を成し遂げた。その間、他人というものをすごく意識したし、自分のやることが人に伝わって欲しいという思ったし、逃げようと100回くらい思った。 つまり、自分はいろいろ揺らぎ続けて、ものごとを成し遂げたのだと。
 私が、「周りの雰囲気に流されず、自分のやるべきことを苦労しながら地道にやり続ける人は、その人らしい着目点”で、”その人らしい作品”で、いろいろ総合すると、”その人らしい生き方”になっているように感じる。」と書いてしまったので、彼は、周りの影響を受けて揺らぎながら、それでも自分らしく生きているのだということを、私に伝えたかったようだ。
 私は周りの雰囲気に流されるということを否定的に書いていないのだが、周りの雰囲気に流されない人を肯定的に書いてしまったので、そうではない人を否定していると感じたのだろう。言葉は微妙で難しい。もう少し、丁寧に考えて書かなければならない・・。
 私が否定的に書いたのは、就職面接や志望動機で、”自分らしく生きたい”と、わざわざ主張する人や、写真の売り込みで、”自分らしい写真”を、わざわざ主張する人のことだ。心のなかで思うのはかってだが、これから就職しようとする会社に対して、自分らしく生きるかどうかは、なんのピーアールにもならない。それなのに、敢えてそれを宣言するのは、「あなたの会社は私の自己実現のための場です」と宣言しているわけで、そういうのを聞くと、すごく自己都合的な人だなあと感じてしまう。つまり、辞める時も、自己実現に相応しくない場だったので辞めますと言ったりするのだろうなあと。最初から、職場に自己実現の場であることを過剰に要求すると、1,2年働いた後、単調な仕事(仕事ができるようにならないと、面白い仕事はできない)に飽きて、海外留学とか、NGOの方が自己実現に相応しいように思えて、会社を辞めてしまうのだろうなと直観してしまう。
辞めるのは構わないが、次の場でも同じような動機と発想だと、また同じことが繰り返されるだろうなあという気がする。何をするしても、実力がつくまでは面白くないし、日に日に自分が成長しているなどと感じることができないから、自分に向いていないと思い、もっと自分の適性に合った場や自分の力を発揮出来る場、自分が向上できる場を求めてしまうのではないだろうか。
 自己実現ということなど口に出さず顔にも出さず、会社という環境のなかで自分が果たすべきことを考えて黙々とやっている人は、自然に仕事が身に付き、やがて、その人らしい力を発揮するようになり、会社のなかで欠かせない存在になる。そのコツを掴めば、どこにいってもやっていける。
 また、売り込み写真の場合、特に人物写真などは、そこに”他者”が写っているのだが、撮影者が自分独自の特徴を出すため、その”他者”に過剰な演出を施したものを私は好まない。自己愛ばかりが過剰で、他者に対するデリカシーや愛情の感じられない作品は、テレビ番組みたいで、食傷気味なのだ。

 あと、「周りに流されない」というのは、誰がなんと言おうが耳を貸さないという態度を意味するのではないと思う。
 ものごとを真剣に考えれば考えるほど、いろいろなことに心揺らぐのは自然なことで、心が揺らぐ=流されている、ということにならないだろう。
 大事なことは、これだけは譲れないというものを大事にしているかどうかではないだろうか。譲れないものを大事にするために、他のことは妥協したり、人の言うことに従う。やりたいことも我慢することがある。それだけの努力をしても、最終的に、自分にとって譲れないことを守りきれないこともある。
 その逆に、つまらないことで片意地になって、他人の言うことに耳を傾けず、自分が本当に実現したかったことが実現できなかった場合(上記の彼の場合、演劇を上演できなかった場合)、「周りに流されなかった」と胸を張って言っても空しいだけだ。だからといって、自分の譲れないものを強引に行っても、その強引さが原因で内容が散々なものになった場合も、自分の譲れないものを”大事にした”ことにならないと思う。
 自分にとって譲れないものというのは、その時、自分にとって本質的であると考えられること。でも、今現在、自分が譲れないと考えているものが、明日もそうだと決まっているわけでもなく、その時々に自分に問うていくしかない。しかし、少なくとも、自分に問うという行為じたいが、自分にとって譲れないものを考慮していることであり、考慮することじたいが、それを大事にしていることではないかと思ったりする。
 そのように自分の譲れないものを考慮して、本当の意味で大事にしようとする心構えがある状態は、周りに流されて生きていることにならないだろう。
 結論を言うと、周りに流されて生きている状態というのは、何も考えず、毎日をただ惰性で生きている状態を指すのではないか、と今日の私は思う。